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▼ 少女架刑   [RES]
  あらや   ..2017/08/02(水) 09:25  No.403
   この短篇小説集におさめた十四篇は、二十四歳から三十九歳までに発表した短篇で、つまり、初期作品である。
 久しぶりにこれらの短篇を読み直し、ある感慨にとらわれた。
 年齢を重ねた現在、小説を書く上で私は、若い時には持ち得なかったなにかを確実に得た、という思いがある。そのことに満足感もいだいているが、若い折に書いたこれらの短篇小説を読み直してみて、たしかに年齢故に得るものはあったものの、同時に失ったものもあるのを感じた。
 たとえば、二十四歳で書いた「死体」などを読んでみると、稚さはあっても対象にしがみつく若さ故の熱気が感じられる。現在の私には、このような執拗さはない。
 他の短篇でも、それに共通したものがあって、私は、自分の内部に失ったものがあるのを知ったのである。
(「吉村昭自選作品集」第一巻/後記)

いやー、たいした衝撃でした。『羆嵐』も読んだ。『赤い人』も読んだ。大抵の吉村昭作品は読んでいて、それなりに理解しているつもりだったけれど、『少女架刑』は読んでなかったなあ。読んでなかった自分を馬鹿だと思いました。こんな無知でよく今まで世の中渡ってきたもんだとため息ついちゃった。

 推敲したいのは山々である。しかし、それは若さだけが備えていたものを削り取ることになりかねない。そのため、あくまでも原型はそのままとし、字句の訂正にとどめた。
 これでいいのだ、と思っている。
(同「後記」)

捏造したいのは山々である… 昔からちゃんと『少女架刑』も読んでいますよ、勿論知った上で吉村昭を語ってきたんですよ、とかね。まあ、いいか。もうそれほどガキじゃないし、ここには正直に書くことにしよう。


 
▼ 透明標本  
  あらや   ..2017/08/03(木) 08:32  No.404
  『少女架刑』の前に『透明標本』読まなくてよかった!(微妙なんだけど、味わいってものがあるから…) 読むのはこの順番ですね。なにか、これからも永くこれらの作品群には拘わって行くような気がするので、「初出と初収」をメモしておこう。

死体 「赤絵」第8号昭和27年4月 『青い骨』昭和33年2月小壺天書房(自費出版)
青い骨 「文学者」昭和30年8月号 『青い骨』昭和33年2月小壺天書房(自費出版)
さよと僕たち 「Z」第5号昭和32年3月 『青い骨』昭和33年2月小壺天書房(自費出版)
鉄橋 「文学者」昭和33年7月号 『少女架刑』昭和38年7月南北社
服喪の夏 「亜」第3輯昭和33年9月 『水の葬列』昭和42年3月筑摩書房
少女架刑 「文学者」昭和34年10月号 『少女架刑』昭和38年7月南北社
星と葬礼 「文學界」昭和35年3月号 『少女架刑』昭和38年7月南北社
墓地の賑い 「文学者」昭和36年4月号 『少女架刑』昭和38年7月南北社
透明標本 「文学者」昭和36年9月号 『海の奇蹟』昭和43年7月文藝春秋
電気機関車 「宝島」昭和38年夏季号 『密会』昭和46年4月講談社
背中の鉄道 「現代の眼」昭和39年1月号 『彩られた日々』昭和44年10月筑摩書房
煉瓦塀 「文學界」昭和39年7月号 『星への旅』昭和41年8月筑摩書房
キトク 「風景」昭和41年7月号 『彩られた日々』昭和44年10月筑摩書房
星への旅 「展望」昭和41年8月号 『星への旅』昭和41年8月筑摩書房

『背中の鉄道』もよかったなあ。ニンゴーゴー。

 
▼ 稚内  
  あらや   ..2017/08/04(金) 09:56  No.405
  稚内、行ってきました。『少女架刑』スレッドに貼っているのが、天北緑地公園の高橋洋「このはずく」、『透明標本』スレッドが本間武男「大地」です。で、このスレッドが本郷新「九人の乙女の像」のレリーフです。「氷雪の門」も夜のライトアップも含めて撮ってありますので、いつかチャンスがありましたら、この掲示板で。

道内野外彫刻は、この稚内でほとんどカバーしたと思います。八月いっぱいで車を処分するので、過去に事情があって撮り残した幾つかを今月中に…とか考えています。


▼ 海の棺   [RES]
  あらや   ..2017/07/23(日) 11:27  No.401
   『海の柩』は、ある医学関係者を介してKという人と会い、告白をきいたことから実地調査をして執筆した小説である。
 (中略)
 腕のない兵の遺体の群れが漂着した村をはじめ近くの村にも行って、当時のことをきいて歩いた。
 漁船を出して兵たちの救出につとめた老漁師は、訪れて行った私に、憲兵に口どめされているからと言って、初めは黙したままだった。終戦後、二十五年もたっているのに、かれは依然として戦時の中に身を置いていたのである。
 やがて、口ごもりながら話しはじめたかれは、憤りを押えきれぬらしく手ぶり身ぶりをまじえて話を進めた。
 私は、かれの氏名を明かしてくれるなという請いに応じて、漁業組合長とするにとどめた。
(「吉村昭自選作品集」第三巻/後記)

『背中の勲章』『逃亡』もしみじみと読ませたのたけど、『海の棺』や『総員起シ』に入ってくるとその解像度が格段に違ってくるというか。こういう力作を次々と書く人間というのは、どういう知性によるのだろう。単に、脚の丈夫な奴が各地を訪ね歩いたって、こういう作品は書けないことを強烈に知らしめてくれます。

インターネット上で、ここまで不思議な話だとこれはフィクションなのじゃないの…という声もあがっています。まあ、小説作品なんだからフィクションでいいんだけど、2010年の「吉村昭と北海道」展のカタログには北海道日高地方の「厚賀」という地名があげられていますね。


 
▼ 総員起シ  
  あらや   ..2017/07/23(日) 11:32  No.402
   『総員起シ』は、冒頭に記したように、六葉の写真を眼にしたことによって筆をとった作品である。多くの戦史小説を書いたが、この小説に書いた素材は強烈な印象であった。
 沈没した「伊号第三十三潜水艦」の、わずか二人の生存者――小西愛明、岡田賢一両氏を訪れて、艦が沈没した折のこと、救出された経過を知ることができた。
 さらに、艦の浮揚をおこなった北星船舶工業株式会社社長の又場常夫氏を呉市に訪れた。氏の会社には、艦の浮揚記録と多くの写真が保存されていて、その作業日誌にもとづいて浮揚にいたるまでの経過をたどった。
 この作業に従事した人たちとも会って話をきいた。兵員室に横たわっていた遺体が、さながら生きたままであったことから、「総員起シ」の号令をかければ水兵たちがはね起きるだろう、と、当時、話し合っていたということを耳にし、題を「総員起シ」としたのである。
(「吉村昭自選作品集」第三巻/後記)

真珠湾(背中の勲章)で始まった戦争が伊予灘の潜水艦沈没(総員起シ)で敗戦の日が近いことを予感させる、あるいは、この戦争は初めからこのような惨たらしい死の衝動を内に秘め覚悟してはじまったのではないか、と考えさせるこの一冊の本の構成でした。後書きまで含めて、なにか深刻に「日本人」というものを考えさせます。

『海の鼠』からずっと貼り付けている写真は、今年の三月に岩内・雷電海岸で撮ったものです。レリーフは海岸沿いにあった漁業組合顕彰碑らしきもの。プレートが潮で削られていて判読不明。レリーフに「ヒデノリ」のサインがあったので、たぶん(なんと)作者は米坂ヒデノリです。


▼ 海の鼠   [RES]
  あらや   ..2017/07/14(金) 09:43  No.399
   動物を扱ったこれら六篇の小説の中で、最も早い時期に書いたのは、『ハタハタ』である。新聞の小さな囲み記事に、ハタハタ漁で遭難した漁師の遺体収容よりもハタハタをとるのを優先している漁師町のことが記されていた。
 この記事に人間の生きる苛酷な営みを感じた私は、秋田県下のハタハタ研究家を訪れてその生態についての知識を得、ついで目的の漁師町におもむき、商人宿に泊って漁業関係者、遭難死した漁師の遺族たちに会って話をきいた。帰京した私は、少年を主人公にこの作品を書き上げたのである。
  (中略)
 鼠の生態について書かれたものを読んでいるうちに、宇和島市の沖にある戸島、日振島に鼠の異常な大量発生があったことを知り、興味をいだいた。それらの島におもむいて調査し、事実にそって執筆したのが『海の鼠』である。海を渡る鼠の群れを網にかけた漁師の話をきいた時の肌寒さは、今でもはっきり記憶している。
(「吉村昭自選作品集」第十一巻/後記)

道内の野外彫刻巡りなどに大変役に立っていた自動車なんだけど、8月末で手放すことにしました。稚内の本郷新とか、いくつか懸案事項が残っているので7〜8月で時間を見て廻ってみるつもりです。まあ、チャンスがなかったら秋冬の汽車・バス旅でもいいんですけど。
稚内方面なら苫前の三毛別(吉村昭「羆嵐」)も…ということで、図書館から『吉村昭自選作品集』第11巻を借りてきました。そこで大発見。北海道ものの『羆嵐』『羆』『海馬』はもちろん面白かったのですが、今回読み返してみて、意外に内地ものが面白いんですね。特に『海の鼠』。これ、凄いなあ。ガーンでした。


 
▼ 妄想  
  あらや   ..2017/07/14(金) 09:47  No.400
   人間は、多くの動物たちと地球上で同居している。さまざまな動物と接する人間の生の営みが私の関心を強くひき、刺戟をうけてこれらの小説を書いたのである。
 自分でも不思議に思うが、このような旅の帰途、胸の中に小説の構想が自然に湧いてきて、それをあれこれと練りながら帰京する。家についた頃には、ほとんど小説の構成も出来上っていて、早く筆をとりたいと思うのが常であった。
 このようなことは、動物を扱った小説以外にはなく、動物に接する人たちの熱気のようなものが自分にも乗り移っているからなのか。私にもわからず、不思議である。
(「吉村昭自選作品集」第十一巻/後記)

動物と云えば、私には大森光章。「人間像ライブラリー」の作業をやっていると、『星の岬』所収の『凍土抄』とか『王国』のデジタル化やりたいなあ…とか発作的に思ったりします。妄想はどんどん膨らんで、もしそれらの作品群が「人間像ライブラリー」にアップされたら、何かの拍子に幻の同人雑誌『新芸術派』や『しんぼる』もどこかから出てくるんじゃないか…とか思ってる自分がいます。

いやいや、何遊んでるんだ、さあ仕事、仕事…となって正気に戻るんですけど、こういう遊びの時間自体は絶対に必要なのでしょう。今、この作業と並行して『吉村昭自選作品集』を読み返しているのには何か意味があるのだと思ってます。草むしりと同じで、頭ではなく、身体の方がこういう人生を選びとっている。








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