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No.595 への▼返信フォームです。


▼ 再び「郷土史物語り」   引用
  あらや   ..2018/06/02(土) 10:40  No.595
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なぜ「物語」ではなくて、「物語り」なのか?
昔、子どもの頃、PTA文集なんかで、「私しは…」とか「話しをしました」とか書く父兄が時々いたけれど、当時でさえなにかダサい感じがしたものだった。「物語り」にも、最初はそんな感じを受け取ったのだが、デジタル復刻してみて、すぐに気づく。これはもう「物語り」としか言いようのない世界なんだ、と。「物/語り」なんですね。(ロラン・バルトの「S/Z」みたいでカッコいい!)

 懐しい学校は とうに無くなってしまったが
 俺は ときおり
 ところどころ 根太の抜け落ちた母校の廊下を
 こっそり 歩きに行く。 そこには 今も
 立たされたままの 少年の俺の影が遺っていて
 あえかに 忍び泣きをしている。
 (長尾登「母校脇方小学校」)

今はもうなくなった山麓の道を独りで歩いて、私も、脇方へ、メナへ、カシップへ、ペーペナイへ…

 
▼ 東花の開け始め   引用
  あらや   ..2018/06/02(土) 10:45  No.596
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 明治四十三年、倶知安の人、関口茂平(無門と号し愛媛県の僧)が、留寿都村登に土地の貸付を受けて関口農場を開いた。この関口茂平と清水松五郎は、ある時北海道開拓について語りあった。松五郎の住む群馬県の榛名山の近くの村々は、明治四十三年七月十八・九日に集中豪雨に襲われ、田畑は冠水し、家や家財道具等も流された人が少なくなかった。農地整理の意欲を失った人々は、松五郎の話を聞き、北海道開拓移民手当百円を下付してもらい、持てるだけの物を持ち、家族共々汽車に乗りこんだ。明治四十四年のことである。
 関口茂平は小作人として来道するよう松五郎に勧誘したが、群馬からの移住者はみな開拓者としての来道であった。
(「広報きょうごく」昭和五十一年十二月号/〈郷土史物語り40〉東花の開け始め)

出た!関口。

貼り合わせた五万分の一地図。登延頃の場所に「関口の口車に乗せられて父母が入った地」と赤字で記されていたことを憶えてる。時間さえあれば、大沼桂子さんの『多与』もデジタル化したい。いつかは… きっと…

 
▼ 燈台もと暗し…   引用
  あらや   ..2018/06/02(土) 10:49  No.597
  長年探していた「北海児童図書博物館」が『郷土史物語り』に眠っていたとは!

 北海児童図書博物館は昭和三年十月四日、御大典記念として、広徳寺住職、江隈円導師が、私費で同寺の境内に設立したもの。
 昭和八年二月発行の郷土誌(京極小学校)には、この博物館の目的として、宗教、普通教育、図書標本の蒐集展覧、計画としては、小学児童成績品展覧会、美術講習、資料貸出、巡回文庫…などと記載している。
 五十年の昔、地方の一町村に私費で児童博物館を設立し、子どもたちの視野を広げようとした江隈師の卓見はすばらしいものといえる。蒐集品には遠い南洋などの貝や民具などもあり、当時の市街に学んだ人々にとっては今も思い出の多いことであろう。
 この博物館の陳列品は後に京極小学校に寄贈され、一部は今も残っている。
 昭和八年頃、京極小学校で作製した東倶知安郷土読本があり、その中に、右の北海児童博物館の一文が目次にのっている。しかし惜しいことに本文は製本ミスで欠落しており、博物館のようすがわからないのは残念である。ちなみに御大典とは今の天皇陛下の即位のお祝いである。
(「広報きょうごく」昭和五十一年十月号/〈京極事始め〉北海児童図書博物館)

 
▼ 北海児童図書博物館   引用
  あらや   ..2018/06/02(土) 10:54  No.598
  少しだけ言い訳をさせてもらえば、この「広報きょうごく」昭和五十一年十月号の『郷土史物語り・第38回』には(前田克己)の署名がないんですね。
たいていの『郷土史物語り』には(前田克己)の署名が最後に入り、そしてそれらの前田氏の文章は『京極町史』のどこかに反映されているものなのだけど、この「北海児童図書博物館」に関しては『京極町史』のどこにもそれらしき個所がないのです。(それで今まで気づかなかったのですが…)
署名の入っていない回もいくつかあります。それらの中には第44回「子どもと遊び パッチ」のように、明らかに前田氏の言葉遣いとは異なる文章が載っている例もあります。一応、(前田克己)の署名が入っていない回については、他の人が書いたと考えた方がいいのかもしれません。
第38回、文体も言葉遣いもいつもの前田克己氏なので非常に迷うのですが、他の人の筆と考えた場合、可能性が残るのは、同じ『京極町史』編集委員に名を連ねている江隈正氏でしょうか。「江隈」姓から「広徳寺住職、江隈円導師」の家系の方とも思えますし。
今まで調査にはなかったキーワード「江隈家」「京極小学校郷土誌」が登場したことによって新たな展開が少しばかり期待されます。

 
▼ 昭和3年   引用
  あらや   ..2018/06/02(土) 11:03  No.599
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「昭和3年」は凄いです。岡田健蔵熱望の鉄筋コンクリート建「函館市立函館図書館」(現在の函館市中央図書館)が完成したのが「昭和3年」なんですからね。北海道図書館史の中でも最大級の新発見ではなかろうか。

そして、「児童」という視点もじつは凄いのです。

また岡田は、被災(昭和9年の函館大火)した子供たちの心を癒すため、日本全国に児童書の寄付を呼びかけた。彼の声に応え、日本全国各地から児童書が贈られ、その数は12万冊以上にも昇った。中には台湾や満州などで発行された、日本では入手困難なものもあり、それらは函館の子供たちや学校に配布された後、残りの雑誌、図書は同図書館に保存された。その後の平成期に、かつては図書館や関係機関で長らく収集の対象とならず消耗品扱いされてきた児童雑誌が、後の児童文化や児童文学の研究において資料としての必要性が高まったことから、函館図書館に贈られたこの多数の児童書を中心とし、北海道立文学館により「函館貴重児童雑誌及び児童雑誌附録データベース」が作成された。さらに後の2011年(平成23年)に発生した東日本大震災に際しては函館からの恩返しとして、震災で被災した子供たちに絵本を贈る「被災地の子どもたちへ絵本を送ろう 函館プロジェクト」が開始されるに至っている。
(ウィキペディア/「岡田健蔵」)

北海道で二番目に古い児童雑誌、倶知安で発行された「後志学の友」も、この「12万冊」の中の一冊なのでした。倶知安には影も形もありません。見識がちがうのです。



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