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読書会BBS

 
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▼ 鈴木吾郎と新鋭作家展   [RES]
  あらや   ..2019/05/20(月) 12:08  No.497
  
https://www.city.otaru.lg.jp/simin/sisetu/artmuseum/tenrankai.html

土曜日(5/18)のアーティストトークに行ってきました。潮陵高校の関係者なのかな、物凄く人がいっぱいいた。写真OKなのは市立小樽美術館のポイントですね。


 
▼ 上嶋秀俊「水のもり」  
  あらや   ..2019/05/20(月) 12:10  No.498
  ハルカヤマの時と同じく、今回は美術館の壁一面を素材につかって展開してました。パンフレットに紹介してある作品は「水の音」となっていて、感じは似ているけれど、「水のもり」とはちがっている。「水の音」の進化形かな。上嶋秀俊氏のトークは来月(6/22)なのでまた行くかもしれないけど、その時は、進化した「水のもり」が見られるかもしれませんね。

 
▼ 國松明日香「風渡る」  
  あらや   ..2019/05/20(月) 12:13  No.499
  一階通路に國松明日香が増えていた。トイレのドアが映り込まないように写真撮るのに一工夫。


▼ なつぞら   [RES]
  あらや   ..2019/04/13(土) 10:59  No.495
  ここ数ヶ月あまり小説作品を読んでいない。図書館現場を離れ、引き籠もりみたいな生活だからしょうがないんだけど、なにか理由はそれだけではないような気もする。

『人間像』の作品が面白いからではないだろうか。第40号代に入ってから特に感じるのだが、力作が多い。一号の中に必ず「おっ!」と唸る作品がある。新同人の一人一人が強烈な個性だ。今、第50号をやっているのだけれど、『人間像』の第一次ピークの時代はこの後に来るのだそうで、この今より凄い時代に突入するなんて、いったいどういう『人間像』なのだろう。どきどき。わくわく。

話は変わりますが… 朝飯を食べて、朝ドラを観る。『なつぞら』の主人公・奥原なつが級友の山田陽平の家を訪ねて、陽平の絵を見せてもらうという場面が今週あったのだけど、部屋に掛けてある絵を「これはお兄さんが描いたもの…」。で、「僕の絵はこっち…」と馬の絵が登場した瞬間、ええっ!となったのでした。もしかしたら、神田日勝?

じゃあ、、お兄さんは神田一明氏ではないですか。
ホームページ「人間像ライブラリー」の先頭画面の写真は、旭川市にある神田美術館の写真を使わせていただいています。この美術館は、画家の神田一明氏と彫刻家の神田比呂子氏の作品を収めた私設美術館です。
私は野外彫刻が好きで(なにか図書館の「無料原則」に通じる精神性を感じる…)全道の彫刻作品の殆どをカメラに収めた者ですが、「人間像ライブラリー」を構想した時、その先頭画面は「神田美術館」以外には考えられなかったことを懐かしく思い出します。


 
▼ ビッキ?  
  あらや   ..2019/05/15(水) 06:51  No.496
  今週、吹雪の中で遭難しかかった奥原なつが熊の木彫り制作を生業としている親子に助けられるという場面があったのだけど、その彫刻家のお爺さんが商品製作の傍ら、自分の彫りたいものを自分のためだけに造っている…という、その作品、妙に砂澤ビッキっぽかったですね。

来週は、そのビッキ関連で、珍しく札幌へ。

今週は、おとなしく小樽で鈴木吾郎。


▼ 遠い幻影   [RES]
  あらや   ..2019/03/10(日) 10:17  No.493
  朝から夕飯までライブラリーのデジタル化作業を行い、夜や早朝(←年寄りなのか、朝が早い…)の布団の中で本を読む生活。もうかなり安定化してきたように思います。そのベースには、去年、集中的に読んだ『吉村昭自選作品集』(新潮社,1990−1992)があって、その時々で話題の本や関心のある作家の本へ遠征することもあるけれど、疲れたら、ホームの〈吉村昭〉にいつしか戻って来て身体のチューニングをやっているような気がします。

『遠い幻影』もそんな一冊。遺稿となった『死顔』の、骨と皮ばかりの無惨な〈吉村昭〉の文体を目撃した身には、熟年期の力に溢れた作品群は殊更に大切なものに感じます。大事に、大事に読みたい。1992年以降の吉村作品がまだ数多く残っていることは私の人生の励みです。「人間像」の仕事を手掛けているお蔭で、〈同人雑誌出身の吉村昭〉という視点を持つことができたことも私の幸運でした。

以下、恒例の〈北海道〉部分。


 
▼ 遠い北  
  あらや   ..2019/03/10(日) 10:20  No.494
   この町の刑務所に転勤になったのは、昨年の春であった。
 都会から遠くはなれた町に行くのは気がすすまなかったが' 上司たちは一様に幸運だと言い、かれ自身も日頃からその町の特異な性格を耳にしていたので、自らをはげますように赴任した。
(吉村昭「ジングルベル」)

 ジーゼルカーは、丹念に駅にとまることを繰返し、多くの高校生が乗ってきたり、海産物を売りに出た帰りらしい籠や箱を手にした中年の女たちが乗りこんできたりした。が、ジーゼルカーが進むにつれて乗客はへり、窓外に人家の絶えた雪原がひろがった。
 久美子はなぜこんな所にまで来たのだろぅ、
(吉村昭「父親の旅」)

「お父さんは、今、北海道でどのような生活をしているんだろう」
 私は、たずねた。
「住所をきいただけで、それ以上きくと警戒されるおそれがありますのでそのまま帰って来ました」
 房子は、答えた。
「恐らく、その人が君の父親だと思う。これからどうする」
 私は、房子の顔を見つめた。
「会いに行こうと思います。その前に速達の手紙でも出しておいてとも思っていますが……」
 房子は、思案するように首をかしげた。
「会いに行く気になるのは当然だが、その人は、果して喜ぶだろうか」
 私の言葉に、房子は驚いたように顔をあげると、
「喜びませんか」
(吉村昭「夾竹桃」)

 男が寒気にさらされている東屋で夜をすごすことができるのは、北国生れであるからなのだろうか。野外で暮すことをつづけてきたかれには、それに応じた肉体的な強靭さがそなわっていて、或る程度の寒さには耐えられるのかも知れない。
(吉村昭「眼」)


▼ 青べか物語   [RES]
  あらや   ..2019/01/20(日) 11:04  No.491
  竹内紀吉氏(浦安図書館)関連の基礎教養として、山本周五郎『青べか物語』を今頃精密読書。

 そして****とひどい悪態をついた。
 美しく純粋な、黄金の光を放つものが毀れた。助なあこは自分を反省し、また独学に熱中し始めた。いちどならず「死んでしまおう」と思い、どこか遠い土地へいってしまおうと決心した。北海道かどこかの広い広い、はだら雪の人けもない曠野を、頭を垂れ、うちひしがれた心をいだいた自分が、独りとぼと.ほと歩いてゆく。こう想像するたびに、彼は一種の快感にさえ浸されるのであったが、現実にそうする勇気は起こらなかった。
(青べか物語/蜜柑の木)

 救いの主は五郎さんの姉であった。父親から手紙を受取った姉が、一人の娘を伴れて北海道からはるばるやって来たのである。娘は小柄な軀ではあるが、健康そうで、縹緻もゆい子より一段とたちまさっていた。実科女学校中退、年もゆい子より二つ若かった。
(青べか物語/砂と柘榴)

引用した個所は、『青べか』の中に「北海道」の文言が登場するのが面白くて個人的趣味でピックアップしただけです。『蜜柑の木』や『砂と柘榴』の作品本質とは別に関係ありませんからご注意を。

面白かった。黒澤明『どですかでん』の原作『季節のない街』も一気に行こう!


 
▼ 季節のない街  
  あらや   ..2019/02/19(火) 08:53  No.492
   公演の成功を陰ながら祈り、周囲の人々に観劇を勧めた立場上、自分のことのように原作の味わいを裏切らぬ舞台に、うれしさがこみ上げて来てならなかった。ただひとつ残念だったのは老船長との挿話が割愛されていたことだ。
(竹内紀吉「〈青べか物語〉を観る」)

『どですかでん』が、他の黒澤明作品に較べて何故か印象が稀薄なのはどうしてなのだろうと若い頃から時々は思っていた。「もう一度観たい黒澤映画」があったとしたら、ベスト5には到底入りません。(『生きる』も別の意味で入らないけどね…)
たぶん、竹内氏が『青べか』の舞台に感じたものを、私も原作『季節のない街』を読んでいて感じていたのだと思います。例えば、こういう個所。

「うちの福田は大学の文科へいったんでずのよ」と光子は初めてますさんと話したときにいった、「私立ですけれど有名な大学で、入学率は東大よりむずかしいんですって、家庭の事情で中退したんですけど、教頭先生がとても惜しがって、月謝が足りないのならはくぼくになっても学問をしろって、しまいには校長先生までがたびたび勧誘しにきたそうですわ」
(「季節のない街」/「肇くんと光子」)

「プールのある家」は映像化できても、なかなか、この「光子」さんの愉快さは映像や演技では伝えられないだろうと感じましたね。(私なんか、「はくぼく」を「学僕」を通り越して「啄木」とまで深読みして布団の中で笑い転げていました)
小説という領域でしか表現しきれないものが山本周五郎作品にはふんだんに含まれていて、それが映像作品を消化不良にしたり、だからこそ映像化に挑ませるような衝動にもなったりもするのだろう。
ともあれ、一級品であることに間違いはない。死ぬ前に気がついてよかった。竹内氏に感謝です。市立小樽図書館には「山本周五郎探偵小説全集」(作品社)が入っていて、何気なくついでに借りて来た第二巻「シャーロック・ホームズ異聞」が滅茶苦茶面白いの…
作品社って、峯崎さんの『穴はずれ』の出版社ですよね。いい仕事してるなあ。


▼ 松岡國男妖怪退治   [RES]
  あらや   ..2019/01/20(日) 10:59  No.490
   「ご覧なさい。この有様なんですよ。……私ほんとに苦労したわ。」
と、如何にも弱々しく言つて、もう涙ぐんだ。おみよは一寸返事の仕様に困つた。心の奥ではひどく気の毒になつて来た。お君は東京に出て来てからの窮状を今更のやうに話し立てたが、おみよは今お君の話す、大抵の事はM――町に居た時に、その手紙で知つて居たので、半分、話に耳を貸しながら、心では頻と札幌に居た時分の、お君の華美な生活を思ひ出して居た。夫婦で放蕩の限りを盡して、財産を失してしまひ、それから東京に流れ込んで来ると男は肺病になつてしまつた……
(水野葉舟「おみよ」)

筑摩書房「明治文学全集」をまともに読んだの、これが初めてじゃないかな(笑) 図書館司書人生が始まった四十年前から、読もうと思えばいつでも図書館に在る本だけれど、読む必然が何もないままこの歳になってしまったというか。呆れた話だが。
大塚英志/山崎峰水『黒鷺死体宅配便スピンオフ 松岡國男妖怪退治』を読んでいたら、水野葉舟が登場していてちょっと興味を持ったのでした。まあ、青空文庫でいいんだけど、一生に一度くらいは「明治文学全集」で読むのもいいかと。
水野葉舟はまあどうってことない作品でしたが、並んでいる「明治文学全集」の各巻ラインナップはちょっと興味を惹かれましたね。将来デジタル化を夢見ている沼田流人『血の呻き』のための筋力トレーニングとして積極的に取り入れようかと思いました。
あと、啄木の散文作品のクォリティの高さも再認識しましたね。『病院の窓』ひとつで、「明治文学」のゴミ作品を蹴散らかして余裕で予選リーグ一位通過だわ。



▼ いざなうもの   [RES]
  あらや   ..2019/01/08(火) 10:00  No.488
  最後、下描きの線だけになって終わって行くの、切ないなぁ。

遺作。「17ページ目までは完成した」。残りは「ご遺族と相談の上、下描きの形で掲載とした」。谷口ジロー、死の直前までの姿が彷彿とされ、怖く、美しい。同時代を生きたことを嬉しく感じる。私は、もう少しだけこの世に残って、私の仕事を終わらせます。


 
▼ 犬を飼う  
  あらや   ..2019/01/08(火) 10:04  No.489
   ちょうど昼時であった。休憩するに都合のよい相手を得たのを潮にひと区切りつけて、弁当を広げると、犬はもう傍らにきちんと座って私の手元を注視している。弁当を少し分け与えると、またたくまにそれを平らげてしまって、こちらの箸の上げ下げをじっと目で追っている。幾日も食い物にありつけなかったのか、余程の空腹らしい。二度目の餌もあっという間だった。こちらも朝からの重労働で腹ぺこだ。犬の視線を無視して箸を運んでいると、こらえきれなくなってワンと一声放つのである。しかたなくまた少し分け与える。なんの事はない、こんなことを繰り返して結局弁当の半分以上をこの珍客に食べられてしまったのであった。
(竹内紀吉「犬との出会い」)

『いざなうもの』で、またブームに火が点いてしまった。年末年始、昼は竹内氏の『僕のアウトドアライフ』デジタル化、夜は谷口ジロー再読の毎日でした。こういうの、巡り合わせって云うのかな。

 私の房州通いは毎週週末の三日間、金土日に限られている。翌日もそのつぎの日も、犬はどこからともなくやって来て、昼を共にするばかりか、夕暮れ私が仕事をたたむまでなんとなくそこらへんで遊んでいて、車のエンジンをかけてこちらが動き出すと、来たときのようにどこかへ帰っていくのだった。
 次の週末まで、犬があの土地にまた来るかどうか気になってならなかった。もし来たなら褒美に少しぜい沢をさせてやろう。翌週私は犬のためにもう一つ別の弁当を用意して保田の地に向かった。
(同書)


▼ 走る女   [RES]
  あらや   ..2018/12/25(火) 17:39  No.483
  竹内紀吉『影』が収録されているので古書店から買った『小説の発見1』なのだけれど、『影』以外にもおーっ!と思った作品が二つあって、一つが以前書いた金子きみの『東京のロビンソン』。そしてもうひとつが、宇尾房子さんの『走る女』なのでした。
ところが、『東京のロビンソン』がすらすらと感想を書けたのに対して、『走る女』は一行の感想文も頭に浮かび上がってこない。ほんとに一言も浮かんで来ないんです。じゃあ、語るに値しない駄作かと言ったら、全然そんなことはない。これは何か重大な電波が放出されている作品であることははっきり感じるんだけど、巧く合致する言葉が私の文字パレットにはない…というか。
けっこう悶々としていました。竹内氏の作品を読み進んで行くと、その前後に宇尾氏の姿や作品がちらちらします。なにか、「人間像」の人たちにはあまり感じない質の電波であって、大変興味津々です。
こんな質量であろうか…ということを庄司肇氏が的確に書いていますので、そちらを引用させてもらいます。同人雑誌「朝」第29号「追悼・宇尾房子」に転載された、「千葉日報」2009年10月30日の庄司氏追悼文です。


 
▼ 珍しい思考の観念性@  
  あらや   ..2018/12/25(火) 17:44  No.484
   珍しい思考の観念性 宇尾房子さんを悼む  庄司肇
 宇尾房子さんが消えてしまった。84歳。年に不足はないと言われそうだが、闘病半年は呆気(あっけ)なさ過ぎる。重いものが肩を押さえつけてきて、足の先から地面に沈みこんでゆくような気分だ。悲しい。寂しい。
 彼女に初めて会ったのは、同年の私たちが30代の後半にいたころだった。『走る女』の詳細な年譜によると――一九六三年一月夫の転勤で千葉県市川市に転居したのを機に「文芸首都」に入会――とある。JR検見川駅で降リ、バスに乗り換えて行くと、大きな団地があり、社宅の3階に仲間と一緒に遊びに行った。ハルサメの入ったおいしいサラダをごちそうになった。
「文芸首都」は保高徳蔵先生が私財や文壇人の浄財を注入して新人のために40年近くも続けられた雑誌である。この雑誌のことは、宇尾さんはすでに富山時代に会社の同僚の夫人江夏氏から教えられていたらしい。ここからはたくさんの作家が生まれている。私たちの少し先輩に佐藤愛子さん、同期に北杜夫氏、なだいなだ氏、森礼子さん、早世した中上健次、群像新人賞の小林美代子、文芸賞の赤坂清一とつづき、いま活躍中の勝目梓氏、加藤幸子さん、林京子さんときりがない。

 
▼ 珍しい思考の観念性A  
  あらや   ..2018/12/25(火) 17:47  No.485
   宇尾さんの作風については、加藤幸子さんの達文《肉体の衣を着た観念小説》があり、この名解説をぬきんでる文章は当分現れないだろう。宇尾さん自身は、《ものを書く人のタイプを嘘言癖と被害妄想癖に分けるとすると、私は嘘つきの方に入るようです》と述べている。宇尾さんらしい明晰(めいせき)な分類であろう。彼女の特質は、女性には珍しい思考の観念性であり、その抽象性を具象化して表現できることであろう。しかもそこにいささかのエロチシズムをまぶすことのできる想像力の拡大にあると思う。
 私の大好きな小説『走る女』では、やせたいと思っている中年女が、朝の時間は取れないので、夜のマラソンを始めようとし、友人から男に襲われる危険ありとの忠告をうける。しかし内心それを期待している主人公は承知しない。ある晩、追ってくる男の気配を感じ、逃げてのどを乾かし、やっとジュースボックスの明かりまでたどりつくが、小銭を持っていない。そこに来た若い男がジュースをおごってくれるが、それ以上の行動はなく、去ってしまったのを不満とし、男を追って走り始めるという、女心の微妙な変幻と、内奥にひそむ欲望のエロチシズムとを活写した小説である。彼女との雑談で、実際にあった同窓会での温泉旅館一泊で、女同士がはだかの肥満くらべをした話を聞いて笑ったばかりだったので、彼女の空想力の飛躍や、小説に構築する腕力にほとほと感心させられた。
 こうした見事な才華をむざむざと見送ってしまったことが、悔しくてならない。神話の世界のように、黄泉の国まで追いかけて行って連れ戻せるものならば、連れ戻したい気分で歯ぎしりしている。幽鬼となってでもいいから、会いに来てくれ。(作家・眼科医)
    ×    ×
 宇尾房子さんは10月13日死去、84歳。
(千葉日報 2009年10月30日)

 
▼ 文芸首都  
  あらや   ..2018/12/25(火) 17:51  No.486
  同人雑誌「文芸首都」については、なんと、最近の「人間像」第40号にも話題が…

 二月二十七日 赤木さんと二人で「文芸首都の会」を訪ね初めて保高徳蔵氏御夫妻と会う。ぼくは作家を訪ねる趣味のない男なので、長年東京におりながら保高さんが四人目である。タバタ・ムギヒコという快青年が同席、戸外は雪、机上にふさ子夫人の著書「女の歴史」が一冊のっている。出版社の手違いでね、作者の手許に五冊しか来ないんですよ。これでは親しい人に配ることも出来ないです。と保高先生が言いおわった処に当の作者たるみさ子夫人がお茶を持って入って来た。そして赤木さんあなたに一冊さし上げましょうねと言ったので、赤木さんは少女のように手を打って喜ぶ。「まあ、嬉しいわ」 そこにぼくが余計な口を出した。
 ――「赤木さん、これは数少い御本の中の一冊なのだから光栄ですね」
 すると、少し間をおいてみさ子夫人がけげんそうに言った。
 ――え? えゝ私は本をいくらも書いてませんので……
 ぼくは狼狽したが間に合わない。もう駄目かと思ったら、赤木さんがくちぞえしてくれた。「いえ、今先生から五冊しかないってことをお聞きしたんですの」
 実に危機一髪だったような気がする。それともぼくのひとりずもうかもしれない。
(朽木寒三「三月十日の会 ―八木さんのことなど―」)

「文芸首都」の保高徳蔵氏の名前が出てきたので、ちょっと吃驚。さすがは「東京支部」グループだねぇ、と。東京は著名人でいっぱい。
作品「三月十日の会」は1956年(第40号)の「3月10日」のことだと思いますから、宇尾氏が「文芸首都」に作品を発表し始める昭和38年(1963年)以降とは約十年くらいの開きがある。朽木氏や平木氏たちと宇尾氏たちとの交流というのはちょっと考えにくいかな。

 
▼ 解体  
  あらや   ..2018/12/25(火) 17:56  No.487
  ここは北海道小樽なので、さすがに宇尾房子さんの本は見当たらない。何の拍子か小樽市立図書館に『私の腎臓を売ります』(双葉社,1994)があって、これはとても面白かった。千葉の図書館なら、もっとばりばりいろんな作品が読めるんだろうなぁ…と思うと悔しいです。

縁あって、千葉県茂原市から出ている『双頭龍』という雑誌(書籍?)の第一号をお借りする機会があったのですが、この中の『解体』という作品にはうおーっと唸ってしまいました。「朝」の年譜で確認したら、この『解体』、作家としてのデビュー第3作なんですね。いやー、第3作にして『解体』か… 途轍もない才能だ。

インターネット古書店で『走る女』(沖積舎,1987)を手に入れたので、年末読書はこれで大丈夫かな。元日だって、昼はデジタル化作業、夜は布団で読書。「文芸首都」一揃いが手に入る…の初夢でも見よう。


▼ 2018年9月6日以前の読者の皆様へ   [RES]
  あらや   ..2018/11/08(木) 16:00  No.478
  2018年9月6日以前に、 Internet explorer を使用してインターネットに入り「人間像ライブラリー」を閲覧されていた方の中には、現在、作品表示に辿り着けない状態になっている方がいらっしゃるかもしれません。この理由については過去の司書室BBS「緊急連絡」に書きましたが、この状態を回復するには、一旦、インターネットの閲覧履歴を削除することが必要です。

以下、履歴の削除方法を図解します。


 
▼ インターネットオプション  
  あらや   ..2018/11/08(木) 16:03  No.479
  1. インターネット画面を開く。例:YAHOO先頭画面
 右上にある歯車マーク(@)をクリックして、
表示されたメニューの中から「インターネットオプション」(A)をクリック。

 
▼ 「全般」→「閲覧の履歴」→「削除」  
  あらや   ..2018/11/08(木) 16:06  No.480
  2. インターネットオプションウインドウが表示されましたら、
「全般」タブを開き、「閲覧の履歴」の「削除」をクリックします。

 
▼ 「閲覧の履歴の削除」  
  あらや   ..2018/11/08(木) 16:10  No.481
  3. 「閲覧の履歴の削除」画面が表示されます。
以下の項目にチェックが入っていることを確認してください。
  それ以外は未チェック状態にして下さい。
・インターネット一時ファイルおよびWebサイトのファイル
・クッキーとWebサイトデータ
・履歴

4. チェックを入れ終わったら「削除」をクリックします。

 
▼ 「選択された閲覧の履歴が削除されました。」  
  あらや   ..2018/11/08(木) 16:13  No.482
  5. InternetExplorerの下部に「選択された閲覧の履歴が削除されました。」と
表示されましたら完了です。

6.「全般」画面の「OK」を押して作業終了。
 「人間像ライブラリー」の検索ボタンに入って確認してください。


▼ 隠蔽捜査   [RES]
  あらや   ..2018/10/19(金) 09:15  No.477
  「俺、署長のSNSのアカウントを乗っ取って、好き勝手にいろいろな人にメッセージを送ることができます。誰かを怒らせることも、誰かに嫌われるように仕向けることも可能です。さらには、クレジットカードの情報を入手して、ネットでとんでもない金額のものを購入することも可能です。あるいは、銀行のシステムに侵入して、預金を空にすることもできるかもしれません。それって、怖いでしょう」
(今野敏「隠蔽捜査7棲月」)

うーん、怖いか? そんなの。

「隠蔽捜査」史上、最もチンケな犯人でしたね。今時ってことなのかな。スマホの合間に人生やってる人たちの世界観ではありました。面白いから、少しずつ観察してる。

図書館のレシート見ると、この後20人が待っているようなので早めに返却します。そういえば、『棲月』借りる時に、書架に村上春樹『騎士団長殺し』が在ったので(←こちらは予約ラッシュ終わったらしい)一緒に借りて来たんだけど、なんか、最初の10ページも読むとなんかうんざりして来た。こんなの読んでるより、「人間像」作業やってた方がましだ…というか、なんか、そういう身体になってきたみたい。厚真の地震以後はどんどんそれが加速してる。これは、読まずに返却ね。



▼ 五の日の縁   [RES]
  あらや   ..2018/10/06(土) 06:49  No.473
   浴衣を着た姉は人中で目立った。私達の傍を通り過ぎて行く人が、きまって姉のほうへ視線を泳がせる。それが私の予想といつもぴたりと重なるのであった。姉に連れられ、そうして人の目に立っていることは、肉体的な快感をともなって、私の自負心を満足させていたように思う。私が当時縁日を好んだのは、其処で子供なりのささやかな買物が出来るという以上に、姉と並んで、注がれている人々の目を感じながら歩くという、快感のためであったかも知れない。どちらかといえば無口で。神経質だった姉が、夜になって浴衣を着、きりっと帯を締めると、急に大きく脹よかになった。そうして大きくなった姉に、私は快い優しさを覚えた。湯上りに浴衣を着た姉は、何故か私に、露に濡れた大輪な花を思わせた。私は姉を、たいそう美しいと思っていたのである。
(竹内紀吉「五の日の縁」)

小岩界隈、五の日の縁日風景で始まる物語は、やがて、通りの向こうからやってくる姉と私の登場でその話が動き出す。

 千葉の内海の何処も、まだ埋め立てなどされておらず、小岩から三、四十分も総武線に揺られていれば、松林を越して青い海原の拡がっている光景を跳めることが出来た。都心に住む者にとっては、千葉駅に至るまでの沿線の小駅は、どの駅も潮干狩の出来る海岸であることで名が通っていた。「稲毛」や「幕張」という地名に、盛夏の光や貝の臭いを思い出すのは私ひとりではないだろう。
(同書)

端正な文体。きらきらとした夏の陽が照り返す道を歩いていた記憶は私を変革してくれると思います。


 
▼ サルビアの苗  
  あらや   ..2018/10/06(土) 06:53  No.474
  ――どのようにお伝えしても、気持ちを受け入れて戴けないことはわかっていますが、身辺を清算して、その上で綾さんと結婚したいのです。
――身辺を清算?
――はい、妻とは離婚します。綾さんを知る前から話し合っていたことなのです。
(竹内紀吉「サルビアの苗」)

いやー、どきっとした。二十年の歳月を越えて、あの『五の日の縁』の男が帰って来たのかと思ったよ。

いかに『五の日の縁』が竹内さんにとって大切な作品だったのかがよくわかりました。『五の日の縁』の前に『サルビアの苗』を読んではいけない。この二つの作品だけは読み流してはいけない。
『日傘の女』もアップしました。これも、『反面教師だった父』や『母の初恋』を飛ばして読んではいけません。いちいちうるさい!と怒られそうだが、味わいってものがあります。竹内紀吉さんの六十五年間の生涯を読み飛ばしてはほしくはないと思いました。

作品のアップは今少し続きます。

 
▼ 佐藤さんとの日々  
  あらや   ..2018/10/13(土) 16:07  No.475
   佐藤正孝さんと初めて会ったのは一九五八年、私が十八歳の時である。日記をつける習慣のない私が四〇年以上前の年を正確に言えるのは、後に書く読売新聞の一件から、同人雑誌「短編小説」に加わることになった年だからで、佐藤さんは玉虫八郎の名でこの雑誌に小説を書いていた。
(竹内紀吉「佐藤さんとの日々」)

その玉虫八郎氏も作品を発表している同人雑誌「短編小説」から、竹内氏の五作品『猫』『少年時』『午後の車中にて』『父のゐる庭』『白樺のみえる窓』をライブラリーにアップしました。1960年代、竹内氏の青春期の作品群です。『父のゐる庭』や『猫』には、後の竹内作品を予感させる力がすでに発芽していることを見てとれます。この力とは、若い日の針山氏や渡部氏が持っていた力でもあることに気がつきました。そういうこともあって、私は『少年時』という作品がお気に入りです。

 
▼ 「街を歩けば」へ  
  あらや   ..2018/10/13(土) 16:12  No.476
  おそらく、両国高校時代のガリ版や自筆原稿を除けば、印刷媒体で発表された〈小説〉作品はほぼカバーしたのではないかと思います。このまま、浦安タウン誌「ばすけっと」連載の『街を歩けば』シリーズや、「事実と創造」連載の『図書館を支える人々』に突入することも考えたのですが、心の中には「少し落ち着け」という声もあることも事実です。少し、私自身が何が何だかわからなくなってきているところもあるので、ここは、一度「人間像」に戻って頭を冷やしたい。

竹内氏は、人間の観察眼がとても鋭いと感じます。この「佐藤さんとの日々」が典型なのですが、一見何気ない佐藤正孝氏の追悼文に見えるのですが、『五の日の縁』〜『サルビアの苗』と読み進んで来た身には、これが『五の日の縁』以来のさらなる新展開に思えてしょうがない。あと一歩、間合いを詰めるときっちり小説作品になってしまうような緊張感があります。竹内氏の〈エッセイ〉編再開にもご期待ください。








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