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No.953 への▼返信フォームです。


▼ 松崎天民2   引用
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:06  No.953
  新聞記者なら、もう一人知ってるよ。

 お嬢様派出所を狙ふ
 色内町は四十四番地丸和乾物店の主人は元手宮辺にて筑港に雇はれ来りし石工なりしが、上部の営業計りでなく心までセメントで堅めた甲斐は近来メキ/\と身代上り行くに従ひ、以前の股引半纏はスツカリ小樽の海へ捨てゝ仕舞ひ専ら海陸物産商に手を出せしが、運の可い時は何処までも可いものにて日増に太り行く身代に一家の喜び一通ならず。屋号も丸和と称へ一族平穏無事安泰に暮し居るのみにては三面記事にならぬが、満れば欠くる世の習、此処の娘におうめ(一七)と云ふ一見廿歳計りの美形あり。其の心掛けも中々親父に譲らざる程の勉強女にて、昼は稲穂町の裁縫教授所に通ひ夜は付近の夜学校にての学問、それは/\感心な娘なれども、元より木で拵へたおうめ様ならず、何時しか人の情を知り初めてより紅お自粉に浮身をやつし打つて変つた近頃の素振に親父も眉を潜めそれとなく探険つて見れば、去る派出所の巡査某と唯ならぬ仲となり毎夜の学校をぬきにして然るそば屋の奥二階にてトンダ教授を受けて居ると解り、或る日娘の親しき友人に色々云ひふくめ内々意見を施して見たが中々聞かばこそ、矢も楯も通つたものにあらず、何がどうなるとも此の意中の人と添はねばならずとて、昨今二百三高地を振り立て/\派出所の前を日に幾回となく通過して居るとか。
(石川啄木「小樽のかたみ」)

 
▼ 探訪記者   引用
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:10  No.954
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 天民は、日本の新聞探訪員について、「日本の新聞事業は未だ幼稚なもので、探訪員の取って来た種を、内勤記者が筆の先で事を誇大にしたり、又は其種の生命ともいふべき処を抹殺してしまふことがある」と明らかにしている。天民が密かに思っていることは、「新聞事業の発達するに連れて、今迄の無学な探訪員は淘汰されてしまい、更に内勤記者が探訪に出掛けて、自分で種を取り、自分で文を作るやうになるであらうと」、推測している。これは、『小天地』の詳細な探訪記事経て、ほぼ一〇年後に天民が『東京朝日新聞』の社会部探訪記者として実践していくのである。
(後藤正人「松崎天民の半生涯と探訪記」)

啄木の『お嬢様――』なんか、典型的な「筆の先」ですね。じゃあ、天民の探訪記事はどうなんだ…ということになるのですが、松崎天民の本をきちんと集めている図書館って北海道では皆無に近い。青空文庫には一作品だけだし、古書価はとんでもない値段だし。その点、後藤正人さんの『松崎天民の半生涯と探訪記』は四作品を全文掲載してくれているのでありがたい。初めて天民の文章の一端といったものに触れることができました。

 
▼ 木賃宿   引用
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:12  No.955
   東枕の一列を見ると、両端の二人だけは白河夜船の様であるが、他の三人はなか/\寝入りさうもなく、何事か話をして居るので、耳聳(そばた)てへ聞くと、何れも土方仲間の、話すことは余程面白い。
「ヘヽン、これでもな、神戸の船渠(ドック)で働いて居った時分には、金廻りが好かったものぢやから、福原に遊びに行くぢやらう。すると貴様娼妓(じよろう)によ、情死(しんじゆう)を勧められた事もあつたからなア。何うぢや、豪(えら)からうが、遊びに行かんかい今夜……。」
 これは音吉といふ四十男が、酒に酔うての追懐(おもいで)らしい。
「天満座や福井座は面白う無いなア。芝居は南に限るが、遠い……一里もあらうなア。五階の傍(はた)には淫売婦(いんばい)の馴染みかおるが、それも遠いから行けん。ヘツヘツヘツヘツ。」
長蔵といふ三十一二の男は、斯(こ)ういって蒲団を被り、
「世間じやア恐ろしいものを、地震、雷、火事、親父といふが、俺等(おいら)の恐いものは雨より他(ほか)にないて。三日も降られてみい、口が餓(ひ)あがってしまうぜ。」
二十八九の青治郎といふのが、斯ういつた後は、名古屋……人夫……朝鮮……従軍……師団……など漏れ聞えて居たが、果(はて)は何れも鼾(かん)声雷(らい)の様に成てしまつた。
(松崎天民「木賃宿」)

 
▼ 酒場   引用
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:15  No.956
   「やあ、来た、来た!」
 入口に近い壁に靠れていた痘面の靴修繕師が叫び出した。向うの隅の方の壁の下では、五六人の彼の仲間が、何か声高(こわだか)に言い争っていた。明三は、そこへ引ぱって行かれた。
「さあ、今度は俺が、誰かを殺してやる。その時、お前がまた俺の首に縄をまいてくれ」
 靴修繕師は、舌縺れしながら、呟いて彼にカップをさし出した。
「やあ、死刑の大将……」
 磨師は、例の奇妙な礼装をして、醉ぱらった手を彼に差延べた。
「お前様がその新聞に書いた人かね」
 ほんの、一碼くらいしかない躯幹(せたけ)の、もう七十くらいの鋳掛師が、食卓の傍に立上って、彼の顔を覗き込んだ。
「ふうむ、この人かい……」
 恐ろしく丈の高い、佝瘻の蜘蛛かなぞのような奇怪な頭をした火葬番の老人が呟いた。
「何故そんなに、皆、僕の顔を見るんです……」
 明三は、腹立しげに言った。
「いや、俺等は今、その男の事で、死刑になった人間の事で、喧嘩をしてたんだ。つまり、……」
 靴屋がまだ、言いきらないうちに、どこかからひどく醉ぱらった山口編輯長が出て来た。
(沼田流人「血の呻き」/第七章)

 
▼ 貧民窟   引用
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:23  No.957
  『血の呻き』の函館の舞台には、どうして貧民窟の酒場や木賃宿が好んで使われるのだろう…といつも思ってました。あるいはこれは、流人のロシア文学(二葉亭四迷)趣味なんかがなせる技なのかな…と考えた時期もあったのですが、今わかりました。これは、松崎天民の「記者が探訪に出掛けて、自分で種を取り、自分で文を作るやうになる」その指向性に合致していたんですね。すると、あの『三人の乞食』の不思議な組立もわかるような気がしてくる。

 
▼ 沼田仁兵衛   引用
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:30  No.958
   彼は、最初私等の宿に来た時、その薬箱を首に懸けたまま、冷たい板間に膝を折つて、両手を突て喋り始めたのでした。
『……渡世もちまして、親分さんと申上げます。背中に負ひましたる、菰包、首に吊げましたる頭佗袋の儀は、御免なすつて、おくんなさんし。……手前儀は、浅草観音堂椽の下に住居仕る、鍋蓋取太之助の、身内で御座んす。親分様縄張内通行の節は、立寄りまする家々軒下、通り縋りの橋の下、辻堂椽の下の儀は、御免なすつて、おくんなさんし。………』
 (中略)
『お前さんは、偉いね。本職なんだ、ね。それで、俺が、その、つまり「親分」かい。』
 宿主は、(私の祖父は)薄笑ひしながら、彼を凝視て言つたのでした。すると彼は、祖父の顔を窃視て、微笑しながら言ふのです。
『今時の奴等は、誰も「礼式」を知りません。』
 そして、ひどく取澄した顔をして、空虚な咳払を一つしたのでした。
『違ひない。』
 祖父は沈んだ顔をして、独言のやうに、愁はしげな声で呟いたのでした。
 彼は、私の古股引を一足盗んで、行つてしまひました。それが、何の『礼式』であつたのか私にはわかりません。つまり『今時の奴等は、礼式を知らない」のです。
 祖父はその時、薄笑ひしながら、呟きました。
『股引の儀は、御免なすつておくんなさんし。……』
(沼田流人「三人の乞食」)

 
▼ 後志の文化   引用
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:34  No.959
   流人ははしめ地元紙に作品を寄せるが、『小樽毎夕新聞』にのった作品が松崎天民の眼にとまり、馬場孤蝶に推薦されて『三田文学』にのる。大正一〇年二月、秋田県土崎港から、小牧近江、金子洋文らによって、雑誌『種蒔く人』が出されたとき、やはり馬場孤蝶の紹介で小説『三人の乞食』がのる。文末に一九二〇・一一・二四とあるから、二二歳の作品である。しかしこの号は発売禁止となり流人は自分の作品がのったことを知らなかった。
 これより先大正六年から、倶知安、京極間一三・五キロメートルの軽便鉄道(京極線)の敷設工事がはじまっていた。土工たちは数か所の飯場に分宿させられて、苛酷な労働を強いられていた。その飯場を人々はタコ部屋(監獄部屋)とよんでいた。流人は倶知安にいて、その慘状を見聞する。そしてこのタコ部屋を素材に、長篇小説『血の呻き』(大一二・六 叢文閣)を刊行したが、発売禁止となる。
(後志管内文化団体連絡協議会編「後志の文化 ―人と業績―)

 
▼ 小樽毎夕新聞   引用
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:37  No.960
  流人が書いていたという「小樽毎夕新聞」は、啄木の「小樽日報」と同じく現存していません。したがって、何編くらいの作品をそこに発表していたかはもう調べようがありません。ただ、天民の眼にとまった『三人の乞食』が「三田文学」に転載されたおかげで、今奇跡的に私たちの目の前にあるわけです。やはり、探訪の指向が〈木賃宿〉や〈酒場〉にあった天民にしてみれば得難い邂逅だったのではないか。流人には〈タコ部屋〉という技もありますしね。流人の年譜で辿ると、

15歳 大正 2(1913) 尋常小学校卒業、仁兵衛の木賃宿を手伝う

19歳 大正 6(1918) 8月東倶知安軽便線、工事始まる
20歳 大正 7(1918)
21歳 大正 8(1919) 11月 軽便線、倶知安〜京極間が開通
22歳 大正 9(1920) 沼田一家、孝運寺へ/写経開始
23歳 大正10(1921) 得度(一郎→明三)/『三人の乞食』
24歳 大正11(1922)
25歳 大正12(1923) 6月『血の呻き』出版

 
▼ 茨城民報など   引用
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:41  No.961
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 さて、大正三年十月の朝日新聞退社だ。
 理由は幾つか考えられる。
 前回も述べたように、当時、朝日新聞の社内では勢力争いが激しかった。
 そのゴタゴタに天民はいや気をさした。
 それから大正二年十一月に妻さく子を失なってのち、以前にも増して酒色におぼれ、生活が乱れた。
 一方で、『中央公諭』をはじめとする雑誌の売れっ子ライターとなる。
 世界を見渡すと、第一次世界大戦が始まり、日本はドイツに宣戦布告し(大正三年八月二十三日)、青島を占領する(同十一月七日)。
(坪内祐三「探訪記者松崎天民」)

天民は『新聞記者生活三十年』という一文の中で、大正三年十月の朝日新聞退社以後、「大阪の大阪新報、大阪朝日、傍ら雑誌『小天地』と『滑稽新聞』とにも関係して居た。東京では国民、東京朝日、毎夕、都、二六、中央と転々し、地方新聞では山梨民声、神戸又新、茨城民報などに関係した」と書いてますね。朝日新聞退社以後の大正四年からは、いわばフリーランスのジャーナリストみたいな形で全国どこでも自由に動けたのでしょう。『三人の乞食』以来の親交なのかもしれないし、「茨城民報など」の「など」の部分に函館新聞なんかが絡んで来るのかもしれない。



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