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No.450 への▼返信フォームです。


▼ 忘れ得ぬ戦禍   引用
  あらや   ..2016/04/11(月) 11:49  No.450
  去年は戦後70年でした。さまざまなマスコミが「戦争」特集企画を組んでいたのですけど、ひときわ目立ったのが北海道新聞です。一昨年の特定秘密保護法反対の勢いのまま「戦後70年」企画になだれ込んだような形で、一年間、これでもか、これでもかといったような雨あられ状態で「戦後70年」記事を書きまくっていました。(「80」年になったら、もうあの戦争を語れる人はほとんどいなくなってる…という危機感があったみたい)
おかげで、滝川に人造石油の工場があったとか、遠く南方パラオに道民がたくさん入植していたとか、へえ…という話がいっぱい出てきました。樽前山の米兵潜伏68日とかね。(戦争話に「面白い」は不謹慎なのかもしれないが、でも面白い…考えることが頭に溢れかえってくる)
それらの記事は去年の11月に『戦後70年 北海道と戦争』という上下巻2冊にまとめられて出版されたのですけれど、吃驚はそこでとどまらなかった。なんと、その一月後、今度は『戦後70年 忘れ得ぬ戦禍』という本が北海道新聞社から出たんですね。全道版での特集記事とは別に、空知とか胆振とかの各支局が独自の取材を繰り広げていたんです。
私の住んでる後志は小樽支局が「子どもたちが見た戦争」というチョロっとした記事だけですませちゃったので私は気にもとめなかったのですが、一冊の本になって全道各地の記事を読めるようになると、まあ凄い!どこの支局もスクープで炸裂してるではないの!
小樽は一足先に「80年」状態になっているんじゃないでしょうかね。これは最近特に感じるのですが、後志を語りたいのなら「まず小樽から」という発想はそろそろ捨てた方が良いのではないか。小樽しか知らない人間が語る「後志」は正直つまらないです。最近は明らかなミスも目立つようになってきているし。

 
▼ 進発の像   引用
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:03  No.451
   キャップランプの明かりで模擬坑道を歩く夕張市石炭博物館の「まっくら探検」。その出口、史蹟夕張砿に半ば背を向けるように、灰色の立像が建つ。夕張市指定有形文化財・採炭救国坑夫の像だ。
 「昔は台座の上にそびえ立っていたんだ。仰ぎ見たものだよ」。夕張市常盤の元炭鉱マン、相馬昭光さん(83)が教えてくれた。
 高さ3.63メートル。炭都・夕張の盛衰を見てきた立像は、戦時中の1944年(昭和19年)6月、「進発の像」として作られた。「進発」とは戦場に向かって出発すること。「銃後の戦線」と呼ばれた炭鉱で働く労働者の鼓舞が、目的だった。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/夕張の立像は語る 炭都の「銃後」と戦後)

あの彫刻ですね。
http://www.swan2001.jp/gallery1507b.html

 しかし、増産優先の乱掘で坑内は荒れ果てた。終戦後の1946年、夕張の石炭生産量は122万3050トンと激減した。国内の各炭鉱の出炭量も減り、石炭を燃料とする蒸気機関車の本数も全国的に削減され、1947年の列車走行距離は終戦時の6割にまで落ち込んだ。
 再び、政府による石炭増産運動が始まった。増産のシンボルだった立像に、新たな名前が与えられた。戦時体制を想起させる「進発」の文字は台座から消され、代わりに「採炭救国」と刻まれた。戦後復興の最前線との位置づけだった。設置場所も、事務をつかさどる鉱業所の前庭から、坑内労働者が集合する繰込所の前に移設された。
 労働者確保のため、炭鉱は住居も水道も無料とした。食料品も配給所で、後払いで購入できた。国外からの引き揚げ者や、空襲ですべてを失った人々が夕張に流れ込んできた。
(同書より)

現在の夕張の財政破綻の遠因も臭わせていて、秀逸な記事。

 
▼ 軍需生産美術推進隊   引用
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:11  No.452
   傷みの原因の一つに材質がある。屋外に像を設置する場合、御影石などの石像やブロンズ像が一般的だが、物資が欠乏した戦時中に作られたこの立像は、コンクリート製だ。(中略) それでも、「材料の割には良くできている。筋骨隆々とし、気迫あふれる表情。下から見上げることを意識し、足を太くして迫力を増している」。元夕張市美術館長の上木和正さん(65)は、「貴重な戦時美術品」と解説する。
 立像は当時の軍需省による「軍需生産美術推進隊」が制作した。洋画家鶴田吾郎氏(1890〜1969年)の呼びかけで芸術家47人が参加。1944年4月、東京の同省で結成式が行われた。設立趣意書に「軍需生産の拡充増強に挺身協力する」とある。
 実際に制作に当たったのは、同隊彫塑班の4人だった。院展同人で文展(現日展)審査員の中村直人氏(1905〜1981年)、帝国美術院賞受賞の古賀忠雄氏(1903〜1979年)ら、いずれも一流の彫刻家が同年6月に夕張を訪れた。
 彫塑班は入坑する「鉱兵」(鉱山労働者)のデッサンから始めた。顔は当時の北炭夕張鉱業所長の竹鶴可文氏(1891〜1980年)をモデルにした。NHK連続テレビ小説「マッサン」の主人公のモデル、竹鶴政孝氏(1894〜1979年)の実兄だ。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/夕張の立像は語る 炭都の「銃後」と戦後)

へえーっ、そうなの。吃驚。

数年前の国策紙芝居の発見とか、この「国策彫刻」の存在とかは、私の、日本人や文学者や芸術家を見る目をずいぶん変えたように思いますね。戦時中は沈黙していたとか、逼塞していたとか、そんなことは絶対にない。

 
▼ 支笏湖   引用
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:17  No.453
   手元に1枚の白黒写真がある。横一列に並び、片手を高々と上げるナチスドイツおなじみのポーズで立つヒトラーユーゲント(ヒトラー青年団)の団員たち。背景には、わずかに支笏湖の水面が見える。
 写真は1938年(昭和13年)9月、現在のモラップキャンプ場で撮影された。1936年(昭和11年)の日独防共協定を受けて親善活動の一環として全国を巡ったヒトラー青年団は、この北国の小さな集落にもやってきた。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/支笏湖−激動の時代映す水面)

へえ。今年の読書会でとりあげている針山和美氏にも『支笏湖』という作品があるよ。

当時、千歳市美笛やポロピナイ周辺は苫小牧の王子製紙工場などで使われた木材の一大産地だった。「大きな丸太をひもでつないだいかだを湖に浮かべ、船で引いて運んでいた」と鎌田さん。現在の温泉街付近まで輸送された丸太は、苫小牧につながる王子軽便鉄道「山線」(1951年に廃止)に積まれ、工場に運ばれた。
 1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が始まると、その丸太は戦意高揚を図る新聞紙に姿を変えた。軍施設の造材などにも使われ、1943年(昭和18年)には陸軍の兵士約230人が駐屯し、紋別岳で広葉樹のマカバを大量に伐採。練習用の航空機のプロペラに使われたとされている。
(同書より)

 
▼ GHQ   引用
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:22  No.454
   70年前も変わらずに透き通った水をたたえていたであろう支笏湖にも、戦争の記憶は残っていた。そして終戦から4年後の1949年5月、国立公園に指定された湖は、今度は「平和日本のホープ」に生まれ変わる。
 日本の復興に向けて、国際観光での外貨獲得を目指していた連合国軍総司令部(GHQ)は、観光の拠点となる国立公園構想に向けて全国の候補地を視察。「日本の国立公園候補地の中で恐らく最も重要なものだ」と報告されたのが支笏洞爺だったのだ。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/支笏湖−激動の時代映す水面)

これも、へえーっ。国立公園がGHQがらみだったなんて全然知らなかった。

 支笏湖の郷土史研究家・故高橋長助さんの記録によると、湖が国立公園となった2年後、意外な人物が湖畔に現れたという。GHQの最高司令官だったマッカーサー。トルーマン大統領との意見対立で「老兵は死なず、消え去るのみ」との言葉を残して米国に帰還した彼の日本最後の保養先が支笏湖だったというのだ。
 宿泊したとみられる王子製紙支笏湖別邸があった場所を訪ねる。現在の支笏湖ビジターセンター付近。1968年に別の場所に建て替えられた建物も今は周囲に草が茂り、時代の移ろいを感じさせる。
 当時の宿帳には、女性の筆で「マックアーサー 大和撫子」とあったという。高橋さんは記録の中で「大和撫子の正体は、女優の花柳小菊らしい」と書き残した。激動する時代のはざまで生まれた物語の一幕が、ここにもあった。
(同書より)

 
▼ 千歳支局   引用
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:27  No.455
  いろんな支局が頑張って書いているけど、千歳支局の頑張りは凄いですね。めまぐるしい戦争の波にもまれて生まれた千歳という街を書き切っているような気がします。ものすごく千歳に興味を持った。

 「当時はそれが当たり前だと思っていた。われわれが物心ついたころにはもう、日本は戦争をしていたから、戦争のない暮らしが想像できなかったんですよ」。石井さんは、そう振り返った。平和な時代に生きる私にとっては「非日常」の戦争が、石井さんにとっては「日常」だったのだ。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/千歳小−「日常」だった戦時生活)

 「日に日にまちの形が変わるようだった」。朝鮮戦争当時、小学生だった和田明彦さん(71)は、まちの変化をこう振り返る。終戦の年、千歳小の全校児童数は727人。商業者の子供たちが転入し、わずか8年後には3倍以上の2358人にふくれあがっだ。毎月50〜60人の転入生があったという千歳小は、午前と午後の2部制にしても教室が足りず、体育館を板で仕切って授業に使ったという。
 「米兵と女性が小学校のグラウンドにシートを敷いて、運動会を見物していた。当時はこういうもんだと思っていたよ」。
(同書より)

 「まるで西部劇の舞台。敗戦という言葉を忘れてしまうぐらいにぎやかでした」。今は亡き夫とともに、千歳市本町でビアホールを営んだ熊谷和子さん(87)は、当時のにぎわいをこう表現した。
 英語で書かれたビアホールやダンスホールの派手な看板。かすれたようなジャズの音が、店内から流れる。一晩で泡と消える大量のビールとドル札。肌を露出した赤や紫の衣装の女性たちがどこからともなく現れ、米兵と腕を組んで消えていく。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/千歳市清水町−繁華街に飛ぶドル札)

 
▼ 針山和美氏   引用
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:32  No.456
   手元にある1枚の古い地図。「千歳街におけるパンパンハウスとビヤホール・飲食店図」と記されている。1950年代、米軍の進駐で街の風紀が乱れた。これを憂い、故千葉誠さんが実態調査して作製した地図は、日教組全国教育研究大会に報告された。地図に目をやる。市街地にびっしりと、位置を示す黒丸が付いている。
 「パンパン」は米兵相手に売春する女性たちを指した言葉。1950年の朝鮮戦争勃発で兵士を戦地に送り込む拠点の一つになった千歳は、死を意識して酒色を求める米兵であふれた。(中略) 1952年の調査では、ハウスは幸町や清水町、朝日町を中心に500軒を数えた。人口増加と急激な歓楽街の拡大で警察の取り締まりも追いつかない。千歳市史には「学校の教室や千歳神社、さては物置や馬小屋を無料ホテルにした」とある。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/米軍駐留の影)

当時の雑誌や新聞に「麻薬とドル買いの町ちとせ」「歓楽と騒音の街チトセ」「人肉のジャングル千歳」と大見出しが踊った千歳市を、針山和美さん、やはりちゃんと描いている作品があるんですね。脇方の勤労動員は書いているし、敵機墜落事件は書いているし、なにか、千歳支局と同じくらい良い仕事をしている。



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