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No.903 への▼返信フォームです。


▼ 余市文集   引用
  あらや   ..2022/07/18(月) 14:31  No.903
  塩谷村は、その中学校と反対側の函館行きの汽車の次の駅になり、この町から二里ほど離れていた。私たちの通学列軍は、小樽市から三つ目の余市町から出て、蘭島村、塩谷村を通り、小樽市の中央停車場へ着くのである。小樽市の中央停車場は、高等商業学校から坂を下りて、少し左に折れた所にあった。だから、中学生のときの私は、毎朝、その停車場から海と並行した幾つかの町を通り、南方に三十五分ほど歩いて、その中学校に通った。
(伊藤整「若い詩人の肖像」)

一発目から「山線」だった。

湧学館では月一回の「後志文学講座」を開くかたわら、毎年秋になると、その講座で扱っていた作品に関連する地域をたずねる文学散歩を行っていました。『余市文集』は、そのバスの旅のためにつくられた小冊子です。

 
▼ 山麓文集   引用
  あらや   ..2022/07/18(月) 14:35  No.904
   トンネルをすぎると、姉妹は急いで窓をあけた。もうすぐ右手に、山の中の発電所の家がみえるのだ。
 レールの下の切りたった崖も、その下方を青々と流れる川も、川の向うの緑の山々も、二人においでおいでをしているようだ。やがて、小山の裾が切れると、段々ならびの社宅の屋根が、次には三本の黒い鉄管とその下の赤煉瓦の発電所があらわれた。
「父さあーん」
「母さあーん」
(畔柳二美「姉妹」)

京極町は土地の便が良く、一時間半もあれば、余市にも、小樽にも、岩内にも、長万部にも、伊達にも、登別にも、苫小牧にも、千歳にも行けました。札幌や函館には一時間半では行けないけれど、もうそこは〈後志文学〉の地ではないから。「山線」は、札幌を起点にしてものを考えがちな人のための恰好の解毒剤だと思ってる。

 
▼ 虻田文集   引用
  あらや   ..2022/07/18(月) 14:40  No.905
   ところで、ここに載せた写真は、その時四歳か五歳であった、宿の娘三橋礼子(加納礼子)を膝に抱き、持参して来た小型カメラで友人にとらせたものであるという。多喜二は明治三十六年生れであり、礼子四・五歳の時というと、多喜二は、十七歳か十八歳ということになる。そうすると多喜二が商業学校の上級生か、高商へ入ってからということになる。礼子の母親には大変なついていて、おばさん、おばさんといって蟹工船が出た時も(これは昭和四年に発表されたのであるが)よんでほしいといって送ってきたそうであるが、残念ながらこの貴重な証拠物件はいまはない。
(洞爺村史/小林多喜二と三樹亭)

『洞爺村史』には大変お世話になったなあ。この本のおかげで〈後志文学〉の幅が三倍にも四倍にも拡がった。
「バスの旅」に『○○文集』といったテキストを作り、目的地に向かうバスの中でその地の話をする…といったスタイルが始まったのは『余市文集』からです。(それ以前のバス旅は資料を綴じ合わせたものを配って解説するだけの凡庸な文学散歩)
たぶん、この年、白老の博物館で『文芸作品を走る胆振線』というブックトークを行って、これで俺はやって行ける…みたいな自信を得たことが大きいと思う。その時も『洞爺村史』には大活躍してもらいました。
博物館で、図書館技のブックトーク…というのがちょっと目新しかったのかな。

 
▼ 小樽文集   引用
  あらや   ..2022/07/18(月) 14:43  No.906
   「これでひとまず、店の体制が整った」
 児玉が仕事を終えたのを見計らって、秋太郎は児玉に煙草を勧めながら、
「ところで京極工務店の児玉進三さんよ、これから付き合っていくのに、何と呼んだらよいのかね。京極さん、児玉さん、それとも進三さん」
「それなら屋号の京極で呼んでくださいね」
「京極さんだね……たしか戦国大名の名門の家柄に、似たような名前があったような気がしたがね」
「そうなのですよ。今から十一年前の一八九七(明治三〇)年に、旧讃岐丸亀藩主で子爵の京極高徳が、函館本線沿いにある倶知安村番外地に入植して京極農場を始めたのですよ。俺の家族もそれに付き添って移住した開拓民だが、蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山の麓にある火山台地で、御多分にもれず苦難の連続でねえ。
(廣江安彦「加藤秋太郎 小説・大府立志伝」)

京極さんの児玉進三については未だに調査中。

今まで意識したことはなかったけれど、「人間像」をデジタル化して…という発想は、じつは、この『○○文集』の時代に芽生えたのかもしれない。

 
▼ 支笏文集   引用
  あらや   ..2022/07/18(月) 14:48  No.907
   私はそれまで、街のことは何ひとつ知らなかった。知ることのできない環境に育ったからだ。私たち姉弟は、北海道の山の中の発電所で生れ、その日まで山の中で育てられた。
 街は憧憬の場所であった。それが、人口わずか一千足らずの寒村であろうとも、小学校の生徒が三百名しか居なかったとしても、私たちには総てが驚異と未知の世界であった。

 トンネルをすぎると、二十八歳の母は、生後一ヵ月の弟を背に、両手に風呂敷づつみを持ちあげた。十一歳の姉と八歳の私は、あわてて五つと三つの二人の弟の手を、それぞれ、しっかり握りしめた。
「さあ、今度汽車がとまったら、みんな、あわてずにおりるんですよ」
(畔柳二美「山の子供」)

『山の子供』は名作。狩太(ニセコ)を語る物語、私なら、『カインの末裔』ではなく『山の子供』だと思うことがありますね。(この頃は、阿部信一さんをまだ知らなかった…)

 
▼ 京極読書新聞   引用
  あらや   ..2022/07/18(月) 14:52  No.908
  バス旅から帰ってきたら、必ずレポートを「京極読書新聞」(湧学館の図書館報)に書くようにしていました。

啄木をめぐるバスの旅(2009年10月17日)
http://lib-kyogoku.jp/yugakukanhp/PDF/paper/091101paper08.pdf
有島武郎「生れ出づる悩み」をめぐるバスの旅(2010年10月16日)
http://lib-kyogoku.jp/yugakukanhp/PDF/paper/paper18.pdf
小説「春蘭」をめぐるバスの旅(2011年10月15日)
http://lib-kyogoku.jp/yugakukanhp/PDF/paper/paper28.pdf

ここまでが、『○○文集』のない形、資料の切り貼り時代ですね。

余市をめぐるバスの旅(2012年10月13日)
http://lib-kyogoku.jp/yugakukanhp/PDF/paper/paper39.pdf
羊蹄山麓を一巡り・バスの旅(2013年10月12日)
http://lib-kyogoku.jp/yugakukanhp/PDF/paper/paper51.pdf
胆振国虻田をたずねるバスの旅(2014年10月11日)
http://lib-kyogoku.jp/yugakukanhp/PDF/paper/paper62.pdf
小樽・海山めぐるバスの旅(2015年10月10日)
http://lib-kyogoku.jp/yugakukanhp/PDF/paper/paper73.pdf
支笏湖・洞爺湖めぐるバスの旅(2016年10月8日)
http://lib-kyogoku.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/05/paper84.pdf

 
▼ 啄木の「北海道」地図   引用
  あらや   ..2022/07/18(月) 14:57  No.909
  湧学館を去る頃、JPGは残るけれど、PDFは残らない…なんて噂が流れたりしてましたね。たしかに、今回の作業をしていて、Windows95時代に作ったJPG画像が破損していたり、湧学館時代のPDFでさえ今のリーダーでは「読み込めません」状態になっていたりと、なかなか凄いことになっていますね。
デジタルの命なんて儚いものだな…とよく思う。スマホのサイズに合わないから、こんなのいらないや…と馬鹿な役人がサーッと消去したら、もう二度とこの世に存在しない。山田(ヒラフ)の林芙美子碑が、コンドミニアムの住人には「何?この石?」なのと同じです。

「人間像ライブラリー」も私が生きている間は存在しているけれど、死んだら、たぶん消えると思う。そんなのが、私の辿ってきた図書館だった。それでもやらなげればならない仕事が世の中にはあると思っている。
今回の作業の締めくくりは、平成19年(2007年)に書いた『啄木の「北海道」地図』という文章の復刻です。それを終えたら「人間像」第101号へ復帰する予定。



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