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司書室BBS

 
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▼ コブタン   [RES]
  あらや   ..2014/06/08(日) 16:29  No.387
  アイヌ文学 詳細に分析 【創作・評論】 妹尾雄太郎
「コブタン」(札幌市)37号。須田茂「近現代アイヌ文学史稿(二)」は読みごたえがあった。樺太アイヌであった山辺安之助の「あいぬ物語」(1913年)の厳密なテキスト考証から浮かびあがる成立事情やその評価からはじまり、アイヌの著者によるさまざまな著作が詳細に分析される。その一方で、それらの著者が歩んだ人生の記述も強い印象を与える。「アイヌ物語」の著者の武隈徳三郎のアルコール依存になった揚げ句に放浪の境遇となり、厳寒の中でれき死するという生涯。19歳で心臓発作で急死した知里幸恵の生涯。そうした姿から過酷な状況を強いられ、差別と闘ってきた歴史や誇りが浮き彫りにされる。須田は「アイヌ神謡集」の美しい「序」を引用して、「知里幸恵の後継者たちは、幸悪の描いた原風景を意識下に沈潜させ、それぞれの文学の新たな源泉としたのである」と指摘する。
(北海道新聞 2014年5月28日/文化欄)

私も、今、「コブタン」36号を積み重なった(すみません…)書類の中から探してきて、(一)から読み返そうとしているところです。36号を受け取った時、ああ、須田さんのライフワークがついに始まったんだなと感じ入りました。

今までになかったことなのですが、「近現代アイヌ文学史稿」が始まってからは、「コブタン」の他の作品も読むようになりました。少しずつ少しずつだけど、去年の後遺症から立ちなおってきているのを感じている。


 
▼ 須田さん  
  あらや   ..2014/06/24(火) 05:01  No.394
   キリスト教における「復活」とは象徴的には十字架上で死んだイエスが三日後に甦ったことであるが、キリスト教神学では、単に死んだ人が生き返ったという物理的なことにとどまらず、神の愛を知り、人間の原罪を悟り、侮い改めることによって本来の人間性を回復することである。この時幸恵が到達した「復活」の確信とは、「私にしか出来ないある大きな使命をあたへられている事を痛切に感じました。それは、愛する同胞が過去幾千年の間に残しつたへた、文芸を書残すことです。この仕事は私にもっともふさはしい尊い事業であるのですから。」と決意したことからわかるように、アイヌの人の言葉を、その文学を未来に永遠ならしむため、つまり「復活」させるために、幸恵自身を(イエスの如く)その犠牲に供するとの決意であったのではないか。私はこのような「復活」の観念を幸恵に与えたものこそ、キリスト教の最大の影響であったと考える。ゆえにキリスト教なくして幸恵の苦悩は生まれず、その苦悩なくして「復活」への思い即ち近現代を生きたアイヌの人の文学創造はありえなかったのである。
(須田茂「近現代アイヌ文学史稿(二)」)

凄いや… 知里幸恵をこういう風に描いた人、初めて見た。(小野さんや藤本さんの本には書いてあったのかもしれないが、ぼーっとしていて気づかなかった)

須田さんの描く人間には必ずこういうキラッと輝く場面があって、胸を撃ちます。

 
▼ 銀のしずく記念館  
  あらや   ..2014/06/29(日) 08:26  No.395
  読んでしまうと、矢も楯もたまらず、やはり行ってしまいました。知里幸恵銀のしずく記念館。オロフレ峠に入ったあたりから雨模様になってしまったけれど、それでもしっとりした気分になって、これはこれでよかった。記念館の窓から見える生家の緑がとても美しい。家族に宛てた幸恵の手紙、毛筆だとさすがに厳しいが、ペン字ならなんとか読める。弟の真志保(←弟ですよ)に「しっかり勉強しなさいよ」と書く姉ちゃんの気持ち、これも美しい。

写真は記念館にあった知里幸恵の木彫です。街の彫刻マニアとしては、撮りたくて撮りたくてじりじりしていたのですが、記念館の貴重な資料だから…やはり無理だろうなと最初は遠慮していました。でも、帰る段になって、今度はいつ来れるだろうか(小樽から室蘭、登別ってけっこう遠いんです)と思うと、つい撮影をお願いしてみました。快く許可してくれた記念館に本当に感謝しています。雨のホロベツ、よかった。重い尻をたたいてくれた須田さんにもありがとう。(記念館にも「三六号」「三七号」、置いてありましたよ)

 
▼ Re:コブタン  
  根保孝栄・石塚邦男   ..2014/10/17(金) 02:27  No.402
  > アイヌ文学 詳細に分析 【創作・評論】 妹尾雄太郎
> 「コブタン」(札幌市)37号。須田茂「近現代アイヌ文学史稿(二)」は読みごたえがあった。樺太アイヌであった山辺安之助の「あいぬ物語」(1913年)の厳密なテキスト考証から浮かびあがる成立事情やその評価からはじまり、アイヌの著者によるさまざまな著作が詳細に分析される。その一方で、それらの著者が歩んだ人生の記述も強い印象を与える。「アイヌ物語」の著者の武隈徳三郎のアルコール依存になった揚げ句に放浪の境遇となり、厳寒の中でれき死するという生涯。19歳で心臓発作で急死した知里幸恵の生涯。そうした姿から過酷な状況を強いられ、差別と闘ってきた歴史や誇りが浮き彫りにされる。須田は「アイヌ神謡集」の美しい「序」を引用して、「知里幸恵の後継者たちは、幸悪の描いた原風景を意識下に沈潜させ、それぞれの文学の新たな源泉としたのである」と指摘する。
> (北海道新聞 2014年5月28日/文化欄)
>
> 私も、今、「コブタン」36号を積み重なった(すみません…)書類の中から探してきて、(一)から読み返そうとしているところです。36号を受け取った時、ああ、須田さんのライフワークがついに始まったんだなと感じ入りました。
>
> 今までになかったことなのですが、「近現代アイヌ文学史稿」が始まってからは、「コブタン」の他の作品も読むようになりました。少しずつ少しずつだけど、去年の後遺症から立ちなおってきているのを感じている。

「コブタン」紹介ありがとうございます。
今後ともよろしく。



▼ 夕張市美術館   [RES]
  あらや   ..2014/09/24(水) 07:36  No.401
  http://www.kidakinjiro.com/exhibition4.html

木田金次郎美術館で開かれている「夕張市美術館コレクション展」、行ってきました。(有島記念館の8〜9月は忙しくて身動きとれなかった…) 9月も、この第4週の一週間だけが用事が入らないで残っていたことが幸いしてようやく岩内まで足を伸ばせたのです。

でも、あれこれ言い訳しても駄目ですね。基本的に、木田美術館のやっている特設展は全部行かなきゃならないと痛感しました。企画力が並外れている。学ぶものが多い。(「絵の町・岩内」カタログの最後に、この20年間の企画展ポスターの一覧が出ていたけど、そのド迫力に圧倒されてしまいます…)

このような形で夕張市美術館を訪れることができるなんて考えてもいなかった。夕張も凄いね。「佐藤忠良」はもちろん、「山内壮夫」展までとっくにやっているのには吃驚してしまいました。(その山内の「平和」、チラシではブロンズだと思っていたけど、今回本物を見たら、なんと木彫でした! 山内の木彫!)

拙い子どもの感想文ですが、今書かなかったら、また10月の用事の嵐の中にまぎれて「夕張」のことも忘れてしまうような気がして、朝、出勤前に書きました。



▼ 次の世代へ   [RES]
  あらや   ..2014/09/06(土) 11:43  No.400
  ——最後にもう一度確認させていただきたいんですが、アルコール依存症に、「軽い」「重い」といった区別は存在しないということなんですね。
西原 ということになりますね。繰り返しになっちゃうけど、軽いシャブ中がいるのかというのと一緒ですよね。
吾妻 ちよっとだけ妊娠してるとかね。
月乃 その例えでいえば、妊娠一ヶ月でも三ヶ月でも妊娠で、妊娠してるってことは必ず出産にまで至るんですよ。途中で戻れないんですよね。はじまったらもう進行するだけなんですよ。
西原 まあでも、その「軽い」が、その当人の病状の軽さではなく、家族を含めた状況の軽さというのなら、あるでしょう。「依存症」ではなく「家族病」を早期発見、早期療養するようにしましょうということですよ。
月乃 個人の問題だけじゃない、ということですね。
西原 そうですね。それをすこしでも良くする余地があるとすれば、それこそが、アルコール依存症の知識を上げるしかないですよ。この前仲良しのマンガ家さんがね、アルコール依存症で死んだ人に「やっぱり最終的には本人の責任だよ。あいつダメなやつだったもん」って言うんですよ。それは悲しいかな本当に知識のない人のセリフですよね。みんな知識があったら、もっと早い段階で適切な処置もできたし、病院も薦められたけど「結局あいつはお酒に負けちゃって」と言われてしまう。病気の症状が異常に可愛くないせいで、心ある友だちがどんどん離れていっちゃう、病気として非常に運の悪い病気なんですね。
(西原理恵子,吾妻ひでお「実録!あるこーる白書」)

うー、身につまされる。西原のマンガなんておもしろいと思ったことはないが、こういうことやると、なんか迫力あるなぁ。



▼ マウス型スキャナ   [RES]
  あらや   ..2014/08/22(金) 07:24  No.398
  おーっ! ちょっと凄い…

OCRテストはこれからです。マウス型スキャナ使用者のコメントには「縦書きは読み込めない」とあったので、おそらく、別にOCRソフトを買わなければならないのでしょうが、まずは、これでスキャナ問題は解決、整理の見通しかな。


 
▼ OCR  
  あらや   ..2014/08/24(日) 06:50  No.399
   世の中は嬉しいものか悲しいものか、天地の半分を見れば面白い造化の配剤、段〃と善くなる大仕掛の有りとは知れど、其裏の半分を覗けば情ない神様のなされ方、愚な心からは恨めしい御筋書と思うもかしこし。人間生れて運よければ面白い舞台に、住み家は煉化作り、烟筒空に聳えさせ、石炭惜気もなく暖炉に焼きて、柔らかき椅子に身を埋め、北風が何処を吹くか知らぬ顔して、孔雀の精霊見たような洋服着た美人と膝を交えながらの風流ばなし。
(幸田露伴「雪紛々」)

驚き。

どんな風に縦書きが駄目なのか確かめたくて、先に縦書き文書を実験してみたのですが、一発目の、活字のポイントが小さい「北海道文学全集」で、この読み取り!(縦書き、OKじゃん)

凄いですね。以前使っていた某OCR有名ソフトなんか問題にならないくらい性能がよい。縦横補正も自動的にやってくれるし、こんな一見普通のマウスにしかみえない身体のどこに、こんな末恐ろしい機能が隠れているんだろうか。


▼ パソコン故障   [RES]
  あらや   ..2014/07/26(土) 12:56  No.396
  7月に入ってまもなく京極で使っていたデスクトップ・パソコンが壊れてしまいました。いくらスイッチを入れてもウンともスンともいわない。小樽のノートパソコンは半年前に半死状態なので、これで、スワン社の全機能はお終いという感じでした。

今までにも、5万件近い図書データを一瞬にして壊してしまったり(MS-DOS時代)、外付けハードディスクがクラッシュしてしまったりと、いろいろ愚かな真似をしてきたのだけれど、なにか、今回は狼狽も悲嘆にくれることもなく静かなもんでした。年齢的なものなのでしょうか。ああ、ここまでかな…という想いがあり、逆に、ここまでの人生を考えるいい機会かも…とさえ思いました。もう、スマホの時代の人間たちにまでつきあいたくないという気持ちはかなり以前からあるのです。

結果的に、ウィンドウズ7搭載のノートパソコンを買い、デスクトップの全データお引越し(今回もソフテックのお世話になりました)でケリがついたのですが… 今、7の画面を見て愕然としているところです。「おたるの図書館」HPって、こんな風に見えているの!(けっこうなショックでした)


 
▼ 国策彫刻?  
  あらや   ..2014/08/11(月) 10:49  No.397
  なにげなく、その時々で最新の撮った写真を貼り付けるようにしているのですが、この写真の反響は大きかったです。「7月の小樽」、ようやくアップすることが可能になったので、皆さん、大きな画像でご覧ください。

上の写真は夕張・石炭の歴史村にある「進発の像」。今回のスレッドに貼り付けたのは、芦別・頼城(らいじょう)の「坑夫の像」です。どちらも太平洋戦争末期、軍需生産美術推進隊彫塑班が夕張北炭や三井砂川炭鉱の現地で制作しました。(「坑夫の像」など、できあがったのは敗戦の三日前だという…)
国策紙芝居と同じで、戦争協力の証拠隠滅で多くの作品が敗戦直後に打ち壊されたりしているのですが、夕張・芦別の場合は、戦後も炭坑労働者の誇りとして大切に扱われてきたという珍しいケースです。
平瀬礼太さんの「彫刻と戦争の近代」(吉川弘文館,2013.7)を読んで前から行きたいとは思っていたのだけど、去年は職場のゴタゴタでとてもそんな余裕はありませんでした。今回のパソコン故障は、そんなゴタゴタした私の心象の横っ面をパーンと張り飛ばしてくれた、そんな事件だったかもしれませんね。


▼ コンサドーレ   [RES]
  あらや   ..2014/06/21(土) 11:12  No.393
  今回の日本は、ずいぶん最後まで引っ張るんですね。

世界の決勝戦を争うチームになるためには、いろんなステップを踏んで行かなければならないんだ…無駄な試合なんか一試合もないんだ…という岡ちゃんの意見(対コートジボアール戦直後)に私も一票。
あのまま、コートジボアールにまんまと一勝、ギリシャに当然の一勝、コロンビアとからくもドロー、勝ち点7で一次リーグ無事二位通過などという甘い夢が世界で通用するとは思えない。私は、日本は世界に出れば、要するにJ1に昇がった「コンサドーレ札幌」だと思っていたけれど、今回の展開には今までの日本にはなかったドラマ展開をちょっと感じてもいます。
コロンビアに勝って、世界を「あっ」と言わせるくらいの度胸と物語性がないと、世界には行けないのではないでしょうか。

今日2時、J2最下位の富山と試合。長いエゾ梅雨が終わって、晴れてよかった。



▼ 慈愛   [RES]
  あらや   ..2014/06/16(月) 18:47  No.392
  今日、倶知安町公民館で久しぶりに国策紙芝居の上演をやってきました。1時間の枠内であったので、「空の軍神」と「キンスケの武者修行」の二本です。

その公民館の帰り、階段を降りていると横手に彫刻が… 思いもかけない贈り物に、すかさず一枚。天気悪かったので、「今日の小樽/6月」掲載分は後日です。



▼ 道銀カレンダー   [RES]
  あらや   ..2014/06/08(日) 18:18  No.391
   開館20周年記念春の特別展示「木田金次郎と北海道銀行カレンダー」
 2014年4月3日(木)〜6月29日(日) 木田金次郎美術館展示室1〜3
 木田金次郎(1893〜1962)は、生涯のほとんどを故郷である岩内町で過ごした画家です。若き日に有島武郎と出会い、小説「生れ出づる悩み」の主人公のモデルとなったことで、その存在は広く知られていますが、木田の画業が知られるのは、60歳の時に札幌で開催された「第一回個展」(1953年)以降といえるでしょう。
 木田の画業が北海道民に広く浸透したきっかけに、北海道銀行の存在があります。北海道銀行は、創立翌年の1952(昭和27)年からカレンダーを制作していますが、1955(昭和30)年に、木田金次郎の「りんご」と「鮒」を用いて以降、今日にいたるまで、北海道ゆかりの作家の作品をカレンダーに採用しています。最初に木田を採用したのは、初代頭取・島本融が、木田の作品に「北海道的なもの」を感じたことにはじまりますが、北海道銀行のカレンダーに木田の作品が掲載されたことで、道内の多くの家庭や取引先で、木田の画業が親しまれていきました。
 このたびの展覧会は、当館の開館20周年を記念し、北海道銀行と共催で開催するものです。これまでも同行とは「北海道銀行コレクション」などで、三度共催しておりますが、今回は、北海道銀行のカレンダーに用いられた木田作品を中心に、木田の画業が北海道民に知られていく過程をたどるとともに、同行が北海道の美術と道民を結んできた役割についても紹介します。
 道民が身近に触れるカレンダーを通して、そして木田金次郎と北海道銀行の深い縁を通じて、美術作品に親しむことの意義について思いを寄せていただければ幸いです。
(同展チラシより)

いやー、よかった! もう木田美術館の企画展は全部行かなきゃ駄目ですね。それくらい、行く度に発見がある。道銀カレンダーって、木田の作品ばかりと思っていたのだけど、栗谷川健一(1967年)や三岸好太郎(1984年)を使った年もあったのね。(1965年の道銀本店レリーフ「大地」カレンダー、欲しい!)

その「大地」。喫茶コーナーで海洋深層水コーヒーを飲んでいる時、パラパラとめくったカタログで、今の本郷新・山内壮夫・佐藤忠良共同制作バージョン以外にも、栗谷川健一バージョンというものも存在していたことを初めて知りました。小さく写真が載っていた。ということは、どこかにはその実物が残っているということですね。見たい!ぜひ生きている内に見たい!



▼ 牛があそんでゐる。Mooooo!   [RES]
  あらや   ..2014/05/17(土) 16:30  No.383
  写真は5月5日の苫小牧市美術博物館です。「宮沢賢治の世界をアートする2014」
http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/hakubutsukan/tenrankai/26amyu_tenran_miyazawa.html
を見に行ったのですが、たまたま「こどもの日」で無料。おまけに、午後の「賢治の紙芝居とギターの演奏会」にも参加できてラッキーでした。紙芝居「注文の多い料理店」、「星めぐりの歌」、よかったです。

美術館と博物館が合体しているということは…

企画展「美沢川流域の遺跡群〜美々・美沢〜」
http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/hakubutsukan/tenrankai/26amyu_tenran_misawa.html
こっちも見られるんだよね。すっごく得した気分。

宮沢賢治が苫小牧に足跡 90年を記念してさまざまなイベント
(苫小牧民報 2014年 3/24)
http://www.tomamin.co.jp/20140311023
連休の写真整理も終了。さあ、次の展開に行こう。


 
▼ ポロトコタン  
  あらや   ..2014/05/17(土) 16:40  No.384
   一千九百二十五年五月六日
 今日学校で武田先生から三年生の修学旅行のはなしがあった。今月の十八日の夜十時で発って二十三日まで札幌から室蘭をまわって来るのだそうだ。先生は手に取るように向うの景色だの見て来ることだの話した。津軽海峡、トラピスト、函館、五稜郭、えぞ富士、白樺、小樽、札幌の大学、麦酒会社、博物館、デンマーク人の農場、苫小牧、白老のアイヌ部落、室蘭、ああ僕は数えただけで胸が踊る。
(宮沢賢治「或る農学生の日誌」)

ポロトコタンでアイヌの人たちの踊りを見て、初めて「美しい」と感じました。また、行きたい。

 
▼ 賢治ウォーク2014@  
  あらや   ..2014/06/08(日) 17:31  No.388
   宮澤賢治と苫小牧とスコットランド
 宮澤賢治は大正13年(1924年)5月21日夜、苫小牧駅に降リ立ちました。当時、彼は花巻農学校の教師。修学旅行の引率者として来道。この日、生徒たちを引率して苫小牧に宿泊しました。このことについて、賢治の書いた修学旅行復命書が残され、何時に着いて、どこに泊まったかなどが記されています。そしてこの夜、賢治は海岸まで歩き、苫小牧の情景を詠んだ詩を残しました。「牛」と名付けた詩は、賢治の詩集である「春と修羅・第2集」に収録されました。下書き稿とも呼ばれる「海鳴り」の詩も含め、これらの詩を苫小牧の文化遺産、と捉え、創造的生涯学習のまちづくりを進める「NPO法人ゆうべあまちづくりネットワーク」では、その活動の一環として、宮澤賢治に関する様々な取り組みを進めています。
(「賢治ウォーク2014」パンフレットより)

「賢治ウォーク」に参加してきました。前日の講演会の流れを受けて、講師陣の多くがそのまま「賢治ウォーク」に合流するという豪華版。

 修学旅行復命書によると、宮澤賢治ら一行が苫小牧に着いたのは同日午後8時。札幌から汽車に乗り、岩見沢経由で苫小牧に入リました。当時の苫小牧といえば、明治43年に王子製紙が操業開始。翌年には市街地に送電が開始され、北海道にあっては夜も街灯がこうこうと輝く明るい町として知られていました。宿泊先は旅館・富士館。現在の苫小牧駅前プラザegaoの駐車場付近にありました。駅を降りた一行は明るい街灯の中を歩いて宿に向かったはずです。
 駅舎は今の駅前交番付近にあり、そこから数分の場所に旅館の富士館がありました。この時、賢治の耳に浜からの海鳴りの音が聞こえていました。というのもこのころの駅前通は、中心街並に店舗等が張り付いていましたが、現在の国道36号を越えると人家は点在。前浜側には中村牧場が広がっているだけという状況でした。夜は騒音もほとんどなく、海の音が駅前まで聞こえていたようです。段々状の地形が波の音を増幅させていた、とも言われています。戦後もまだ聞こえていた、という市民の話も残っています。
(同パンフレットより)

 
▼ 賢治ウォーク2014A  
  あらや   ..2014/06/08(日) 17:35  No.389
   賢治らが苫小牧を訪れたのは、修学旅行生の王子製紙苫小牧工場見学が目的でした。翌日22日、同工場を見学して次の目的地白老に向かっています。苫小牧に着いた日は夜も遅かったため、予定された行事はなく、さらに夜が深けてから、賢治は前浜に向けて散歩に出かけます。復命書に「濤声(とうせい)」という言葉をわぎわざ残していることから、賢治にとって、詩を詠んだ苫小牧は思い出の地となって心に刻まれたのかも知れません。5月24日の宮沢賢治学会苫小牧セミナー研究講演で天文家の加倉井厚夫氏が指摘したように、下弦の月に大きな影響を受けたのかも知れません。
(同パンフレットより)

「賢治ウォーク」のいちばん有難いことは、王子製紙苫小牧工場の中に入れたこと。通称「赤レンガ」の旧事務所の内部も見学できました。王子倶楽部(迎賓館として使っていた)には木田金次郎や棟方志功がばんばんそこかしこに架かっていて頭くらくら。
この状態は午後も続いて、美術博物館「宮座や賢治の世界をアートする」展では、なんと、佐藤国男氏自身が作品解説をしてくれる超豪華版。参加費300円で、こんな贅沢していいのか!という一日ではありました。

 
▼ 賢治ウォーク2014B  
  あらや   ..2014/06/08(日) 17:41  No.390
   苫小牧の前浜の砂丘に立って、最初に詩をしたためた下書き稿のタイトルは「海鳴り」でした。心象をスケッチした60行ほどの長い詩。荒々しい海の詩となっていますが、後半を削り、推敲してわずか10行の短い詩に直したのが、「牛」です。「海鳴り」と違って、荒々しさは陰をひそめ、浜辺にある牧場の光景が描写されています。この変化について、同じ研究講演で宮城教育大学の中地文教授が豊富な資料で、心情の変化等々について詳しくお話ししていただきました。。
 現在「ふるさと海岸」と呼ばれる前浜一帯は、中村牧場の牧草地などが広がリ、エ一シャ牛(エアシャー牛)が飼われていました。乳用牛の一種で、後に乳量の多いホルスタイン種に変わることになりますが、当時の代表的乳用牛といえばイギリス原産のエアーシャ牛でした。前浜の牧場にはサイロも建ち、当時のものと思われるサイロが数年前まで残っていました。
 苫小牧では毎年、賢治がやって来た日の週に「賢治ウォーク」を開催しています。苫小牧での賢治の足取りを追体験しながら、先人たちの築き上げてきた大正時代当時の歴史や文化、産業なども学びたいものです。ちなみにエ一アシャー牛は北海道が明治に輸入し、繁殖させて道内に広めました。今秋から始まるNHK朝ドラのテーマ・ウィスキーだけでなく、乳牛についてもスコットランドとは深い関係にあったのです。
(同パンフレットより)

「マッサン」の余市ロケも始まった今、ちゃんと「スコットランド」にもふれていただいて、ありがとう。(現在の「花子とアン」で、初めて字幕スーパー入りの朝ドラってものを観ているのですけど、これは「マッサン」の予行演習なのでしょうか…)


▼ 加藤秋太郎   [RES]
  あらや   ..2014/05/24(土) 07:53  No.385
   一九〇二(明治三十五)年に江之島電気鉄道が開通して、多くの観光客を運ぶことになり大変賑わっていたのであった。
 加藤秋太郎にとっては、十九年振りの新婚旅行を兼ねた思い出の旅行となった。鎌倉では円覚寺、建長寺、鶴岡八幡宮、高徳院(鎌倉大仏)、極楽寺の名刹など、江の島へは長い木橋を渡り、江島神社、岩屋洞窟・展望台などを訪れたり名物料理を堪能して、江の島内の旅館に泊まった。二人は楽しいひと時を過ごした。
 秋太郎は、きんに一番印象に残った所を聞いてみた。
「江島神社の朱塗りの大鳥居をくぐり、きつい階段を上ると、そこに龍宮城を模して造られた瑞心門がありましたね。その門が一番気にいりましたよ」
「鎌倉大仏かと思ったよ。おきんは妙なものが目に付くのだね、確かに龍宮城の入口みたいな門だ。いつか二人で店を持ったら、入口をあの龍宮門みたいな構えにしてもいいなあ。あははは…」
(廣江安彦「小説・大府立志伝 加藤秋太郎」)

そうなんだ! 龍宮閣のアイデアは「江の島」だったんだ!

今、先日北海道新聞で紹介された「加藤秋太郎伝」を読みはじめたところです。おー、オタモイの遙か遠くに羊蹄山も聳えたっているぞ!


 
▼ 京極さん  
  あらや   ..2014/06/02(月) 15:54  No.386
  「ところで京極工務店の児玉進三さんよ、これから付き合っていくのに、何と呼んだらよいのかね。京極さん、児玉さん、それとも進三さん」
「それなら屋号の京極で呼んでくださいね」
「京極さんだね…。たしか戦国大名の名門の家柄に、似たような名前があったような気がしたがね」
「そうなのですよ。今から十一年前の一八九七(明治三〇)年に、旧讃岐丸亀藩王で子爵の京極高徳が、函館本線沿いにある倶知安村番外地に入植して京極農場を始めたのですよ。俺の家族もそれに付き添って移住した開拓民だが、蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山の麓にある火山台地で、御多分にもれず苦難の連続でねえ。霜で豆類が全滅することもあり、その上に、時々野ねずみが大発生して思わぬ伏兵により大凶作に追いやられたり、さんざんな目に遭ったりしてね。俺だけが愛想を尽かして京極農場を飛び出して、小樽にやって来たという訳ですよ。」
(廣江安彦「小説・大府立志伝 加藤秋太郎」)

この本が大事なのは、ひとえに、この「京極さん」によります。「龍宮閣」マニアの私としては、自分の研究用に一冊あればいいかな…と思っていたのですが、この「京極さん」の登場によって、湧学館にも一冊あった方がいいと判断しました。「京極さん」、奥さんがアイヌのエカシの娘だったりして、なかなか興味深い人物。

加藤秋太郎が小樽に足を踏み入れたのが明治四十一年の四月。啄木と、ちょうどすれ違いになるのか。短い間だけど、東京行きの挨拶で小樽に戻っていた啄木と加藤秋太郎は、街のどこかですれ違っていたかもしれませんね。明治の啄木から昭和の多喜二まで丁寧に小樽の時間をまとめて、その上に「龍宮閣」をそびえ立たせた良い作品です。








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