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▼ 父・流人の思い出 聞き書き編   引用
  あらや   ..2023/01/09(月) 17:45  No.627
  聞き書き編は、新事実・新発見といった事柄とは幾分ニュアンスが異なります。あくまで流人のまわりにいた人々の雰囲気といいますか、時代の雰囲気といいますか、そういうものを読み取る章でもありますので、今までのように詳しいメモはとらず、本編のデジタル化作業の方を急ぎます。どんどん本編を読んでいただき、そこから立ち上がる流人像に想いを馳せていただきたい。佐藤瑜璃さんは、この『父・流人の思い出』発表の後、「人間像」同人に参加してきて、いくつかの作品を残すことになります。聞き書き編はそういう瑜璃さんの文才を感じる章でもあります。

 
▼ 東林寺住職夫人   引用
  あらや   ..2023/01/09(月) 17:48  No.628
  「ケガさえしなければ運動選手になったかもしれないわ。不幸だったわねぇ。でもきれいなお嫁さんもらって、モダンになって、あなた達みたいなかしこい子供達が出来て、一郎さんも幸せでしょう。東京へなんか行かなくてよかったわ……」と、最後は独り言のように小さな声で言われた。私達にはその時それがどんな事なのかわからなかった。後年、親戚の人から、父が新聞社の人の紹介で東京のある新聞社で働きながら小説を書くようすすめられ、父も何回か行ってみたようだという話を聞いた。その事だったのかと思い父に尋ねてみた事があったが、父は笑っただけで何も答えてくれなかった。あの時、もっとしつこく聞いておけばよかったと後悔している。

 
▼ 酒井ミヨ   引用
  あらや   ..2023/01/09(月) 17:50  No.629
  「なんせ、まつゑちゃん(私の母)がすっかりほれてしまってねえ、おじいさん(母の父親)は怒るわ怒るわ、『お上にたてつくような文士なんぞに大事な娘はやれない、まつゑにはもらい手が沢山いるんだ』と言ったんだけど、まつゑちゃんが逃げて行ってしまったのさ。なんせ沼田さんは東京がえりってもんで、モダンな洋服着てハイカラだったねえ。まつゑちゃんも比羅夫じゃ小町なんて言われてたからさ、おじいさんは、まつゑちゃんを倶知安へなんか出さなきゃよかったと、しきりに言っていたよ」

 
▼ 沼田まつゑ   引用
  あらや   ..2023/01/09(月) 17:52  No.630
  「子供たちがもの心つくようになったら、子供を通訳にしてさ、『父さんに言っといで』と言えば父さんは父さんで『母さんに言え』と返事をよこす。返事によっちゃ私はやっぱり子供をのけて行って、わめいたもんだった。ふつうの人なら、なぐられていたかも知れないねえ……」
 私の記憶にこの場面は数多く残っている。大かた、姉が母の見方で私は父につき、兄が中立だったような気がする。

 
▼ 菅原マンさん   引用
  あらや   ..2023/01/09(月) 17:54  No.631
  「そうそう、それから、『うちじゃ娘が四人ですからね。私もゆるくないです』と、母さんのことからかうのよ。なんか母さんは年も離れておいでだし、わがまま一杯言って娘みたいだったからねえ。赤ちゃん生れるたびに女中さん(比羅夫の母方の親戚の娘さんや母の妹達)もいたけど、父さんはよく朝起きてストーブたいたり、母さんの髪を洗ってやっていたりしていたわ。家(うち)の父さんなんか絶対にしないような事よくしてたわね。時代が時代だったから男らしくないなんてかげ口言ってた人もいたけど、私は見ていて羨ましく思ったわよ。母さんよく言ってたわ。娘達も父さんみたいな人に嫁にやりたいってね。呑んべいだの、金銭感覚ゼロだのと悪口は言ってたけど、ほんとはほれてたんだねえ」

 
▼ 小柴孝氏   引用
  あらや   ..2023/01/11(水) 16:23  No.632
  「沼田さんの片手になってしまった事は、本当に悲しかった。自殺も考えた事があった。しかし人殺し(戦争)に荷担せずにすんだ事はとてもよかったと思っている≠ニ言った言葉が忘れられないねえ」

 
▼ 戸田統悦先生   引用
  あらや   ..2023/01/11(水) 16:26  No.633
  「それから、呑んだ時だったかなあ、私が、沼田先生、今度生まれかわったら、両手をつかってバリバリ、ありったけの才能発揮してよと言ったら、私の人生は、つらい事、せつない事、喜ばしい事も満載されていて、しんどいものだからもう人間はいいですよ、土の下で永遠に眠りつづけていたいですね≠ニ言った。本当に小説なんか書いてた人は、われわれと感性が違うんだねえ」

 
▼ 匿名希望の方(女性八十六歳)   引用
  あらや   ..2023/01/11(水) 16:29  No.634
  「私が十八・九の頃だから、古い古い話だよ、沼田さんは二十三・四だったんじゃないかねえ。小樽の新聞社の人とか言ってたけど、いつも三〜四人の座敷でさ、函館から来たとかいうモダンな人や、ヒゲをたてたえらそうな人だった。沼田さんは一番若くてひとり者でさ、みんなにひやかされたりしていたよ。たまにしか来なかったけど覚えているよ。おかみが何か書く物を頼んでいたけれど、呑んでいても気軽に帳場へ来て書いてやってたよ。そして半紙があまると、筆で側にあった招き猫や、おかみの顔なんかを描いていた。とてもうまかったよ。おかみの顔を描いてコールマンヒゲなんかつけるの。おかみもふざけてぶつまねをすると、頭にツノをつけるのさ。それがおかしかった。沼田さんが丸めて投げていったのを仲居が拾ってのばしてたら、たしか岩内のお客さんでよく来る人が、『俺にくれ』って持って行ったことがあった。」

 
▼ 沼田まつゑ   引用
  あらや   ..2023/01/11(水) 16:31  No.635
  「呼び名は私が考えたのさ、みんな。樺太のじいさん(母の父親)なんか『役者(映画俳優)か小説のような名前ばかりだ』と少々おかんむりだったけど、ぢっちゃん(父の養父)は『これからの世の中にふさわしい』って言ってくれたんだよ。年は上なのにぢっちゃんの方がモダンな考えだったんだねえ。字は全部父さんが考えたんだけど、むつかしくて変っていてね、子供達に苦労かけるんじゃないかと心配したねえ。灝(ヒロシ)は大海で、玲子はとっても変った字で(レイ)とつけたの、きれいな山っていう意味だといっていたけど、私はモダンにしたかったのでしゃにむに『子』をつけてって言って女の子だからもっとやさしい字にしてって頼んだの、それで玲子さ。そのかわり二人目の女の子(私)は父さんがゆずらなかった。瑜璃(ユリ)だと言ったのに私は同じ女の子で差別はだめだと言って頑張って『子』をつけてもらった。大きな河の流れっていう意味だってね。纘子(アツコ)はすんなりと子をつけてくれた。花を美しいとほめるって意味なんだと。だから海に山に河に花ってわけだけど、統(オサム)は兄弟姉妹をしめくくるって意味で初めはとても変った字だったけど、届けに行ったら役場の人が読めない書けないで、父さんも考えなおしたらしいよ。」

 
▼ 長政奈那子からの手紙   引用
  あらや   ..2023/01/11(水) 16:35  No.636
   ちょうど貴女からの防風林十六号が郵送されて来て、それを読んだ叔父が、流人が羽織を着ていなかったという部分で「たしかに貧しかったと聞いているが、友達が皆着ている時期に羽織を着ていなかったのは、あながち貧乏だったからという理由ではないと思う。母(生母カツ)は折々に離れ住む息子一郎(流人)に衣類や菓子類・小遣いなどを送っていた。母は一郎を捨てたのではないといつも言っていた。養父仁兵衛が一郎を離さなかったからだと聞いた。仁兵衛は一郎をとても愛していたし沼田姓を守りたかったらしい。カツが他家へ嫁いで行く事は沼田姓が無くなってしまうと考えたのではないかと母は言っていた。母は兄(流人)が片手を失う大怪我をした時も一〜二月ぐらい乳呑児をかかえて看病に行ったと聞いている。そして母は、兄にもしもの事があってはと自分は婚家に籍を入れず、沼田姓で長い事辛ぼうしたと聞いた。兄(流人の弟)が町会議員(池田町)から道会議員になった時も一郎兄からポスターの字などを書いてもらったし、花輪も上ったと聞いた。母は仁兵衛の看病に行ったし葬儀にも行ったはずだ。私は兄一郎とは逢ったことがなかったけれど話はよく聞いている」と言っていました。



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