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▼ コブタン第50号   [RES]
  あらや   ..2023/04/27(木) 06:29  No.660
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札幌の同人雑誌「コブタン」が第50号で最終号となりました。編集人がお亡くりになられて終刊となる「人間像」のような形しか知らなかったので、「コブタン」第50号のように、主宰の須貝光夫氏はじめ編集に協力していた家族全員のメッセージが載った最終号には意表をつかれました。最終号となると、愛読していた連載・須田茂『近現代アイヌ文学史稿』も最終回です。

 一九七〇年代において活発な執筆を続けた才能が再び復活していることは大きな希望であろう。就中『揺らぐ大地』はアイヌ文学としての側面から見れば、筆者の知る限り、上西晴治の『十勝平野』(一九九三年)以来となる「小説」の刊行である。アイヌ文学では自伝や詩歌の分野では多くの作品が見られるものの、本格的な創作は乏しかっただけに、『揺らぐ大地』に収録された四編はアイヌ文学史において大きな意義をもっている。
(第十七章 アイヌ民族による現代詩歌〈一〉/現代詩/土橋芳美)

また教えてもらった。「『十勝平野』以来」と聞かされれば読まずにはいられない。そして読めば、なんで俺はこんな大事な本も知らないでおめおめ生きているんだろうとけっこう落ち込む。それにしてもなんという須田さんの持久力だろう。『揺らぐ大地』も、最後の章で取り上げられている『北海道の児童文学・文化史』も、みんな去年発行の本ですからね。でも、これらをすぐに自家薬籠中の物にして進んで行くところに同人雑誌の一番の意味を感じるのです。


 
▼ 揺らぐ大地  
  あらや   ..2023/04/27(木) 06:35  No.661
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「あら、同情?」
 なんということか。今まで感謝こそされ、こんな言い方をされるのは初めてだ。善意を踏みつけにされたようで、むっとして睨みかえした。
 耳の辺りで切り揃えた黒髪に、小さめの顔、濃い睫毛に縁どられた目は、太いアイラインで仕上げたかのように強烈だ。どちらかといえば整った美しい顔なのに、その鋭い眼差しが全てを壊しているように思えた。
「同情なんかではありません。私も学生も勉強になるから手伝わせてもらっているんです」
 落ち着くようにと、一呼吸おいてからゆっくりと言った。
「だったら、研究のため?」
 重ねて言い放った。
(土橋芳美「揺らぐ大地」)

なんといえばいいか。私には、初めて峯崎ひさみさんの『穴はずれ』を手にした時の驚きと同質のものがありました。久しぶりに、小説、読んだ、というか。

 
▼ 光あれ、いまこのときも  
  あらや   ..2023/05/07(日) 11:11  No.662
   その文芸誌を見つめていたら、なぜか書いてみようという気になった。
 久しぶりに原稿用紙をひろげ、
「異族の嫁」
 と、題名を書いた。
 一郎の両親にとって、里子はまさに異族だったのだろう。初めて会った日のことが思い出された。
 結婚しようと思っているんだと一郎が里子を紹介した時、母親が里子の顔をじっと見つめ、声を低めて言った。
「出身はどちらなの」
 すでに重い空気が流れているのは知っていたが、それを感じないふうを装って、
「日高の平取町です」
 明るく返したつもりだった。
「平取町って、あのアイヌの人たちが多く住んでいる所ね」
 アイヌ資料館などもあり、時々ニュースになることもあったが、アイヌ人が多く住むといったって、町の人口の数パーセントでしかない。
「ええ、私もアイヌです」
 少し、語尾が震えた。
「そうなの」
 と言った後に続いた沈黙の意味を里子は知っていた。
(土橋芳美「光あれ、いまこのときも」)

引用が長くなってしまった。でも、何もつけ加えることもない、引き締まった文章だ。

 
▼ コタンの恋  
  あらや   ..2023/05/08(月) 09:49  No.663
   長い旅の間、見知らぬ人々の間で緊張してきたので、この少女の朗らかさに救われた思いでした。
「あなたの名前は」
 少女に尋ねました。
 彼女は持ってきた瓶に水を入れながらクスクスと笑いながら言います。
「私の名前はクラ、ほら大事なものを入れておく蔵からとったんだって。このことは小学校の先生に教えてもらったって。でもうちの父ちゃんの日本語があやしくて、役場に届けに行くとき、クラ、にもう一つラをつけちゃって、だから、クラ、いいえクラ・ラなの」
 そのことが可笑しくてたまらないという風に、ころころと笑うと、髪に挿してあるすずらんが少女の肩で揺れました。笑うなど久しぶりでした。水を飲み、笑いを得て、わたしの感覚はやっと正常に戻りつつありました。
父ちゃんのあやしい日本語≠ニいうのを聞いて、この少女はアイヌなのかと不思議に思いました。
 淡路にいたときは、北海道のアイヌというものをもっと恐いもののように想像していたわたしでした。
 しかし、眼の前の少女は、まるで森の精かと思うほどに愛らしいのです。
 クラ・ラに案内されてコタンに入りました。
(土橋芳美「コタンの恋」)

美しい物語だった。読んだあとは、一瞬、今日これから何をするつもりだったのか、わからなくなる。

 
▼ 向日葵を描く女  
  あらや   ..2023/05/27(土) 18:05  No.664
   「そうね。ラーメン大好きです」
 少し歩くと小さなラーメン屋があって二人はそこに入った。
 裕造はラーメンの値段を確かめ、二人分のお金がポケットにあることにほっとした。カウンターだけの小さな店だった。
 里奈子が味噌ラーメンと言ったので同じものにした。いつもは醤油ラーメンだ。
 里奈子は裕造の左側に座った。
 ラーメンを食べる里奈子を何度も見つめた。
 そしてはっきりと記憶に留めていることがあった。右の耳の下に五芒星のような黒子が盛り上がるようにあったのである。
(土橋芳美「向日葵を描く女」)

 取り残されたような小さな公園に陽が溜まっていた。錆びたブランコ。「故障」の札が貼られたシーソー。屑カゴから空き缶が溢れ、蝿がたかっている。自動販売機だけがやたら新しい。ほどなく冷たいビールが飲めるというのに、ホットココアを買ってしまった。掌に吸い付くほど熱い缶をハンカチに包み、靴跡のついたベンチに座る。
(峯崎ひさみ「バイキ!」)

久しぶりの〈小説〉体験に昂奮して、『痛みのペンリウク』も『ウクライナ青年兵士との対話』も直ちに注文して読みました。六年前にひきこもり生活に入ってからは初めての体験です。


▼ 定本レッド   [RES]
  あらや   ..2023/04/24(月) 09:28  No.659
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51年前の二月、受験のために上京した時、大学の正門前には「銃撃戦断固支持!」のタテ看がズラーッと並んでいたものだった。それが、入学のため上京した四月には、きれいさっぱりタテ看も活動家も姿を消していた。

四月になると思い出す。

昔から気になっていた本なのだが、古本に手を出さなくて正解だった。「定本」の説明には、本作は『レッド』(全8巻)、『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』(全4巻)、『レッド 最終章 あさま山荘の10日間』(全1巻)をまとめたものとあった。私が古書店で見たのは『レッド』(全8巻揃)だったけれど、四、五年前で八千円とかとんでもない値段が付いていた。『レッド』の@〜Gで〈あさま山荘〉まで話が進むと勘違いしていました。

その四月ももうすぐ終わり。五月か… 十年に一度の本に出逢ったので、五月を待たないでまた書きます。



▼ サーベル警視庁   [RES]
  あらや   ..2023/03/05(日) 16:40  No.657
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「へえ、黒猫先生、そんなことを……」
「はい」
「それから……?」
「私の江戸言葉を聞かれて、面白がってくださいまして……。新作の小説に使おうと……」
 鳥居部長の眼が輝いた。
「新作の小説に? おめえさんを、かい?」
「いや、どうやら私と話をなさっていて、気っ風のいい江戸っ子を主人公にすることを思いつかれたようでやす」
「江戸っ子が主人公……」
「それが、愛媛の松山かどこかで教師をやるんだそうで……」
「へえ、そいつは楽しみだねえ」
 そこに、葦名警部と藤田がやってきた。
(今野敏「サーベル警視庁」)

こちらの明治警察も、いたる所に小技が詰め込まれていて楽しく読めました。最後に、関川夏央・谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』への謝辞があって、なるほどと思った。

今、平行して、国立国会のデジタル・コレクションの松崎天民を読み進めているのだけど、日増しに天民を人間像ライブラリーで扱いたい気持が高まっています。


 
▼ 帝都騒乱  
  あらや   ..2023/03/06(月) 17:36  No.658
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 岡崎は尋ねた。「しかし、奉天を占領し、五月二十八日には、日本海で艦隊が勝利しました。日本中が戦勝に浮かれているのですが……」
「今はよくても、このまま戦を続ければ、わが国はたいへんなことになります。庶民は重税にあえぎ、日本は疲弊している。奉天、日本海の勝利はつかの間の夢です。もう、日本は持ちません」
 岡崎と岩井は再び顔を見合わせた。
 岡崎がさらに何か言おうとしたとき、背後から明るい声が聞こえた。
「庶務のおじいさん、さようなら」
 岡崎と岩井は振り向いた。声の主は、城戸子爵の令嬢、喜子だった。
 喜子が目を丸くする。
「あら、岡崎さんに岩井さん。庶務のおじいさんを捕まえに来たの?」
 岩井が言った。
「冗談じゃありません。ちょっとご挨拶に寄っただけです」
 喜子はさらに近寄ってきて言った。
「何か事件があったら、また手伝わせてくださいね」
(今野敏「帝都騒乱」)

お約束のいつものメンバーが集まって、さあ、「サーベル警視庁」劇場の始まり、始まり。楽しい休暇だった。さあ、明日から「人間像」第107号作業、再開だ。これが終わる頃には、雪融けているかもしれない。


▼ 抵抗都市   [RES]
  あらや   ..2023/01/28(土) 14:54  No.655
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「身寄りもわからない店子が死んじゃった場合、あたしはどうしたらいいんだ? 荷物を片づけてしまっていいのかい?」
 多和田が言った。
「警察から連絡が来るまでは、このままにしておいてくれないかな」
 新堂は、卓袱台の下からまとめられた新聞紙を引き出した。
 東京日日新聞、中央新聞、東京朝日新聞があり、時事新報、都新聞、読売新聞もあった。さらに国民新聞、萬朝報、やまと新聞……。
 この一週間ばかりのものだ。
(佐々木譲「抵抗都市」)

日露戦争終結から十一年、ロシア統治下の東京…という設定は、ちょうど松崎天民を調べていた時だったので、なんともタイムリーでした。大津事件や日比谷暴動をこんな風に使うのか…という面白さもあった。このシリーズ、楽しめそう。


 
▼ 偽装同盟  
  あらや   ..2023/02/17(金) 17:43  No.656
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 新堂は駅前で市電を降りると、広場の新聞売店へ歩いて、目につく夕刊をさっと五紙買った。とくに選ぶことなく、ペトログラードの騒擾を見出しにしている新聞だけをだ。
 売店の脇で、ざっと目を通した。
 帝都実報新聞の見出しはこうだ。
「露都、軍発砲 死者百名超か」
「一部連隊、反乱」
 東都日日新聞はこうだった。
「露都市民、軍と衝突、死者数百」
「反乱露軍、出動拒否」
 あとの三紙も、見出しは似たようなものだった。
(佐々木譲「偽装同盟」)

うーん、今度はロシア革命か! 芸が細かいな。今回は「二月革命」の時期だったから、次の事件は十月か。ロシア帝国消滅だから、これで終わりか。

今、松崎天民の本を国立国会図書館のデジタル・コレクションで少しずつ読んでいるんだけど、デジタルって読みにくいね。(少し反省…) 年寄りは紙に印刷して読んでます(笑)


▼ 父・流人の思い出 メモワール編3   [RES]
  あらや   ..2023/01/16(月) 17:41  No.644
  「さあ夜祭り見物だ、行きたい人はついて来い」と言って立上がる。子供達はみんな「ワーイ」と喜んで後を追う。サーカスのジンタが聞こえてくると父は、スローテンポで「旅のつばくら淋しかないかあ」と小さな声で唄いながら私達をサーカス見物につれて行ってくれた。哀愁にみちたクラリネットの音色や、スポットライトをあびて華やかな曲芸をしている少女の、笑っているのに泣いているように見えた美しい顔、虎やライオンの恐しいのに悲しげな目など私は今でも懐しく思い出す。
(第二十一回/祭りのあと)

 そして、風に躯を委ねる放浪者の群に入って、いろんな世間師等の仕事をした末、とどS市である小さな曲馬団の歌手として雇われた。
 彼女は、そのK曲馬団で、エリナと称ばれていた、馬つかいで、その群の中で果てもない漂浪の日を送っている娘であった。
 明三の頭には、その時A市で興行中起ったある場面が、幻のように湧き上って来た。
 舞台は、総ての光を取り去られて暗くされていた。明三は、慄える燭灯を掲げて、そこに立った。青ざめた小さい光に、恐ろしい程の無数の人間の視線が、暗い観客席から光った。
 エリナは、その微かな光の下に跪いて、自分の胸の中に怜悧な仔馬の首を抱いて、その鬣を撫でて寝せつけた。明三は、沈んだ弱音でその馬の為に、小唄を歌った。
(沼田流人「血の呻き」/第二章)


 
▼ メモワール・二十二、二十四  
  あらや   ..2023/01/16(月) 17:44  No.645
  父は終日机に向って坐っていたので、気分転換とか足の運動という意味もあってか散歩は日課のようになっていた。私が子供だった頃も戸外で父の姿を見かけると必ずかけ寄っていったものだった。たしか小学校四・五年生までは手をつないで歩いた。一しょに遊んでいた友達もきまって同行した。父が道端の草花などの名やそれにまつわる民話などを話してくれるのが、みんな楽しみだったからである。クラス会などで、昔の友達に逢うと、よくその頃の話しが出る。みんな懐しそうに「おじさんやさしかったもね、いろいろきいたお話し忘れないよ。子供にも話して上げたよ」と言われると、私は心の中でひそかにつぶやくのである。「これは父さんの大いなる遺産だわ」と。
(第二十一回/遺産)

淳が幼稚園から小学生になる頃には、おじいちゃんのお話は淳の友達にも知れわたり、近所の子、遠くから自転車に乗って来る子もいて日中からお話会が始まることもあった。父は仕事の手休めに煙草をすいながら淡々と話したが、子供達は結構興奮して、怖ろしい所では身をすり寄せたり、おかしな話には笑いころげたりしていた。私はその光景を見てほほ笑ましく思ったものである。
(第二十二回/おじいちゃんの連続ドラマ)

流人の思い出を語れる倶知安高校の同僚の方々はもうお亡くなりになっているのだが、ここに描かれている子供たちはまだご存命かもしれない。

 
▼ メモワール・二十三  
  あらや   ..2023/01/16(月) 17:47  No.646
   私が小樽の男と結婚する事になった時の父の第一声は、「小樽は父さんもいろいろ縁のある街だったが、とうとう娘までご縁があったとはなあ」 「小樽はいい街だ。父さんは小樽が好きだよ。東京へ行けないと決った時、せめて小樽へ出てくらしたいと思ったものだ。倶知安から一番手近かな都会ということもあったが、何よりも眼の前に広がっている海がよかった。
 (中略)
 その頃はもう家にひきこもりがちだった父は、私が小樽に移住すると、小樽築港近くの私の家によく遊びに来た。孫の小谷淳が小学生で必ず同行して来て、よく海辺へ行った。春夏秋冬のそれぞれの晴れた日、雨の日、雪の降りしきる暗い日の海を、父はあかずに眺めていた。ある夏の、月の光が波間をキラキラ照らしている夜だった。ほろ酔い気嫌の父と私は熊碓海岸の砂丘を散歩した。父はため息のような低い声で呟くように言った。
(第二十一回/故郷)

この家は、私の住んでる桜の隣町、若竹ですね。

 
▼ メモワール・二十六  
  あらや   ..2023/01/16(月) 17:50  No.647
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次週再び倶知安の父のもとに訪れた夫が「弁慶隧道に決定した。ついてはトンネルの正面に名前をつける字を書いて下さい」と言った。父は喜んで、長い間机の引出しにしまったままの大きなさばきを出した。一字が七〜八十糎四方もの大きな字なので部屋一杯に新聞紙を敷き、父はいつもの和服をセーターに着替え、厚い大きな美濃紙に一気に書いた。その時の父の嬉しそうな表情を私は今も忘れない。「もうこんなデカイの書けないと思ってた。よかった。いい冥土のみやげができた。ありがとう」と言って筆をおいた。
(第二十二回/弁慶隧道)

流人の書作品は残さなければならない。そして、流人の書について、生涯を踏まえた上で作品として正確に語れる人が欲しいといつも思う。写真は岩内にある尾形家(倶知安神社)の墓標。書はもちろん沼田流人。

 
▼ メモワール・二十八  
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:40  No.648
  そして、月がきれいな夜は、そのまま、散歩といって、ほろ酔い気げんで夜道をさまようので夏はいいけれど冬は身体に悪いと家族は心配した。みんなが注意すると、「俺はもういつでもあの世へ行く準備はできている。借金もないし未練もない。きれいな月の道をあの世まで歩いて行けたらいいのになあ」などと言っていたが、ある冬の凍れる夜、帰宅するとすぐふらふらとしながら布団に入った。姉は心配になって、「父さん、目まいでもしたんでないの」と枕元に行くと父はじっと目を閉じたまま何も言わなかったという。すぐ医者を呼んでみてもらうと、「血圧がひどく高い、心臓も弱っている。すぐ入院して下さい」と言われたが、「家族のものが大変だから明日にします」と言って父は眠ってしまったと夜遅く小樽の私のところへ姉から電話が入った。私も心配になって、翌日早朝の汽車で行くと、「一晩ぐっすり眠ったから治ったよ」と父は、ケロリとした顔で言ったが、当時室蘭にいた兄も来て、息子、娘全員がそろって説得し倶知安厚生病院に入院することになった。父にとって少年の日、片腕を失った時の入院以来の事だった。
(第二十三回/入院)

 
▼ メモワール・二十九  
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:44  No.649
  私はさっそく倶知安の実家へ行き、向いの小柴運送社のおじさんから「車はどうせオンボロで投げてもいいもんだが、ゆりちゃんはまだ雑品には惜しいぞ、気をつけてな」と、古い軽自動車を借り、まだ舗装のしていないのどかな山道を、父を乗せて走り廻った。父は京極や喜茂別の神社など、ゆかりの所へ行くと、必ず車から下りて、まるで自分の足で昔を懐しむように、そぞろ歩いた。当時の田舎道は交通量もなく、道端でも橋の上でも自由に駐車ができ、初心者の私でも羊蹄山麓はなんとか廻ることが出来た。思えばあの時のドライブが、父が最後に見た京極や喜茂別の神社であり、岩内の海だった。
(第二十三回/ドライブ)

入院を境に家族がどんどん介護モードに入って行くのが切ないです。晩年の流人が何に別れを告げていったのかがわかり大変興味深い。

 
▼ メモワール・三十  
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:49  No.650
  秋風が立つ頃には再び家にとじこもり、たまに散歩に出るか浅田屋さんへ呑みに行くくらいになった。そして呑む度に、「小樽の高島の海はよかった、イキのいい魚がうまかった」、「余市のりんご園で見た月はきれいだった、もぎたてのリンゴはうまかった」、「比羅夫の坂道の地蔵さんはそのままで安心した、ミヨちゃんの手打そばは昔と変らずうまかった」などと話した。短い間の小旅行だったが、父はとても楽しそうだった。「父さんすっかり元気になってよかったね」と私達も嬉しかった。思えば父は若い頃からこんな放浪生活にあこがれていたようだった。父の人生をふり返ってみれば、父が旅立つという時それを引き止める事情が必ず出現し、父の足には重い鎖がまきついていたように思われる。
(第二十四回/流浪の人)

 
▼ メモワール・三十二  
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:51  No.651
   昭和三十九年秋、私がまもなく二才になる息子をつれて倶知安へ行くと、父は突然、神社参拝に行きたいので車に乗せて行ってくれないかと言った。私も姉も「お祭りも終ったのに、なんで今頃?」ときくと、「お祭りに行けなかったし、なんとなく若い頃のおれの字見たくなったんだ」と言った。
(第二十四回/神社参拝)

 
▼ メモワール・三十三  
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:54  No.652
  未完成の家には鍵はかかっていて中に入れなかったが、父は庭先に腰を下ろしてさえぎる物のない羊蹄山をあかず眺めていた。その夜姉が「父さんどうでした、静かでいいでしょう」と言うと、「ああ、いいよ、俺はいいが、母さんにはお前から言ってくれ」と、仏壇を見て言った。
 その十日後、父は突然他界した。集まって下さった近所のおばさん達は、「やっぱり母さんと同じ家で逝きたかったんだね、仲よかったもね」と話した。
(第二十五回/アカシア並木の思い出)

 
▼ メモワール・三十四  
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:58  No.653
  もう一度赤いタンスを開け、やっと見つけてやれやれと元通りに入れはじめると、数枚の写真の入った大きめの封筒があったので何気なくとり出してみた。それは若い日の父であることがすぐ判った。絣の着物を着て頭髪を長くたらしたのや、黒紋付を着て数人の男性と並んだもの、上野駅をバックにして初めて背広を着たという感じの青年時代の父であった。島田を結った若い美しい女性のが二枚あった。私の見知らぬ人だった。姉もはじめて見たと驚き、そのセピア色の写真を何回も見た。
 (中略)
私はふとあの写真を思い出し姉に聞いてみたが「小引出しはきれいに片付けられていて、あの写真はいくら探しても無かった」とのこと、「そういえば父さん、お盆すぎから、古い手紙などうら庭に出ては焚火のように燃やしていたっけ。引出しからはみ出したとか言って」とも言った。
(第二十五回/赤いタンス)

上野駅をバックにして…か。函館ならなんとか頑張ってみようという気に今はなっているが、東京となると正直キツイ。

 
▼ メモワール・三十五  
  あらや   ..2023/01/18(水) 18:02  No.654
   父は晩酌のテーブルに夕刊を広げ、可愛がっていた孫の淳が見ている相撲のテレビをいっしょに観戦しながら、コップ酒をグイッと呑み、急に咳こんで後ろにたおれたという。淳が背をさすり、台所にいた姉がとんで来て、ちょうど車で帰宅した義兄が病院へとび、妹の家にいた私達を迎えに来て、私達がかけつけた時は、お医者さんが来ていて「ご臨終です」と言っていた。
(第二十五回/父をおくる)

佐藤瑜璃『父・流人の思い出』は第二十五回が最終回です。函館の謎を始め、今まで解らなかった多くの事柄に解明の光をあててくれた『父・流人の思い出』に感謝です。何を探し、何処に行けばよいのかがはっきりしました。

今のところ、依然として謎のままなのは『ライチシの涙』ひとつだけという状態。明日からは司書室BBSの方で「松崎天民」について調べます。


▼ 父・流人の思い出 メモワール編2   [RES]
  あらや   ..2023/01/14(土) 10:38  No.637
   私はエビ天のそばが好きだった。父は必ず「ざる」だった。「本を売って本を買い、その上ウイスキーものめるし、そばも食える、父さんは幸せだ」などと父は良い気嫌で夜汽車に乗ると、高いびきで寝てしまう。私もコックリコックリしているうちに余市につき、沢山の人が降りるざわめきで目覚めた父は、静かになった車内で両脚を投げ出し、今日買って来たばかりの本をひらく。
(第十八回/古本屋)

小樽の古本屋がどこの○○書店だったかなんてどーでもいい。大事なことは「山線」だ。啄木の昔から人間像まで、北海道の文学の大半は「山線(函館本線)」の上で起こって来たのだ。線路が消えたら、北海道の文学は心臓を病んで死ぬだろう。

『父・流人の思い出』は第十八回に至って、またメモワール編が帰って来ました。前回より、より「父と私」の色彩が強いように感じます。佐藤瑜璃の作品として自立したと思った。余計なコメントは、もう必要ないだろう。


 
▼ メモワール・十四  
  あらや   ..2023/01/14(土) 10:44  No.638
   家が変っても、仕事机は窓から羊蹄山のよく見える場所に置いたし、散歩の時もいつも羊蹄山を仰いでいたようだった。それらを思う時私は、心の中で、羊蹄山は父の魂の墓標であり、父はその山ふところに抱かれて静かに眠っているのだと、心篤く感ぜずにはいられない。私は倶知安を訪れるたび、羊蹄山が見えると、巨大な父の墓標に向って「父さん、来ましたよ!」と心の中で語りかけている。
(第十八回/星雲窟)

 
▼ メモワール・十五  
  あらや   ..2023/01/14(土) 10:49  No.639
  家に入ってから「さわいでばかりいて、自分の悪かったことあやまったの?」と、私は逆に母に叱られてしまった。
 父はなだめるように、「もうわかったんだな、いいんだ、あやまったんだよ母さん」と私と母に向って言った。姉が入って来て、「父さんほんとにたたいたの?」と聞くと、本当はぶってなどいないので、父は静かに、ああと言ってから、「ゲンコツより、ビンタより痛い言葉の暴力ってのがあるんだ。おまえ達ももう直ぐ社会へ出てゆくんだから、人にものを言う時はよく気をつけるんだ」と、いつになく厳しい表情で言った。
 夕食時になって、父が晩酌を始めても、私はまだ興奮が収まらなくて叫んだものである。「父さんだって怒るよぅ。怒ればとってもおっかないよっ」
(第十九回/父さんだって怒る)

 
▼ メモワール・十六  
  あらや   ..2023/01/14(土) 10:56  No.640
   そう言えば私もかなり幼い頃からこんな光景を見ていたことを、その時思い出した。父の机の引出しには、いつもドライバーセットが入っていて時計に限らず、懐中電灯、電気スタンド、ラジオなども分解したりしていた。後に北電に勤務した兄も子供の頃から電気機具類を分解組立などすることが好きで、よく父の助手をさせられ、後には電気蓄音機なども作ったりしたものだった。兄が就職して家に居なくなると、助手は弟になった。弟の話しによると、置時計には「一八??年改造社」と後ろに金文字で書かれてあったとのことで、父の「地獄」が載った雑誌「改造」となにか関係があったのではないかと想像する。不思議なことにこの時計は、父が亡くなるまで、時に遅れたり止まったりしながら動きつづけたが、父が亡くなったと同じ時刻くらいに、いつの間にか止って動かなくなってしまった。
(第十九回/時計の分解掃除)

 
▼ メモワール・十七  
  あらや   ..2023/01/14(土) 11:03  No.641
   その日は朝からぬけるような青空だった。母が丹精をこめた家の前の花畑には、秋の花々が美しく咲きほこっていた。妹や弟を学校へ送り出し、高校講師をしていた父を送り出し、出勤する私を笑顔で見おくってくれた母が、夕方には帰らぬ人となってしまった。
 私はこの日のことを、その後の日々の事を、こうして文に書くのはこれが初めてである。あまりにも悲しすぎて、私はなるべく思い出さないようにして長い年月を送った。父もきっとそうだったにちがいない。父は母の仏前にひれ伏すだけで、母のことを語り合うのをさけて生きていたように思う。母の思い出を語るようになったのは、ずっと後のことになる。
(第十九回/母が死んだ日)

 
▼ メモワール・十八  
  あらや   ..2023/01/14(土) 18:25  No.642
  「へえー父さん小説かいていたの?」 その頃は私も誰かから、父が昔小説を書いていたことがあったと風聞で耳に入ってはいたが、あまり興味は湧かなかった。「ああ、若い頃ちょっとな、おまえなんかの生れるずーっと前の話だ」 「うーん、売れたの?」 「いや、売れなかった、おもしろいもんじゃなかったからな」 その頃の私の小説に対する知識は、人気作家が恋愛小説などを書いてベストセラーになり大金が入るというくらいのものだった。「売れないのにどうして書いたの?」 「書きたかったからだ、少しは金も入ると期待してな」 「それで止めたのか……」 私があまり興味を持っていない事を知って父は「さあ寝ようか」といって布団に入った。
(第二十回/小説の話)

このやりとりは、大正十年発行の「種蒔く人」創刊号に載った『三人の乞食』についての流人の述懐と捉えるべきなのだろうが、私は解釈を広げて、流人が過去に書いた『血の呻き』などの作品全般についての述懐と捉えたいところだ。文学と完全に決別した流人にとって、特に『三人の乞食』にこだわる理由はない。みんなまとめて過去の仕事であるはずだから。

 
▼ メモワール・十九  
  あらや   ..2023/01/14(土) 18:29  No.643
  父は私に、いただいてきた引出物の包みから焼魚や煮物等を出させて、線路の脇の草むらに一つ一つポトポトと置きながら、その上にお酒をかけたりした。私は父がひどく酔っているナと思い「父さん、もったいないでしょ、母さんのお土産にって頂いたのよ」と言うと、「母さんにはおまえのをやりなさい、母さんはもっと美味いものも食べているよ、まずいものさえ食えずに死んだ者も大ぜいいるんだ」と言った。私は戦争中のことを言っているのだと長い間思っていたけれど、後に父は酔っていたことは確かだが、あの線路の工事で死んだ土工夫への供養だったのではないかと気がついたのは、父の小説「地獄」の悲惨な土工夫の実態を知った時であり、父はその時もうこの世にはいなかった。
(第二十回/ああ、胆振線)

タコ部屋は京極線(胆振線)が出来てしまえばこの世から消える。二度と線路上に現れることはない。その一瞬の場に流人がいたことは天命とでも云えることなのかもしれない。文学の神様が流人を選んだことには意味がある。


▼ 父・流人の思い出 聞き書き編   [RES]
  あらや   ..2023/01/09(月) 17:45  No.627
  聞き書き編は、新事実・新発見といった事柄とは幾分ニュアンスが異なります。あくまで流人のまわりにいた人々の雰囲気といいますか、時代の雰囲気といいますか、そういうものを読み取る章でもありますので、今までのように詳しいメモはとらず、本編のデジタル化作業の方を急ぎます。どんどん本編を読んでいただき、そこから立ち上がる流人像に想いを馳せていただきたい。佐藤瑜璃さんは、この『父・流人の思い出』発表の後、「人間像」同人に参加してきて、いくつかの作品を残すことになります。聞き書き編はそういう瑜璃さんの文才を感じる章でもあります。

 
▼ 東林寺住職夫人  
  あらや   ..2023/01/09(月) 17:48  No.628
  「ケガさえしなければ運動選手になったかもしれないわ。不幸だったわねぇ。でもきれいなお嫁さんもらって、モダンになって、あなた達みたいなかしこい子供達が出来て、一郎さんも幸せでしょう。東京へなんか行かなくてよかったわ……」と、最後は独り言のように小さな声で言われた。私達にはその時それがどんな事なのかわからなかった。後年、親戚の人から、父が新聞社の人の紹介で東京のある新聞社で働きながら小説を書くようすすめられ、父も何回か行ってみたようだという話を聞いた。その事だったのかと思い父に尋ねてみた事があったが、父は笑っただけで何も答えてくれなかった。あの時、もっとしつこく聞いておけばよかったと後悔している。

 
▼ 酒井ミヨ  
  あらや   ..2023/01/09(月) 17:50  No.629
  「なんせ、まつゑちゃん(私の母)がすっかりほれてしまってねえ、おじいさん(母の父親)は怒るわ怒るわ、『お上にたてつくような文士なんぞに大事な娘はやれない、まつゑにはもらい手が沢山いるんだ』と言ったんだけど、まつゑちゃんが逃げて行ってしまったのさ。なんせ沼田さんは東京がえりってもんで、モダンな洋服着てハイカラだったねえ。まつゑちゃんも比羅夫じゃ小町なんて言われてたからさ、おじいさんは、まつゑちゃんを倶知安へなんか出さなきゃよかったと、しきりに言っていたよ」

 
▼ 沼田まつゑ  
  あらや   ..2023/01/09(月) 17:52  No.630
  「子供たちがもの心つくようになったら、子供を通訳にしてさ、『父さんに言っといで』と言えば父さんは父さんで『母さんに言え』と返事をよこす。返事によっちゃ私はやっぱり子供をのけて行って、わめいたもんだった。ふつうの人なら、なぐられていたかも知れないねえ……」
 私の記憶にこの場面は数多く残っている。大かた、姉が母の見方で私は父につき、兄が中立だったような気がする。

 
▼ 菅原マンさん  
  あらや   ..2023/01/09(月) 17:54  No.631
  「そうそう、それから、『うちじゃ娘が四人ですからね。私もゆるくないです』と、母さんのことからかうのよ。なんか母さんは年も離れておいでだし、わがまま一杯言って娘みたいだったからねえ。赤ちゃん生れるたびに女中さん(比羅夫の母方の親戚の娘さんや母の妹達)もいたけど、父さんはよく朝起きてストーブたいたり、母さんの髪を洗ってやっていたりしていたわ。家(うち)の父さんなんか絶対にしないような事よくしてたわね。時代が時代だったから男らしくないなんてかげ口言ってた人もいたけど、私は見ていて羨ましく思ったわよ。母さんよく言ってたわ。娘達も父さんみたいな人に嫁にやりたいってね。呑んべいだの、金銭感覚ゼロだのと悪口は言ってたけど、ほんとはほれてたんだねえ」

 
▼ 小柴孝氏  
  あらや   ..2023/01/11(水) 16:23  No.632
  「沼田さんの片手になってしまった事は、本当に悲しかった。自殺も考えた事があった。しかし人殺し(戦争)に荷担せずにすんだ事はとてもよかったと思っている≠ニ言った言葉が忘れられないねえ」

 
▼ 戸田統悦先生  
  あらや   ..2023/01/11(水) 16:26  No.633
  「それから、呑んだ時だったかなあ、私が、沼田先生、今度生まれかわったら、両手をつかってバリバリ、ありったけの才能発揮してよと言ったら、私の人生は、つらい事、せつない事、喜ばしい事も満載されていて、しんどいものだからもう人間はいいですよ、土の下で永遠に眠りつづけていたいですね≠ニ言った。本当に小説なんか書いてた人は、われわれと感性が違うんだねえ」

 
▼ 匿名希望の方(女性八十六歳)  
  あらや   ..2023/01/11(水) 16:29  No.634
  「私が十八・九の頃だから、古い古い話だよ、沼田さんは二十三・四だったんじゃないかねえ。小樽の新聞社の人とか言ってたけど、いつも三〜四人の座敷でさ、函館から来たとかいうモダンな人や、ヒゲをたてたえらそうな人だった。沼田さんは一番若くてひとり者でさ、みんなにひやかされたりしていたよ。たまにしか来なかったけど覚えているよ。おかみが何か書く物を頼んでいたけれど、呑んでいても気軽に帳場へ来て書いてやってたよ。そして半紙があまると、筆で側にあった招き猫や、おかみの顔なんかを描いていた。とてもうまかったよ。おかみの顔を描いてコールマンヒゲなんかつけるの。おかみもふざけてぶつまねをすると、頭にツノをつけるのさ。それがおかしかった。沼田さんが丸めて投げていったのを仲居が拾ってのばしてたら、たしか岩内のお客さんでよく来る人が、『俺にくれ』って持って行ったことがあった。」

 
▼ 沼田まつゑ  
  あらや   ..2023/01/11(水) 16:31  No.635
  「呼び名は私が考えたのさ、みんな。樺太のじいさん(母の父親)なんか『役者(映画俳優)か小説のような名前ばかりだ』と少々おかんむりだったけど、ぢっちゃん(父の養父)は『これからの世の中にふさわしい』って言ってくれたんだよ。年は上なのにぢっちゃんの方がモダンな考えだったんだねえ。字は全部父さんが考えたんだけど、むつかしくて変っていてね、子供達に苦労かけるんじゃないかと心配したねえ。灝(ヒロシ)は大海で、玲子はとっても変った字で(レイ)とつけたの、きれいな山っていう意味だといっていたけど、私はモダンにしたかったのでしゃにむに『子』をつけてって言って女の子だからもっとやさしい字にしてって頼んだの、それで玲子さ。そのかわり二人目の女の子(私)は父さんがゆずらなかった。瑜璃(ユリ)だと言ったのに私は同じ女の子で差別はだめだと言って頑張って『子』をつけてもらった。大きな河の流れっていう意味だってね。纘子(アツコ)はすんなりと子をつけてくれた。花を美しいとほめるって意味なんだと。だから海に山に河に花ってわけだけど、統(オサム)は兄弟姉妹をしめくくるって意味で初めはとても変った字だったけど、届けに行ったら役場の人が読めない書けないで、父さんも考えなおしたらしいよ。」

 
▼ 長政奈那子からの手紙  
  あらや   ..2023/01/11(水) 16:35  No.636
   ちょうど貴女からの防風林十六号が郵送されて来て、それを読んだ叔父が、流人が羽織を着ていなかったという部分で「たしかに貧しかったと聞いているが、友達が皆着ている時期に羽織を着ていなかったのは、あながち貧乏だったからという理由ではないと思う。母(生母カツ)は折々に離れ住む息子一郎(流人)に衣類や菓子類・小遣いなどを送っていた。母は一郎を捨てたのではないといつも言っていた。養父仁兵衛が一郎を離さなかったからだと聞いた。仁兵衛は一郎をとても愛していたし沼田姓を守りたかったらしい。カツが他家へ嫁いで行く事は沼田姓が無くなってしまうと考えたのではないかと母は言っていた。母は兄(流人)が片手を失う大怪我をした時も一〜二月ぐらい乳呑児をかかえて看病に行ったと聞いている。そして母は、兄にもしもの事があってはと自分は婚家に籍を入れず、沼田姓で長い事辛ぼうしたと聞いた。兄(流人の弟)が町会議員(池田町)から道会議員になった時も一郎兄からポスターの字などを書いてもらったし、花輪も上ったと聞いた。母は仁兵衛の看病に行ったし葬儀にも行ったはずだ。私は兄一郎とは逢ったことがなかったけれど話はよく聞いている」と言っていました。


▼ 父・流人の思い出 交友編2   [RES]
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:28  No.618
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 敗戦から数年後のことである。交際ずきの母の数多い友人知人の中に、倶知安高校の教頭先生だった戸田先生の奥さんがいた。家が近いこともあって家族ぐるみの交際になった。ご夫妻共に私の両親よりだいぶお若い方々だったがよく気が合って、いつしか父と戸田先生は呑み友達になった。(中略)ある時、父の仕事の写経をごらんになった戸田先生が倶知安高校の書道講師にとすすめて下さった。終戦直後多忙を極めた父は、戦時中の不況を取戻すかのように徹夜をする事もしばしばで、健康を誇っていた父も血圧は上り、よる年波か足も弱ってきた頃だったので母は喜んですすめた。最初あまり気のりしなかった父も母に激励されて決心したらしい。そのため私は三年間の高校時代父と同じ高校へ通ったのであるが、勉強、努力、修練などには拒絶反応が強く、しめつけには断呼粉砕をムネとしていた不良娘には父もだいぶ恥をかいたのではなかろうかと、後に心が痛んだ。
(第九回/倶知安高校の戸田先生)

昔、短歌誌「防風林」に載った佐藤瑜璃『父・流人の思い出』を探して、なかなか行きあたらないので、ダメ元と思って倶知安高校にも手紙を書いた。そうしたら、送って来たのがこの『白樺会報』第10号だった。ありきたりの、いつもの流人伝説。私はすっかり「防風林」の『父・流人の思い出』もこんな内容なのだろうと誤解してしまって、本物に出会うのが十年遅れてしまった。今となっては「戸田先生」が写っている写真だけが救いか。


 
▼ 交友・十四  
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:35  No.619
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 父は私のするクラスメートの話などをウンウンと聞くばかりで、いつも静かに歩いていった。ある日、雪どけの線路脇に仔猫の死骸があった。父はすぐ素手で抱き上げると、すぐ側のお寺の裏の墓地の片隅に置いて、土をかけた。私は最初キャーッと叫んで逃げたけれど、父は笑いながら「土に還ったんだ」と言ったので心が鎮まり、近くに咲いていたカタクリの花を供えた。
(第九回/倶知安高校の戸田先生)

まるで藤田明三ですね。

写真は「白樺会報」より。札幌郷土を掘る会が『小説「血の呻き」とタコ部屋』を出版した際、白樺会も提灯記事を書いたのだろう。今となっては流人のいた図書室が写っている卒業アルバム写真だけが救いか。(流人の身分は実習助手。北海道立高校では図書館の運営は実習助手が行う時代が長く続いた。)

 
▼ 交友・十五  
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:40  No.620
   敗戦の日から三ヶ月後、月の美しい夜だった。突然、予科練に行っていた兄が帰って来た。(中略)
 間もなく兄は倶知安中学校に復学して、翌年卒業し、北電に入社した。初任地は比羅夫と狩太の中間地点にあった山の中の発電所で、近在の人々は日発と呼んでいた。人里離れた山合いに社宅が十軒ほど肩を寄せ合うように立並び、住人は皆親戚のように和気あいあいとくらしていたようである。独身の兄達も、小じんまりとしたきれいな社宅に二人づつくらしていて、その隣りに大きな造りの所長さんと次長さんの社宅があり、父は次長さんだった新谷さんという、父より少し年上の方と気が合い、兄が札幌へ転勤してからも新谷さんは時々私どもの家においでになり、深い山中でしか採れない珍らしいきのこや木の実などのおみやげを下さった。
(第九回/日発の新谷さん)

もちろんこの「新谷さん」は私とは関係ありません。針山和美氏の処女小説『三年間』にも「新谷先生」が出て来るのだけれど、なにか倶知安には縁のある名前なのだろうか。

「比羅夫と狩太の中間地点にあった山の中の発電所」って、あの発電所?

 
▼ 交友・十六、十八  
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:44  No.621
   のどかな春の休日、リヤカーに農具や幼児だった弟をのせて父が引き、私達が後押しでのんびりと行く。畑に着くと女学生だった姉は弟の子守りをしながら昼食の用意にとりかかる。大きな石を並べ林の中から枯木を集めてきて火を焚く。大きな鉄鍋に山菜を入れてみそ汁を作り、馬鈴薯をすりおろして作ったダンゴを入れて出来上り、家から持参した小豆の混ったご飯のおにぎりと自然の中で家族みんなで食べる昼食はとてもおいしかった。
(第十回/富士見の高田萬助さん)

 私が小学一年の頃の秋晴れの日、父につれられて中井さんの相馬神社のお祭りに行った。私はお祭りというので縁日を楽しみに、母に赤い花柄の着物を着せてもらい、髪に赤いリボンを結んで、うきうきとして出かけた。その頃はまだ田園風景で美しかった六郷の町はずれに近い所に、相馬神社である中井さんのお宅があり、父の字の大きな幟が立っていた。
(第十回/六郷の中井さん)

探し方が悪いのか、「相馬神社」が出て来ない。流人といえば軽川隧道の跡地を訪ねて流人が解ったような気持になっている奴(それは私です)もいるが、なにか、それでは駄目だという思いに捉われるようになって来た。流人や瑜璃さんが歩いた(もっと云えば人間像の人たちが歩いた)町並みを頭の中に再現できるようにならないと駄目ですね。山線がある内にそれをやろう。

 
▼ 交友・十九  
  あらや   ..2023/01/08(日) 09:45  No.622
   雪どけの頃には雪原(堅雪)を直線に近道して歩くことができた。途中、一人ぽっちの川≠ニいうきれいな小川が流れていて、誰が名づけたか解らないその小川のそばで一休みするのが習しだった。父と同行した私たち兄弟は思い思いに、木に登ったり、やちぶきの花を摘んだり、ざりがにを捕ったりして遊んだ。その間父は風倒木の枯木などに腰かけて、煙草をすいながらじっと川の流れを見つめたり、羊蹄山を眺めたりしていた。
(第十一回/比羅夫の寅さんと美代ちゃん)

瑜璃さんが今の比羅夫を見たら、たまげるだろうなぁ。ここに描かれているのは、現在のコンドミニアム乱立以前の、スキー温泉旅館繁盛以前の、さらにそれ以前の比羅夫ですからね。感覚としては、小沢村の写真家・前川茂利(1930〜1999)の写し撮った光景のようなものを私は想っています。
https://www.town.niseko.lg.jp/arishima_museum/kikaku/kikaku_2016/phot_maekawa/

 母が病死したのは九月、農家にとって忙しい時期で、父が急死した時も十一月の雪の来る前の繁忙期、それでも比羅夫のおじさんおばさんは真先に駈けつけてくれた。現在のように葬儀屋さんが全てとり仕切ってくれるのとは違い、当時は遺体の処理、白装束、納棺まで身内の仕事だった。体格がよく力持ちのおじさんは、母の時も父の時も遺体をかるがると抱き上げ、きれいに処置してくれた。
(同章)

 
▼ 交友・二十  
  あらや   ..2023/01/08(日) 09:53  No.623
   昭和三十四年頃、私は結婚して小樽へ移住していた。その頃、平凡社から日本残酷物語≠ニいう全集物が出版されて、ベストセラーになっていたらしい。実家に行った私が、父の机の上にあったその本を手にとり、何気なく頁をくっていると、父のペンネームが眼に入った。驚いて父に聞くと、「ああ、昔々の物語りだ」とそっけなく答えただけだった。(中略)
その本の間に、太い万年筆で書いたような、大きな文字のはがきがはさまれていたので、何気なく文面に眼をやると、依頼した件についての連絡を乞うという内容で、何度か催促の後のものらしかった。編集部野田、とあり、電話番号も書いてあった。私は父の性格を知っているので不安になり、「早く連絡して上げたら?」と云うと、「ああ、連絡済みだ」と面倒くさそうに答えた。「なんの連絡だったの?」と私は気になって聞いてみた。「本のことだ。もう済んだ」と、父は読んでいた新聞から目も離さずに云った。
(第十一回/平凡社の野田さん)

流人のタコ部屋物語は、『地獄』以降はパターンが決まっていて、皆、周旋屋〜タコ部屋〜棒頭〜脱走〜リンチといった流れで語られている。(唯一異なるのは『血の呻き』だけ) 『監獄部屋』以後、三十年の沈黙を破って、なぜ流人は『日本残酷物語 第五部 近代の暗黒』に書いたのだろう…ということは長年の疑問でした。佐藤瑜璃さんの『思い出』を読むにつれ、『監獄部屋』以降、流人が文学と決別したことは決定的であり、徹底的なものを感じます。その流人が『日本残酷物語』のためにだけ今一度ペンを執ったとはますます考えづらい。あるいはこれは、流人のタコ部屋パターンをなぞった平凡社の代筆なのではないか…

 
▼ 交友・二十二、二十三  
  あらや   ..2023/01/08(日) 09:56  No.624
   その頃、毎日のようにリンゴをリックサックで背負い、手に竹かごと棒秤を下げて来る五十歳くらいの行商のおばさんがいた。(中略) おばさんは誰かに聞いて来たといって、父に文字の読み書きを教えてほしいと頼みこんだ。戦争で夫も二人の息子も亡くしたと涙ながらに話した。そして「私は字が読めないのでだまされることが多い。せめて役場からの書類くらいは正確に読みたい。ばかにされたくないから」と言った。母は同情して一しょに涙ぐみながら父に向って「父さんの一番気になる戦争の犠牲者でしょう。力になってやってちょうだい」と言った。
(第十二回/吉田トメさん)

いい話だなあ。「流人研究」などと構えると見落とされてしまうエピソードなのだろうけど、私は研究者じゃないから引用します。もうひとつ、

父が「あのおかみさんは頭の切れる人だ」とよく言っていた奥さんは、店の経営と主婦業、八人の子供の母親と大多忙の中で短歌を趣味としていた。文芸のことなどさっぱり興味のない母より、父と話が合っていたようだ。そして奥さんは、昔父が小説を書いていた事を知っていたらしく「こんな田舎で生涯を終えてしまうなんて、惜しい人でした」と、父の葬儀に集った近所の奥さんたちに話していたことを懐しく思い出す。
(第十二回/日和呉服店のたいしょうとおかみさん)

なぜか流人のことを考えると、古宇伸太郎(人間像同人)の人生を思い浮かべる。

 
▼ 交友・二十三  
  あらや   ..2023/01/08(日) 10:02  No.625
   父が夕食の膳を前にテレビをみながら、晩酌を呑みほし、急にどっと倒れた時にも真先に姉が助けを求めたのは日和さんだった。夕食中のたいしょう≠ニおかみさん≠ヘ、箸を投げ出すようにして駈けつけて下さったとのこと。お医者様を迎えに行った義兄が帰るまで、ご夫妻は姉を励まして父につきそって下さった。父が息をひきとる時は、可愛がっていた孫と長女と日和さんのたいしょう≠ニおかみさん≠ェみとってくれたのである。
(第十二回/日和呉服店のたいしょうとおかみさん)

見ていたテレビは大相撲中継。呑んでいた酒は合成酒二合。大鵬の取り組みの時、肴の冷や奴が喉に詰まったのが死因…という話を、ここにも登場している「孫」の方から直接お聞きしています。それが、「ウイスキー」「荒城の月」に変化した経緯については、今となっては確かめようがない。ただ、瑜璃さんの『思い出』を読む限りは「ウイスキー」も「荒城の月」もまるっきりの作り話でもないわけだから、もう、この流人伝説はこのままでもいいか…と思っています。

お孫さんについては、この後、「交友・二十六」で詳しく登場します。昔、私がインタビューした記事は、『沼田流人マガジン』第5号(京極町湧学館/沼田流人読書会,2013.9発行)に発表したものですが、いつか早い時期にお孫さんに了承をいただいてライブラリーにアップしたいと考えています。

 
▼ 交友・二十六  
  あらや   ..2023/01/09(月) 05:51  No.626
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 晩年は殆んど和服で通し、義手をつけることはたまにしかなかったが、淳は父が義手をつける時の最善の助手だった。父が死んだとき、お棺の中に義手を入れるかどうかと大人達が話し合っていると、淳は「おじいちゃんは天国へ行ったから、ちゃんと両手のある人になるんだよ。義手はいらないよ」と言って、唐草模様の風呂敷に包んだ父の義手を抱きしめるように持ったまま、じっと立ちつくしていた。
(第十三回/孫・小谷淳)

小谷淳氏が京極町にお住まいだったことは、私たち沼田流人読書会にとって最大の幸運でした。これがひとつ隣町の倶知安町であったとしたら、没後六十年にもなんなんとする2013年に『血の呻き』を読んでいるグループがこの世に存在しているなどということは伝わらなかったかもしれません。

「交友」編は今回の小谷淳氏で終了し、次回からは「聞き書き」編が始まります。それと同時期に、短歌誌『防風林』第16号からは武井静夫『沼田流人小伝』の連載も始まります。(全6回) これは平成4年(1992年)に発行される『沼田流人伝』の前身形となる論考なのですが、ここで重要なことは、武井静夫氏は佐藤瑜璃『父・流人の思い出』を読んでいるということ。読んだ上で『沼田流人伝』のあの結論になったということです。


▼ 父・流人の思い出 交友編1   [RES]
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:09  No.609
  父が先生と呼んでいたこの二人は、フルネームが判らずじまいだったけれど、もう一人父が尊敬の念を抱いた表情で語っていて印象的だったのは、松崎天民という人だった。やはり東京からよく手紙や書籍が送られてきた。函館新聞社におられた頃に、独身だった父は時折り訪れては、半月くらい寄宿させていただいたものだと誰かに話しているのを聞いたことがある。東京といえば私にとって遠い他国のような感じで、父が「先生」という人がとても偉い人に思え、私たちとは世界の違う人という考えしかなかった。そして父もまた急に違った人間になったように感じられ、私はこの三人を思い出すと、いまだに不思議な感情におそわれるのである。
(第五回/三人の先生)

「三人の乞食」じゃなくて、「三人の先生」ですね。松崎天民については書き出すと長くなりそうなので、別枠で、司書室BBSの方で扱います。


 
▼ 交友・二  
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:12  No.610
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岡本さんが叫んだ。「沼田君、書かなきゃだめだ。めんこい嫁さんや子供の事を思う気持ちは解るけど、君の筆は鉄砲より強靱だよ、な、根岸君!」 「そうですとも、惜しい、実に惜しい」 「沼田さん頑張りましょう。僕たちも戦っているのです」 青年がこぶしをにぎった。もう一人の青年が突然歌い出した。私の知らない歌だったけれど、力強い調子で合唱した。
(第五回/根岸さんと岡本米司氏)

『倶知安百年史』の中巻/第一章「昭和」暗い幕開け/第九節 冷害・火災・事件/四 倶知安の無産運動/(1)「東倶知安行」に関する人のページに岡本米司も出て来ます。写真には沼田流人も写っている。

 
▼ 交友・三  
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:16  No.611
  日暮れになると母は、「父さんの友達ってほんとにのんべいばかりなんだから」と笑いながら、台所の床下のむろの中から、親戚などからいただいた大事な酒を出してお膳の用意をはじめた。母には初めての客だったが、父の手の合図で判ったらしい。茶の間の奥の台所で私は集って夕食をとるので、父とおじさんの弾んだ話し声がよく聞こえた。「シャンハイ」「朝日」「日比谷」「マカオ」などと言う言葉が、何度も聞えてきたと記憶している。
(第五回/「東京ひび」のかわきたさん)

「東京ひび」というのは、これだろうか。

東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は、日本の日刊新聞である『毎日新聞』(まいにちしんぶん)の東日本地区の旧題号、および毎日新聞社の傍系企業であった東京日日新聞社が昭和20年代に東京都で発行していた夕刊紙。共に略称は「東日」(とうにち)。前者は現在の毎日新聞東京本社発行による毎日新聞の前身である。
(ウィキペディア)

「日日」を「にちにち」と言わず「ひび」と発音する人は研究者の間でもたまに見かける。

 
▼ 交友・四  
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:19  No.612
   私は高校時代、切手コレクションの趣味をもち、さかんに友達と交換したり、珍らしいのを見せびらかしたりして楽しんだ。
 ある日、それを父に見せると、「もっと珍らしいのをやろうか」と言って押入れの中の木箱を持ち出した父は、古い封筒の束を出してくれた。
(第六回/文通 里見ク)

と、その束の中には、里見クや有島武郎の書簡もあった…というのがこの章の主旨なのだが、私には次の件の方がショックだった。

私は文学書などに親しんでいない事もあって、その名前に全く無関心だったけれど、父にきいた「トン」という発音がおかしくて笑ったので記憶は確かである。里見クの手紙は数通あったように思う。連想するに、有島武郎などのものもあったような気がするが、父はその時、私が切手を切りとった封筒と他の葉書類も全部くずかごに捨ててしまったのであった。
(同章)

流人の、文学との決別はかくも凄まじいものであったのか…

 
▼ 交友・五  
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:22  No.613
   あれから三十年あまり、私は何か父の事が知りたくて池田町にいる父の親類に手紙を出してみた。幸い札幌にいる父の姪にあたる、ナナ子さんを知ることが出来、色々話を聞くことが出来た。矢張り没交渉だった父の事を彼女はよく知らなかったが、叔父の武男さんとは同居していたので、私の父からの手紙はとても大切にし、長兄でもある父をものすごくしたっていたこと、学生時代から父に会いたがっていたこと、父を訪ねたあと武男さんと生母が毎日のように父の話をしていたこと、武男さんが毎日父を待っていたこと、武男さんの葬儀に父の出席を心待ちにしていた生母のこと、父が送った自筆の般若心経を死ぬまで生母は大切にしていたこと、などなど、色々なことをナナ子さんは話してくれた。
(第六回/弟・沼田武男)

驚いた。各種の流人伝でも「沼田武男」の名が出て来たことはない。これが初めてです。アイヌ文学関係で仕事を残した人らしいが何も気がつかなかった。
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I031395609-00
なるほど、国立国会にも所蔵がある。その千葉大学の中川裕さん(この前、NHKの「100分de名著」で『アイヌ神謡集』の解説をしてた人ですね。あれは良かったなあ…)の序文も見えますね。
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/104912/S18817165-325-P001-preface.pdf
ふーん、このような催しも行われているんだ。最近の話ですよね。
https://m100.jp/wp-content/uploads/2022/01/ainuculturelecture220221.pdf

生母・カツについても、単純に流人を捨てていった母という解釈ではこれからは通用しないことも感じます。「ナナ子さん」にも興味を持った。

 
▼ 交友・六  
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:26  No.614
  高田さんはビールをのみながら、私に父のことを聞いたり、私の知らない父のことを話してくれたりした。
 積丹半島の紀行文を書くために父と二人でわらじをはいて出かけたら、道に迷って足にマメが沢山できてしまい、見知らぬ漁師宅に泊めてもらった時のこと、大江鉱山に行って誤解を受けて人夫達にとりかこまれてしまった時、父の話し方がうまくて説得に成功し、逆にとても親切にされたことなど、大きな声で楽しげに聞かせてくれた。
(第六回/弟・小樽の高田さん)

「小樽の高田さん」といえば、私には高田紅果(小樽啄木会初代会長)しか浮かばないが…
高田紅果の生没年(1891〜1955)を見てみると、流人の(1898〜1964)から「父より五・六歳年長のインテリ風の人」といった記述には合っているような気がする。ただ、紅果の家はあの田上義也設計の有名な建築だろうから「生垣のある、こじんまりした和風の家」とはほど遠い。
流人の小樽関係の交友には、時々、啄木の影がちらちらするのが面白い。ちなみに啄木の生没年は(1886〜1912)。意外と思われるかもしれませんが、流人と同時代です。

 
▼ 交友・八  
  あらや   ..2023/01/02(月) 14:40  No.615
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 神社に勤めていた頃の父の交友は、宮司の尾形家の人々をはじめ、老若男女、実に多種多彩で十指にあまる。
(第七回/倶知安神社の人々)

隻腕の流人にとって出来る職業というのは非常に限定されたものになります。若い時、その唯一の可能性を賭けていた「小説」を流人は捨てた。なぜだろう、何があったのだろう、といつも考えているのですが、現時点での感想としては、第一に「マツヱ」との結婚、そして第二に「書」への開眼ではないかと私は考えています。

それは、啄木風に「喰らふべき書」とでも云えばいいのだろうか。書には無知な私だが、流人の書を見ていると胸が締めつけられるような気持になる。早く、正確に、そして次から次へと書かなければならない。神社の一日というのが意外にばたばたした世界だということを知った。次から次へといろいろなことが起きる。いろいろな人が出入りする。

倶知安神社には流人の書が溢れかえっている。画像は、今でも現役で使われている祝詞のひとつ。流人の書だそうだ。芸術展に出品するわけではない書。書記の職を得て、マツヱや子供たちの生活を守るための書。

 
▼ 交友・十  
  あらや   ..2023/01/03(火) 14:19  No.616
   天涯孤独のような父に対して母は十人兄弟、六人のいとこ、その家族と約四十人の一族郎党が倶知安、余市、東京、樺太とひしめいていた。長女だった母は皆から「姉さん」と呼ばれ、父は何故か「おじちゃん」と呼ばれていた。年令の差か、異色の人間だったからか、おかしいとは思ったけれど、何となく自然でもあった。結婚する時は猛反対だった長老達も「沼田さん」と呼んで頼りにしていた。役所への対応や書類、金銭問題、結婚問題、人間関係等、父が中心になって処理していた。母の実家が樺太へ移住してからは、娘時代を迎えた妹が次々と舞い戻り、私の家に寄宿して花嫁修業をした。
(第八回/いもうとたち)

マツヱと結婚することによって、流人は、自分の前半生と和解したのだと思う。

その頃私は、クラスメートの中で父のことを共産党と噂さしているのを知った。意味はよくわからぬまま、なんとなく不快な感情におそわれて父に話すと、父は笑いながら「父さんは共産党≠カゃなくて父さん党≠セよ。お前たちの父さんだ。それだけだよ」といった。
(第八回/湯本獣医さんと坂上さん)

 
▼ 交友・十一  
  あらや   ..2023/01/03(火) 14:23  No.617
   坂上さんは精悍な風貌で元気に大声で「ワッハッハァ」と笑いながら語りつづける人で、湯本さんを通じて父は知り合い、気が合ったらしい。その後転勤で倶知安を去られてからも交渉はあったらしい。湯本さんは静かな声で温厚な語り口の人で、皆をやさしく包みこむようなムードを持っていた。父もどちらかといえば静かな方で、静≠フ二人と活≠フ岡本さん、坂上さんとバランスのよくとれた仲間といった感じがした。皆さんが父の葬儀に参列して下さった際に、父の棺に布製の赤い旗をかけられ、瞑目したままで長い時間じっとしておられた姿が私の目に今も残っている。
(第八回/湯本獣医さんと坂上さん)

「赤い旗」のエピソードは流人の孫の方からもお聞きしたことがあります。その方の「異様な光景だった」といった受け取り方とは違う記述に接し大変興味深いものがありました。


▼ 父・流人の思い出 メモワール編1    [RES]
  あらや   ..2022/12/25(日) 14:29  No.603
  『父・流人の思い出』はあまりにも新発見に溢れているので、手打ちワープロ作業と同時進行で、読書会BBSでもメモを取り続けるつもりです。人間像ライブラリーの方では「工事中」の形で出来上がった章から順次アップしてゆく予定です。

 父は二十三年前の晩秋、夕食のテーブルに届いたばかりの夕刊をひろげ、荒城の月≠ハミングしながら、大好きな水割りを飲みほすと、急にせきこんでどっと倒れ、そのまま息を引きとったのですから大往生も見事すぎました。それは、いかにも父らしいあっさりとした幕切れでした。
(第一回/わが心の沼田流人)

 父の左手は、父が十九歳の時働いていた、マッチ工場で機械にまきこまれて大怪我をして切断してしまったのだという。母が涙ぐんで話してくれた時、小学生だった私と姉はくやしくてしゃくり上げて泣いた。
(第一回/かた雪の朝)

まずは典型的な今まで流布された〈流人〉伝説。「ウイスキー」「荒城の月」は葬儀の際にでも語られた公式見解なのでしょうか。これについては、『父・流人の思い出』最終章あたりで瑜璃さん自身が訂正しています。「働いていたマッチ工場」については、語る相手が小学生の娘のため母・マツヱが脚色したのでしょう。この時の経緯については、今後デジタル化を考えている大森光章『このはずくの旅路』に詳しい。


 
▼ メモワール 二〜四  
  あらや   ..2022/12/26(月) 11:22  No.604
  「港が見えてきたぞ」と父が指示した頃、左てに洒落た洋風建築の北海ホテルがあり、父は麻のソフトを脱ぎながらロビーに入り、フロントに「東京の吉田先生へ」と言った。
(第二回/海)

天に昇るか地にもぐるか、どっちにしても俺は見送られるのが嫌いでね。昔俺が東京へ発った時、吹雪の中をじっちゃんが駅まで見送りに来て、鼻水をすすった顔が眼に残って、俺はとうとう帰って来てしまったんだ。
(第二回/流離の時)

「東京の吉田先生」とは、吉田絃二郎。吉田の『供養の心』という作品は、当時倶知安に暮らす流人の姿が描かれている。当時の流人にもまた、かなりの「東京」志向があったようだ。流人が洗練された都会風の人だったのは意外。

 
▼ メモワール 五〜七  
  あらや   ..2022/12/27(火) 17:49  No.605
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翌日から父は、それまで毎日勤務していた神社の書記をやめ、自宅で紺色のラシャ紙に金泥で写経する仕事を始めた。妻子と義父の生活が父の右腕にずしりと重たくかかっていた。
(第三回/紺紙金泥書)

 母が十二歳も年上の、左手のない、しかも文士などという貧乏の代名詞みたいな身分で身元もよくわからない、風来坊のような男と結婚したいと言った時、まじめな農業人である母の両親や親戚一同は猛反対だったという。父ははじめ、十二も年下の小娘など気にもとめていなかったし、心は東京に向いていて雪国倶知安で結婚して落着くことなど考えていなかったということだけれども、母の想いはつのるばかりで、性格から想像しても炎となっていたにちがいない。
(第三回/樺太旅情)

画像は「紺紙金泥書」の一部分。全体は20×90pの巻物状の薄紙です。所有者に返さなければならなかったので、現在はコピーをパネル状にしたもので持っています。
『血の呻き』には「藤田明三」という、女性にとって無関心ではいられない主人公が登場しますけれど、これは、若き日の沼田流人の〈理想〉を描いたものと長らく解釈していたのですが、なにか『樺太旅情』などを読むと、これは流人の〈資質〉のようなものではないだろうかと思い始めました。

 
▼ メモワール 八  
  あらや   ..2022/12/28(水) 16:48  No.606
  父はおしゃれで、外出の時の和服は大きな行李で二〜三個あり、当時近所では珍らしい洋服ダンスにいっぱいの背広があった。これらが後年戦争中、衣料品が欠乏した頃私たち一家だけでなく、親戚までの衣料として皆んなに喜ばれた。昭和初期まで独身時代が長く、「函館で洋服屋を開いていた友人が頼みもしないのに何着も作らせた」と笑いながら父が誰かに言っていたのを聞いた。
(第四回/父と子)

出た、函館! 『父・流人の思い出』を読みたかった第一の理由は、なにか「函館」への手がかりが掴めないかというものでした。『血の呻き』を読めば一目瞭然ですが、この本は単純な「タコ部屋告発の書」なんかじゃない、函館の物語なんです。ドラマは函館の街から始まり、函館の街で終わる。函館に心得がある人なら、S町は新川町、W町は若松町、A町はああ青柳町ね…とすぐわかる。問題は、その町々を動きまわる登場人物たちの距離/時間関係が恐ろしく正確なことなんです。これは函館の街に暮らした人でなければ書けない小説だと昔から思ってましたけど、倶知安の人に聞いても何も出てこない。(倶知安高校の思い出ばかりでうんざりしてしまう…) しかし、それも今日で終わりだ。「函館の北原洋服店」、しかと憶えましたよ。

 
▼ メモワール 九  
  あらや   ..2022/12/28(水) 16:51  No.607
   父が苛酷な労働や迫害を受けていた鉄道工事の土工夫の小説を世に出したのは、まさにこのれんびんの情であったと思う。貧しかった父はお金もほしかったであろうけれども、弱い者≠いじめる強い奴≠ノ、無力な父は、ペンで立向かう外に正義を発動する方法がなかったのであろう。そうすることで救えると単純には思わなかったであろうが、父は弱いもののかなしみを代弁せずにはいられなかったのだと思わずにはいられない。父には文学者になりたいという情熱より、れんびんの情の方がより大きなウエイトで働いていたのではなかろうかと思いたい私である。
(第四回/れんびんの情)

普通の読解能力があれば、誰だってこういう感想になるだろう。それを、「小樽に多喜二、倶知安に流人」という結論に無理矢理持ち込もうとするから(それに文学的センスがないので)愚かな『血の呻き』解釈が出来上がる。

 
▼ メモワール 十  
  あらや   ..2022/12/28(水) 16:54  No.608
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 母は四十四才で、五十六才の父を残して死んだ。「父さん、やきもちやかないから、私が死んだらおせいさん(母の友達の未亡人)とでも一しょになりな。甘えんぼうの身体障害者じいさんなんて、嫁や娘に苦労かけるばかりだからね」 「ばかやろう。口ばかり達者なばばあこそ気をつけろ。大丈夫、俺の方が先だ。お前こそ若いつばめでも探しておきな」
 これが最後の夫婦げんかであった。
(第四回/夫婦げんか)

私の「マツヱさん」イメージは、長らくこの流人が描いたスケッチのイメージだったんですけどね。でも、『父・流人の思い出』でけっこうイメージ変わりました。いやぁ、倶知安の人だ。








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