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司書室BBS

 
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▼ 神田美術館   [RES]
  あらや   ..2016/09/24(土) 09:31  No.458
  旭川・神田美術館とはこんなところです。
http://www17.plala.or.jp/kanda/

玄関前で待つこと数分。ドアを開けてくれたのが神田比呂子さんご本人であったことには全身どきり。作者御自らに館内の作品を案内していただくという、これ以上デラックスな美術館があるかという体験ではありました。

数年前から細々と続けてきた野外彫刻散歩、そろそろゴールかというところまできています。一応、本郷新作品を全部この目で見ることを最低ラインにしているのですが、それで言えば、あと稚内の3作品で本郷新は終了です。稚内へ行く途中で、音威子府の砂澤ビッキも…とか、雪が溶けた4月以来頭の中には気持ちはいつもあるのですが身体がついて行かないというか。なんか雑用に全身まみれだ、今は。

神田美術館の「渚へ」石膏像、よかったなぁ。薄く色を施してあるんだよね。
このブロンズ像が洞爺湖にあります。洞爺湖をぐるっと取り囲んでいる彫刻群が、たぶん私の彫刻散歩のスタート。その中でも仲洞爺の熊谷紀子〜神田比呂子〜小野寺紀子のラインナップは強力でしたね。洞爺湖の具象作品は全部憶えていて、それをナビにして全道に広げた形が私の野外彫刻散歩かもしれません。私の頭の中の北海道地図は野外彫刻作品のマッピングでできてます。

「野外」という「無料原則」、私はいつも共感しています。


 
▼ ロダン展  
  あらや   ..2016/10/11(火) 16:51  No.459
  もちろん、ロダン展も行ってきました。ロダンだと(ファンが多いだろうから)たぶん駐車場も一杯なんだろうなと思って宮の森からたらたら歩く方法をとったのだけど、四十年前の高校生の通学路では見えなかったものがいっぱい見えて、ちょっとだけ感傷に浸った。

いちばん意表をついたのは「カレーの市民」かな。ミニチュアサイズだったんだよね。なんと、鳥瞰で「カレーの市民」像を見下ろすという考えたこともない体験にはしびれました。(価値あった!) 「考える人」もミニチュア。でも、「地獄門」の中で「考える人」がどこに配置されているかを知ることができ、さらに他の彫刻群がどう配置されているかが丁寧に図解されていたからこちらも大満足でした。岩内の木田美術館と同じで、本郷新彫刻美術館も行けば必ずなにか発見がある。

記念館も少し配置作品を入れ替えたみたいで、「氷雪の門」石膏像がどーんと立っていた。早く、稚内行け!ってことなのかな。ここに行くと、東京の大日本印刷とか大阪の中之島公園にも行きたくなるんだよね。

 
▼ 砂澤ビッキ記念館  
  あらや   ..2016/10/11(火) 16:55  No.460
  前回、「稚内へ行く途中で音威子府(おといねっぷ)の砂澤ビッキも…」とか書いて、ごめん。高速使って名寄まで着いた時点で午前十時すぎ。ガソリンスタンドで、音威子府までは「あと一時間半」とか言われて、頭クラクラしました。昔、道内を車で走りまわっていた頃の記憶では、稚内まで4時間もあれば行けるだろう…みたいな風に思っていたんだけど、全然ちがう! なーに記憶してんだか。
作戦変更。名寄まで来ちゃったんだから、とりあえず音威子府までは行こう。そこの天気見て、稚内に突っ込むか、引き返すかを決めようと思いました。
で、音威子府着、十一時すぎ。まあ、こりゃあ稚内は無理だなぁ…という雰囲気です。空もどんより。風も、さぁこれから冬ですよと告げている。

でも、最終的に稚内行きを諦めさせたのは、筬島(おさしま)の砂澤ビッキ記念館が持っている威力そのものだったと思います。中に入れば、たぶん誰でもわかる。これは…ただ者ではないと。
http://www.swan2001.jp/gallery1610a.html
砂澤ビッキの印象、かなり変わりましたね。まとまったビッキ作品を見られる場所としては、私の山麓近辺だと洞爺湖芸術館とか芸術の森のモニュメントということになるんだけど、そこで受ける「ビッキ」のイメージは木の抽象芸術家、巨匠という点に尽きてしまうのですけど、筬島の場合はちがう。なにか、遊び心満載の、私にも憶えがあるあの六〜七十年代の空気を身体中で呼吸してきた「ビッキ」なのでした。だんぜん魅力的。

十月いっぱいで今年は閉館。「やっぱり雪ですか?」という私の質問に、「それもあるけど、ここは、作品を守るために暖房設備を入れてないんです」というお答えでした。なるほどなぁ。帰り道、稚内までの表示を見たら「120q」と出ていました。もう焼けくそで、「氷雪の門」は零下三十度の吹雪の中で撮ろうか…とか思った。氷雪なんだし。


▼ 大和くん   [RES]
  あらや   ..2016/06/11(土) 07:56  No.457
  道新の連載、えのきどいちろうの「がんばれファイターズ」に「おっ」という話が。七飯町で行方不明になっていた児童の発見・保護の報道を受けて、

 そんな中で、ファイターズファンはちょっと違う見方をしていたフシがある。報道で写真が出回ったのだ。5月5日、札幌ドームの試合前イベントで中田翔からサインをもらう児童の姿だ。
 身に着けているのは、お手製の「北海道新幹線・GLAYコラボユニホーム」。球団公式の淡いグリーンのものでなく、通常のユニホーム、(たぶんお母さんが)「新幹線」を縫いつけ「GLAY」の文字を入れてくれた。そして、肩にはこいのぼりまでつけてくれた。
 後に記者から尋ねられ、中田は「覚えています。ユニホームにこいのぼりがついていた子」と答えている。中田も心配していた。僕もこの写真を見て「あ、お手製だ」と思った。確かに親御さんも反省されている通り、置き去りはよくないと思う。が、ファンなら機微がわかる。これは愛されて、大事に育てられている子じゃないかなぁ。というわけで、ファンは、とても人ごととは思えなかったのだ。
(北海道新聞 2016年6月7日/「がんばれファイターズ」568回)

めそめそしないで、すぐ動く。その日の内に鹿部町の自衛隊施設にもぐり込んだことが生死を分けたと思います。すごい子ども。

中田が小さなファンに向けて4日から11号、12号と2発の祝砲を上げた。ニュースで見てくれただろろか。
(同記事)



▼ 忘れ得ぬ戦禍   [RES]
  あらや   ..2016/04/11(月) 11:49  No.450
  去年は戦後70年でした。さまざまなマスコミが「戦争」特集企画を組んでいたのですけど、ひときわ目立ったのが北海道新聞です。一昨年の特定秘密保護法反対の勢いのまま「戦後70年」企画になだれ込んだような形で、一年間、これでもか、これでもかといったような雨あられ状態で「戦後70年」記事を書きまくっていました。(「80」年になったら、もうあの戦争を語れる人はほとんどいなくなってる…という危機感があったみたい)
おかげで、滝川に人造石油の工場があったとか、遠く南方パラオに道民がたくさん入植していたとか、へえ…という話がいっぱい出てきました。樽前山の米兵潜伏68日とかね。(戦争話に「面白い」は不謹慎なのかもしれないが、でも面白い…考えることが頭に溢れかえってくる)
それらの記事は去年の11月に『戦後70年 北海道と戦争』という上下巻2冊にまとめられて出版されたのですけれど、吃驚はそこでとどまらなかった。なんと、その一月後、今度は『戦後70年 忘れ得ぬ戦禍』という本が北海道新聞社から出たんですね。全道版での特集記事とは別に、空知とか胆振とかの各支局が独自の取材を繰り広げていたんです。
私の住んでる後志は小樽支局が「子どもたちが見た戦争」というチョロっとした記事だけですませちゃったので私は気にもとめなかったのですが、一冊の本になって全道各地の記事を読めるようになると、まあ凄い!どこの支局もスクープで炸裂してるではないの!
小樽は一足先に「80年」状態になっているんじゃないでしょうかね。これは最近特に感じるのですが、後志を語りたいのなら「まず小樽から」という発想はそろそろ捨てた方が良いのではないか。小樽しか知らない人間が語る「後志」は正直つまらないです。最近は明らかなミスも目立つようになってきているし。


 
▼ 進発の像  
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:03  No.451
   キャップランプの明かりで模擬坑道を歩く夕張市石炭博物館の「まっくら探検」。その出口、史蹟夕張砿に半ば背を向けるように、灰色の立像が建つ。夕張市指定有形文化財・採炭救国坑夫の像だ。
 「昔は台座の上にそびえ立っていたんだ。仰ぎ見たものだよ」。夕張市常盤の元炭鉱マン、相馬昭光さん(83)が教えてくれた。
 高さ3.63メートル。炭都・夕張の盛衰を見てきた立像は、戦時中の1944年(昭和19年)6月、「進発の像」として作られた。「進発」とは戦場に向かって出発すること。「銃後の戦線」と呼ばれた炭鉱で働く労働者の鼓舞が、目的だった。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/夕張の立像は語る 炭都の「銃後」と戦後)

あの彫刻ですね。
http://www.swan2001.jp/gallery1507b.html

 しかし、増産優先の乱掘で坑内は荒れ果てた。終戦後の1946年、夕張の石炭生産量は122万3050トンと激減した。国内の各炭鉱の出炭量も減り、石炭を燃料とする蒸気機関車の本数も全国的に削減され、1947年の列車走行距離は終戦時の6割にまで落ち込んだ。
 再び、政府による石炭増産運動が始まった。増産のシンボルだった立像に、新たな名前が与えられた。戦時体制を想起させる「進発」の文字は台座から消され、代わりに「採炭救国」と刻まれた。戦後復興の最前線との位置づけだった。設置場所も、事務をつかさどる鉱業所の前庭から、坑内労働者が集合する繰込所の前に移設された。
 労働者確保のため、炭鉱は住居も水道も無料とした。食料品も配給所で、後払いで購入できた。国外からの引き揚げ者や、空襲ですべてを失った人々が夕張に流れ込んできた。
(同書より)

現在の夕張の財政破綻の遠因も臭わせていて、秀逸な記事。

 
▼ 軍需生産美術推進隊  
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:11  No.452
   傷みの原因の一つに材質がある。屋外に像を設置する場合、御影石などの石像やブロンズ像が一般的だが、物資が欠乏した戦時中に作られたこの立像は、コンクリート製だ。(中略) それでも、「材料の割には良くできている。筋骨隆々とし、気迫あふれる表情。下から見上げることを意識し、足を太くして迫力を増している」。元夕張市美術館長の上木和正さん(65)は、「貴重な戦時美術品」と解説する。
 立像は当時の軍需省による「軍需生産美術推進隊」が制作した。洋画家鶴田吾郎氏(1890〜1969年)の呼びかけで芸術家47人が参加。1944年4月、東京の同省で結成式が行われた。設立趣意書に「軍需生産の拡充増強に挺身協力する」とある。
 実際に制作に当たったのは、同隊彫塑班の4人だった。院展同人で文展(現日展)審査員の中村直人氏(1905〜1981年)、帝国美術院賞受賞の古賀忠雄氏(1903〜1979年)ら、いずれも一流の彫刻家が同年6月に夕張を訪れた。
 彫塑班は入坑する「鉱兵」(鉱山労働者)のデッサンから始めた。顔は当時の北炭夕張鉱業所長の竹鶴可文氏(1891〜1980年)をモデルにした。NHK連続テレビ小説「マッサン」の主人公のモデル、竹鶴政孝氏(1894〜1979年)の実兄だ。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/夕張の立像は語る 炭都の「銃後」と戦後)

へえーっ、そうなの。吃驚。

数年前の国策紙芝居の発見とか、この「国策彫刻」の存在とかは、私の、日本人や文学者や芸術家を見る目をずいぶん変えたように思いますね。戦時中は沈黙していたとか、逼塞していたとか、そんなことは絶対にない。

 
▼ 支笏湖  
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:17  No.453
   手元に1枚の白黒写真がある。横一列に並び、片手を高々と上げるナチスドイツおなじみのポーズで立つヒトラーユーゲント(ヒトラー青年団)の団員たち。背景には、わずかに支笏湖の水面が見える。
 写真は1938年(昭和13年)9月、現在のモラップキャンプ場で撮影された。1936年(昭和11年)の日独防共協定を受けて親善活動の一環として全国を巡ったヒトラー青年団は、この北国の小さな集落にもやってきた。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/支笏湖−激動の時代映す水面)

へえ。今年の読書会でとりあげている針山和美氏にも『支笏湖』という作品があるよ。

当時、千歳市美笛やポロピナイ周辺は苫小牧の王子製紙工場などで使われた木材の一大産地だった。「大きな丸太をひもでつないだいかだを湖に浮かべ、船で引いて運んでいた」と鎌田さん。現在の温泉街付近まで輸送された丸太は、苫小牧につながる王子軽便鉄道「山線」(1951年に廃止)に積まれ、工場に運ばれた。
 1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が始まると、その丸太は戦意高揚を図る新聞紙に姿を変えた。軍施設の造材などにも使われ、1943年(昭和18年)には陸軍の兵士約230人が駐屯し、紋別岳で広葉樹のマカバを大量に伐採。練習用の航空機のプロペラに使われたとされている。
(同書より)

 
▼ GHQ  
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:22  No.454
   70年前も変わらずに透き通った水をたたえていたであろう支笏湖にも、戦争の記憶は残っていた。そして終戦から4年後の1949年5月、国立公園に指定された湖は、今度は「平和日本のホープ」に生まれ変わる。
 日本の復興に向けて、国際観光での外貨獲得を目指していた連合国軍総司令部(GHQ)は、観光の拠点となる国立公園構想に向けて全国の候補地を視察。「日本の国立公園候補地の中で恐らく最も重要なものだ」と報告されたのが支笏洞爺だったのだ。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/支笏湖−激動の時代映す水面)

これも、へえーっ。国立公園がGHQがらみだったなんて全然知らなかった。

 支笏湖の郷土史研究家・故高橋長助さんの記録によると、湖が国立公園となった2年後、意外な人物が湖畔に現れたという。GHQの最高司令官だったマッカーサー。トルーマン大統領との意見対立で「老兵は死なず、消え去るのみ」との言葉を残して米国に帰還した彼の日本最後の保養先が支笏湖だったというのだ。
 宿泊したとみられる王子製紙支笏湖別邸があった場所を訪ねる。現在の支笏湖ビジターセンター付近。1968年に別の場所に建て替えられた建物も今は周囲に草が茂り、時代の移ろいを感じさせる。
 当時の宿帳には、女性の筆で「マックアーサー 大和撫子」とあったという。高橋さんは記録の中で「大和撫子の正体は、女優の花柳小菊らしい」と書き残した。激動する時代のはざまで生まれた物語の一幕が、ここにもあった。
(同書より)

 
▼ 千歳支局  
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:27  No.455
  いろんな支局が頑張って書いているけど、千歳支局の頑張りは凄いですね。めまぐるしい戦争の波にもまれて生まれた千歳という街を書き切っているような気がします。ものすごく千歳に興味を持った。

 「当時はそれが当たり前だと思っていた。われわれが物心ついたころにはもう、日本は戦争をしていたから、戦争のない暮らしが想像できなかったんですよ」。石井さんは、そう振り返った。平和な時代に生きる私にとっては「非日常」の戦争が、石井さんにとっては「日常」だったのだ。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/千歳小−「日常」だった戦時生活)

 「日に日にまちの形が変わるようだった」。朝鮮戦争当時、小学生だった和田明彦さん(71)は、まちの変化をこう振り返る。終戦の年、千歳小の全校児童数は727人。商業者の子供たちが転入し、わずか8年後には3倍以上の2358人にふくれあがっだ。毎月50〜60人の転入生があったという千歳小は、午前と午後の2部制にしても教室が足りず、体育館を板で仕切って授業に使ったという。
 「米兵と女性が小学校のグラウンドにシートを敷いて、運動会を見物していた。当時はこういうもんだと思っていたよ」。
(同書より)

 「まるで西部劇の舞台。敗戦という言葉を忘れてしまうぐらいにぎやかでした」。今は亡き夫とともに、千歳市本町でビアホールを営んだ熊谷和子さん(87)は、当時のにぎわいをこう表現した。
 英語で書かれたビアホールやダンスホールの派手な看板。かすれたようなジャズの音が、店内から流れる。一晩で泡と消える大量のビールとドル札。肌を露出した赤や紫の衣装の女性たちがどこからともなく現れ、米兵と腕を組んで消えていく。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/千歳市清水町−繁華街に飛ぶドル札)

 
▼ 針山和美氏  
  あらや   ..2016/04/11(月) 12:32  No.456
   手元にある1枚の古い地図。「千歳街におけるパンパンハウスとビヤホール・飲食店図」と記されている。1950年代、米軍の進駐で街の風紀が乱れた。これを憂い、故千葉誠さんが実態調査して作製した地図は、日教組全国教育研究大会に報告された。地図に目をやる。市街地にびっしりと、位置を示す黒丸が付いている。
 「パンパン」は米兵相手に売春する女性たちを指した言葉。1950年の朝鮮戦争勃発で兵士を戦地に送り込む拠点の一つになった千歳は、死を意識して酒色を求める米兵であふれた。(中略) 1952年の調査では、ハウスは幸町や清水町、朝日町を中心に500軒を数えた。人口増加と急激な歓楽街の拡大で警察の取り締まりも追いつかない。千歳市史には「学校の教室や千歳神社、さては物置や馬小屋を無料ホテルにした」とある。
(戦後70年 忘れ得ぬ戦禍/米軍駐留の影)

当時の雑誌や新聞に「麻薬とドル買いの町ちとせ」「歓楽と騒音の街チトセ」「人肉のジャングル千歳」と大見出しが踊った千歳市を、針山和美さん、やはりちゃんと描いている作品があるんですね。脇方の勤労動員は書いているし、敵機墜落事件は書いているし、なにか、千歳支局と同じくらい良い仕事をしている。


▼ 函館本線小樽行   [RES]
  あらや   ..2016/02/01(月) 19:17  No.446
  旧聞に属しますが… 今年も、大晦日の日に小樽に帰る列車の人でした。冬は積雪で小樽の家に車を停める場所がないもので。

で、今年も定点観測。四十人くらいの車内に、本を読んでいる人、今年は(私の座っている場所からでも)四人ほどいましたよ。その中には、ペーパーバックスを手にしているオーストラリア人(ニセコですから…)も一人いましたね。すべて男性でした。女性は、すべてスマホですね。お洒落ってことなのかな。タブレット男を一人も見かけなかったのも今年の大きな特徴。


 
▼ ディスレクシア  
  あらや   ..2016/02/01(月) 19:19  No.447
  1月、早かったですね。あっという間に2月になっちゃった。

去年あたりから「この人、何?」という体験がいくつかあって、少しずつではありますが「ADHD(注意欠陥多動性障害)」とか「ディスレクシア(読み書き障害)」について書かれたものをチェックすることが増えています。言葉は大事ですね。長い期間「この人、何?」の状態が続いていたんですが、ある時、「ADHD」という言葉を与えられる機会があって、そこからはかなり急速に人の理解とか仕事の対応とかが進みました。

だから、「ディスレクシア」に気づくのは早かった。
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/access/library/0903_tomonken/koyama.html
ただ、「文字の見え方」の説明はピンとくるものがなかったですね。今、私が対面している「ディスレクシア(と思える事態)」からはかけ離れているように感じました。私が教えてほしかったのは、文字の「見え方」ではなくて、文字の「感じ方」なんです。

 
▼ ありがとう、チュウ先生  
  あらや   ..2016/02/01(月) 19:20  No.448
  これこそ、私にとっての「チュウ先生」でしたね。この画像に出会わなかったら、たぶん、あの人の理解は別のものになっていたかもしれない。

http://www.npo-edge.jp/educate/what-is-dyslexia/

このサイトに、深く感謝しています。

 
▼ パトリシア・ポラッコ  
  あらや   ..2016/02/01(月) 19:23  No.449
  「ありがとう、チュウ先生」は、こんな絵本です。

以前より、ポラッコの本(と、さくまゆみこさんの訳)はなぜか好きだったのですが、ディスレクシアを知ってからは忘れられない本になりそうです。人生はこんな風に生きるべきだ。


▼ ふれる彫刻   [RES]
  あらや   ..2015/12/23(水) 12:31  No.445
  近代美術館の「さとぽろとその時代」展にいってきました。田上義也の(私は)見たこと資料がいっぱいで予想外のおもしろさ。行ってみるもんですね。坂本直行が二中(札幌西高)の卒業生とか、こんなところで「学天則」とか、小ネタも多かった。

言ってみる…といえば、館内中央にあるブールデルの「力」。帯広の近美のブールデル「勝利」なら外庭なので写真OKなんだけど、やっぱりここは駄目なんだろうなあ…といつも思っていたんです。でも、この日はテンション高かったから総合案内の人に聞くだけ聞いてみたんですね。そうしたら、館内のホール部分は撮影OKだそうで、この時は、ほんと嬉しかったなあ。レストランしかないと思っていた二階に、なんと中原悌二郎の「若きカフカス人」を発見した時はほんと驚喜しましたよ。札幌の近美、えらい。

「アートで発見HOKKAIDO」もおもしろかった。木田金次郎と神田日勝の大きな二枚が壁にどーんと並んでいたのは迫力でした。本田明二の「けものを背負う男」に近づいて行ったら、おおっ!これ木彫じゃないか!(ほんとびっくり…) 木田金次郎が「大雪山」や「釧路」を描いていたり(岩内から一歩も出ない人かと思ってました)、なんか、いっぱい新発見北海道したなあ。

で、とどめはこれでしょうね。レファレンスルームでこのチラシを発見。
「ふれる彫刻」展 http://www.hongoshin-smos.jp/
街の中にある彫刻と美術館の彫刻の間に、なにか融和的な気運が生まれはじめていることを歓迎します。(「力」にはさわっていませんからね)



▼ 亡国記   [RES]
  あらや   ..2015/11/30(月) 20:31  No.442
  雪かきとか、食料品の買出しとか、銀行の払いとか、明後日の小学校出前図書館用の本読みとか、洗濯・アイロンがけとか、新聞記事の切り抜きとか、土曜に撮ってきた写真のアップとか…、そういう月曜定休日にやっておかなければならない一切を放棄して、北野慶「亡国記」を読み耽っていました。先ほど読了。月曜くらいちゃんとしたご飯とも思ったのだが、もう遅いか… いつものように酒飲んで寝てしまうだろう。水曜の出前図書館が終わったら、いろいろ書きたいと思ってます。

 
▼ 占領軍  
  あらや   ..2015/12/06(日) 19:08  No.443
  「北海道民の皆さん、私はドミトリー・キーロフ北海道占領軍総司令官です。本日、ロシア軍は無政府状態にある北海道を占拠しました。今後、この島はロシアの北海道占領軍総司令部によって統治されます。四月一日の大地震による島岡原発の大爆発で,日本国内はもちろん、極東ロシアをはじめとした周辺諸国を放射能で汚染したにもかかわらず、一切の責任を放棄してここ北海逍の札幌に避難してきた旧日本政府の岸辺三郎をはじめとした閣僚と中央官僚、ならびに中部電力をはじめ各電力会社及びその他の大企業の幹部等二千五百三十七名は、われわれの手によって身柄を拘束されました。同時に、北海道知事と札幌市長をはじめとする道内各市町村長はその職を解任し、その職は占領軍幹部たちに引き継がれました。また、北海道に駐屯していた国防軍組織と三万名の軍隊も本日をもって解体され、軍人はすべて武装解除されその職を解かれました。なお、北海道警察は占領軍総司令部の管轄下に入り、今後も警察職務を全うするでしょう。最後に、島岡の大事故にもかかわらず、危険な運転を続けてきた泊原発のすべての原子炉は、本日午後十時をもってその運転を停止します」
(北野慶「亡国記」)

なんとなく、これは百田尚樹「永遠の0」に対する左からの反論なのかな…とか思いつつ。

そうですか… この、久しぶりに落ち着いた生活も二〇一七年四月一日で終わりかい。

 
▼ 障害者差別解消法  
  あらや   ..2015/12/06(日) 19:42  No.444
  この「亡国記」、奥付ページに(私は初めて見る)見慣れない券が。で、券の横に説明文。小さい字(←視覚障害の人には優しくない)なので下に書き出しました。

本書の一部あるいは全部を無断で利用(コピー等)することは、著作権法上の例外を除き禁じられています。但し、視覚障害その他の理由で活字のままでこの本を利用できない人のために、営利を目的とする場合を除き「録音図書」「点字図書」「拡大写本」の製作を認めます。その際は事前に当社までご連絡ください。
また、活字で利用できない方でテキストデータをご希望の方はご住所•お名前•お電話番号をご明記の上、左下の請求券を当社までお送りください。

二〇一六年四月一日より「障害者差別解消法」の施行です。出版界も動き出しましたね。


▼ 図書館戦争   [RES]
  あらや   ..2015/10/17(土) 10:30  No.440
  「ラスト・ミッション」、おもしろかったです。(ま、「図書館法規要覧」を美術館に飾るセンスには苦笑いしたけど…) 観て、去年の今頃、「図書館資料デジタル化のこれから」を書いていた頃をちょっと思い出した。

スマホの普及が人間の生活様式や思考形態を変えたことは間違いありません。「これから」私たちは、驚くほどの低知能人間、言語や感情表現能力の壊れた人間を日常的に相手にしなければならないことになるのは確実だと覚悟しています。
図書館人の間にも、スマホにまつわる文化(?)に嫌悪感を抱く人は意外と多い。(私もその一人かもしれません) ただ、そのことと「図書館資料デジタル化」は、ちょっとちがう問題なのです。私が「図書館資料デジタル化のこれから」を書いているというと、お前まであっちの陣営に下ったのか!みたいな反応を同世代の図書館人から受けることが何度かありました。これがけっこう堪えた。
感覚的には、わかる面もあるのです。高度成長期のテレビの普及に対して、「このままでは日本中の子どもがバカになってしまう!」と危機感を抱いた図書館人が愚かだったとは思わない。八十年代のパソコンの普及・進化に対面した図書館人が、「コンピュータは図書館業務になじむ・なじまない」の大論争をしていたことを時間の無駄だったとは思わない。


 
▼ ラスト・ミッション  
  あらや   ..2015/10/17(土) 10:42  No.441
  「図書館は本の価値観を守る最後の砦だ!」と言う図書館人がいても不思議だとは思いません。ただ、図書館の現実はそういう方向には変化して行かないであろうことは、「図書館資料デジタル化のこれから」を書いた時に確信しました。
昔、図書館には、バカな司書と賢い司書がいました。仕事ができる司書と、仕事ができない司書がいたんです。蔵書五十万冊程度の図書館にも何十人もの司書がうじゃうじゃいたんです。「図書館システム(パソコン)」の進化は、いわば、その「バカ司書」部分を駆逐したと私は思っています。無資格者を含む誰もが平均的な図書館業務ができる世界に図書館を変えました。こうなるしかなかったのだと思います。
個人的には、「頭の切れる」(←今の人は「頭のキレた人」と思うから困ったもんだ)司書がいなくなって寂しいですけどね。

「図書館は本の価値観を守る最後の砦」という想いは、「図書館戦争」を観て発散することにしています。5.1サラウンドっていうのかな、今の映画は音が凄いやね…


▼ 毛綱毅曠   [RES]
  あらや   ..2015/10/13(火) 18:01  No.438
  釧路に行ってきました。
目的は、帯広に続いて、釧路近辺の本郷新作品を写真に収めたい…ってのと、あと、新館計画が発表され、その存続が心配されている現在の釧路市立図書館を今の内にちゃんと見ておきたいという二点でした。一泊二日の旅なので、それ以上(啄木関連を含めて)多くを望まないつもりだったのだけど、ちょっと、この釧路市立美術館の「釧路アートマップ」を見ていて欲が出た。
http://www.pekita.net/artmap.html
「毛綱毅曠」って、なんか凄くない… 特に、この「反住器」。


 
▼ (もづな・きこう)  
  あらや   ..2015/10/13(火) 18:06  No.439
  もう十五年くらい前になるのかな… 釧路に行った時には、街の建築物など何の気にもならなかったんだけど(「フィッシャーマンズワーフ」は目の前にあったのに…)、今回はちがった。「まなぼっと幣舞(生涯学習センター)」の最上階から見渡していると、なにか調子が変な建物がばんばん出てくる。(この釧路三慈会病院?みたいなのがごろごろ…) 車で普通の住宅街を走っていると、なにか、家づくりの文法が石狩や後志のものとちがっているように感じる。民家なんだけど、どこか毛綱っぽいというか。函館や旭川でも、つい先だっての帯広でも、住宅街走っていてこんな風に感じることってまずなかったのですが、釧路だけはそれがあるというか。(十五年前、いったい何見てたんだろ…)

毛綱建築、エターナル・プレイス北海道HPがわかりやすく紹介してくれます。
http://www7.plala.or.jp/pira/kushiro/kushiro1/mozuna/mozuna.html


▼ 彫刻の径   [RES]
  あらや   ..2015/10/08(木) 07:37  No.437
  帯広に行ってきました。
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-obimu/index1.html
お目当ては「猫まみれ展」だったのだけど、その北海道立帯広美術館の隣に「彫刻の径」ってのがあって、なにか本郷新も関係しているみたいなので、帯広に行ったらぜひ見たいと思っていたのです。

 「彫刻の径」制作趣旨(本郷新)
 十勝御影石による現代彫刻シンポジュウム
 十勝山系より産出される御影石(花崗岩)による彫刻作品数十点を帯広市緑ヶ丘公園内の処々に配置し、十勝の自然と造形の新しい調和を求め、清新にして芸術的環境を創造する。
 尚、シンポジュウム形式をとることにより、十勝(御影)石を彫刻素材とする空間造形の可能性の追求、並びに青年彫家相互の交流による立体造形の高揚を期待する。
 制作過程は一般市民に公開される。

あまり抽象彫刻って得意じゃないけど、近年、ハルカヤマの渡辺行夫さんの作品などを目にする機会が多くなってきて、なんとなく御影石(花崗岩)の質感というか、肌合いというか、そういうものに惹かれるようになってきています。「彫刻の径」、よかった。朝日が、森の木漏れ日となって彫刻にふりそそぎ、とってもいい雰囲気でした。



▼ 前川茂利 今度こそ   [RES]
  あらや   ..2015/09/19(土) 19:26  No.435
  小沢村の記録 克明に
故郷の入植者撮り続けた写真家・故前川さん
【共和】小沢村(現共和町小沢)の戦後開拓地に生きる人々を撮影し続けた同村出身の写真家前川茂利さん(1930〜99年)の作品展「きょうわのくらし」が、町南幌似の西村計雄記念美術館で開かれている。農業不適地で開墾のくわをふるい、夢破れて離農していった入植者たちの生きざまが、モノクロ写真で克明に写し出されている。
(北海道新聞 2015年9月8日 小樽後志版)

今度こそ逃してなるものか!の気概で行ってきましたよ。
よかった…

遺族が資料寄贈 西村美術館で初の個展
町が2013年6月、前川さんの遺族から作品パネルやフィルムなど数万点に及ぶ資料一式の寄贈を受けたことで実現した。同美術館で前川さんの個展を開くのは今回が初めて。
前川さんが撮った開拓地には、敗戦後の食糧難だった48年に樺太からの引き揚げ者や東京の戦災者ら農業未経験者45人が入植。しかし、この土地は明治の入植者が凶作などで手放した「不毛の大地」で、戦後入植者もついには全員が離農する憂き目にあった。
前川さんは郵便配達をしながら戦後入植者たちを20年以上にわたって撮影し、82年に写真集を出版。69歳で亡くなるまで、地域に根ざした人々の暮らしを記録し続けた。
2日に始まった企画展は、入植から離農までを記録したシリーズ「開拓地のくらし」を中心とした約100点を展示。草原でヤギと遊ぶ子供たちや、耕すたびにた<さんの石が出てくる畑、最後の1人の離農など、入植者たちの力強さや農政の無策に対する怒りが表現されている。
10月12日までで、入館料は一般500円など。期間中は町役場のロビーと町生涯学習センターにも前川さんの作品を計14点展示している。
(同記事)

皆に紹介したい。ある意味、土門拳より凄いんじゃないか。


 
▼ 写真アルバム 小樽・後志の昭和  
  あらや   ..2015/10/07(水) 19:34  No.436
  新潟県長岡市のいき出版から「写真アルバム 小樽・後志の昭和」が出版されました。この手の本は十年に一度くらいの間隔で出版されているのですが、前回と大きくちがうのはテーマを「昭和」に限定したことでしょうか。
「昭和」の大きな特徴は、カメラの普及。明治・大正の金持ちの道楽品だった時代を大きく抜け出し、前川茂利のような庶民でも頑張ればカメラを手にすることができる時代に入ってきます。そして、戦後・高度成長期のオリンパス・ペンの登場。
従来の、博物館が持っているような決定的な歴史資料としての写真の集まり…というような重厚さはないんだけど、初めてカメラを買った庶民が楽しそうに撮った一枚一枚が紙面に溢れかえっている今回の造りはなかなかユニークです。そういう造りの中で、「前川茂利の見た後志」に18ページを割いているのは正しい。これが見識というものです。
ただ、第七章「後志の鉄道」には首をひねった。15ページの紙面に、「胆振線」写真が1枚だけというのはあんまりではないか。「後志」の意味を大きく損ねている。戦争もあった「昭和」という時代を表現しているとはとても思えない。単なる鉄ちゃんの感傷写真集ではないだろうか。今回も、(小樽に戻るとよく感じる)小樽を一歩も出たことのない人間たちが、なにか「後志」を語れるつもりになっている様子が目にちらつきました。
もう、「小樽」抜きで「後志」(←「山麓」ってことですけど…)写真集をつくるくらいのことをやらないと斬新さってないんじゃないかなぁ。「小樽」を外して、「虻田」を加えるくらいのことをやらないと、新しい歴史観は生まれないよ。








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