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▼ 父・流人の思い出 メモワール編2   引用
  あらや   ..2023/01/14(土) 10:38  No.637
   私はエビ天のそばが好きだった。父は必ず「ざる」だった。「本を売って本を買い、その上ウイスキーものめるし、そばも食える、父さんは幸せだ」などと父は良い気嫌で夜汽車に乗ると、高いびきで寝てしまう。私もコックリコックリしているうちに余市につき、沢山の人が降りるざわめきで目覚めた父は、静かになった車内で両脚を投げ出し、今日買って来たばかりの本をひらく。
(第十八回/古本屋)

小樽の古本屋がどこの○○書店だったかなんてどーでもいい。大事なことは「山線」だ。啄木の昔から人間像まで、北海道の文学の大半は「山線(函館本線)」の上で起こって来たのだ。線路が消えたら、北海道の文学は心臓を病んで死ぬだろう。

『父・流人の思い出』は第十八回に至って、またメモワール編が帰って来ました。前回より、より「父と私」の色彩が強いように感じます。佐藤瑜璃の作品として自立したと思った。余計なコメントは、もう必要ないだろう。

 
▼ メモワール・十四   引用
  あらや   ..2023/01/14(土) 10:44  No.638
   家が変っても、仕事机は窓から羊蹄山のよく見える場所に置いたし、散歩の時もいつも羊蹄山を仰いでいたようだった。それらを思う時私は、心の中で、羊蹄山は父の魂の墓標であり、父はその山ふところに抱かれて静かに眠っているのだと、心篤く感ぜずにはいられない。私は倶知安を訪れるたび、羊蹄山が見えると、巨大な父の墓標に向って「父さん、来ましたよ!」と心の中で語りかけている。
(第十八回/星雲窟)

 
▼ メモワール・十五   引用
  あらや   ..2023/01/14(土) 10:49  No.639
  家に入ってから「さわいでばかりいて、自分の悪かったことあやまったの?」と、私は逆に母に叱られてしまった。
 父はなだめるように、「もうわかったんだな、いいんだ、あやまったんだよ母さん」と私と母に向って言った。姉が入って来て、「父さんほんとにたたいたの?」と聞くと、本当はぶってなどいないので、父は静かに、ああと言ってから、「ゲンコツより、ビンタより痛い言葉の暴力ってのがあるんだ。おまえ達ももう直ぐ社会へ出てゆくんだから、人にものを言う時はよく気をつけるんだ」と、いつになく厳しい表情で言った。
 夕食時になって、父が晩酌を始めても、私はまだ興奮が収まらなくて叫んだものである。「父さんだって怒るよぅ。怒ればとってもおっかないよっ」
(第十九回/父さんだって怒る)

 
▼ メモワール・十六   引用
  あらや   ..2023/01/14(土) 10:56  No.640
   そう言えば私もかなり幼い頃からこんな光景を見ていたことを、その時思い出した。父の机の引出しには、いつもドライバーセットが入っていて時計に限らず、懐中電灯、電気スタンド、ラジオなども分解したりしていた。後に北電に勤務した兄も子供の頃から電気機具類を分解組立などすることが好きで、よく父の助手をさせられ、後には電気蓄音機なども作ったりしたものだった。兄が就職して家に居なくなると、助手は弟になった。弟の話しによると、置時計には「一八??年改造社」と後ろに金文字で書かれてあったとのことで、父の「地獄」が載った雑誌「改造」となにか関係があったのではないかと想像する。不思議なことにこの時計は、父が亡くなるまで、時に遅れたり止まったりしながら動きつづけたが、父が亡くなったと同じ時刻くらいに、いつの間にか止って動かなくなってしまった。
(第十九回/時計の分解掃除)

 
▼ メモワール・十七   引用
  あらや   ..2023/01/14(土) 11:03  No.641
   その日は朝からぬけるような青空だった。母が丹精をこめた家の前の花畑には、秋の花々が美しく咲きほこっていた。妹や弟を学校へ送り出し、高校講師をしていた父を送り出し、出勤する私を笑顔で見おくってくれた母が、夕方には帰らぬ人となってしまった。
 私はこの日のことを、その後の日々の事を、こうして文に書くのはこれが初めてである。あまりにも悲しすぎて、私はなるべく思い出さないようにして長い年月を送った。父もきっとそうだったにちがいない。父は母の仏前にひれ伏すだけで、母のことを語り合うのをさけて生きていたように思う。母の思い出を語るようになったのは、ずっと後のことになる。
(第十九回/母が死んだ日)

 
▼ メモワール・十八   引用
  あらや   ..2023/01/14(土) 18:25  No.642
  「へえー父さん小説かいていたの?」 その頃は私も誰かから、父が昔小説を書いていたことがあったと風聞で耳に入ってはいたが、あまり興味は湧かなかった。「ああ、若い頃ちょっとな、おまえなんかの生れるずーっと前の話だ」 「うーん、売れたの?」 「いや、売れなかった、おもしろいもんじゃなかったからな」 その頃の私の小説に対する知識は、人気作家が恋愛小説などを書いてベストセラーになり大金が入るというくらいのものだった。「売れないのにどうして書いたの?」 「書きたかったからだ、少しは金も入ると期待してな」 「それで止めたのか……」 私があまり興味を持っていない事を知って父は「さあ寝ようか」といって布団に入った。
(第二十回/小説の話)

このやりとりは、大正十年発行の「種蒔く人」創刊号に載った『三人の乞食』についての流人の述懐と捉えるべきなのだろうが、私は解釈を広げて、流人が過去に書いた『血の呻き』などの作品全般についての述懐と捉えたいところだ。文学と完全に決別した流人にとって、特に『三人の乞食』にこだわる理由はない。みんなまとめて過去の仕事であるはずだから。

 
▼ メモワール・十九   引用
  あらや   ..2023/01/14(土) 18:29  No.643
  父は私に、いただいてきた引出物の包みから焼魚や煮物等を出させて、線路の脇の草むらに一つ一つポトポトと置きながら、その上にお酒をかけたりした。私は父がひどく酔っているナと思い「父さん、もったいないでしょ、母さんのお土産にって頂いたのよ」と言うと、「母さんにはおまえのをやりなさい、母さんはもっと美味いものも食べているよ、まずいものさえ食えずに死んだ者も大ぜいいるんだ」と言った。私は戦争中のことを言っているのだと長い間思っていたけれど、後に父は酔っていたことは確かだが、あの線路の工事で死んだ土工夫への供養だったのではないかと気がついたのは、父の小説「地獄」の悲惨な土工夫の実態を知った時であり、父はその時もうこの世にはいなかった。
(第二十回/ああ、胆振線)

タコ部屋は京極線(胆振線)が出来てしまえばこの世から消える。二度と線路上に現れることはない。その一瞬の場に流人がいたことは天命とでも云えることなのかもしれない。文学の神様が流人を選んだことには意味がある。



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