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No.510 への▼返信フォームです。


▼ 黄色い花   引用
  あらや   ..2019/08/17(土) 09:36  No.510
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「へえ、ほんとにきつねだったのかねえ。尻にたれさがってるの太かった? まさか、しっぽのない頭の黒いきつねだったんじゃないだろうね。なんだか怪しいなあ、山へ入ったらなんて言って」
 ママは、まだ竹岡をからかいたい様子だった。
 その時、うつ伏したままの田代老人が突然かすれた声をあげた。
「きつねなんかおっかなくないぞ、きつねなんかでおれをおどかそうってのか。この野郎。ばか」
 この一年行きつけのこの店で、いつの頃からか竹岡はたまたまこの老人を見かけるようになっていた。四十なかばのママにとっては、ゆずり受けてこの店を始める以前、クラブに勤めていた時分から知っている、どうやら苦手な客のようであった。
(菅原政雄「黄色い花」)

いやー、『黄色い花』、よかった! 北海道文学全集の『残党』に興味を持って、市立小樽図書館にある菅原政雄著作を全部借りて来て読んでいるのですが、『風の向こうからの声』(檸檬社,1981)ラストの『黄色い花』にガーン! そういえば、『残党』のイントロもこれだったな。

 元次郎の末娘の中学生が戸を細くあけて、「とおさあーん」と呼んでいる。それを見て多美さんは元次郎の頭を少し乱暴にこづいている。すると、髪の薄い脳天がまるでふざけているように調子よく左右にゆれるのである。
「ねえガンジーさん、帰りましょう。アコちゃんが迎えにきているよ。かわいそうに、この寒いのに」
 元次郎はいびきをかきはじめる。
「また、たぬき寝入りなんかして」
 と言って元次郎の頭をパチンとたたくと、娘の方に声をかける。
「アコちゃん、もうすぐ帰るから先に行ってな」
(菅原政雄「残党」)

呑み屋の酔っ払い老人は、菅原ワールドの鉄板。


 
▼ 集産党事件   引用
  あらや   ..2019/08/17(土) 09:41  No.511
   「日曜日だよ。ほんとに。酒ばっかり飲んで、どうする気なんだか。ほんとに。日曜日だよ。わたしは知らないよ」
 旭川から津島という男が訪ねてくる日なのである。旭川からこの町までジーゼルカーとバスで三時間半はかかるから、来るとしても昼ごろだろう。どんな男かわからないから元次郎もハナも不安なのである。泊まるといいだされてもやっかいだし、だいいち集産党事件について調べたいというのが、元次郎にもハナにも気が重いのである。
(菅原政雄「残党」)

この〈集産党〉の言葉に惹かれて、私も遂に道立図書館にリクエスト出しました。貸出は不可、小樽市立の館内閲覧しかできないけれど、それでも目にする価値はあると感じます。

 革命的マルクス主義の党。マルクス主義の研究と宣伝と実践をめざし、すでに大正十一年七月に結成されていた日本共産党に対し、コミュニズムは産を分配することではなく、国家機関に集産することであって、従って正しくは集産主義であるという理論をたてて結成した党、集産党は、大正十四年から昭和二年にいたる二年間たしかに存在していたし、たしかに元次郎はその党員だったのである。だから三・一五事件、四・一六事件にさきがけて、北海道での赤狩りの第一弾といわれるその事件に治安維持法違反でひったてられもしたのだ。誇らしい鉄道員生活からほうり出されて活動弁士もしたし日傭もしたのだ。しかし、集産党の検挙は昭和二年の秋だったが、新聞報道は統制され、世間の知らぬまに生まれた党は、世間の知らぬまに潰滅してしまっていたのだ。
(同書より)

うー、ぞくぞくする。

 
▼ 菅原政雄   引用
  あらや   ..2019/08/17(土) 09:44  No.512
  いちばん詳しいと思われる北海道文学全集の著者略歴を書き写しておきます。

菅原政雄・すがわらまさお。
昭和八年(一九三三)一一・二−。小説家。釧路市生れ。三一年北海道学芸大学旭川分校を卒業、上川郡下川町立一の橋中学校、名寄市立智恵文中学校を経て、現在北見市立光西中学校教諭。二九年以降、詩誌「時間」「眼」「フロンティア」「風土」「現代詩評論」「餓鬼」などに加わり、四一年「北見文学」同人となるが五二年退会。主なる作品は「残党」(昭四二・一二「北見文学」)、以後「北方文芸」掲載の「夢の中味」(昭四六・一二)「うみ」(昭四九・一)「黄色い花」(昭五三・五)「風の向こうからの声」(昭五五・五)。「作品」別冊「地域の文学」(昭五六・一)に「けぶる緑は」。作品集に詩集「馬糞道」(昭二七・私家版)「記憶の垂線」(昭三八・一一、詩潮社)、小説集「残党」(昭五〇・七、私家版)「風の向こうからの声」(昭五六・二、檸檬社)があり、研究に「北見文学史稿」戦前戦中篇、戦後篇(昭五三〜五四、北見市編さん室刊)がある。

 
▼ 残党   引用
  あらや   ..2019/08/25(日) 16:47  No.513
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北見文化連盟より1975年7月刊。収録は『うみ』、『暮色』、『ライフィズ バッタ ドリーム』、『廃家の歌』、『残党』の五篇。どの短篇も余韻の残る佳作でした。甲乙、つけがたい。『残党』は、北海道文学全集の活字詰め込み本で読むよりも、遙かにこの文庫本サイズの方が読みやすかった。

作中に歌が効果的に使われています。興味を持って調べてみました。

ライフィズ バッタ ドリーム http://hsgoldstone.jugem.jp/?eid=13
討匪行 http://takurou.co-site.jp/natumero/gunka/touhikou.html
故郷の廃家 http://www.worldfolksong.com/songbook/usa/hays-dear-old-home.htm
東京節 http://kazuo.r-cms.jp/blog_detail/id=87

『うみ』。「♪ダリヤにアネモネ、チューリップ」はわからなかったが、作品の向こうから潮風が渡ってくるような美しい作品だった。

 
▼ 集産党事件覚え書き   引用
  あらや   ..2019/08/27(火) 07:03  No.514
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戦前、北海道であった「集産党事件」とは?
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-02-07/ftp20080207faq12_01_0.html

菅原政雄氏の『集産党事件覚え書き』は、確かに「覚え書き」であって、当時、散逸風化しつつある第一次資料群を取りあえず何としても残しておかなければ…という氏の歴史的責任において編まれた書物であることがよくわかりました。

 元次郎は西村鉄之助のことを思っていた。彼は津島の「集産党事件ノート」のために、かなりたくさんのことを語り出している。元次郎にはどうしてもそれが津島に真実を伝えているようには思えなかったのである。年寄りの思い出話、自慢話にすぎないものをまるで時代の貴重な証言ででもあるかのようにこの青年に語ったのではないのか。西村はむかしからほらふきでいい気でおっちょこちょいのところがあったのだ。西村の書いた戯曲をここの消防番屋の二階で上演したときのこともそうだ。津島のノートには地方演劇活動のはしりとして評価している演劇発表会、それはそれなりに事実だ。しかしそれは演劇発表会などといえる態のものではなかったのだ。あの時西村は原作者演出者で出演もした。ろくすっぽ観客がいなかったとはいえ西村はその夜大得意だったのだ。それもいいさ、みんな若かったし興奮の一夜だったのだから。ただそれが年月を経て西村の口から語られると、ずいぶん立派な演劇発表会になっている。
(菅原政雄「残党」)

こういうニュアンス、後世の人が受けとるには非常な苦労が要るのですが、『集産党事件覚え書き』には当時の関係者たちが書いた詩や文章が(情報操作することなく)そのまま写し残されているので、私たちは「大得意だった」その夜の情景を頭にイメージすることができる。同時代を生きた歴史的責任とは、こういうことだ。

歴史を語るとは本当はこういうことではないだろうか。先頭に引用した日本共産党の公式見解や、次のスレッドで照会する宮田汎『朔北の青春にかけた人びと』も、『集産党事件覚え書き』を目撃した後では、津島ノートの亜流にしか見えない。

 
▼ 朔北の青春にかけた人びと   引用
  あらや   ..2019/08/27(火) 07:08  No.515
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 「集産党事件」において、被疑者として取調べを受けましたが、不起訴となった一人に栗栖貞和さんがいます。「集産党」には加入していなかったということで起訴されませんでした。
 すでに、ふれたように、栗栖さんは労農党に加入し、一九二六(大正一五)年、同党旭川支部の結成式では党委員に選出されています。もちろん「集産党」のメンバーとは交流もありましたので、そのかかわりで検挙されたのでしょう。しかし、本人には「私有財産制度否認ヲ目的トスル」認識がなかったものと判断されたようです。
(宮田汎「朔北の青春にかけた人びと」/12.栗栖貞和)

この人のその後が興味深い。1928年(昭和3年)、名寄にバターその他乳製品製造を目的とする酪連(北海道製酪販売組合連合会)工場ができ、栗栖貞和氏はそこに入社。そして、翌年には同酪連倶知安工場に転勤するのですね。
1928年2月は、日本初の男子普通選挙。後志でも小林多喜二『東倶知安行』に描かれたそのままの世界が展開されていました。栗栖貞和はその世界に飛び込んで来たのです。

 一九二九(昭和四)年一一月二日東京で新労農党が結成され、党首大山郁夫が、一〇日、函館を皮切りに道内一一市町村で遊説をしました。一一日昼には倶知安に立ち寄りました。
 一枚の写真が残されています。前列には大山郁夫、小樽の鈴木源重、竹尾弌党中央委員、そして後列に沼田流人、岡本米司と並んで左端に栗栖貞和さんが立っています。このときに労農党倶知安支部が緕成され、岡本が支部長になったと伝えられています。
(同書より)

えっ、沼田流人!

 
▼ 血の呻き   引用
  あらや   ..2019/08/27(火) 07:13  No.516
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『倶知安町史』に載っている有名な写真だから湧学館にいた頃から知っているけれど、私にとっては「沼田流人が写っている」写真なのであって、隣に写っているのが誰かなんて細かく考えたことなかったですね。こういうところが私の詰めの甘さで、決して郷土史家などにはなれない頭の悪さではあるのですが… ただ、今回、「栗栖貞和」という考えてもいなかった角度から沼田流人の名が浮上してきたことは、私にある種の希望の光を与えてくれました。

沼田流人『血の呻き』は、大正12年(1923年)6月、流人が初めて世に問うた小説です。今でも「タコ部屋告発の書」などと、流人を読んだこともない人間たちが吹聴しているけれど、これ、ちがう。流人がいわゆる「タコ部屋告発」の正義の凡人になって行くのは、後年の『地獄』(大正15年)、『監獄部屋』(昭和3年)なのであって、それは『日本残酷物語』(昭和35年)で決定的になり、流人は昔語りするだけの古老になり果ててしまった感があります。
『血の呻き』の売行き不振(世間の無視)が応えたのか、定職(倶知安中学講師)や美人の奥さんを得たことで人生と和解したのか、あるいは「書」に目覚めることによって「小説」が必要なくなったのか、その間の流人の心の動きはわからない。解明したいとは思いつつ、ここ(倶知安)からはもう何も発見はないだろうなと感じていた湧学館時代の毎日でした。ここの人たちは皆、「小樽に多喜二、倶知安に流人」の公式レートで満足しているように見える。湧学館に来ればいつでも『血の呻き』は読めるのに、読みもしないで「沼田先生」については妙に饒舌だった。

『地獄』や『監獄部屋』は確かに〈倶知安〉の物語でしょう。でも『血の呻き』はちがう。〈函館〉の物語ですよ。函館の貧民窟から物語は始まり、貧民窟でその物語を閉じる、死火山の麓の街からの流れ者・藤田明三の〈函館〉物語ですよ。描かれた函館の市街や登場人物たちが動きまわる時間の正確さから、これは何らかの形で函館にかかわるか生活した人でなければ書けない作品だとは考えつつ、何の手掛かりも掴み得ないで悶々とする湧学館時代ではありました。でも、今回のように、〈名寄〉といった思いもしない地から流人の情報が出てきたりすると、あるいはいつか、思いもしない人や角度から『血の呻き』の解明がなされるかもしれないとの思いが私に芽生えたのは事実です。



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