| TOP | HOME | 携帯用 |



司書室BBS

 
Name
Mail
URL
Backcolor
Fontcolor
Title  
File  
Cookie Preview      DelKey 

▼ 「人間像」第108号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/04/06(木) 16:44  No.975
  .jpg / 53.2KB

四月より「人間像」第108号作業に入っています。第108号の概要は、針山和美『学力テスト』、丸本明子『留学生』、針田和明『シャルル沼』、千田三四郎『落ち穂抄』ですが、今、『シャルル沼』のアップを終えたところです。今日から『落ち穂抄』に入るのですが、なかなかの大作ですので一週間くらいの時間がかかるのではないか。

針山和美(あれ、和美に戻ってる…)『学力テスト』は、四年前の「京極文芸」第11号に発表された『重い雪のあとで』と同じ作品です。『山中にて』のように、京極文芸版と人間像版とではストーリイそのものまでガラリと変わった例もあるので、今回の『学力テスト』も注意して作業したのですが、今回は意外や意外、変わったのはタイトルだけで、中身は一字一句同じでした。誤植の位置まで同じなので、京極文芸版をそのまま印刷に回したのかもしれませんね。とにかく、現役の京極小学校教師の時にこの作品を発表するのだから度胸ある。


 
▼ 落ち穂抄  
  あらや   ..2023/04/11(火) 17:22  No.976
   明治四十年を江差座で迎えた咲次郎は三十四歳、美佐が三十九歳で、まだ入籍の届けをしていなかった。正月興行は、元旦から二月十二日までの長期にわたったが、百円近い歩金を座員に二度配分できた。
 一月二十五日の夕方、細井実あてに〈角藤定憲、神戸の大黒座で死去〉という電報が、函館の池田座経由でもたらされた。咲次郎は十年前、小樽の住吉座で開演中の角藤を楽屋に訪ねている。大柄で眼が鋭く髪が縮れて無愛想だったが、新演劇の元祖を名乗るにふさわしい壮士役者の気概が感じられた。細井はその当時の座員で、さっそく自分の香典二円に霧島信道の一円を添えて、角藤派座員代表笠井栄次郎あてに郵送した。折り返し届いた会葬御礼の葉書には、喪主がなく、親戚と座員代表の姓名が印刷されていた。
「角藤さんには、妻や子がいなかったのかな。……だとすると、寂しいことだ」
「辰之助さんと同じみたいなら、かわいそうだ。でもさ、川上音二郎には貞奴がついているように、霜島信道には美佐がいるから」
「死んでも大丈夫か」
 咲次郎は失笑したが、壮士芝居の晩鐘をきく思いで、会葬御礼の葉書を行李にしまった。
(千田三四郎「落ち穂抄」)

「住吉座」の名が出て来たので、思わず長々と引用してしまった。ここの前の通りを、明治四十年秋の深夜、怪しいアベックの後をつけて行きましたというのが小樽日報記者・石川啄木というわけですね。(片割月忍びの道行)

乾咲次郎については、次回にでも。あと20ページばかり…

 
▼ 「人間像」第108号 後半  
  あらや   ..2023/04/14(金) 14:56  No.977
  .jpg / 30.5KB

一昨日、「人間像」第108号(142ページ)作業、完了です。作業時間、「65時間/延べ日数15日間」。収録タイトル数は「2050作品」になりました。
わりとあっさり60時間台に入りましたね。次、目指すは50時間台か。裏表紙は第107号と同じなので省略します。

画像は、二年後の昭和60年(1985年)に発行される『人間像別冊』です。「連作 落ち穂」とありますが、内容は『旅のなごり』〜『寒影』〜『壁と窓と』〜『乾咲次郎との出会い』の四作と、この連作の基となった乾咲次郎の『霧笛自伝私記』が収められています。この内、『旅のなごり』は今号の『落ち穂抄』の改題。

次号(第109号)に『寒影』が見えますね。


▼ 「人間像」第107号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/03/10(金) 14:30  No.968
  .jpg / 48.0KB

 夜になると、この埋立ての半島に狐火がゆれて、狐が走る。
 この半島は、山を削って、埋立て、海岸線から、突出した造成地だ。
 その山は、その昔、墓地だった。
 昔は死者を棺のまま地中に埋葬するから、山のあっち、こっちに、死者を埋葬して、自然の中へかえした。死者は土の中へとけて消えていく。
 だから、この造成された半島には、死者が一緒に埋められ、固められている。この造成地は墓地が移住したのと変らない。
 死者も、静寂境の木々のざわめきから、海の波の音のざわめきを聞く環境の変化にとまどっていることだろう。
(丸本明子「夾竹桃」)

丸本さん、巧くなりましたね。(←何を、偉そうに!) 詩人が小説を書こうとすると、大抵は文章に変な力みがかかって読むのが辛くなるのです。以前の丸本さんの小説もそうでした。でも、復帰後の作品は読める。特に、この『夾竹桃』は遂に丸本さん独自の世界を構築したな…と感じました。

今週から「人間像」第107号作業に入っています。『夾竹桃』以降、内田保夫、村上英治、竹内寛、針田和明と続き、ラストは『阿片秘話』ではなく(←終了か?)、千田三四郎(←おお、久しぶり!)『遠い疼き』となります。いやあ、復帰の嵐ではないですか。


 
▼ 蘭学事始の私的考察  
  あらや   ..2023/03/16(木) 17:57  No.969
   私は何度となく、その絵図の上を歩いて小塚原の仕置場を訪れていた。
 千住大橋を渡り左右に百姓地を見ながら小塚原を通る。いわゆる小塚原は浅草から奥州道へ出る街道があり、小塚原町、中村町などが、その道筋におよそ六百軒近い家並みをつらねていた。八十軒近い旅籠屋があり、そのうち半数近くは、飯盛女がいるという噂をきいていた。仕置場の近くにこのような家並みがあるとは思いもよらぬことであった。
 (中略)
 ゆるい風が潮流のように、田地の上を吹いていた。風の流れの中に渡って来る野の匂があった。その向うに低く家並みが続いている。下谷、三ノ輪あたりかも知れない。
 行手に烏の群れている灌木の林が近づいていた。
(村上英治「蘭学事始の私的考察」)

久しぶりの村上氏。最近の(といっても1980年代だが…)「人間像」で目立ってきている〈評論+小説〉渾然一体型の作品ですね。かつての朽木寒三氏の作品とも少し違う。竹内寛氏の同人参加が刺激になっているのでしょうか。

 
▼ シャクシャインの乱  
  あらや   ..2023/03/16(木) 18:00  No.970
   おだやかな彼の声が続いた。
「私もこの砦に足を運ぶ様になってから、もう六年にもなります。あなたの聞きしにまさる勇猛ぶりには、ほと/\感服致しております。あの、獰猛な大熊を一矢で射殺した力、頑強なオニビシ一族を撃ちほろぼした、たくみなかけひき、どれ一つをとっても、松前の柔弱な侍達の遠く及ぶ所ではありません。そのあなたが、松前に負けるなどという事は、思いもよりません。只、万々一の場合についても、考えてはおります。その時は遠く、襟裳岬を越えて、クスリ(釧路)まで逃げのびることです。このシベチャリにも、仲々手を出せない松前が、あの霧深いクスリまで、とうてい馬を進める事は出来ないでしょう。そこで部下をまとめ、女子供を安心させて、再び攻めのぼる算段をする事です」
 シャクシャインの腹は決った。
(竹内寛「シャクシャインの乱」)

シャクシャインについてはかなり知ってるつもりでいたが、新発見が二つも三つもあった。勉強にもなり、読んでても面白い、不思議なスタイル。

 
▼ 台所の歌(三)  
  あらや   ..2023/03/22(水) 18:24  No.971
   十年前になる。
 長靴を買った。
 わたしはそのときリヤカーを引いていた。
 ゴミ捨場から金目のものを拾っては生計をたてていた。
 その行為に怒った男が一人だけいた。
 わたしが所属していた大学の講座の教授である。
 旧帝国大学で博士号をとって、なぜにリヤカーを引くのか、え? とかいってカンカンに怒った。
 東大出の教授に庶民の気持なんかわからんべ。
 悪いことは重なる。
 リヤカーを引いてるのがNHKのテレビでとりあげられ、わたしは十五分の番組の主役になった。
 教授は、わしでさえでてないテレビに主演するとはなにごとか、といったとかいわないとか。ま、学部の教授会で問題になった。
(薬師丸五郎「台所の歌(三)」/長靴)

「薬師丸五郎」となっているが、針田さんであることは丸見え。いきなり(三)となっているのが不可解で、もしや『同人通信』の方に(一)(二)があるのかなと思って調べてみましたが、それらしきもの無し。

「NHK」か。私にも似た経験ありますよ。「道新」に載るのが羨ましくて羨ましくてしょうがない馬鹿たち。

 
▼ 二人の休日  
  あらや   ..2023/03/22(水) 18:28  No.972
   良平は両手で潜水帽をもちあげてゆっくりとかぶった。六、七キロの重さがあろうか、海の中であればそんなに苦にならない重さであろうが、地上では重みがじわっと両腕にのしかかってくる。
「おーい、志保、ここは海の中だ。わたしは潜水夫だぞ。ニュラニュラの蛸さんいないかな、亀さんはどこにいるかな」
「わっ、せんすいぼうだ」
 人形で買物遊びをしていた志保は大喜びだ。大急ぎで亀のぬいぐるみをとりあげて、「かめさんはここにいるよ」といった。
「お母さん亀さんはどこだ」
「いるよ、いるよ、あそこだよ」
(針田和明「二人の休日」)

なんとなく、針山氏の『病床雑記』を思い出す。本日、針田和明『二人の休日』をアップ。さあ、これでラストの千田三四郎『遠い疼き』を残すのみとなりました。

 
▼ 遠い疼き  
  あらや   ..2023/03/24(金) 11:19  No.973
   そうしたことのなお二年前、佐武郎は夏休みを徹らと一緒に水泳禁止の灌漑溝で遊びほうけた日があった。赤ふん姿の徹は畑から西瓜を掠めてきて、年下のふりちんたちに振舞いながら、何を思ったのか「この灌漑溝が出来るまでに、タコがうんと死んでるそうだ」と言いだした。
 車座のひとりが「いつか誰かに聞いたことあるよ」と応じたのに頷きかえし、「俺の親父は石川県で人夫募集に騙されて、ここの工事中に飯場入りしたんだ。棍棒でどやされながら働いたというな」と打ち明けた。
「そうか、タコだったのかい」
「あまりの虐待にくやしくなって、決心したのが、こき使われるより、こき使えだとさ」
(千田三四郎「遠い疼き」)

久しぶりの千田作品が「タコ部屋」作品だとは。感じ入りました。

 
▼ 「人間像」第107号 後半  
  あらや   ..2023/03/27(月) 10:26  No.974
  .jpg / 49.8KB

昨日、「人間像」第107号(172ページ)作業、完了しました。作業時間は「86時間/延べ日数17日間」。収録タイトル数は「2031作品」です。

作業を開始した3月8日には街中に山のようにあった雪も、今日3月27日には、道路にはもう雪はなく、わずかに庭や公園にまだ残っているといった状態でしょうか。例年と変わらないと思っていたけれど、今年の後志は大雪だったと新聞は言っている。函館はもう雪はなくなったそうで、観光客でごった返す前に動こうかなと思ったりする。山線にも乗っておきたいし。

今、第108号をパラパラと見ていたら、針山和美『学力テスト』や千田三四郎『落ち穂抄』が見えますね。やっぱり第108号の方に舵を切ろうかな。


▼ 「人間像」第106号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/02/22(水) 17:34  No.964
  .jpg / 41.6KB

2月20日から「人間像」第106号作業に入りました。本日、針田和明『襤褸』をライブラリーにアップ。以降、丸本明子『花びら』、北野広『夢見る頃』、神坂純郎『青春哀歓』(水脈・第四回)と続き、ラストは針田和明『阿片秘話(第六回)』となります。
北野広氏の復活にはけっこう吃驚しています。前回発表が第83号(1969年)の『反省書』ですからね。まだ小樽なのでしょうか? 早く『夢見る頃』読みたい。

沼田流人の調査は、今、窓の外の雪がなくならないと身動きとれない…といった状態です。あと一冊、必要な本があります。


 
▼ 夢みる頃〈冬〉  
  あらや   ..2023/02/26(日) 06:27  No.965
   「されよ、されよ、されよ。………」
 私たちは、せいいっぱいの声で、どなりながら、すべっていった。中学校の上の角の、野口雑貨店のところまでが、特別急な坂であった。ガリガリガリ、そりは、凍った路面を次第に、スピードをあげ、すべる。
 グワン、体が、何となく、ふわっと、浮いて、道路のわきの、やわい雪の中に、ほうりだされた。
 道路わきに、かためて、捨ててあった、灰(あく)の山に、ぶっかったので、あった。
「いや、びっくりした。みんな、大丈夫か」
 青池さんが、みんなを、見まわした。
「おっかなかったな」
 坪田さんがいう。
「ふっとんだもな」
(北野広「夢みる頃」)

小樽中学(現・潮陵高校)の上の五百羅漢のあたりから、橇に乗って坂を滑り降りてくる様子ですね。時代としては、針山和美『わが幼少記』に描かれた時代と同じ小樽です。

 
▼ 夢みる頃〈夏〉  
  あらや   ..2023/02/26(日) 06:31  No.966
   夏は、ゆかいだった。うちへ帰ると、かばんを、ほうりだして、学校の上の、だんだん山をこえて、平磯岬(ひらいそみさき)の、ライオン岩のところへいく。その岬から、海へ、小さな岩が、点々と続き、海水に洗われ、白い波頭をあらわす、ずっと遠浅になっていた。「ほんだわら」という、茶色の、小さな小豆粒ほどの玉のついた、海草が、びっしり生えていた。ところどころ、深いところがあり、私たちは、それを「えんかま」と、いっていた。「えんかまは、入口は、狭いけど、底の方は、拡がっており、おちたら、たすからないんだぞ」と、卓司さんや、卓司さんの兄さんなんかにおどかされていた。腰のあたりから、胸のあたりまである、えんかまのない、海中の岩をつたって、足で「えぞばふんうに」をとった。私たちは、それを「がんぜ」と、よんでいた。足に、ちくりとさわる。それをとりあげる。大きいものは、直径五センチメートルもあったが、わたしたちのとるものは、たいてい三センチもあれば大きい方で二センチぐらいのものもあった。
(北野広「夢みる頃」)

話は秩父別(ちっぷべつ)の幼少期から始まるのだが、小樽に引っ越してきてからの方が圧倒的に面白い。「学校」と言っているのは潮見台小学校です。ルビや句読点の使い方が独特で、少し時間がかかった。

 
▼ 「人間像」第106号 後半  
  あらや   ..2023/03/04(土) 17:01  No.967
  .jpg / 21.7KB

昨日、「人間像」第106号(147ページ)作業、完了です。作業時間は「70時間/延べ日数12日間」でした。収録タイトル数は「2015作品」になっています。
この裏表紙画像が微妙に曲がっていて、ついに我慢できなくなって、昨日、一から撮り直しました。それがなかったら、作業時間は60時間代に入っていたんだな…と思うとちょっと残念。ま、第107号があるさ。

■今号から発行所の所在地が変った。十年ぶりのことである。『人間像』の発行所は、針山の転勤とともに住所を変えて来たが、創刊以来一貫して北海道後志支庁管内にあった。倶知安町・喜茂別町・余市町・共和町・京極町という具合で、みな小さな田舎町である。全国規模(?)の同人雑誌が、北海道の片田舎から発行されている、ということが本誌の特色の一つでもあった。それが今度、針山の転勤とともに、東京以北最大の都市、札幌に移ったのである。何やら特色が消えてしまうような一抹の淋しさもあるが、もちろん中味に変化はない。今までも、道内同人会は殆ど札幌で開いていたのだから、むしろ好都合となった訳で、同人の交流が多くなるメリットの方が大きい。このメリッ卜を最大限に生かしてなんとか内容の充実を図りたいものと思う。
(人間像・第106号/編集後記)

来週の天気予報、晴マークがずらーっと並んでいます。冬、ついに終わったかな。


▼ 「人間像」第105号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/02/02(木) 18:04  No.962
  .jpg / 30.5KB

久しぶりに「人間像」作業、再開です。本日、針田和明『薬価』、丸本明子『飛翔と落下』の二作品をアップしました。(丸本さん、復帰ですね…) 以下、佐藤修子『木地山の小芥子』、神坂純郎『水脈(第三回)』と続いていって、ラストはお約束の針田和明『阿片秘話(第五回)』となります。

沼田流人関連の仕事はまだまだ残っているのですが、あまりそこに集中しすぎるとまた流人像を見誤るという判断です。いつもの「人間像」の仕事に戻ることで少し頭を冷やしてから流人の仕事を再開したい。それに今は冬の真っ最中ですからね。ぼやっとしていると、雪に埋まっちゃう。


 
▼ 「人間像」第105号 後半  
  あらや   ..2023/02/15(水) 14:44  No.963
  .jpg / 14.0KB

本日、「人間像」第105号(170ページ)作業、完了しました。作業時間は「84時間/延べ日数17日間」、収録タイトル数は「2002作品」です。

■困った傾向と言えば、本誌の発行状況もまた然りである。去年も一冊より発行できなかったが、今年もまたこの号一冊きりとなってしまった。同人の年令が高まって社会的に一番多忙な時期であると言うこともあるだろうが、裡より燃焼するエネルギーが枯渇したことも大きな要因となっているのに違いない。しかし、五十代で枯れ果てるのは、いかにも早すぎる気もする。このたび五千枚に及ぶ大長篇を仕上げて「北海道新聞文学賞」を受賞された吉田十四雄氏は七十才と言うことだ。四十、五十で音を上げてしまうのは恥かしいと思った。もちろんこれは僕自身に言っているのだけれど。
(人間像・第105号/編集後記)

一年に一冊か… 気がついたら時代は1981年の11月。次の第106号をぱらぱら見ていたら、なんと発行日が1983年1月! 二年に一冊になっちゃった。しかしこの間には、針山氏の京極町京極小学校から石狩町南線小学校への大異動がありますので仕方ないと言えば仕方ない話なのですが。札幌・新発寒の新居に書斎もできたことですし、第106号以降の「人間像」は復調してきたような印象があります。針山氏の小説執筆も再開だったような記憶も。


▼ 松崎天民2   [RES]
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:06  No.953
  新聞記者なら、もう一人知ってるよ。

 お嬢様派出所を狙ふ
 色内町は四十四番地丸和乾物店の主人は元手宮辺にて筑港に雇はれ来りし石工なりしが、上部の営業計りでなく心までセメントで堅めた甲斐は近来メキ/\と身代上り行くに従ひ、以前の股引半纏はスツカリ小樽の海へ捨てゝ仕舞ひ専ら海陸物産商に手を出せしが、運の可い時は何処までも可いものにて日増に太り行く身代に一家の喜び一通ならず。屋号も丸和と称へ一族平穏無事安泰に暮し居るのみにては三面記事にならぬが、満れば欠くる世の習、此処の娘におうめ(一七)と云ふ一見廿歳計りの美形あり。其の心掛けも中々親父に譲らざる程の勉強女にて、昼は稲穂町の裁縫教授所に通ひ夜は付近の夜学校にての学問、それは/\感心な娘なれども、元より木で拵へたおうめ様ならず、何時しか人の情を知り初めてより紅お自粉に浮身をやつし打つて変つた近頃の素振に親父も眉を潜めそれとなく探険つて見れば、去る派出所の巡査某と唯ならぬ仲となり毎夜の学校をぬきにして然るそば屋の奥二階にてトンダ教授を受けて居ると解り、或る日娘の親しき友人に色々云ひふくめ内々意見を施して見たが中々聞かばこそ、矢も楯も通つたものにあらず、何がどうなるとも此の意中の人と添はねばならずとて、昨今二百三高地を振り立て/\派出所の前を日に幾回となく通過して居るとか。
(石川啄木「小樽のかたみ」)


 
▼ 探訪記者  
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:10  No.954
  .jpg / 7.9KB

 天民は、日本の新聞探訪員について、「日本の新聞事業は未だ幼稚なもので、探訪員の取って来た種を、内勤記者が筆の先で事を誇大にしたり、又は其種の生命ともいふべき処を抹殺してしまふことがある」と明らかにしている。天民が密かに思っていることは、「新聞事業の発達するに連れて、今迄の無学な探訪員は淘汰されてしまい、更に内勤記者が探訪に出掛けて、自分で種を取り、自分で文を作るやうになるであらうと」、推測している。これは、『小天地』の詳細な探訪記事経て、ほぼ一〇年後に天民が『東京朝日新聞』の社会部探訪記者として実践していくのである。
(後藤正人「松崎天民の半生涯と探訪記」)

啄木の『お嬢様――』なんか、典型的な「筆の先」ですね。じゃあ、天民の探訪記事はどうなんだ…ということになるのですが、松崎天民の本をきちんと集めている図書館って北海道では皆無に近い。青空文庫には一作品だけだし、古書価はとんでもない値段だし。その点、後藤正人さんの『松崎天民の半生涯と探訪記』は四作品を全文掲載してくれているのでありがたい。初めて天民の文章の一端といったものに触れることができました。

 
▼ 木賃宿  
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:12  No.955
   東枕の一列を見ると、両端の二人だけは白河夜船の様であるが、他の三人はなか/\寝入りさうもなく、何事か話をして居るので、耳聳(そばた)てへ聞くと、何れも土方仲間の、話すことは余程面白い。
「ヘヽン、これでもな、神戸の船渠(ドック)で働いて居った時分には、金廻りが好かったものぢやから、福原に遊びに行くぢやらう。すると貴様娼妓(じよろう)によ、情死(しんじゆう)を勧められた事もあつたからなア。何うぢや、豪(えら)からうが、遊びに行かんかい今夜……。」
 これは音吉といふ四十男が、酒に酔うての追懐(おもいで)らしい。
「天満座や福井座は面白う無いなア。芝居は南に限るが、遠い……一里もあらうなア。五階の傍(はた)には淫売婦(いんばい)の馴染みかおるが、それも遠いから行けん。ヘツヘツヘツヘツ。」
長蔵といふ三十一二の男は、斯(こ)ういって蒲団を被り、
「世間じやア恐ろしいものを、地震、雷、火事、親父といふが、俺等(おいら)の恐いものは雨より他(ほか)にないて。三日も降られてみい、口が餓(ひ)あがってしまうぜ。」
二十八九の青治郎といふのが、斯ういつた後は、名古屋……人夫……朝鮮……従軍……師団……など漏れ聞えて居たが、果(はて)は何れも鼾(かん)声雷(らい)の様に成てしまつた。
(松崎天民「木賃宿」)

 
▼ 酒場  
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:15  No.956
   「やあ、来た、来た!」
 入口に近い壁に靠れていた痘面の靴修繕師が叫び出した。向うの隅の方の壁の下では、五六人の彼の仲間が、何か声高(こわだか)に言い争っていた。明三は、そこへ引ぱって行かれた。
「さあ、今度は俺が、誰かを殺してやる。その時、お前がまた俺の首に縄をまいてくれ」
 靴修繕師は、舌縺れしながら、呟いて彼にカップをさし出した。
「やあ、死刑の大将……」
 磨師は、例の奇妙な礼装をして、醉ぱらった手を彼に差延べた。
「お前様がその新聞に書いた人かね」
 ほんの、一碼くらいしかない躯幹(せたけ)の、もう七十くらいの鋳掛師が、食卓の傍に立上って、彼の顔を覗き込んだ。
「ふうむ、この人かい……」
 恐ろしく丈の高い、佝瘻の蜘蛛かなぞのような奇怪な頭をした火葬番の老人が呟いた。
「何故そんなに、皆、僕の顔を見るんです……」
 明三は、腹立しげに言った。
「いや、俺等は今、その男の事で、死刑になった人間の事で、喧嘩をしてたんだ。つまり、……」
 靴屋がまだ、言いきらないうちに、どこかからひどく醉ぱらった山口編輯長が出て来た。
(沼田流人「血の呻き」/第七章)

 
▼ 貧民窟  
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:23  No.957
  『血の呻き』の函館の舞台には、どうして貧民窟の酒場や木賃宿が好んで使われるのだろう…といつも思ってました。あるいはこれは、流人のロシア文学(二葉亭四迷)趣味なんかがなせる技なのかな…と考えた時期もあったのですが、今わかりました。これは、松崎天民の「記者が探訪に出掛けて、自分で種を取り、自分で文を作るやうになる」その指向性に合致していたんですね。すると、あの『三人の乞食』の不思議な組立もわかるような気がしてくる。

 
▼ 沼田仁兵衛  
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:30  No.958
   彼は、最初私等の宿に来た時、その薬箱を首に懸けたまま、冷たい板間に膝を折つて、両手を突て喋り始めたのでした。
『……渡世もちまして、親分さんと申上げます。背中に負ひましたる、菰包、首に吊げましたる頭佗袋の儀は、御免なすつて、おくんなさんし。……手前儀は、浅草観音堂椽の下に住居仕る、鍋蓋取太之助の、身内で御座んす。親分様縄張内通行の節は、立寄りまする家々軒下、通り縋りの橋の下、辻堂椽の下の儀は、御免なすつて、おくんなさんし。………』
 (中略)
『お前さんは、偉いね。本職なんだ、ね。それで、俺が、その、つまり「親分」かい。』
 宿主は、(私の祖父は)薄笑ひしながら、彼を凝視て言つたのでした。すると彼は、祖父の顔を窃視て、微笑しながら言ふのです。
『今時の奴等は、誰も「礼式」を知りません。』
 そして、ひどく取澄した顔をして、空虚な咳払を一つしたのでした。
『違ひない。』
 祖父は沈んだ顔をして、独言のやうに、愁はしげな声で呟いたのでした。
 彼は、私の古股引を一足盗んで、行つてしまひました。それが、何の『礼式』であつたのか私にはわかりません。つまり『今時の奴等は、礼式を知らない」のです。
 祖父はその時、薄笑ひしながら、呟きました。
『股引の儀は、御免なすつておくんなさんし。……』
(沼田流人「三人の乞食」)

 
▼ 後志の文化  
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:34  No.959
   流人ははしめ地元紙に作品を寄せるが、『小樽毎夕新聞』にのった作品が松崎天民の眼にとまり、馬場孤蝶に推薦されて『三田文学』にのる。大正一〇年二月、秋田県土崎港から、小牧近江、金子洋文らによって、雑誌『種蒔く人』が出されたとき、やはり馬場孤蝶の紹介で小説『三人の乞食』がのる。文末に一九二〇・一一・二四とあるから、二二歳の作品である。しかしこの号は発売禁止となり流人は自分の作品がのったことを知らなかった。
 これより先大正六年から、倶知安、京極間一三・五キロメートルの軽便鉄道(京極線)の敷設工事がはじまっていた。土工たちは数か所の飯場に分宿させられて、苛酷な労働を強いられていた。その飯場を人々はタコ部屋(監獄部屋)とよんでいた。流人は倶知安にいて、その慘状を見聞する。そしてこのタコ部屋を素材に、長篇小説『血の呻き』(大一二・六 叢文閣)を刊行したが、発売禁止となる。
(後志管内文化団体連絡協議会編「後志の文化 ―人と業績―)

 
▼ 小樽毎夕新聞  
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:37  No.960
  流人が書いていたという「小樽毎夕新聞」は、啄木の「小樽日報」と同じく現存していません。したがって、何編くらいの作品をそこに発表していたかはもう調べようがありません。ただ、天民の眼にとまった『三人の乞食』が「三田文学」に転載されたおかげで、今奇跡的に私たちの目の前にあるわけです。やはり、探訪の指向が〈木賃宿〉や〈酒場〉にあった天民にしてみれば得難い邂逅だったのではないか。流人には〈タコ部屋〉という技もありますしね。流人の年譜で辿ると、

15歳 大正 2(1913) 尋常小学校卒業、仁兵衛の木賃宿を手伝う

19歳 大正 6(1918) 8月東倶知安軽便線、工事始まる
20歳 大正 7(1918)
21歳 大正 8(1919) 11月 軽便線、倶知安〜京極間が開通
22歳 大正 9(1920) 沼田一家、孝運寺へ/写経開始
23歳 大正10(1921) 得度(一郎→明三)/『三人の乞食』
24歳 大正11(1922)
25歳 大正12(1923) 6月『血の呻き』出版

 
▼ 茨城民報など  
  あらや   ..2023/01/23(月) 17:41  No.961
  .jpg / 18.1KB

 さて、大正三年十月の朝日新聞退社だ。
 理由は幾つか考えられる。
 前回も述べたように、当時、朝日新聞の社内では勢力争いが激しかった。
 そのゴタゴタに天民はいや気をさした。
 それから大正二年十一月に妻さく子を失なってのち、以前にも増して酒色におぼれ、生活が乱れた。
 一方で、『中央公諭』をはじめとする雑誌の売れっ子ライターとなる。
 世界を見渡すと、第一次世界大戦が始まり、日本はドイツに宣戦布告し(大正三年八月二十三日)、青島を占領する(同十一月七日)。
(坪内祐三「探訪記者松崎天民」)

天民は『新聞記者生活三十年』という一文の中で、大正三年十月の朝日新聞退社以後、「大阪の大阪新報、大阪朝日、傍ら雑誌『小天地』と『滑稽新聞』とにも関係して居た。東京では国民、東京朝日、毎夕、都、二六、中央と転々し、地方新聞では山梨民声、神戸又新、茨城民報などに関係した」と書いてますね。朝日新聞退社以後の大正四年からは、いわばフリーランスのジャーナリストみたいな形で全国どこでも自由に動けたのでしょう。『三人の乞食』以来の親交なのかもしれないし、「茨城民報など」の「など」の部分に函館新聞なんかが絡んで来るのかもしれない。


▼ 松崎天民1   [RES]
  あらや   ..2023/01/19(木) 17:53  No.945
  父が先生と呼んでいたこの二人は、フルネームが判らずじまいだったけれど、もう一人父が尊敬の念を抱いた表情で語っていて印象的だったのは、松崎天民という人だった。やはり東京からよく手紙や書籍が送られてきた。函館新聞社におられた頃に、独身だった父は時折り訪れては、半月くらい寄宿させていただいたものだと誰かに話しているのを聞いたことがある。東京といえば私にとって遠い他国のような感じで、父が「先生」という人がとても偉い人に思え、私たちとは世界の違う人という考えしかなかった。そして父もまた急に違った人間になったように感じられ、私はこの三人を思い出すと、いまだに不思議な感情におそわれるのである。
(佐藤瑜璃「父・流人の思い出」第五回/三人の先生)

ついに流人と函館の関係がつながった! そうか、松崎天民か。


 
▼ 藤田明三  
  あらや   ..2023/01/19(木) 17:58  No.946
   「君は、その……、何をする人かね」
 ブラシ髭の、泥醉者は訊ねた。
「何もする事がないんです」
「用事が……。ふうむ。字は読めるかね、いくらか」
「ええ、いくらかは……」
「読める。と、所で今日の新聞を見ましたか。……、記者を一人さがしてるんですよ。つまり君のような人を」
「あなたは、何者ですか」
「僕あ、その新聞の編輯、……長といった風なものですよ。唯一人でやっている。……所でどうです。その気はありませんか、ね」
「私を、買うと言われるんですね。すると……」
「ふうむ。買うと……まあそうですよ。君は話せる……。しかし……」
 泥醉漢は、嵐のような息吹をした。
「世界中から金を掃出しても、人間はやっぱり泥濘から這出せないんだ。この獣は……。買いますよ。確に。君の名は、何です」
「藤田明三」
「藤、田、明三――、ふうむ。N誌に書いた人ですか」
「そうです」
「真物でしょうね」
 彼は、顔をさしのべて覗いた。
「…………」
「何の事だ。失敬、失敬、僕は、山口善助。……その貴方がまた、何故この有様です」
「僕は、昨日ペンも売ってしまいました」
「唯事じゃあない。まあ僕の社へ行きましょう。そして、もし、もし、出来る事なら、あの新聞に手伝って下さい」
(沼田流人「血の呻き」/第一章)

函館の物語で、最初に出会うのがこの山口善助なのだった。

 
▼ 啄木  
  あらや   ..2023/01/19(木) 18:02  No.947
  松崎天民というと、私が最初に思い浮かべるのは啄木。

近頃の雑報の中で、今朝の愚童の火葬場の記事ほど、私の神経を強く刺戟したものはありません。あれは大兄がお書きになったものと思ひますが、私は彼の事実に就いて、いろ/\考へさせられます。
   一月二十五日              石川一
 松崎天民様
(書簡番号四〇七 明治四十四年一月二十五日本郷より 松崎市郎宛)

これは、東京朝日新聞社会面で大逆事件の現場キャップとして活躍していた天民の、特に明治四四年一月二七日の記事(死刑判決の内山愚童の火葬を追った記事)にいたく感激した啄木が葉書を送ったものです。天民は東京朝日新聞以前より「探訪記者」として広く名をとどろかせていました。

 
▼ 白面郎  
  あらや   ..2023/01/19(木) 18:06  No.948
  .jpg / 19.0KB

弔 石川啄木君       天民
啄木の君血を吐いて死にませし其の夜の夢に火の燃ゆる見き
大遠忌に賑へる春の真白日(まひるま)や静に送る君が御枢
蒼白う痩細りたる腕(かいな)して筆握りし日の君安かりき
若き妻を幼き子とを世に遺し天翔けり行くよ新人啄木
新しき歌人一人失ひて櫻花散る日の淋しく暮(く)るゝ

「大逆事件」つながり(啄木は東京朝日新聞の校正係。天民の書く大逆事件報道に大きく影響を受けた)だけかと思っていたら、それどころじゃない、選者・啄木の朝日歌壇の常連「白面郎」が天民だったり、啄木の葬儀報道記事が天民だったり、単なる社友の域を越えていますね。いや、これは勉強になった。

 
▼ 探訪記者  
  あらや   ..2023/01/19(木) 18:11  No.949
  .jpg / 47.5KB

明治・大正・昭和を生きた
型破りジャーナリスト!

日露戦争、足尾事件、大逆事件、
美食、盛り場、貧民窟…、
日本せましと駆け抜けた快男児、
その足蹟を追った傑作評伝

松崎天民(1878〜1937)
実家没落、丁稚や人力車夫で糊口をしのぐが、
強運もあって新聞記者の道を歩き始めた。
日露戦争下では庶民が喜ぶ美談を書きまくる。
一方、大逆事件では刑死者を追って
火葬場に忍び込み記事をものし、
現在でも貴重な証言となっている。
その興味はとどまるところを知らず、
銀座から貧民窟、流行や美食にまでおよんだ…。
(坪内祐三「探訪記者松崎天民」/帯)

片腕でも出来る仕事。今まで私は「小説」と「書」を想っていたが、「新聞記者」という解もありえる…と思うようになった。若き日の流人が夢見た人生は、あるいは、この天民のような世界ではなかったろうか。その結実として『血の呻き』が生まれた…と考えると胸がわくわくしてくる。

 
▼ 匿名希望の方(女性八十六歳)  
  あらや   ..2023/01/20(金) 10:58  No.950
  私が十八・九の頃だから、古い古い話だよ、沼田さんは二十三・四だったんじゃないかねえ。小樽の新聞社の人とか言ってたけど、いつも三〜四人の座敷でさ、函館から来たとかいうモダンな人や、ヒゲをたてたえらそうな人だった。沼田さんは一番若くてひとり者でさ、みんなにひやかされたりしていたよ。たまにしか来なかったけど覚えているよ。
(佐藤瑜璃「父・流人の思い出」第十六回/絵を描く)

松崎天民が函館にいた時期が確定できない。小樽新聞も関係してくるのか。流人の年齢の方から考えると、

21歳 大正 8(1919) 11月 軽便線、倶知安〜京極間が開通
22歳 大正 9(1920) 沼田一家、孝運寺へ/写経開始
23歳 大正10(1921) 得度(一郎→明三)/『三人の乞食』
24歳 大正11(1922)
25歳 大正12(1923) 6月『血の呻き』出版
26歳 大正13(1924)
27歳 大正14(1925) 1月小樽新聞に『キセル先生』
28歳 昭和元(1926) 9月雑誌「改造」に『地獄』

私は匿名さんの「二十三・四」を信じます。水商売の人の、男を観察する眼は学者先生の比ではないから。下の引用二つは、雪が融けたら函館に行く時のメモです。

 
▼ 偽看守  
  あらや   ..2023/01/20(金) 11:05  No.951
   暗い船艙のような陰気な編輯室の片隅には、汚ない床の上に直接に、汚れた襯衣一枚の男が、乱醉して寝ていた。山口は。彼を指さして咡いた。
「あれの死刑があるんです。ほら、あの脱獄囚の……」
「これが、それですか」
「いや。これは、その看守ですよ。……所で、貴方は……」
 二人は、長い間恐ろしい陰謀でも企てているように、ひそひそと咡き合った。
「じゃあ、偽看守君の健康を祝して……」
 骨ばった顔の山口が、薄笑いしながら咡いて、僅かばかり残ったウヰスキーの瓶を彼にさし延べた。彼は、沈黙ってその苦い滴を甜めるようにした。
「八時間後に、あの世に旅立つ死刑囚君の健康を祝して……」
 山口は、恭々しく一つ頭をさげて、その残滓を飲み干してしまった。
 明三は、長く乱れた髪の上に監獄の看守の制帽を被った。それから、自分の背広を脱ぎ捨ててそこに揉みくちゃにしてある、看守の古びた制服を着た。服は垢じんで重たく疲れた湿っぽい汗の臭いがした。彼は、外套を着て、その頭巾を頭からすっぽり被ってから、埃に汚れた窓硝子に顔をあてて戸外を覗いた。
(沼田流人「血の呻き」/第四章)

 
▼ 時計師  
  あらや   ..2023/01/20(金) 11:08  No.952
   彼は、石を投げて遊んでいる子供たちの群から離れて、寂しそうに立っている彼女の側へ歩いて行った。娘は汚れた緑色の短い洋服を唯一枚着て、小さな破靴を穿いていた。
「何を、してる………?」
 彼は、嗄れた声できれぎれに訊ねた。
 娘は、自分の唇を指して、物を言えない事を告げた。彼は、戦慄した。熱に顫える病獣のような瞳を光らして、彼女の肩に手をかけた。
「ね、いい花を買ってやろうか」
 娘は首を振った。
「いらない? じゃ綺麗な靴を買ってやる。おいで………」
 唖の娘は、星のように輝く瞳で彼を凝視め、哀れな自分の靴を指さして、手を叩いた。そして両手を捉って、恐しい時計師に随いて来た。
 彼らは、夕暮の街々を、綺麗な靴を探ねて歩いた。彼は、重い鎖を首に吊されているように俯れた。そして時々間歇的に立止っては身慄いした。
 遂に、夜は黒い幕を垂れる。
(沼田流人「監獄部屋」/後編)


▼ 迎春   [RES]
  あらや   ..2023/01/01(日) 09:52  No.944
  .jpg / 62.0KB

今年もよろしくお願いします。

去年の暮れに人間像ライブラリーにとって大きな展開があり、今、あれこれ動く計画を立てているところです。「人間像」は第105号からのスタートになりますが、百号通過を記念して今一度神田美術館に戻って来ました。



▼ 「人間像」第104号 前半   [RES]
  あらや   ..2022/12/04(日) 18:57  No.940
  .jpg / 40.4KB

柚木完三は、三十代のはじめからかかって十年間準備をつみ重ね、そのあとつづいて二冊書いた。中の一冊はモデル問題をおこして、主人公周辺の家族たちがやたらうるさくて、発行と同時に絶版になってしまった。だが幸いもう一つの方が、十年以上も生き残って、今夜の、こういうことの原因になったりしている。
 だが、柚木完三はこの十年間、完全に打ちひしがれて、挫折感のとりこになり、再起不能の実状である。
(朽木寒三「柚木完三の孤独な人生」)

十二月より「人間像」第104号作業スタートです。先ほど、朽木寒三『柚木完三の孤独な人生』をライブラリーにアップしました。(作業していて、ちょっと涙出た…) 以下、内田保夫『残照の中の華』、佐藤修子『未だ見ぬ子へ』、針田和明『志保』、神坂純郎『水脈(第二回)』、針田和明『阿片秘話(第四回)』と続きます。


 
▼ 未だ見ぬ子へ  
  あらや   ..2022/12/08(木) 10:07  No.941
  本日、佐藤修子『未だ見ぬ子へ』、アップしました。「属望」「非害」「異和感」などの表記は作者独特の言葉づかいですので直さないでそのまま載せてあります。唯一直したのは、

フォーカスのかかった画面には、鈴蘭のような花替をさして微笑んでいる朋子の白いふくよかな顔、

いくつか漢和辞典を引いても「花替」という言葉は見つかりません。これが「花簪」の誤植(旭川刑務所製)だと気がつくのに三十分くらいかかりました。まだまだ修行が足りない。これから、針田和明『志保』にかかります。

 
▼ 阿片秘話  
  あらや   ..2022/12/14(水) 17:50  No.942
   薬学部が小さくみえた。広いと思っていた廊下が狭くみえた。コンクリは冷たかった。廊下を歩いている人間は見知らぬ者が多かった。慣れた戸をあけた。俺の研究室、なつかしい研究室だ。エーテルのにおいがする。
 驚いた。
 席がなかった。見たこともない若い研究生がビーカーをふっていた。
(針田和明「志保」)

針田氏が北大薬学部時代を語るのは、この『志保』が初めて。ここ数号、「野田良平」を主人公とした作品が続いているのですが、文章は明るく朗らかで楽しく読んでいたのです。でも、ここに北大薬学部時代のピースが一枚加わると、ちょっと針田作品の読み方が変わって来るな…と感じています。『阿片秘話』も、今までは博覧強記の作家・針田和明が書いている…と軽く受け取っていたのですが、もしかしたら、薬学部出身の針田和明が針田和明にしか書けない最終論文を書いている…と思うとなにか鬼気迫るものを感じ始めました。

その『阿片秘話』を進行中です。第104号はなにか異例のスピードで進行していて、もしかすると、あと二、三日でフィニッシュかもしれない。

 
▼ 「人間像」第104号 後半  
  あらや   ..2022/12/17(土) 11:46  No.943
  .jpg / 20.5KB

昨日、「人間像」第104号(約160ページ)作業、完了です。作業時間は「90時間/延べ日数15日間」、収録タイトル数は「1991作品」になりました。
インクが薄いので原版の解像度を一段上げたのですが、その作戦が上手く当たったみたいです。次号もこれでやってみよう。

■前号を出して間もなくの今春、千田三四郎が二冊目の単行本『詩人の斜影』を創林社より刊行した。本誌93号に発表した作品である。なお三冊目も計画に乗っており、刊行が待たれる。平木国夫は「日本ヒコーキ物語」全十巻のうち二巻を冬樹社より出版、執筆人生も定着したようである。『空気の階段を登れ』が文春文庫に収容された。文庫本といえば、朽木寒三のロングセラー『馬賊戦記』も徳間文庫に入ることが決まり、また久しぶりに三冊目の単行本の話が進んでいるそうで、仲間が雑誌の枠からはみ出して活躍することは喜ばしいことである。
(人間像・第104号/編集後記)

「人間像」、最盛期ですね。


▼ 「人間像」第103号 前半   [RES]
  あらや   ..2022/11/02(水) 16:32  No.934
  .jpg / 42.1KB

十一月より「人間像」第103号作業を再開。先ほど、神坂純郎『水脈(第一回)』をライブラリーにアップしたところです。以下、佐々木徳次『春は名のみの』、針山和己『山中にて』、金沢欣哉『温泉ノート』、白鳥昇『松露と蟹のパテ』、福島昭午『呪縛の里』、針田和明『蛇行』と小説6編が続きます。そして、巻尾はここのところお約束の『阿片秘話(第三回)』ですからね。帰って来たなぁ…という感じが半端なくする。

もう十一月か… 初雪があったり、庭の樹の冬囲いやタイヤ交換やらなきゃならなかったりで、作業時間は夏場に比べるとかなり減りますね。


 
▼ 春は名のみの  
  あらや   ..2022/11/10(木) 17:15  No.935
   春は名のみの風の寒さや
 谷の鶯歌は思えど

 野崎はこの歌が好きだった。この曲が流れるのは、きまって年が明けて寒い冬のさ中である。春を待つ人の心がこの歌を求めるのであろうか。前を走る車の中にいる緋沙子親子たちに、本当の春の来るのはいつのころであろうか。
(佐々木徳次「春は名のみの」)

こういう作品に感じ入ってしまうのは、年とったってことなのかな。

 
▼ 山中にて  
  あらや   ..2022/11/10(木) 17:20  No.936
   それにしても、吉川の単独犯だろうか。打田らと組んでの共犯なのだろうかと考えたが、もちろん結論など出なかった。ただ、なんということもなしに、吉川の単独犯だったかも知れないと思うのであった。いずれにしても、今さら罪もない遺族の人々に、苦汁をなめさせることはないと思った。彼は小笠原老人への電文を考えながら、さらにアクセルを踏みこんだ。
「オオムラセイジシノイショワ ホンニンノモノニマチガイナシ イデカツジ」
(針山和美「敵機墜落事件」)

1979年4月発行の「京極文芸」第十号ではこのようだった結末が、八ヶ月後の12月発行の「人間像」第103号の『山中にて』では百八十度異なる展開をみせます。私は京極町の図書館時代、当然『敵機墜落事件』の方を先に読んでいますから、単行本の『山中にて』に出会った時は腰が抜けるほど驚きましたね。と同時に、針山氏の作家としての力量を嫌というほど感じました。以降、どんどん針山氏にのめり込んで行くことになった忘れられない作品の一つです。

 
▼ 呪縛の里  
  あらや   ..2022/11/15(火) 12:48  No.937
   トーマル地域といっても、かなりの面積である。古宇川の上流にいくつかの支流がある。峠あたりが分水嶺であろう。昭和二十三年の雪解け後に、樺太引揚者十七戸が入殖した。その場所を正式の公文書で「トーマル殖民地」としている。
 トーマルの奥地は戦前も時を隔てて何戸か入殖を試みた人々がいた。いずれも敗残の憂き目にあっている。明治から大正末期にかけては山師もかなり入ったという。金床や銀床を見つけにである。たしかに金銀を含んでいたが、品位が低かった。
(福島昭午「呪縛の里」)

先ほど、福島昭午『呪縛の里』をライブラリーにアップしました。白鳥昇『松露と蟹のパテ』はすでにアップ済み。これから針田和明『蛇行』に入ります。

昔、デジタル・ライブラリー化をあれこれ模索していた頃、この第103号を実験台にしていたことを『呪縛の里』を読んでいて思い出しました。なぜ第103号だったかというと、この号が私の持っている「人間像」では最古の号だったから。「トーマル」じゃないけど、なんか、懐かしい地点に戻って来たなぁという気がしてます。

 
▼ 蛇行  
  あらや   ..2022/11/21(月) 14:24  No.938
   「俺もこういううちに住みたいな」と、良平がいった。
「良さん、はやく芥川賞とれよ」と、康夫がいい、「賞をとったら、夢ではないぞ」と、にやっと笑ってつけ足した。
「俺はいつも直木賞だ、芥川賞だ、といって一作完成するたびに吹聴してるんだ、ところが反響をうかがうといつも駄目なんだなぁ、(中略) 俺が『北方文芸』でさんざん痛めつけられるのもわかるな、作品がよければ評価も違ってくる筈だ、それまで書きつづけてやるさ」と、良平はいった。
「良さん、どんどん書くといい、それをまとめて本にするといいんだ、俺、百冊位さばいてやるから」と、道昭がいった。
「俺は五冊さばけるぞ」と、康夫がいった。
(針田和明「蛇行」)

『北方文芸』…には吹き出してしまった。私も、『人間像』のデジタル復刻なら喜んでやるけど、『北方文芸』の復刻なんて全然意味が見出せませんけどね。針田さんの本って、結局、この世に現れていない。「人間像」の仕事が完了して、まだ指が生きていたら、渡部秀正さんと針田和明さんの本は製本してみたい。

 
▼ 「人間像」第103号 後半  
  あらや   ..2022/11/30(水) 10:05  No.939
  .jpg / 29.2KB

昨日、230ページの「人間像」第103号作業、完了しました。作業時間は「174時間/延べ日数32日間」、収録タイトル数は「1979作品」。

インクが薄くOCRで読み取れず、『阿片秘話』の辺りからはほぼ手打ち作業となったのでミスが多いかもしれません。時間の割に日数がかかっているのは冬支度のあれこれに時間をとられたためです。
地球温暖化をまざまざと感じる十一月でした。昨日まで降雪がなく、せっかく作った庭木の冬囲いもネットシートの間抜けな青色をさらしていました。今朝、ようやく雪が降り始め、なんとなく冬の覚悟がついたところです。
さあ、第104号。先ほどちらっと見たのですが、小説部分の活字が幾分大きくなっている。ありがたい。インクは相変わらず薄いけど。


▼ 脇方の思い出   [RES]
  あらや   ..2022/10/31(月) 16:40  No.932
  .jpg / 53.4KB

 掘れば無くなると判って居る。過去五十年、長かったとも短かかったとも言えるが、開山当時から関係し、終山式まで見届けたという例はあまりない。先日御招待を受け、懐かしの脇方へ参上し、昔ながらの山神社社殿で終山式、次いで殉職者慰霊碑の参拝、採掘の見学などをし、誠に感無量だった。
 第二の故郷ともいうべき脇方に再び訪れるのはいつの日のことか? 次に行われた京極公民館での開宴の際、乞われるまま壇に立ったが、喉がつまり声が出ずに見苦しい顔を御見せした事を御詫び致します。
(大町政利「脇方の思い出」)

佐々木六郎著『わっかたさっぷ』の中から、大町政利の文章『脇方の思い出』をライブラリーにアップしました。大正八年に鉄道院北海道建設事務所が発行した『東倶知安線建設概要』以外、倶知安―脇方間の鉄道が生まれた「事情」を語る資料が身近になく、昔から『脇方の思い出』を使わせていただいています。鉄道関係の文献や当時の新聞記事などはあまり調べていません。私が知りたいのは、東倶知安線が生まれた「事情」であり、タコ部屋が生まれた「事情」だったのです。


 
▼ 文芸作品を走る胆振線  
  あらや   ..2022/10/31(月) 16:45  No.933
  『脇方の思い出』を今一度精読するにあたり、京極高徳と大町政利について私の事実誤認がありました。従って、ライブラリー上の『文芸作品を走る胆振線』を廃棄することにしました。
これを発表した当時は武井静夫著『沼田流人伝』の影響下にあり、当然、『血の呻き』はこの世に存在しないという前提で書かれています。今回、京極高徳と大町政利についての事実誤認が明らかになってからも、その部分を書き直したりもしたのですが、土台自体が歪んだ状態での書き直しは無理とわかり、文章全部の廃棄を決心しました。
将来的にどうするかはまだわかりません。しかし、この度『血の呻き』から『監獄部屋の人々』までの流人作品を読み返した経験は大切なものだと思うし、いつもの「人間像」作業に復帰することで冷静を取り戻したなら、それでも書きたいことが残っているのならば、その時は書きたいと考えています。

流人復刻のきっかけとなったプリンター故障ですが、やはり、プリンターを買い替えました。一時的に直ったかに見えたのですが勘違いでした。その後、どんどん色の調子が狂い、筋が入り、もう駄目だ!となったわけです。時局というべきか、三年前の値段の倍になっていたのには驚いた。








     + Powered By 21style +