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No.463 への▼返信フォームです。


▼ 縦書き   引用
  あらや   ..2017/01/18(水) 19:19  No.463
  昨夜から、ずーっと見とれています。

現在のHP「おたるの図書館」>「おたるの青空」はこんな風に見えています。
http://www.swan2001.jp/oa456.html
文字化け。ズタズタの行間。画面も切れているし… WindowsXP時代につくった縦書きファイル。他のHPから縦書きファイルをかっぱらってきて、そのソースに自分の入れたい文章を嵌め込んで行く…という恐ろしく低脳なことをやっていました。でも、沼田流人『キセル先生』のようにルビがきつい文章だと、こんな数ページの文章でもファイルに仕上げるだけで丸々一日の時間がかかってしまいます。それでもWindowsXP時代ならまだ読めるから続けていたんですけど、やがてWindows7になり、8(←これ、決定的だったな)の世の中になるとご覧のように崩壊してしまいました。

今構想しているHPは基本的に百パーセント「縦書き」文書の構成になります。「読みやすい」「縦書き」(私にとっては「入力しやすい」「縦書き」)文書をさくさく作成できることが大条件でした。美しい「縦書き」を求めてあたふたしていたんですけど、一昨日、ソフテック社から見せていただいたこのテスト画面で、なにかこれからの自分の道筋がつかめたような気がします。たぶん、「おたるの図書館」よりは遙かに引き締まったHPになるでしょう。新HP名は「人間像ライブラリー」か「人間像アーカイブス」といいます。

※ 「綽名」が「綽吊」になっていますが、これはテスト版をつくる時「おたるの青空」の文字化け文章を元にしたせいです。本番ではこういうミスはありえません。


 
▼ 人間像   引用
  あらや   ..2017/01/20(金) 07:28  No.464
  なぜ名が「人間像」なのか?

一昨年から去年にかけて、約四十年前に京極町で発行されていました同人雑誌『京極文芸』全15冊の復刻作業をしていました。復刻の過程で、派生的に『針山和美作品集』をつくったり、読書会、企画展示を行ったりとあれこれやったのです。その中で、作家としての針山和美氏を見ていた時には気づかなかった、編集者、同人誌主宰者としての針山和美氏にふれることができました。で、ちょっとだけ、自分に似たものをそこに感じたのです。

『京極文芸』は針山氏が京極小学校教諭として在職されていた十年間に発行されたものです。しかし、同人雑誌主宰者としての針山和美氏を語る場合、代表作は『京極文芸』ではありません。『人間像』です。
『人間像』の出発は戦後間もない昭和24年。旧制最後の倶知安中学、同窓生たちが集まって始まりました。以降、ガリ版刷りや誌名変更、そして針山和美氏の死去を経ても、平成の現在(第185号)まで続いているという北海道文学の草分け的な同人雑誌です。
その『人間像』の一式を私に預けたいという話が持ち上がったのが去年の七月でした。『京極文芸』を扱った時の手際が評価されたのかもしれません。伺って、その一式を見せていただいた時の興奮はもの凄いものでした。ガリ版刷り時代の『人間像』はもちろん、未発表作品『三年間』までもが原稿をきちんと綴じ合わせた形で目の前にあったのです。ここまで完璧な「一式」だとは思ってもいませんでした。

 
▼ 文学館と図書館   引用
  あらや   ..2017/01/20(金) 07:33  No.465
  まあ、常識で考えれば、これはもう田舎の図書館類似施設ごときの扱える範疇をとうに越えています。文学館や大図書館の仕事だろうと誰でも思うのでしょうが、なにか、私の中に釈然としないものが残ります。都市部にあることくらいが取り柄の文学館や図書館ごときに「針山和美」や『人間像』が本当に扱えるのか?という疑問です。率直ですが。

たぶん無理ですよ…という声が私の中にある。都会の文学館や図書館には「旧制最後の倶知安中学同窓生」の言葉は単なる研究資料の一データにすぎないだろうし、田舎の図書室は勉強しないから「人間像」自体が皆目わからない。「針山和美」を国文科的に研究しようという気は今も昔もないけれど、この、都会と田舎の間に横たわる厚顔無恥の広がりの中から『人間像』の作品たちを掬いだしたいなぁという気持ちが芽生えました。ひとつひとつの作品に意味があると私は考えています。

七月以来、湧学館の日常業務と『人間像』デジタル・アーカイブ化の仕事の両立をずっと模索していました。なんとかならないか!と頑張ったけれど、なんとかならなかった。年齢的なものなのか、体力的なものなのかよくわからないけれど、ぎっしりと詰め込まれた図書館行事の山の前にはデジタル・アーカイブ作業の時間は残っていなかったです。それで選んだわけです、アーカイブの方を。選ばなかったことで、どちらを深く後悔するだろうということが判断基準になりました。

 
▼ 人間像アーカイブス   引用
  あらや   ..2017/01/20(金) 07:40  No.466
  私たちは『人間像』の作品を読みたいのです。『京極文芸』の作品を読んだ時と同じように。文学館が調査研究した成果をガラスケース越しに見たいわけでもないし、図書館の閉館時間を過ぎても延々と読んでいたいわけです。本を読む上での一切の不自由から自由になりたいと思っている。

デジタル・アーカイブのような「見え方」が良いことなのか悪いことなのか、今のところはよくわかりません。作家や研究家の人たちは、「本」を読んでもらうことを前提に仕事を成したのであって、スマホ人間たちに読んでもらうことまではもちろん考えていなかったでしょうし。私自身、スマホで見えるものしか見えない、スマホで聴こえるだけの音が音楽だみたいな人たちの中に、「人間像アーカイブス」が登場することの意味を何か期待するような気持ちは全然ありません。

もっと防衛的な感情なのだと思います。今の時点でできる最高度の「保存」をやりたいのだと。図書館も文学館も結局は形の保存にすぎない。どんなに調査研究を積み重ねたところで、初めて針山和美『嫁こいらんかね』を読んだ時の驚きの保存にはならない。このことは、十年前初めて峯崎ひさみ『穴はずれ』を目にした時からの変わらない想い、変わらない課題なのでした。

その、京極での十年間の出逢いもまた保存の対象です。私の心の中の「人間像」です。書き方がまずかったかもしれないけれど、私の考えている「人間像アーカイブス」は、単に針山和美主宰『人間像』をデジタル復刻するだけのアーカイブスではありません。この十年、山麓の地で発掘した、出逢ってきたさまざまな「人間像」たちも当然そこに集う、そういうアーカイブスです。そして私も死んだら最後はそこに集いたいと思ってる、そういうアーカイブスです。

 
▼ 第103号   引用
  あらや   ..2017/01/20(金) 07:47  No.467
  なんで『人間像』第103号なんだ?と思った方、いるかもしれません。深い理由はありません。たまたま手元に第103号があったからです。一冊読み切るのにどれくらい時間がかかるか、体力測定みたいな感覚で先週あたりから始めたのですが、いやー、昔の文庫本みたいな超細かい活字、疲れる… 一週間は経ってると思うけど、まだ読み終わりません。無性に佐々木譲が読みたくなる。

武井先生、『愛の教室』なんてエッセイ集、出していたんですね。

編集後記で針山氏「神坂純郎・福島昭午・白鳥昇・金沢欣哉・佐々木徳次・針山和己などと並ぶと、何か目次が昔に戻ったような気がする」なんて書いてます。かなりオリジナルメンバーに近いのかな…と思って第103号を手にとりました。



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