|
幕末の志士清河八郎は現庄内町清川の豪農の家に1830年に生を受けた。 そして数え18歳の時に出奔(家出)し、江戸へ向かい、剣(北辰一刀流)の修行を積みながら学問でも頭角を現し、現お茶の水の淡路坂に3回目となる清河塾を開いた。 同門の安積五郎を伴い実家に帰る途中、湯田川温泉の宿で豪遊をし、芸妓数名を呼びどんちゃん騒ぎをする。そのとき安積は節分の豆まきよろしくお金をばらまいた。女たちはお金を奪い合ったが、その中で一人の女は騒ぎに加わらず、ひっそりと部屋の隅でその混乱を見ていた。その女(高代)を見初め、“泥中の蓮だ”と思い身請け、お蓮と名前を変えて妻とした。
お蓮の実家は現鶴岡市熊出(くまいで)で医者をしていて、お蓮は子供の頃、畑に植えられていた梅の木に登って良く遊んでいたということが歴史本に書かれていたことを思い出し、末裔の方に連絡し、その梅の木を見せて貰ったのが2015年だったと記憶している。 私はもともと造園家を生業としていたことでピンとくることがあって、もしかしてと思い「梅の苗木などありますかね」と問うと、「5,6本育ててますよ」という返事だった。訳を話し「1,2本、譲って頂けませんか」、「いいですよ、2本差し上げましょう」ということになり、そのことを地元の方に連絡するととても喜んでくれた。
八郎とお蓮さんが江戸に出て幸せに暮らせたのは7年ほどしかなかった。 それは清河塾が虎尾の会を作り尊王攘夷運動に進むことになり、それを危惧した幕府は八郎を召し取るためにある罠を仕掛けた。これが「町人切り」という罠だった。 八郎は逃避行を重ねているうちに、妻お蓮、弟熊三郎などを召し取り拷問を加え、それが原因でお蓮さんは亡くなる。こうしてお蓮さんと八郎は元の鞘に戻ることが出来ずに歴史から消え去ってしまうことになる。【20250106(月)】
|
|