| この小都市は、その行政上の正式名称よりも、郡府、と通称で呼ばれることのほうが多いという。そもそもは北海道の開拓初期に、石狩川の水運の要衝都市として繁栄した街だ。大規模な治水工事で石狩川の流れが変わり、いっぽうで鉄道が内陸にも延びていって水運が意義を失い、結果として街は衰退した。 郡府という通称は、かつてこの街に郡庁舎があったことの名残である。市域の中でもとくに、いわば旧市街にあたる運河で囲まれたエリアは、運河町と呼ばれている。明治後期の建築が高い密度で集積しており、その規模は同じ北海道の小樽市をしのぐという。 (佐々木譲「砂の街路図」)
「小樽」と「函館」を足して、2で割ったような街… 架空の街にしたことで説明が多くなり、若干、物語のスタートの加速が悪い。ただ、事件には「小樽」にない要素がいっぱい含まれているので、無理に「小樽の○○町で…」とかやると物語の骨格が壊れてしまうというのはよくわかる。
また一万八千人という街の人口を考えると意外でもあるが、大学がふたつある。運河町エリアには国立の法科大学。明治初頭、行政官を緊急かつ大量に養成するために設置された官立法学校がその前身だ。運河町の外には、広い実習農場を持つ私立の農業大学がある。 父は法科大学を卒業していた。母も同じ大学の出だ。実家が近いからこの大学に進学したという話だったが、当時は一学年三百人中女子学生は三十人程度。貴重品扱いだったと、存命のころに冗談めかして話してくれたことがある。 公共交通の便は悪いが、クルマなら札幌から三、四十分という距離にある。そのためこの三十年ばかりは、札幌市のベッドタウンという性格を強めた。建物は古いが、そのぶん安くよい空間を借りることができるので、画家や工芸作家も少なくないらしい。 俊也は地図に目を落とした。まずは運河町に入ることだ。 (同書)
今の小樽は下品だと思う。「運河町」になってほしい。土曜日、その小樽に「後志文学散歩・バスの旅」は向かいます。
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