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No.465 への▼返信フォームです。


▼ 木村政彦は   引用
  あらや   ..2018/09/10(月) 17:53  No.465
  地震停電の最中、昼の光だけを頼りに読んでいたことでも忘れられない一冊になりました。

参戦した選手たちに聞くと、ルールが七項目しかないので当然だが、立技では相手の肘関節を極めながら掛ける背負い投げも許されていた。一部の古流柔術流派が使っていた、いわゆる逆一本背負いだ。普通の一本背負いは自分が右組みだと相手の右腕を担ぐが、相手の左腕を肘を逆に極めながら担ぐものである。小林まことの人気漫画「1・2の三四郎」で東三四郎のライバル柳正紀が使っていたいわゆる柳スペシャル≠セ。
(増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」)

地震でロスした二日間という時間の回復が先なので、いつものようにのんびり読書感想文を書いている暇がない。でも、あまりに木村の人生と時代が克明に描かれているので、急ぎ足で通り過ぎるのは惜しい。メモだけでも取っておきたい。

 
▼ 勝ち組   引用
  あらや   ..2018/09/10(月) 17:58  No.466
   情報化の進んだ今では考えられないことだが、当時はほとんど海路しか移動手段がなかったので、邦字新聞どころかラジオまで取り上げられた日系人にとって、地球の裏側にある故国日本はあまりにも遠かった。
 十月三日に「終戦広報」が船便でブラジルに到着し、日本語に訳されたものが日系人に伝えられたが、この内容を信じたのはわずか二割にすぎず、八割の人間はこの広報を偽物だと思い、「日本は勝った」と信じ続けた。
 結果、日系人二十五万人は、日本の敗戦を絶対に信じない者たちと負けた事実を受け入れて屈辱に耐える者たちに、真っ二つに別れてしまった。前者を「勝ち組」、後者を「負け組」といった。負け組はポルトガル語新聞を読めるインテリ層に限られたので、勝ち組が八割、負け細が二割という割合は終戦から実に十年も続くことになる。
  (中略)
 「神国日本が負けるわけがない! 無条件降伏したのはアメリカである!」
 自分たちのアイデンティティが崩壊するため、ブラジル日系人の勝ち組はこう言い張って「青年愛国運助」「桜組挺身隊」など無数のグループを組織した。負け組はこれに対抗して「新撰組」などを組織する。
 そのうち、勝ち組が負け組に対して天誅と称した攻撃を加えるようになり、三月には溝部幾太バストス産業組合専務理事を暗殺する。
 すぐに血で血を洗う報復合戦が始まった。この抗争は延々と続き、多くの死傷者を出す。
  (中略)
 そんななかで、「日本の強さ」の象徴であった日系人たちの心のよりどころ、国技柔道で、日系人たちがエリオ・クレイシーの寝技にことごとく敗れていた。
 木村政彦がブラジルにやってきたのは、まさにそんなときだった。
(第18章「ブラジルと柔道、そしてブラジリアン柔術」)

 
▼ 朝鮮戦争   引用
  あらや   ..2018/09/10(月) 18:01  No.467
  そのうち三十八度線まで押し返したが膠着し、マッカーサーは北朝鮮に対する原爆投下と、台湾の蒋介石の投入を本国アメリカに提言、これがトルーマンの逆鱗にふれてマッカーサーは解任され、日本を去ることになる。
 この朝鮮戦争は、焦土日本にとってはまさに神風となり、軍需品の製造で鉄鋼業界をはじめ国内産業が徐々に息を吹き返す契機になるが、日本に残った在日朝鮮人たちにとっては悪夢だった。混乱する故郷とは連絡すらとれなくなっていく。
 力道山が力士廃業を決断するのは、この朝鮮戦争が始まった二ヵ月後、九月のことだ。
(第22章「もう一人の怪物、力道山」)

 
▼ 昭和29年   引用
  あらや   ..2018/09/10(月) 18:04  No.468
   昭和二十九年(一九五四)。
 日本列島にはまだ土埃が立ちこめていた。雨の日にはそれが泥となってぬかるみ、野良犬たちの小便と混じり合って異臭を放った。
 田畑の肥料は人糞だった。その人糞を撒いた田の中に、人々は素足で入り田植えをした。蒸汽機関車の煤煙が、民家の屋根や壁を、そして人々の顔をモノクロームに覆っていた。
 GHQが日本から去ったのは昭和二十七年(一九五二)、それからまだ二年しか経っていなかった。灰燼と化した都市に次第に建物が建ち、経済が少しずつ復興してきても、国民は泥土の上を這うように生きていた。戦後はまだ終わっていなかった。
(第28章「木村雅彦vs力道山」)

 
▼ なぜ力道山を殺さなかったのか   引用
  あらや   ..2018/09/10(月) 18:08  No.469
   私はあえて断言する。
 あのとき、もし木村政彦がはじめから真剣勝負のつもりでリングに上がっていれば、間違いなく力道山に勝っていたと。決め技は、もちろん得意のキムラロックである。
 木村が死んだ平成五年(一九九三)から資料を集めて取材執筆を始め、十年以上かけて人に会い、数百冊の書籍、数千冊の雑誌、数万日分の新聞を手繰って得た私の結論である。
(増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」/プロローグ)

確かにこの「主要参考文献」リストは凄い。私も若い頃に意味なく格闘技本を集めては喜んでいた人間なのですが、この本を読んでつくづく自分が厭になった。もう全部売り払って、ライブラリーの足しにでもしよう。もう本棚にこの一冊があれば、それでいいんじゃないかと本気で思いました。

(ま、『がんばれ元気』と『1・2の三四郎』だけは残しておこう… デジタル作業の休憩の時にまだ必要…)



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