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司書室BBS

 
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▼ 復帰   [RES]
  あらや   ..2011/12/05(月) 17:33  No.313
  勝った…

あと、あまり書くことがない。日曜勤務だったので、大雪の夜道を帰ってきて、ちょっと疲れました。休みの今日も、その湿った重たい雪を雪かき。

コンサドーレ、よく昇格したなぁ… 私は、やっても、やっても、次の課題が目の前に現れ出てくるような、そんな一年だった。

このJ1復帰を手本に、来年(というか、これからの行く末)というものを考えてみる。



▼ 対FC東京戦   [RES]
  あらや   ..2011/11/28(月) 17:52  No.312
  勝った… http://www.consadole-sapporo.jp/
ここまで来たら、J1昇格するぞ!

こういう僅差で昇格したことがない。だからこそなんだけど、こうやって昇格した場合は、なにかJ1残留に期待が持てる。いままでとちがうチームを感じる。早く、大迫のいるアントラーズと戦いたいです。

1−0? 近藤のゴール1点差で、徳島の得失点を抜くような気がする。3日の札幌ドーム、行きますからね。



▼ J2   [RES]
  あらや   ..2011/10/31(月) 19:28  No.307
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111030-00000575-yom-socc

へえーっ。動画、見てみたい。このヘディングの1点で横浜FCに勝ったってんだから、凄いやね。

今年のJ2、勝点50〜60の間でダンゴレース状態です。現在3位(昇格圏内)のコンサドーレも、2位・鳥栖と4位・徳島との差は勝点1〜2です。ひとつ試合を落としたらすぐに圏外に転落という厳しさ。こういう争いになるとは思っていなかった。次のヴェルディ戦、勝ちたいな。ヘッドでもなんでもいいから。


 
▼ 負けちゃった  
  あらや   ..2011/11/07(月) 18:59  No.308
  http://www.consadole-sapporo.jp/

負けちゃったよ… こうなると、最終戦までもつれこむような気がする。

もつれこむなら、ドーム行こう。


▼ 1−0   [RES]
  あらや   ..2011/09/12(月) 02:56  No.301
  なでしこが韓国に「2−1」で勝った時、じつは、コンサドーレも「2−1」で5位浮上だったのです。
今日、なでしこが「1−0」で中国に勝利。(なぜか、夜中に目が覚めて、ゴール、見たよ…) おそるおそる開いたコンサHP。おお!なんと、栃木に「1−0」で勝っている!
J2、2位浮上ですよ!

どうしましょう…



▼ 東京おばさん   [RES]
  あらや   ..2011/09/07(水) 19:40  No.298
  テレビはどんどんバカなものを見せてくれる。

被災地の、何もかも失った父さんに、700円のタバコを買えってか…


 
▼ 北海道おじさん  
  あらや   ..2011/09/10(土) 08:56  No.299
  「放射能をうつしてやる」

言葉がどうこうというのではない。思ったことをすぐ口に出してしまう、その、ガキの立居振舞が人々に嫌悪感をもよおわせるんですよ。

小樽の「見てきたような啄木」でずいぶん鍛えられたから、もう平気だけど、内地の人にはけっこうな衝撃でしょうね。

東京おばさんも、北海道おじさんも、自分の何がおかしいのか、基本的にはまだわかっていないんじゃないかな。

 
▼ 国家公安  
  あらや   ..2011/09/11(日) 08:41  No.300
  不快度でいったら、私は東京おばさんだけどな。日本中、東京と同じだと思ってるバカさ加減。

ま、こんなのはどうでもいい。気になっていることがあるので、14日まで待って、書いてみたい。


▼ 旭川   [RES]
  あらや   ..2011/09/05(月) 15:34  No.297
   石川啄木が一晩滞在した旭川に、その足跡を残そうと、市民有志が建立を呼び掛けた啄木像の制作が東京で始まった。アニメで知られるスタジオジブリ作品の立体造形を手がける旭川出身の造形作家中村園さん(64)=東京在住=が、啄木の詠んだ情景を立体化。幻想的で旅情豊かな啄木像になる。没後100年にあたる来年春の完成を目指す。
(北海道新聞 2011年9月5日)

やったね!旭川。小樽の茶番に引導をわたしてやれ(笑)

 中村さんは旭川東高を卒業後、札幌の専門学校を経て上京。91年に造形物制作会社を設立し、ジブリのアニメ映画「ハウルの動く城」の大型模型や、腹話術師いっこく堂さんのパペット(人形)など数多くの立体造形を手がけてきた。ジブリの鈴木敏夫プロデューサーは著書で、中村さんを「モノづくりの魔術師」と称賛している。

きちんと旭川にちなんだ歌を選んでいるところもよい。図書館から何十冊借りてきたのか知らないが、結局、読めた本は「まんが石川啄木」一冊というお粗末とは、頭がちがう。

 「極寒の朝、見知らぬ土地へ向かう不安でいっぱいのはずが、霜の花を楽しんでいる。その悲壮感のなさが、啄木が愛される理由なのでは」。中村さんは「像も親しみやすく愛されるものに」と、啄木の隣に自由に座れるスペースを設ける。

皆が見ている中で、啄木の隣りに座るのはちと恥ずかしい(たぶん、やらないだろう…)が、建ったらすぐに旭川に行きたい。



▼ テレビ   [RES]
  あらや   ..2011/08/29(月) 18:03  No.295
  テレビ、買いました。台湾だか、韓国だかの超安いやつ。
町の電気屋に4千円のチューナー買いに行ったら、一ヶ月前の予約の人で「11月入荷予定」だったとのこと。今からなら、もう年内は無理でしょうねとのことでした。じゃあ、もうしょうがないなぁと思って、テレビ買ったわけです。

7〜8月のハードスケジュールをなんとか乗り切れたのは、テレビが無かったおかげだと思っています。無駄なことに気をとらわれず、今日のあの仕事、この仕事、明日のこの行事、あの行事に取り組むことができたから。

なんか、またテレビ的な日常が戻ってきて、油断したのかな。昨日の日曜勤務、事務机から立ち上がる時、腰にズキーン。しばらく立っていれば痛みは消えるのですが、また椅子に座って立ち上がるとズキーン。この事態、家に帰ってきても、変わらず。
ちょっと怖くなって、今日、倶知安の整形外科に行って来ました。(京極に整形外科はなし。車の運転がキツかったよ…) 大昔、石灰化腱炎で行って以来の整形外科ではありました。

腰かぁ。なんか、自分の能力や判断で自分の人生は決まるもんだと思ってきたけど、案外、こんなことで仕事の終わりの時が来るのかもしれないなぁと少しヒャッとした今週の始まりでした。


 
▼ ゆきだるま  
  あらや   ..2011/08/30(火) 10:33  No.296
  「ゆきだるま」の譬え、くだらなかったですね。与謝野の入閣に「不条理」の言葉を発する奴にも学のなさを感じたが、もう少し本を読んだ方がよいのではないですか。

腰は(日曜みたいな痛みは減ったものの)そんなに良くなったというほどではない。こうやって、腰の曲がった老人になって行くのかなぁ… ある意味、自分の図書館生命にかかわる(本を持てない司書なんて意味ないから)ことだから、少し慎重に治そうと思います。

「8月の小樽」写真、春香山荘以外にもいろいろ撮っているのだけれど、スペースの関係でなかなか出せません。


▼ 春香山房   [RES]
  あらや   ..2011/08/24(水) 09:13  No.289
  自分で撮った写真なのに、一昨日から何度も何度も見直してしまう。まだ興奮醒めやらぬままです。小樽・春香の本郷新アトリエ。残っていたんだ!

また、書きます。


 
▼ 小樽に残る  
  あらや   ..2011/08/25(木) 09:08  No.290
  小樽啄木会だよりに「小樽に残る田上建築」を書いた2002年当時から、もちろん春香の本郷新アトリエは探していたのです。春香一帯の山道を一本一本しらみつぶしに入ってみたりもしたのです。でも、わからなかった。
今回たどり着いたことで、ようやく事態がはっきりしました。この道は、一見すると、麓の二三軒の住宅の道で行き止まりのように見えるのです。いつもやり過ごしていた道でした。まさか、あの、脇の山道を登って行くのだとは…

 
▼ ハルカヤマ芸術要塞  
  あらや   ..2011/08/26(金) 10:27  No.291
  発端は北海道新聞の小樽後志欄に載った「ハルカヤマ芸術要塞」の記事でした。その中で、会場となる春香山には今でもシーサイドホテルや本郷新アトリエが残っていることがふれられていました。やはり、まだあったんだ!

http://harukayama.jpn.org/haruka2011/index2/index2.html

そして、この看板。他日、五号線の春香を通った時にこの看板が目に入りました。あそこだ!
でも、その日はシーサイドホテル跡を見つけるにとどまりました。本郷新アトリエまであと百メートルほどにも近づいていたのですが、その最後の道筋がわかりません。アトリエもシーサイドホテルみたいに、屋根が落ちた廃墟みたいになっているのかな…とちょっと暗い気持ちになりました。
そして、今週月曜日の朝。京極へ戻る前に、もう一度だけハルカヤマ…と出かけたのです。
運が良かったとしか言いようがありません。芸術要塞会場予定地に人影が! その人が渡辺行夫さんだったことが幸運でした。最後の道筋を聞いて、難なくアトリエ跡に到着することができたのです。
廃墟ではなかったことにひと安心。屋根こそかなり危なかしい状態(渡辺さんの意見では「あと2、3年」とのこと)になっているものの、建物の中に入ることもできることにはとても興奮しました。田上作品の内部を見ることができたのは、小熊邸、坂牛邸に続いて、これで三軒目なのです。じつに感無量だ。

 
▼ 小樽  
  あらや   ..2011/08/27(土) 10:47  No.292
  いつもなら、ここまでしっかり形が残っているものを、さあ小樽市はどうするんだ!と書くんだが、なんか最近はそんな元気もない。愛想がつきている。
何の関係もない、罪もない女の子の実名を碑文に刻んで恥ずかしくない街だからな。本郷新のちまちま人形でもつくって喜んでいれば。

 
▼ 田上義也  
  あらや   ..2011/08/29(月) 10:59  No.293
   一九六四年の初冬、再び本郷さんの来訪をうけた。春香山々麓のスロープに一、〇〇〇坪の敷地を手に入れたので、アトリエと住宅の設計依頼だった。本郷さんはニコニコとほほえんでいた。日本海を眼下にのぞみ、巨大な石狩平野の緑と砂浜。春香山を背にした景観に私は衝動され、この大自然から教えられて、夏よりも冬の風雪や突風を割り切るために、正方形の単純なプランとした。一階から二階へ屋根を伸ばし、深い軒の翼で壁体を守り、石狩平原の景観を抱きこみ、ダイナミックな自然と対決する強じんなコンポジションとした。
(札幌市教育委員会編「札幌の彫刻」より/田上義也「本郷新と交友の断想」)

そして、この写真。「春香山荘(昭和43年)」とある。建ってから、すでに3年。アトリエの周りもきれいに整備され、田上作品の必殺技「傾斜」も一段と威力を増している。たしかに。

 階下に大小のアトリエと研究室、食堂、キッチン、階上に二つの寝室、部屋の中心軸にスパイラルの円形階段と、大きなマントルピースを配置した。インテリアの家具調度は本郷好みにつくられた。本道から日本列島の果てまで制作多忙の本郷さんは、このアトリエを春香山荘と名付け、心の安らぎと思索の場とした。さらに待望のテラコッタの制作に明けくれたし、寸暇を惜しんでは執筆、散策、釣場を訪ね、好漢本田明二君と連れ立って釣をたのしんでいた。
(同書より)

しかし、この建物がつくられた昭和40年(1965年)当時、本郷新は59歳。田上はなんと66歳なんですね。戦後の田上は、もはや一建築家ではなく、同年受けた北海道文化賞でもわかる通り、北海道を代表する文化人なわけです。執筆や講演で大忙しだったはずなのに。
これほどの建築作品、田上以外の何者もこれをつくれないであろう建築作品を残していたというのはとても意外なことでした。田上の戦後作品というものをもう一度考え直さなければならないと本気で思った次第です。

 
▼ 本郷新  
  あらや   ..2011/08/29(月) 11:02  No.294
  上の写真を見てから、この「本郷新彫刻集」の年譜に出てくる写真を見ると「春香山荘」の様子がよくわかります。建ったばかりの頃なのでしょうか。キャプションには「1965年 重子夫人と春香山前庭にて」とある。

久しぶりの「本郷新彫刻集」、いいですね。(重たい大型本なので、家に持って帰ることは滅多にありません) 「牧歌」の後ろに映っている札幌駅、懐かしいです…


▼ なんだろ?   [RES]
  あらや   ..2011/08/11(木) 19:21  No.287
  今日、職場の帰り際、「おたるの図書館」「小樽啄木会」HPをのぞいてみたら、啄木会の来館者カウントが「71」になっていた。
なんだろ? なにか、啄木関連のイベントでもあったのかな…とも思ったが、八月にそんな啄木イベントはないし。

夏休みってことなんでしょうかね。


 
▼ てゆーか  
  あらや   ..2011/08/11(木) 22:11  No.288
  さっき見たら「87」だった。ほんとに、なんなんだろ。

てゆーか、今日、職場の人が墓参りがなんとかと言っていたの聞いて、初めてもうすぐお盆なのだということに気がついた。慌てて実家に電話して、なんとか15日に行けることを確認して、一見略着。テレビがないと、こういう時、抜かるのかなぁ。お盆の帰省情報なんか、何の関係もなく、今は生きているからね。仕方ない。テレビ、買うか。


▼ 縄   [RES]
  あらや   ..2011/08/07(日) 10:57  No.286
   縄  浅野敏昭
 「あと1メートルずれていれば、次の船だったんだよなあ」と父から聞いたのは最近のことです。
 終戦を迎えた1945年8月20日、樺太生まれの当時小学3年生の少年(父)は、タラバガニやニシンを捕って生計をたてていた海岸沿いの生家から、弟2人と共に母に連れられて北海道行きの船の出る大泊(コルサコフ)へ出発しました。
 大泊の船着き場は樺太を脱出しようとする大勢の日本人でごった返しています。生まれたぱかりの末の弟を少年に背負わせた母は、自分と、もう1人の弟と少年の3人を縄でつなぎました。
 先発の船に乗る分はここまでと、人垣が分けられた時、係の手が縄でつながれた親子の間に入りました。「親子です」と叫んだ母の声に一緒に乗せてやれ」と周りの大人が同調し、4人は一緒に乗船することができました。立すいの余地もないほど人々が乗り込んだ船の名前は小笠原丸でした。
(北海道新聞 2011年8月7日 コラム「朝の食卓」)

おお、小笠原丸!

小笠原丸がどういう船であったかは下の拙文をご覧ください。
http://www3.ocn.ne.jp/~swan2001/swanindex10081.html

浅野さん(博物館学芸員・余市)、文章、巧いなぁ。峯崎さんの小説と同じで、短いセンテンスの中での急激なドラマ展開がとても心地よい。今朝も「船の名前は小笠原丸」にはまいってしまった。メンバーが入れ替わった「朝の食卓」、毎日楽しみです。

峯崎ひさみさんを知ってからというもの、時折、樺太で育った人にとって「ふるさと」って何なんだろう、どこなんだろう…と考えることがあります。二度と帰れない(当時は)樺太がやはり「ふるさと」なのだろうか。帰れないから「ふるさと」なのだろうか。いや、しかし、二度と帰れなくなった時点から、「ふるさと」は北の沢になるのだろうか。北の沢こそ、父母の樺太の思い出をも内包した「ふるさと」なのだろうか… 想いはいろいろ巡ります。

浅野さん親子は稚内で下船。汽車で南下したので、留萌沖での難は逃れたそうでなによりでした。「66年前、1人の母が自分の子とつないだ縄は、そのまま孫である私と子どもたちにもつながっています」という結びも心打つ。この夏は考えることが多い。敗戦の日の青空のようだ。









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