| TOP | HOME | 携帯用 |



読書会BBS

 
Name
Mail
URL
Backcolor
Fontcolor
Title  
File  
Cookie Preview      DelKey 

▼ 隠蔽捜査   [RES]
  あらや   ..2018/03/22(木) 09:52  No.442
  「美紀と話をしてくださいね」
「子供のことはおまえに任せてある」
「結婚の話ですよ。しかもお相手は、あなたの元上司の息子さんだし……」
「良縁だ。何の問題もない」
「美紀は迷っているようですよ。なにせ、まだ若いですし……」
竜崎は、新聞をめくり必要な情報を頭に叩き込もうとしていた。
「わかった」
また生返事をする。
  (中略)
五紙全部に目を通し終えたとき、息子の邦彦が寝間着代わりにしているトレーナー姿で現れた。
「朝ご飯は?」
妻が邦彦に尋ねる。
「コーヒーだけくれよ」
竜崎は新聞をたたんでテーブルの端に置いた。
「予備校はちゃんと行ってるんだろうな?」
尋ねると邦彦は、眼を合わさぬままこたえた。
「ああ。だからこんなに早起きしてるんじゃないか」
(今野敏「隠蔽捜査」)

ふーん、うちの家族構成と同じだ…


 
▼ 果断  
  あらや   ..2018/03/22(木) 09:56  No.443
  「お母さん、だいじょうぶ? 顔色が悪いわよ」
竜崎はその言葉に驚いて、妻の顔を見た。たしかに、いつもより顔色が悪い。朝起きてからずいぶんと時間が経っているが、まったく気づかなかった。
「ちょっと、胃の具合がね……」
「無理しないで、寝てなさい」
竜崎が言った。
「あたしが寝てたら、あなた朝ご飯を食べられないでしょう?」
「もう朝食の用意はできている。だから、寝ていいと言ってるんだ」
「ちょっと、お父さん、その言い方ってないでしょう?」
美紀が竜崎を睨んだ。竜崎はぽかんと娘を見返した。
「なぜだ?」
「朝食の用意が済んだらもう用はないから寝ろってこと?」
「料理を始める前に母さんの不調に気づいたら、別の対処法があったかもしれないが、実際にもう朝食のしたくは終わっているんだ」
「どうしてもっと早く気づかなかったのよ」
「新聞を読んでいた」
(今野敏「果断 隠蔽捜査2」)

家族の朝食風景から始まる書き出しはいいね。『隠蔽捜査』が2005年、『2』が2007年の出版。美紀の就活が描かれるのには理由があると思う。

 
▼ 就職氷河期  
  あらや   ..2018/03/22(木) 10:03  No.444
  就職氷河期の一時終結と既卒者の就職状況
2000年代半ばの輸出産業の好転で、雇用環境は回復し、2005年には就職氷河期は一旦終結した。新卒者の求人倍率は上昇し、2006年から2008年の3年間は一転、売り手市場と呼ばれるようになり、有効求人倍率は2006年から2007年にかけて 1 を上回った。13年近くにわたる採用抑制の影響により、多くの企業で人手不足となっており、労働環境が苛酷になるブラック企業が増加した。
(ウィキペディア)

就職氷河期は脱したみたいだが、この不景気の十年間が若い人たち(特に中・高生)に与えた傷は相当に深いものではないかと考えています。人生観や世界観がかなり変わった世代が生まれた。で、現場は、たぶんあそこだった…と。この感覚は現在まで続いていて、湧学館にいた時なんかはひしひしとそれを感じていました。後遺症みたいな。

『隠蔽捜査』、面白いですね。(今ごろ…)

 
▼ 疑心  
  あらや   ..2018/03/22(木) 10:15  No.445
  「何だ、あれは……」
竜崎はつぶやいていた。妻の冴子の声が台所から聞こえてきた。
「あなた、高校生とかの頃に、好きだったアイドルはいなかったんですか?」
言われて考えてみた。
「記憶にないな」
「きっと、邦彦は、その山咲真美ってアイドルに夢中なんですよ」
「受験勉強の最中だろう。東大受験は甘くないぞ。一心不乱に勉強するくらいの覚悟がなければ……」
「それとこれとは、別問題ですよ。若い子は誰だって自分だけのアイドルがいるものです。疑似恋愛みたいなものですかね……。そこからやがて本当の恋愛に移行していくんです」
「疑似恋愛……。それ自体が無意味だと思うが……」
「意味があるとかないとかじゃないんです。好きになるのはどうしようもないんです」
「そういうものなのか..」
「まったく、こんな唐変木、見たことない」
唐変木などという言い方は、今時死語だろうと思った。
(今野敏「疑心 隠蔽捜査3」)

『疑心』の出版は2009年3月。初出は、「小説新潮」の平成20年(2008年)の6月号〜10月号です。この日付は大事かもしれませんね。というのは、

2008年9月15日。今から思えば、この日が世界経済の「転機」になった。この日、米国の誇る大手投資銀行であるリーマン・ブラザーズは、連邦破産法11条を申請し、破綻した。
(真壁昭夫「2009年世界経済が「100年に一度の危機」を乗り越えるために」)

リーマン・ショック直前の、竜崎家ではありました。


▼ 寮生 一九七一年、函館。   [RES]
  あらや   ..2018/03/04(日) 18:43  No.439
   勉強しながら聴く、ラジオの深夜放送が好きだった。
 道央の町に住んでいるときは、北海道放送(HBC)の深夜放送を聴いていた。『オールナイトほっかいどう ヤング26時』という番組だった。ローカル局の人気ディスクジョッキーがいたのだ。
 白馬康治、柴田恭、バード山本、金子亭ピン助、黒沢久美子……。
(今野敏「寮生」)

ふーん、こんなにディスクジョッキーいたっけ? 白馬康治が毎晩出ばっていたような印象ですけど。どうして北海道はこういう変な頑張り方をするんだろうって、当時も思ってました。「パックインミュージック」が聴きたいだけのに、なんでこんな陳腐な道民たちにつきあっていなきゃならないのか…と。

1955年の三笠市生まれとあるから、私と三つ違いですか。70年安保を高校三年で迎えるのと、中学三年で迎えるくらいの違いですね。(←この小説のキモでもありますね。) 函館ラサールの一年、二年、三年生の違いとか、遺愛の二年生という設定が上出来でした。今野敏の本読むのこれが初めてなんだけど、『隠蔽捜査』読んでみようかな。


 
▼ 1991年  
  あらや   ..2018/03/16(金) 18:04  No.440
  「コピーの脇にある機械は何だい?」
 佐伯は尋ねた。
「レーザー・ファイリング・システム」
「何だって?」
「レーザー光線を利用するコンパクト•ディスクというのはご存知ですね。そのコンパクト・ディスクにデータを入力したり、検索したりする機械です。つまり、コンパクト・ディスク一枚が、ファイリング・キャビネットに当たるわけです。コンパクト・ディスク両面にA4で約一万枚のデータが入力できます」
(今野敏「潜入捜査」)

私にとっては「やあ懐かしいな…」としか言い様のない時代。1991年(平成3年)。小樽に来た年だったかな。車にスワン社機材の一切合切を詰め込んで北日本フェリーで来たんだけど、その時のパソコンはNECの16ビットパソコンだったと思う。まだ「ケータイ」は登場していない。勤めた女子短大で、ただの小型電話だった携帯電話が、デジカメやメールができるくらいまでに進化した十年間の女の子の変化を眺めてすごすことになる。

なんで、こんな昔の本を読んでいるかというと、『隠蔽捜査』が常時貸出中で、なかなか第1巻から揃わないから。この本は、1991年『聖王獣拳伝』(←時代だね!)のタイトルで天山出版から出たものが、『隠蔽捜査』ヒットのあおりをくって再発されたものらしい。書架にはこういうものしか残ってない。私は全然OKですけど。

 
▼ 2010年  
  あらや   ..2018/03/17(土) 09:10  No.441
  「おまえの得意のインターネットで調べてみたらどうだ?」
「あ、そうですね」
木島は携帯電話を取り出して、しきりにボタンを押しはじめた。
皮肉のつもりで言ったのだが、通じない。木島が手にしているのは、普通の携帯電詁には見えなかった。つい、興味を引かれて尋ねた。
「それ、何だ?」
「携帯ですよ」
「ただの携帯には見えないけどな……」
「ノキアのスマートフォンです。海外では、これを持つのはジャーナリストやビジネスマンの常識ですよ。フルブラウザなので,パソコンのサイトが見られるんです」
「日本ではあまり普及してないな……」
「キャリアのシステムが海外とは違いますからね。まったく、日本のキャリアはどうかしてますよ。ワンセグだ、ミュージックだ、ムービーだって、くだらない機能ばかり優先して、こういう基本的に大切な機能を持つスマートフォンをないがしろにするんだから……」
木島の携带電話についての講釈など聞いているつもりはなかった。
(今野敏「天網 TOKAGE 2」)

スマホ前夜。

2011年2月、千葉の峯崎ひさみさんを訪ねた時、東西線の中で向かいの座席の男がやってる動作が変だ。指で何かやってるのだが、子どものゲーム機でもないし。何、あれ?
というのが最初の目撃だったのかな。その年の大晦日、小樽へ帰る電車の中で、声高にケータイで話しているオバサン以外、全員下を向いてスマホとお話している光景を目にすることになる。


▼ しんせかい   [RES]
  あらや   ..2018/02/25(日) 18:07  No.438
  女子カーリングで全世界に飛び交っている北海道弁について書きたいなーと思ってたのだけど、「人間像」第30号と格闘している内に、世界の方が「そだねージャパン」まで一気に駈け上がってしまった。まあ、いっか。

 さっき預けに行って来たしょ。見てたしょ
 聞きなれない方言だ。いや聞いたことがある。北海道だ。「そうだよ」男はいった。明日受けるそれは北海道にある。富良野というところだ。
(山下澄人「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」)

三年前の芥川賞なら、待たなくても借りられる。で、湧学館の時には「読まなくちゃなー」とか思ってる内に読み忘れたものを今頃読んでるわけです。『しんせかい』はフツーでした。『限りなく透明に近いブルー』の昔から、自分の青春は何ものにも代えがたいほど大事なものなのだろうけど、私にはフツーでした。(芥川賞審査員はこの手に弱いね…) わずかに希望を感じたのは、同じ本に収録されている『率直に−』かな。この「富良野」の出し方はカッコいい。

「そだねー」もよかったが、北朝鮮の猿芝居をぶっ飛ばした女子アイスホッケーには大拍手です。あの試合以後、北朝鮮の何たら美女応援団が間抜けそのものに見えた。今日のテレビ見ても、「まだ居たのかー」という感じ。旧世界だわ。



▼ 虚洞   [RES]
  あらや   ..2018/02/03(土) 13:31  No.437
   云えばそれだけかも知れない。アプレと多情女。二人に変質者の代名詞を与えさへすれば、事件の本質は表面上丸く納るかもしれない。然し宮脇は〈同年代の男〉として〈絶望的情欲をかき立てた女〉として、此の二人に直接つながつていそうな気がして、死者を嘲笑しているような記事にレジスタンを感じた。アプレとは何か。戦争下に生れ育つて来た人間の、傷だらけの精神を理解しようとせず、古めかしい既成観念だけで、世人は青年を一方的に非難しようとしている。多情女とは何か。デモクラシーの看板の裏では、自由など何一つも許されていない。その中で、せめて肉体だけでも、自由に生きようと悶えた女なのだ。多情なんて軽々しく云うけれど、世の薄情者よりは、多情の方が余程尊いでわないか。
(門脇幸夫「泣きつ面」第四回)

あのガリ版刷りだった「人間像」が、よくぞここまで来たものだ! そう感じさせるのが、門脇さんの『泣きつ面(「虚洞」第二部)』でしょう。「人間像」第28号までの中でも断突の長さの作品故、ここまで引っぱって来て最後でコケたらどうしよう…(同人に与えるショックも相当だろうな…)とかなり本気で心配していました。

先ほど『泣きつ面』デジタル化、完了。心配など無用でした,。見事なフィニッシュだった! 「人間像」の同人たちは、この後、このレベルを引き受けて作品を書かなければならなくなった。武者震いですね。門脇さんの名前、第35号あたりで消えてしまうんですね。惜しいです。でも、ここまで自己や時代を突き詰めたなら、本望だったのかもしれません。



▼ ロマノフ帝国   [RES]
  あらや   ..2018/02/02(金) 09:22  No.436
   「みんな聞いてくれ。ロマノフ軍の北海道上陸、いや本州上陸さえも、ないとは言えない情況のようだ。もはや現実のものと考えてよい。〈緊急プランQ号〉に従い、各自、電話の不通が復旧次第、道東方面の取引先へ連絡し、もし引き上げるのであれば、わが社の室蘭倉庫に集結待機するようにと伝えてくれ。実は、わが社は貨物船を室蘭港に待機させてある。戦況の進展次第で出港日を決めるが、時間はあまりないと考えたほうがよい。ロマノフ潜水艦隊の能力は決して侮れない。いつ、わが国全港湾に対する封鎖作戦が行われるか、予断を許さぬ切迫した情勢と考えてくれ」
 その日の午後には、小樽支店社員の家族は赤井川に疎開した。ここまで退避すれば比較的安全に、倶知安→喜茂別→伊達経由で室蘭に向かうことができるからだ。
(荒巻義雄「ロマノフ帝国の野望」)

うーん、いいですねえ。(今、窓から見える小樽湾に軍艦島みたいな船が通っているけど、何だろあれ…)
演歌みたいなもので、「日露戦争で日本が負けていれば」という着想(メロディー)が生まれれば、そこへ自在に「小樽」や「倶知安」というフレーズを組み込んで行くんですね。楽しめます。



▼ ル・グウィン   [RES]
  あらや   ..2018/01/26(金) 09:50  No.434
  ル•グウィンさん死去 88歳 「ゲド戦記JのSF小説家
【ロサンゼルス共同】米メディアによると、ファンタジー小説「ゲド戦記」などで知られる人気SF作家アーシュラ・K・ル・グウィンさんが22日、西部オレゴン州ポートランドの自宅で死去した。88歳だった。詳しい死因は不明。数ヶ月前から体調を崩していた。
 1929年、西部カリフォルニア州バークリー生まれ。ニューヨークのコロンビア大などで学んだ後、フルブライ卜奨学生としてパリに留学。歴史学者と結婚後、夫がポートランド州立大教授となったため、ポー卜ランドで生活し、50年代末から小説を書き始めた。
 68年に「ゲド戦記」の1作目「影との戦い」を発表し、2001年まで6作を出版した。69年の「闇の左手」で優れたSF作品に贈られるネビュラ賞、ヒューゴー賞などを受賞、広く知られるようになった。
 作品は各国で翻訳され、日本にもファンが多い。06年には「ゲド戦記」をスタジオジブリがアニメ化した。
(北海道新聞 2018年1月24日夕刊)

悲しい。どんどん時間との戦いになってきている。「ゲド戦記」については、元太君との懐かしいインタビューがあります。元気でやってるかい。

http://lib-kyogoku.jp/yugakukanhp/PDF/paper/paper46.pdf


 
▼ ナタリー  
  あらや   ..2018/01/30(火) 13:43  No.435
   ナタリーは『嵐が丘』を愛読している。ブロンテ一家のこともよく知っていた。百五十年前、イングランドのどことも知れぬ田舎の牧師館に住んでいた四人の天才たち。どれほどさみしい日々を送ったことだろう? ナタリーがくれた伝記を読んで、気がついた。自分は孤独だと思っていたが、このきょうだいにくらべたら、ぼくの生活なんて賑やかな社交パーティの連続だ。それでも、ブロンテきょうだいはおたがいの存在に支えられていた。
(アーシュラ・K・ル=グィン「どこからも彼方にある国」)

図書館に荒巻義雄を借りに行ったら、児童書架に見つけたので。

へえ、ル・グウィンも『嵐が丘』なのか…(小さな共感) あれはサルトルの『嘔吐』だったろうか、旅のホテルの部屋に入ったボーヴォワールがまず一番に行うこと、それは、エミリ・ブロンテの肖像画を壁に掛けること…っていう場面が妙にこの歳まで印象に残っているんだけど。それに似たような共感ですね。

1976年のアメリカ(西海岸?)のヤングアダルト小説が、なぜ2011年のあかね書房(おお!懐かしい。まだ健在なのね…)から出版されるのかよくわからないが、小樽の図書館にあったのはラッキーでした。


▼ 東京の下町   [RES]
  あらや   ..2018/01/18(木) 18:53  No.432
  初期「人間像」デジタル復刻と併走するように半年間読み進んで来た『吉村昭自選作品集』(新潮社,1991)ですが、ついにラストの『別巻/東京の下町ほか』です。

吉村昭。昭和2年、東京日暮里の生まれ。針山和美氏が昭和5年の倶知安生れですから、例えば、敗戦直後の昭和21〜22年なら、吉村昭は学習院高等科文科甲類に合格、針山氏は戦中の勤労動員から倶知安中学に復学といったように「大学/高校」「東京/北海道」といった微妙な違いが大変興味深かった。勉強にもなった。さらに、吉村昭は昭和23年の肋骨5本を切除する大手術を挟みますから、それぞれの同人雑誌時代が微妙に重なって来ていて、それぞれの作家にとって転換点にあたる重要作品、例えば吉村昭なら『少女架刑』、例えば針山氏なら『百姓二代』を書いたのがこの歳だったのか…みたいなことをよく考えました。いい体験でした。


 
▼ やみ倉の竜 ほか  
  あらや   ..2018/01/18(木) 18:56  No.433
  というわけで、ポスト「吉村昭」というか…

夜、布団の中で読む本を探して放浪中です。しかたないので、佐々木譲『真夏の雷管』も、若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』も、リクエスト出しました。『真夏』が24人待ち、『おら』が7人待ち。『おら』が7人で済んだのは、リクエスト申し込んだのが芥川賞受賞前だったから。(ラッキーと言えるのかな…)

柏葉幸子+佐竹美保の『やみ倉の竜』は「北海道青少年のための200冊」コーナーに別置されていたのをたまたまゲット。よかった。でも、同時期に発売された『涙倉の夢』はついぞ書架で見たことがない。(もうこれもリクエストかな。読みたい本は全部リクエストで出して、届いたものから読んで行くような生活になって行くのかな…これからは)

「小樽」本ということで借りて来た二冊。一冊は駄作もいいところでしたね。名誉も生活もあるのだろうから著者名も書名も明かさないが、こんな本、紙資源の浪費だ。もう一冊、荒巻義雄『ロマノフ帝国の野望』は今夜から読書開始。


▼ 水の葬列   [RES]
  あらや   ..2017/12/31(日) 17:04  No.431
  今年最後の読書は吉村昭『水の葬列』でした。いろいろな変化があった一年をこのような作品で締めくくることができて幸福です。吉村昭から貰った「虚構小説」という概念をこれからも大切に大切に持っていたい。

 たとえば『水の葬列』の場合は、こんな風であった。或るダム建設工事の技師と酒を酌み合っている時、かれが、工事の現場近くにある渓流に流れてきた朱色の椀のことを口にした。その上流に人は住んでいないとされていたので、不思議に思って調べてみると、上流に小さな村落があった。その地の人は、山を越えた向う側の村としか交流がなかったので、こちら側の町村の人たちは、そのような村落があることを全く知らなかったという。
 その話に私の触角は刺戟され、脳の細胞も一斉に動き出して、『水の葬列』の小説世界が築かれていったのだ。
(「吉村昭自選作品集」第十五巻/後記)

この流れの向こうに、このような概念が潜んでいることを知らなかった一人でした。私も。



▼ 百姓の子   [RES]
  あらや   ..2017/12/27(水) 10:59  No.426
   新有島記念館は赤く燃えるレンガの壁、その外形は大地に凍てつく白い炎。欧州の教会を思わせる建築……… 万縁の中に白い和服の貴婦人の如く静かなたたずまいを見せており、昆布獄に身を落す太陽が赤々と有島の里に照を残していた。
「人は自然を美しいという。然しそれよりも自然は美しい。人は自然を荘厳だという。然しそれよりも自然は荘厳だ………。」有島武郎の「自然と人」の一説を辰三は残照の中で一人つぶやいて居た。
(阿部信一「百姓の子」)

冒頭、書き出しを同じに揃えて、片方は『有島の大地』というエッセイへ。そしてもう片方を『百姓の子』という小説に進化させる…という大技を「京極文芸」で見た時は吃驚しましたね。「辰三」という人間描写の中に「阿部一族」の来歴のすべてが流入してきて、作品の厚みを何倍にも増すことに成功しています。

十年間で十五冊を発行した「京極文芸」。その創刊期から中盤までのチャンピオンはもちろん針山和美氏といっていいでしょうが、その針山氏は第11号の『重い雪のあとで』を最後に作品を発表しなくなります。それと入れ替わるかのように、彗星の如く第12号『濃霧の里』で登場して来たのが阿部信一氏なのでした。以降、第13号で『有島の大地』、第14〜15号で『百姓の子』と大爆発。第15号での終刊、針山氏にも納得するものがあったのではないでしょうか。


 
▼ 屠殺  
  あらや   ..2017/12/27(水) 11:07  No.427
  私は、『百姓の子』の、『カインの末裔』ばりのバイオレンス描写にシビれていた一人です。ストレートに「少年」の目を通して描かれた「有島の大地」には暴力も血もなにもかも精神の高みへ浄化する何かがある。そして、阿部さんには俳句という必殺技があって、なにげない風景描写のひとつひとつに情感やドラマが立ち上がる。屠殺目撃の帰り道、川の流れに頭を突っ込んで飲む水の向こうに地獄の針の山で苦しむ父ちゃんの姿が見える…なんて場面、もう最高でしたね。

「ね! 辰三さん。又、乗せてね。きっとよ約束ね」右手の小指を突き出した。
「ウン! 約束するよ」小指をからませた。
 彼女の家の前で馬車を止める。彼女を飛び降ろさせるわけにはいかず、抱き降ろすことになる。教科書の入ったカバンを受け取ってから両手を突き出した。彼女は当たり前とばかりに辰三の胸に飛び降りる。
 その瞬間、彼女の唇が辰三の唇にふれた。瞬間の出来事だったが辰三は、とんでもない事をしてしまったと全身に震えがきているのに気がつく。
「さいなら」すばやく馬車に飛び乗ってドンの尻を打つ。ドンは、ふいに打たれたのでいきなり後足で宙をけってかけ出した。
「辰三さん。辰三さん。待ってよ」彼女の声には振り返らなかった。
(阿部信一「屠殺」)

『百姓の子』には皆無だった要素、「少女」。それも「東京から転校してきた少女」ですからね、かなり驚いた。(ライブラリーに搭載しましたので、ぜひご一読を)

 
▼ 吉太郎  
  あらや   ..2017/12/28(木) 10:10  No.428
  『百姓の子』に「少女」が皆無と書いたけど、皆無じゃなかったですね。立たされている辰三にオウムの絵の筆箱くれた女の子もいたか。まあ、いいか。それより気になる点が阿部さんの作品には時々出てきます。

 祖父母から父養吉の時代と移って行く。この中に父養吉の人生に大きな役割りを持つ二人の人物に遭遇する。
 その一人が、有島武郎が三十九歳にて発表した「カインの末裔」のモデルと考えられる広岡吉太郎(本人は長男だから吉次郎ではなく吉太郎だと言っており近所の者も広岡吉太郎と呼んでいた。)の隣に住む事に成る。
(阿部信一「有島の大地」)

へえーっ、「吉太郎」。「人間像」第18号には、針山和美氏が『吉太郎』という短篇を発表していますね。まあ、『吉太郎』は『カインの末裔』とは何の関連もない話なんですけれど、なにか山麓のこの地域には、荒ぶる者、人の域を越えている者に対して「吉太郎」みたいな符丁があったのだろうかと思ったりしますね。

 
▼ 丸茂  
  あらや   ..2017/12/28(木) 10:14  No.429
   この時は、すでに広岡一家は小作人として入っていた。
 広岡吉太郎の長男勇作とは喧嘩友達で、父養吉の方は年上で体も大きく強かったので、喧嘩も角力もいつも勝って居た。
 父養吉が十七歳の時にわか山子と成るべく広岡の指導を受ける。広岡は自分を慕ってくる者を可愛いがった。気質の似た父養吉には特に目をかけた様である。
 広岡は親分肌でめんどうみの良い男として知られていたし、性格は荒く弱い者いじめをする者にはいつも立ち向って居た様だ。
 地主と小作人との関係についてのとらぶるや、丸茂博徒との間に首を突込んだり、小作人のために良く働いた。
(阿部信一「有島の大地」)

じゃ、『百姓の子』(『屠殺』)の「三太」のモデルは「勇作」なのかな。

ここで「丸茂」に遭遇するのも吃驚ね。「丸茂」については、花村萬月『私の庭』がお薦めです。性描写が凄いので子どもには薦めないけど、大人なら別。北海道開拓の実感を摑むには必読文献と私は思ってます。公式の、真面目な開拓史本ばかり読んでると馬鹿になるよ…という含みを込めて、わざと『私の庭』をお薦め本に一冊こっそり混じえたりしますね。(だからメジャーになれないんだけど…)

 
▼ 有島の里  
  あらや   ..2017/12/28(木) 10:19  No.430
   私が有島武郎に関心を持ったのは、「カインの末裔」のモデルと考えられる、広岡吉次郎である。
 新有島記念館が出来てから、案内をたのまれて記念館を訪れる事が多いが時々団体の一行と一緒に成る事があるが、案内者の説明を聞いて居ると、「カインの末裔」のモデル、広岡吉次郎という人は小説に出てくる様な極悪人だったそうだ。年貢を納められなく成って小樽へ逃げて行ったそうです、と声高に話している事を聞くと何んとなく自分には直接関係も無いのに気に成る。
 父養吉が死ぬまで一度といいから小樽市の広岡吉次郎宅を訪問したいと口ぐせの様に言っていたので、昭和五十一年十一月三日に車で広岡家を訪問する。
(阿部信一「有島の大地」)

ふうーん、そんな馬鹿ガイド、いたのか。全然『カインの末裔』読めてないじゃん。知ったかぶりもいいところだ。今年の年貢が払えないことについての広岡仁右衛門の弁舌なんて近代的理性そのものですよ。荒ぶる肉体と近代的理性の合体という、大正六年の日本人が考えてもいなかった造形がどれほど当時の文学者に衝撃を与えたか!、それが『カインの末裔』の醍醐味なのに、馬鹿ガイドのおかげで台無しになっちゃった。新谷さんにガイド頼めば、大正六年の『カインの末裔』と明治四十三年の啄木『一握の砂』の意味についてしつこいくらい説明したのに。

なんか、『有島の大地』のベースになった『有島の里』もデジタル化したくなってきた。


▼ 標本   [RES]
  あらや   ..2017/12/25(月) 08:52  No.424
  「望月さんは声をあげなかったとききましたが、痛みには個人差というものがあるのでしょうか」
 私は、当時ひそかに考えていたことを口にした。
「多少はあるでしょうが、骨を切断する時、神経も一緒に切れるし、それは耐えられない痛みだと思いますよ。あなたも御存知のように……。あの人は、手術中に、先生、しくじらないで下さいね、みたいなことを言ったりしましてね。これには参りましたよ。手術中に患者さんから声をかけられるのはやりにくいし、いやですよ。手術中は、やはり全身麻酔で患者さんに眠っていてもらわないとね」
(吉村昭「標本」)

ひえ。望月久子、凄い。凄いもん、読んぢゃった。

「記録を見ますと、望月さんは、三年間は再発もせずにいたようですね」
「そうでした。何年か後まで時々検査に分院へ来ていましたよ。たしか三、四年してからでしたが、子供を産んでもいいかと言いにきましてね。たしか、いい、と答えたはずです」
 氏の言葉に、望月久子のベッドのかたわらに坐っていた男のことがよみがえった。一般的に十二本も肋骨を切除された娘が嫁ぐことは至難のはずだが、婚約者だと言っていたその男は、彼女の不利な条件も意に介さず結婚したのだろうか。
「望月さんは、今でも生きているのでしょうか」
彼女が生きていれば、六十三歳になっているはずだった。
「さあ」


 
▼ 炎のなかの休暇  
  あらや   ..2017/12/25(月) 09:03  No.425
  小樽に戻って来てから始まった「吉村昭自選作品集」(新潮社)読書。現在、第十四巻です。あと、最終巻(第十五巻)と別巻を残すのみ。最初は、めぼしい新刊書が貸出中で全然書架になく、予約するにも「七十人待ち」なんて事態を到底受け入れられず、昔取った杵柄みたいな感じで始まったんだけれど、なにかガリ版時代の「人間像」復刻作業にペースが合っていて、たらたらと今に続きました。新聞書評の年間ベストを見てみると、ずいぶん読み落としている本も多かったけれど、列の七十一人目に並ぶかどうかは、まだ迷ってる最中。

 戦後、戦争は軍部がひき起し持続したものだ、という説が唱えられ、それがほとんど定説化している。しかし、少年であった私の眼に映じた戦争は、庶民の熱気によって支えられたものであった。私は、自分の見た戦争をいつかは率直に書きたい、と強く思っていた。
(吉村昭「私の文学的自伝・十四」)

『炎のなかの休暇』は、吉村昭の気迫が充満し、私小説の技量が隅々まで行き渡った佳作でした。というか、第十四巻全体がバランス良い「吉村昭」集合体でした。








     + Powered By 21style +