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▼ 「人間像」第56号   引用
  あらや   ..2019/08/24(土) 11:38  No.698
  .jpg / 31.8KB

昨日、「人間像」第56号作業、完了。デジタル化にかかった時間は「73時間/延べ日数14日間」でした。現在のライブラリー収録タイトル数は「1140作品」です。少し日数が多めにかかっているのは、お盆のあれこれと、珍しく夏風邪をひいてしまったから。

 この号は、予告通り小野静子に関する特集をやったが、印刷所に廻したあとで、例の週間誌のことが起り、ぼくらは、この号の意味が失われたかと心配したが、週間誌はなるほど聞きしにまさる「七日間だけの物」である。今はもう、週間誌の記事はなかったも同然の静けさで、ぼくらは、全く予定の通りに、この号をひっそりと出せるのである。
(「人間像」第56号/編集後記)

第56号「小野静子追悼号」は、小野静子という人の死の尊厳を護った大切な一冊です。朽木寒三氏が『小野静子の短き春』を現さなかったら、私たちはいまでも『破滅の青春』のミスリードのままに生きていたでしょう。三十歳になったかならないかの若者たちが、初めて受けとる同人の死は如何ほどの衝撃であったろうかと思います。


 
▼ 「例の週間誌のこと」   引用
  あらや   ..2019/08/24(土) 11:43  No.699
   三十二年には小野静子が入会した。山梨から文学に憧れて上京、平木の家で子守などしていた少女だった。四十九号の短篇「散歩」が第一作で「別れ」(50号)「約束以前」(53号)「不良少女」(56号)など、エキセントリックな新鮮さに溢れた作品を発表し始めたばかりだったが、三十五年一月急死した。自殺だった。文学少女の自殺ということで『東京新聞』の「大波小波」欄が「ある文学少女の死」として取り上げたことから始まり、『週刊新潮』までが「放浪、セックス、そして死」などと興味本位に取り上げ、まさに事件となった。後に東京の世代社から作品集『破滅の青春』として刊行された。(中略)かくして五十六号は初の追悼特集号となった。
(針山和美/「人間像」の五十年)

小野静子さんの自死が昭和35年1月。第56号「小野静子追悼号」の発行が同年6月。その1月から6月までの間に週刊誌の騒動があり、同年7月の『破滅の青春』出版がある。

その『破滅の青春』。「小野静子著」となっているが、はたしてこれを小野静子の著作とみなしていいものだろうかと思うようになりました。朽木寒三『小野静子の短き春』を読むまで、私は、小野静子の残した日記や断片ノートは『破滅の青春』に載せられたものがすべてだと思っていたのですが、『小野静子の短き春』を読むと全然違った日の日記がどんどん登場して来る。断片ノートもそれぞれが引用している部分が違う。
つまり、小野静子の日記や断片ノートは完全版の形ではいまだ世に出されてはなく、一部分がそれぞれの論者の主旨に沿って引用されているだけなのです。『破滅の青春』が問題なのは、その「論者」の顔が見えないということ。編者名も後書きもなければ、出典も明らかにされていない。思わせぶりな写真で読者の興味を釣る感じは、今時のネットの成りすましやフェイクニュースの手口だ。かなり巧妙に「放浪、セックス、そして死」の方へ誘導しようとしているのを感じます。(乱丁部分でさえ、意図的に「第三章」部分を隠したのではないかと思うようになりました…)

 
▼ ある文学少女の死(東京新聞)   引用
  あらや   ..2019/08/25(日) 10:47  No.700
  針山和美氏のスクラップブックに、当時の東京新聞「大波小波」記事の切り抜きがありましたので全文掲載します。

 〈大波小波〉 ある文学少女の死
◇ 北海道から出ている「人間像」という同人雑誌の一ぐうに、同人のひとりの死が、小さく報ぜられていた。「十九歳の時に、家出同然の状態で上京し、三年たって、わずか二十二歳の若さだったが、睡眠薬を飲んで自殺したのだ」とある。
◇その少女は、上京したものの住む家がないので、中華料理屋やパチンコ屋に住みこみで勤めながら、小説を書いていたらしい。自殺の原因が何であるか、また「家出同然」の上京の原因が何であったかは、その小文ではわからないが、直接に文学とは関係がないとしても、無関係だとはいいきれないであろう。
◇文芸雑誌の同人雑誌評で大いに好評されたとか、懸賞小説の選外佳作にはいったとかいうくらいのことで、地方から、生活のめやすもなく、あるいは冢を売って二三年間の生活費を作ったりして、上亰してくる人がときどきあるらしい。そういう二三人の人を小生も直接知っている。文芸雑誌や新聞などで同人雑誌評をやっている批評家諸君、あなたはいつか小野静子という人の作品を大いにほめたことはありませんか。それが自殺した少女の名だ、というと、中にはぎょっとする人があるかも知れない。
◇だが、そんなせんさくは、たとえば、もし火野葦平が芥川賞をもらわなかったなら、劉寒吉がパン屋をやり岩下俊作が製鉄会社に勤めながら小説を書いているように、火野も沖仲仕の親分をしながら小説を書いて、死をはやめることはなかったろうなどというのと同じく、空しいことだ。
◇突き放していえば、死ぬ者は死ぬ。だが、人の死をながめることは、生きている人間にとってはこの上もなくさびしいことだ。(和凡)
(東京新聞 昭和35年3月17日)

 
▼ ある文学少女の死(八木義徳)   引用
  あらや   ..2019/08/25(日) 10:53  No.701
  同スクラップブックには、当時「人間像」の師匠格であった八木義徳氏の「大波小波」への反論記事もありましたので、こちらも全文掲載。

〈ぷろむなーど〉 ある文学少女の死 八木義徳
 つい先日、ある週刊誌の記者だというひとから電話がかかってきて、さいきん自殺したひとりの若い女流作家志望者のことについていろいろ質問された。私がこの若い女性を知っていて、しかもその作品をほめたことのある人間だということを調査ずみの上で電話をかけてきたのだ。この女性は三年ほど前十九歳のとき山梨の田舎から家出同様にして東京へとび出してきて、都内の中華料理店やパチンコ屋などに転々と移り住みながら小説勉強していたのだが、ついさいきん原因不明の自殺をとげたのである。私はこの女性にたった一度だけだが、ともかく会ったことがある。この女性の属するある同人雑誌の文学座談会にまねかれて出たことがあるが、そのときこの若い娘さんもその十数人の出席者のなかの一人としてそこへ顔をつらねていたのだ。しかもあとでわかったことだが、ちょうどその日がその娘さんの家出の日だったという。そのせいか、その娘さんは座談会ではひとことも発言せずはじめからおわりまでじっと顔をふせたまま石のような堅い沈黙をまもっている姿が異様な印象として私の記憶にのこっている。この娘さんのその後の奔放でタフな生活ぶりは、近くに住む同人の一人からうわさ話としてときどき耳にしていたし、その作品もいくつか読んで、そのひとつをある新聞の同人雑誌評でたしかにほめたおぽえがある。
 ところでその週刊誌の記者の質問は、この娘さんのことが「ある文学少女の死」という題である新聞の文化欄の同名記事のなかに書かれているが、もしあなたがその記事をお読みなら、それにたいする感想をきかせてくれというのである。その匿名の文章の筆者は、批評家や作家などになまなか自分の作品をほめられたためにとんだ野望をおこしてなんの成算もないのに東京へとび出してきて、けっきょくは敗れて身をあやまっでしまう作家志望者がちかごろとくに多いようだ、というような意味のことをいったあとで「文芸雑誌や新聞などで同人雑誌評をやっている批評家諸君、あなたはいつか小野静子という人の作品を大いにほめたことはありませんか。それが自殺した少女の名だ、というと、中にはぎょっとする人があるかもしれない」とハッキリ書いてある。つまりこの一節の文章を思いきって悪意に解釈すれば、この文学少女の死にはお前さん(すなわち私)にもその責任の一端はあるんだぞ、というおそろしい脅迫のことばともなる。
 私は週刊誌の記者に答えた。「しかし、ぼく自身はそのひとの死には責任はないと思います」
 が、こう答えたあとで、もしトルストイならば、こういう場合「その少女の死には自分はハッキリ責任がある」と答えるだろう、と思ってすこしばかりユウウツになった。
(読売新聞 昭和35年3月28日)



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