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司書室BBS

 
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▼ 湧学館後の日々   [RES]
  あらや   ..2024/06/20(木) 14:13  No.1099
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一週間くらいかかって講演会用の資料を作りました。(まだ下書き段階ですが…) 「人間像」第125号の針山和美『シマ婆さん』を例にとって人間像ライブラリーに収録するまでを説明したりしています。こんなことを人に説明するのは初めてなのでなかなか手間がかかります。確認のため、久しぶりに「同人通信」などを読み返したりしていたのですが、手に取る資料や本がどれも面白く、ついつい読み耽ってしまって困った。今日は20日か… あとちょうど一ヶ月後ですね。(なにかドキドキしてきた…) 心を落ち着けるために第125号作業に戻ろう。

 
▼ 「人間像」第125号 前半  
  あらや   ..2024/06/20(木) 14:17  No.1100
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雑誌発表形の『シマ婆さん』を初めて読んだのですが、おお!という手応えが私にはありましたよ。これ、合評会で滅茶苦茶言われるだろうなぁとは思ったが、小説としての痛快さでは単行本『老春』に収められた『シマ婆さん』を越えているのではないか。
ちょうど今、手許に「同通」があるので見てみたら、言われてる、言われてる。

村 シマに言うべき遺言をシマが死んでから、シマを意識して、スマンということは、どうしても逃げになる。
針 うん、逃げだ。
村 ここは逃げてはいけない。
針 村上さんなら逃げないだろうが。
村 ゼッタイ逃げない。
針 僕は書けない。
村 書ける書けないではない。
(「同人通信」No.212/道内同人会「125号合評」)

ううっ、凄い。『いつかの少年』が本気で針山氏に詰め寄っている。…という調子で、「同通」が手許にあるといつまでも読んでしまう。仕事にならない。元の資料保存箱に隔離してしまおう。

 
▼ 流れのアリア  
  あらや   ..2024/06/24(月) 13:59  No.1101
   「興奮していないようだ」と言う婦長の言葉に(こんな時にまで)と柚李は苦笑した。母親はいつも、「この子はお父さんにそっくりなのよ。何を考えているのか、嬉しいのか悲しいのか、ちっともわかりゃしない。女の子はもっと可愛げのある顔しなきゃ損なのよ」と心配そうに言った。柚季の大すきだった、もの静かでやさしい父は柚季が大学二年の秋、突然の心臓発作で他界した。結婚するなら絶対に父のような男性と――、と思い続けてきた柚季が、深い悲しみから立直れず、父の思い出にひたって婚期を逸してしまった。
(佐藤瑜璃「流れのアリア」)

『湧学館後の日々』の講演資料、完成しました。〈佐藤瑜璃〉というピースが入ったことによって講演の話の流れも構想できるようになり、有難いことこの上ないです。

うーん、〈父〉が出て来ましたね。

 
▼ 北の島にて  
  あらや   ..2024/07/02(火) 17:08  No.1102
   三ツ塚留雄は、礼文水道の左手に鯨の背のように浮かぶ青い島影を、いつまでも飽かずにじっと眺めていた。
 海が凪いでいるのに、フェリーボートは緩やかにローリングしていた。船酔いに似た追憶がこみあげてきた。留雄は後部甲板の冷たい風に軀をさらしながら、「あそこが生まれ故郷か……」と声にならない呟きを漏らし、回帰する鮭のイメージへ自分自身の思い入れを重ねて、島に対する得体の知れない不安と期待を込めていた。
(千田三四郎「北の島にて」)

『北の島にて』はすでに人間像ライブラリーにアップされています。この作品の後、第125号作業は一時中断して、7月20日講演会への準備作業を今はやっています。それは例えば、人間像ライブラリーが始まった2017年当時、司書室BBSに書いていた作業メモを一本にまとめるとか、そんなことです。講演に直接関係があるわけではないのですが、いわば自分に対する裏付けという意味で。

『北の島にて』、大変技巧的な、それでいて物語的な力強さを失っていない、さすが千田三四郎とでも云うべき作品でした。主人公の三ツ塚留雄が、『ばばざかり』(第123号)の須賀三平の三十数年後の姿であることに気がつくと面白さは十倍。早く第125号作業に戻るべく頑張ります。

 
▼ 人間像日誌  
  あらや   ..2024/07/09(火) 11:37  No.1103
  一週間ばかり第125号作業を中断して「人間像日誌」をまとめていました。2017年度、2018年度、2019年度の三年間です。「ただいま」というスレッドから始まり、2020年の二月には武漢のニュースが入って来るという、それなりに私には激動、でも傍目には楽しい読み物に仕上がっていると思います。コロナ下の2020年以降については、また別の機会に。講演までの日にちが迫ってきました。

 
▼ 八百字のロマン  
  あらや   ..2024/07/12(金) 11:56  No.1104
   母の十三回忌の法要を終えて実家から帰る途中、ふと香月駅に寄ってみたくなった。国鉄第一次廃止線の対象となった香月線で、私は娘時代の四年間を直方の女学校へ通った。その始発駅がどうなっているか……、確めたかったのである。「それはよいことだね」と夫はうなずき、車を回してくれた。駅の周辺は想像以上に変容していた。ビルが建ち、ショッピングセンターができ、人通りも多くて活気があった。それにひきかえ、線路は錆つき、枕木は雑草に覆われ、駅舎は廃屋となって壁には板がすじかいに打ちつけられており、無残な光景であった。
(日高良子「八百字のロマン」/廃止線の香月駅で)

講演のことばかり考えているとプレッシャーで押し潰されそうだ。こんな時こそ、ルーチンの「人間像」作業をやらなければならないし、本を読んでいなければならない。それが出来た上での講演だろう…と第125号作業を意識的に再開しました。

扱う作品が日高良子さんで良かった。心が少し落ち着いた。

失敗しようと上手く行こうと、私にはこれしか出来ないのだから、講演は七年前にやっていた出前図書館のスタイルでやってみようか…とか思ったりする。

 
▼ 寅吉の故郷  
  あらや   ..2024/07/15(月) 04:58  No.1105
   「もしもそのころにギネス・ブックがあったなら、脱獄七回の五寸釘寅吉は、当然それに記録されていたろうね。逃げるとき、五寸釘の刺さった板きれを踏み抜いた。その板きれを足裏にくっつけ痛いのを我慢したまま、バタバタと二里半ほども逃げ回ったエピソードで五寸釘寅吉と言われるようになったらしいが、そんな寅吉が明和町の出身なんだ」
(千田三四郎「寅吉の故郷」)

神坂純『私の山頭火』に進みたいのだが、さすがに講演が迫ってきている。寅吉とか、松浦武四郎とか、伊勢国(現在の三重県)ってユニークな人を生み出すなあ。

 
▼ 私の山頭火  
  あらや   ..2024/07/17(水) 14:03  No.1106
   今年私がやろうとしていることは、南の島へ渡ってしまうという一事だ。人間が嫌い、日本が嫌いと言ってみても、南の島にも人が住い、彼らの国としきたりがある。それでも敢えて島に渡ってしまい度い。
 渡ることによって、何かが拓ける。それが何であるかシカと確めた訳ではないが、今迄になかったものが拓けることは、確かなようである。その新天地で、心から素直になって、あの世へ渡る準備をしたい。
(神坂純「私の山頭火〈九〉」)

やあ、第125号、最後まで来ちゃいましたね。上澤さん、ほんとにサイパン島に行っちゃうのかな…

さて、ここからは本当に7/20講演会の準備です。出前図書館(ブックトーク)スタイルでやることにしました。

 
▼ 「人間像」第125号 後半  
  あらや   ..2024/07/19(金) 10:17  No.1107
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「人間像」第125号(142ページ)作業、完了です。作業時間は「73時間/延べ日数18日間」。収録タイトル数は「2359作品」になりました。

7/20講演会(明日だ!)の資料作りと併走になったわりにはてきぱきと事が運んだように感じます。裏表紙は前号と同じ『愛と逃亡』ですので省略します。

さて… さて…


▼ 「人間像」第124号 前半   [RES]
  あらや   ..2024/05/25(土) 18:53  No.1092
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第123号作業が終わった時点で、そろそろ〈松崎天民〉の練習を始めてみようか…という気にもなっていたのですが、「人間像」第124号の表紙見てすぐに考え直した。「人間像」としては大変珍しい、表紙にメッセージが二行書いてある。

 いつかの少年 (三百四十八枚) 村上英治
 赤提灯素描 (新同人) 佐藤瑜璃

そうか、『いつかの少年』か! そして、佐藤瑜璃さんの登場! もう124号作業に突入するしかないとなったのでした。私にとっても、この「人間像」第124号は、私が初めて手にした「人間像」でもあるんですね。『いつかの少年』を読んでひどく感心したことを思い出します。

黒子 「東西、東西……、ここもとお目にかけまするは、天下に隠れもない兇賊五寸釘寅吉が胸の奥に秘めたる真実、嘘、偽りなきざんげの一幕。それをば一人芝居にて北山品評が一世一代、一生懸命に演じますれば、皆々様にはごゆるりと御観覧のほど、願い上げ奉ります」
(千田三四郎「脱獄のかなたに、遥かな愛と憎しみ」)

昔、「人間像」同人とは知らないで、千田作品を愛読していたことも思い出す。『一人芝居・五寸釘寅吉』、本日、ライブラリーにアップしました。以下、丸本明子『萎る』、佐藤瑜璃『赤提灯素描』、針山和美『娘とマダム』、村上英治『いつかの少年』と続きます。


 
▼ 赤提灯素描  
  あらや   ..2024/05/27(月) 16:35  No.1093
   廃線で赤錆びてしまった線路を渡り、右へ折れた路地裏に赤提灯をぶらさげた古くさいトタン屋根のハーモニカ長屋のような店が五軒、ひっそりと立っている。一番手前が焼鳥の鳥源=A二軒めに、おでん、かん酒と書いた赤提灯が下っている格子戸の前に立って葉子は、ブルゾンのポケットから鍵をとり出し、古びた南京錠をあける。
(佐藤瑜璃「赤提灯素描」)

この坂を真直ぐ上って行くと左側に赤レンガ造りのランプ屋という喫茶店があります。そこを右へ曲って少し行くとやぶ半というそば屋があって、その横の小路を入ると、古い木造二階建てのかもめ荘というアパートの六号室です。
(同書)

私、この店、このアパートの六号室…と指させますよ(笑) 『父、流人の思い出』の時は、ああ、あのあたり…といったレベルの精度だったけれど、話が小樽に入って来て、俄然、楽しみが倍増して来ました。久しぶりに峯崎さんにもこの『赤提灯素描』を送ってみよう。

 
▼ 娘とマダム  
  あらや   ..2024/05/29(水) 15:50  No.1094
   「子供の頃はKと言う所にいたの。知ってる?」
 マダムがぽつりと言う。
「あッ……K」
「あら、小父さんもK知ってるのね」
 女が思わず小父さんと言う。それだけ懐かしい所なのであろう。
「知ってるよ。昔の事だけど」
 と、言いながら良太の脳裡を電撃が走った。
「どうしました? 顔色変わったわよ」
「何でもないよ。そうか、Kで生まれたのか……。どうりで見覚えがある気がしたと思う訳だ」
(針山和美「娘とマダム」)

Kは倶知安。住まいはとっくに札幌に移り、時代は平成に移っても、針山氏が書くのはいつも〈倶知安〉というところが興味深い。

『娘とマダム』はとうにアップを終えていて、今、『いつかの少年』に取組中です。この作品、第124号の192ページ中、じつに130ページを占める大作ですので、いつ完了するのかちょっと予測がつかない。考えてみれば、これも〈K〉ですね。

 
▼ いつかの少年  
  あらや   ..2024/05/31(金) 17:10  No.1095
   映写を知らせるベルが鳴った。
 場内が暗転し、客たちがどよめいた。
 スクリーンに題名が大写しされ、片岡千恵蔵の名が出ると拍手がわいた。さだも盛んにたたいているのだ、と思い慎二は笑った。
 出演者の名がスクリーンを流れていく。
 甲胄のさむらいが白い土埃をあげてこちらへ迫ってくる。まだ顔がぼやけていた。多分ちえぞうだ。慎二は息を止めて見詰めた。そのとき、遠くに山並みが見える背景が、火を付けた紙のようにふっと変色した。映像が乱れスクリーンに静止した。不満の声が吐息と共に場内をざわめかした。拡大された写真で見るような騎馬のさむらいが、めらめらと色のない焔に焦げてめくれあがった。セルロイドの焦げる刺すような臭いが流れた。客たちが総立った。危険な臭いだった。
(村上英治「いつかの少年」)

昨夜から今朝にかけて、この、昭和十八年の布袋座火災の場面をワープロ原稿に作成していました。緻密な文章のおかげで、まだ頭がくらくらしています。私の記憶では、『いつかの少年』はこの布袋座の事件をクライマックスに完結する物語と思っていたんだけど、今回作業をしてみて、この布袋座の後も話は延々40ページ分も続く作品であることを知りました。(何、読んでいたんだか…) というわけで、ライブラリー公開はもう少し先になります。

 
▼ いつかの少年(続)  
  あらや   ..2024/06/08(土) 16:56  No.1096
   「慎二お前な、小説家になれよ」
 雑誌や単行本を枕元に積み上げ、微熱にうるんだ眼をして布団にくるまっている慎二を見舞ったさだが、あきれたようにいった。慎二はその時のことを想い出していた。
「小説家って蒼白くてやせてて、軀が丈夫でないんだよな。お前にぴったりださ」
 そんなふうにもいった。今からおもうとあれはさだからの精一杯、見舞のメッセージだったのだ。読書は好きだったが、考えたこともない自分の未来像だった。苦笑が途中から薄れていく。白い羊蹄山を見詰めて眼が熱っぽくなっているのを慎二は感じた。
 火の中で生きたまま死んでいったさだたちのこと。たった四年の間にあっけなく死んでいった、父や祖父、母のこと。佐渡から北海道のこの町へ移住しなければ、少年がこんなに多くの死を見ることはない筈だった。
 佐渡にいたら俺は生まれていない。
 この町だから俺は生まれたのだ。
 だから、いろんな想いをいつかは小説に書いておくべきかも知れない。慎二はいま切実にそう思ったのだった。
(村上英治「いつかの少年」)

本日、人間像ライブラリーに『いつかの少年』をアップしました。ヤングアダルトという概念もまだない時代にこのような作品が生まれていたことに驚きもし、感動もします。針山和美『三年間』と同じく、このような作品に携われたことに感謝したい。

 
▼ 「人間像」第124号 後半  
  あらや   ..2024/06/10(月) 16:54  No.1097
   前号は四十周年と言う事で短いものを沢山載せたが、今号は村上の長篇「いつかの少年」三百四十八枚をどかんと載せた。割と遅筆の方だからかなり時間を要した作品で、また力の入れようも激しく渾身の作と言って良いだろう。
 新同人として佐藤瑜璃が加わった。沼田流人の娘さんで今後が楽しみな存在である。
(「人間像」第124号/編集後記)

第124号はこれに尽きますね。緊張感のある楽しい作業でした。
「人間像」第124号(192ページ)、完了です。作業時間は「94時間/延べ日数16日間」。収録タイトル数は「2343作品」になりました。

http://lib-kyogoku.jp/
この後、第125号に入りますが、この号の作成作業を例に7月20日の講演用に「人間像ライブラリー」のメイキング画像をあれこれ作ろうと思っています。そのため、いつもの作業よりは時間を喰うかもしれません。
講演は開館二十周年記念の同窓会気分の依頼なのかと思って最初は渋っていたのですが、そうではない…ということなので引き受けました。極めて異例です。後にも先にもこれ一回切りと思っています。私はそれほどヒマじゃないから。湧学館でやっていた仕事と今のライブラリーの仕事がどのようにつながっているのか、お話できればと考えています。

 
▼ 針山和美第三創作集『愛と逃亡』  
  あらや   ..2024/06/10(月) 17:00  No.1098
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解説は朽木寒三氏。『愛と逃亡』はすでに人間像ライブラリーにアップされています。

『愛と逃亡』は、前に「人間像」に発表されたのを読んだことがあるので、あらすじは知っているつもりだった。そしてストーリー性のゆたかな小説なので、すじを知っていることは、再読に当たって感興のさまたげになるかと思った。だが、いざ読み始めてみるとたちまちとりつかれてぐいぐいと引きずられ、読みおえたあと茫然となった。以前読んだときには気づかなかった細部の綿密さがすみずみまで分かり、次から次と行く手に新しい世界が展開するのである。
 それにしてもこの一人称で書かれた告白体の小説は、明快な文章で書かれてはいるが実に複雑で微妙な作品である。主人公の、愛と憎しみ、好ましい素朴さとずるさ、内性的な暗さと楽天的な明かるさ、引っ込み思案な弱さと意外な行動力、せつないまでの自己犠牲と利己的な攻撃性、絶望の中の希望、ありとあらゆる矛盾した心情と行為の間を揺れ動き行き来するあわれな若者の魅力が、到底小説という作り物とは思えない切実さで読者の心を捕らえて放さないのだ。
 この作品をしあげるのに、どれだけのエネルギーが必要であったことか。しかも作者はこれを、重傷の肝炎で長期入院となった病床生活の中で書いたのである。作中の、異常なまでになまなましい逃亡者の絶望と希望が交錯する心理描写は、あるいは針山和美自身の心情の吐露だったのかも知れない。
 ともあれこれは、すぐれた「愛と逃亡」のドラマであるとともに、一個の心理小説としても希に見る傑作であると思う。


▼ 「人間像」第123号 前半   [RES]
  あらや   ..2024/04/27(土) 17:15  No.1084
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「トヨをどうする」
「聞いたって仕方なかべさ。あれがいて暮らしが立たねば、オンチャにカタルおらにしても同じことだ。いくらカマドガエシしたからって、三つになる子の食い扶持ぐらい、なんぼも掛からねべさ」
(千田三四郎「ばばざかり」)

第123号作業、始めました。世の中は連休みたいだけど、私には関係ないから。先ほど、千田三四郎『ばばざかり』を人間像ライブラリーにアップしたところです。
アップした『ばばざかり』には、「カタル(寄食する)」のように標準語翻訳?が付いているのですが、私には津軽弁が面白くてちょっといじってみました。

さて、次の平木国夫『北村喜八に乾杯』に行こう。第123号は小説だけでも十二本が並んでいるので、いつものようにラインナップの紹介は省略します。面白い作品に出会ったら、その時点でこのBBSに書きます。


 
▼ お婆さんの軍歌  
  あらや   ..2024/05/01(水) 18:35  No.1085
   あれはその年の秋も終わりにちかかった。彼女は野良帰りのままで遅い昼食を摂っていた。かまどにむかって土間に腰掛けてお茶漬けを食べていた時だ。玄関のあたりが急に薄暗くなってきた。天気が変わってきたのかとふと顔を向けた途端、そこに長男が立っていたのである。出征のときのあの凛々しい軍服姿ではなく、それは疲労困憊した黝ずんだ背嚢姿であった。彼女は食べかけの茶碗と箸を持ったままそこに立ち竦んだ。
「嘉夫、戻って来たのか」
(佐々木徳次「お婆さんの軍歌」)

うーん、切ないなあ。『天皇の黄昏』の前に、この『お婆さんの軍歌』が来るのか… 『天皇の黄昏』の迫力が倍になった。

作業は『ばばざかり』以降、平木國夫『北村喜八に乾杯』、北野広『岐路』、内田保夫『愚かなり汝の心』、丸本明子『笹舟』と来て、今、『お婆さんの軍歌』をライブラリーにアップしたところです。まだ、針田和明氏も朽木寒三氏も登場していないことからも、いかにこの第123号が分厚いかがお分かりになると思います。

 
▼ 天皇の黄昏  
  あらや   ..2024/05/08(水) 13:50  No.1086
   三日目の事である。陽兵は相変わらず朝からテレビの前に噛りついていたが、一生懸命に見ているつもりなのに、いつの間にかソファの上で居眠りをしているのだった。もっとも居眠りしていても風邪を引く季節でもないので、嫁の十三子も見て見ぬふりをしていたが、そのままにして置けば置いたで、なぜ起こしてくれなかったのだと文句を言われる事もある。だから頃合を見て「お爺ちゃん、ちょうど良いところですよ」と肩を揺すってやるのが十三子の役割にもなっていた。ところが臨時ニュースのチャイムが鳴ったので、何事かと思って見ると天皇が大量の吐血をしたと言う。
「お爺ちゃん、大変よ」
 慌てて揺り動かすと、
「日本が勝ったか」
 と、とんちんかんな事を言う。居眠りを始める前の画面の事を言ってるのだ。
「なに言ってるのよ、お爺ちゃん。天皇陛下が大量に吐血したんだって」
 天皇と聞くと陽兵は直ちに姿勢を整えて、
「なに、吐血だって? で、ご容体はどうじゃ」
(針山和美「天皇の黄昏」)

追悼号で作ったファイルがすでにあるので『天皇の黄昏』は作業の必要はなかったんだけど、読んでる(作業する)のが楽しいので、またゼロから仕事してしまった。名作って、そんなもんです。

 
▼ 宝石と孤独  
  あらや   ..2024/05/08(水) 13:52  No.1087
  『天皇の黄昏』以降、作業は、矢塚鷹夫『宇宙をぼくの手の中に』、日高良子『夢おこし』、土肥純光『宝石と孤独』と来て、今、針田和明『吾木香』に入ったところです。

『宝石と孤独』。四十周年記念号なのに、20年前の作品を何の手も入れずに出して来る…というのはどういうことなのだろう。こちらは、作業している途中で気づいたのだけど、ファイルを比較するのも面倒なのでラストまで作業してしまいました。半日分の時間、損した。

 
▼ サハリンの旅  
  あらや   ..2024/05/13(月) 14:23  No.1088
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 なにかなつかしい様なかんじがして来たが、この街の空気は札幌に実によく似ている。それも戦後の混乱期をようやくぬけ出した二十年代中頃のそれではないだろうか。なんとなく大雑把でそれなりに自然と調和している。札幌はあれから大きく変わりすぎたが、ここにはまだそれがある。
(竹内寛「サハリンの旅」)

針田和明『吾木香』、朽木寒三『窓の下の犬』という高い山を二つ越えて、ここからはエッセイの森が緩やかに続きます。第123号も終盤。『サハリンの旅』、よかったなあ。小樽に移り住んだ頃、このフェリーは現役でばりばり運航していたんですね。気づくのが遅かった。頭が悪かった。

 
▼ うたたかの四十年  
  あらや   ..2024/05/16(木) 18:01  No.1089
  『神様の結婚』も14年前の原稿じゃないか! また、時間を損した…
『サハリンの旅』じゃないが、こういう思いをした後には、けっこう凄い文章が来る…というのがこの第123号の面白いところ。

 考えて見れば僕は、三つのものから抜け切れないでいるようだ。
 一つ目は志賀直哉である。文学の神様と言われた志賀直哉の文章を信奉して、出来る限り修飾の少ない判り易い文章を書こうと心がけた。しかしこれは事務的で特徴のない文章だと思われる要因になった。
 二つ目は「罪と罰」である。ドストエフスキーの心理とサスペンスに溢れたこの作品がずっと意識の底にあって〈事件もの〉に興味を持たせる事になったような気がする。
 三つ目は「嵐が丘」である。荒涼たる原野に繰り広げられる野生的な恋の物語が忘れがたく舞台を山野に求めた「百姓二代」や「愛と逃亡」を書かせたようにも思える。
(針山和美「うたたかの四十年」)

おお、『嵐が丘』! 私も若い頃からのエミリー・ブロンテのファンクラブですよ。針山氏の口から『嵐が丘』の言葉が出てくるとは夢にも思わなかった。そうですか…、私の愛する『百姓二代』も『愛と逃亡』も嵐が丘由来だったんですか。感激です。

 
▼ 「人間像」第123号 後半  
  あらや   ..2024/05/20(月) 17:16  No.1090
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「人間像」第123号、246ページの全作業を完了しました。作業時間は「119時間/延べ日数23日間」。収録タイトル数は「2333作品」になりました。

 昭和二十四年(一九四九年)十一月『道』の誌名で創刊してから四十年たった。十年目の区切りなので華々しく記念号でも作ろうかと考えたが、二十歳の青年も六十歳になってみると、そのような事にある種の照れを感じるようになっていた。外部の人から原稿を貰って目次面を仰々しく飾るのはよして、この際、しばらく誌面から遠のいている人に無理やり書かせるように仕組む事で創刊四十周年の意義づけをしようと言う事になった。そんな事で表紙には格別なんの文字も入れず、扉につつましく「創刊四十周年」の文字を入れる事で多少の意味合いを出した次第である。
(「人間像」第123号/編集後記)

四十年か… 「人間像」に興味を持った理由のひとつが、同人たちが私の父母とぴったり同時代だったということが挙げられます。一冊一冊の作業が終わる度に、札幌の実家の母に「あの時はどうしていた」とか聞くのが楽しみでした。最近は、発行年代も「平成」に入り、父母の「あの時」よりは、私の「あの時」を考えることが多くなっています。あと数年で、私、小樽に家族ごと移住して来る時代に入るんですね。ますます想うことが増えそう。

 
▼ 二つの柩 佐々木徳次作品集  
  あらや   ..2024/05/20(月) 17:20  No.1091
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裏表紙の広告が変わりました。全文です。

 佐々木徳次にとって初めての作品集である。この中で九篇の創作を自選している。それはそのまま、彼の本誌での創作活動を物語るものであるが、二三の作品について発表時に於ける反響と彼の作品の本質にふれる解説を加えたい。〈イノックの家〉は昭和三十二年に発表され「中央公論」の書評〈日本の地下水〉でとりあげられた。――人物も事件もいちおうかけている小説はたくさんある。しかし問題のある小説ということになると、まれにしかみつからない。「人間像」45号の佐々木徳次「イノックの家」は、手法や題材にとりたててあたらしいものがあるわけでなく、戦争が狂わした一人の人間の運命、予定しえなかった悲劇を淡々と描いているだけで、数すくないもんだいのある小説の一つになっている。 (略) 過去と現在の奇妙に倒錯した状況のなかに、いいかえれば異常神経の正常さともいうべきもののなかに、現在がよりリアリスチックに表現されているという感じがする――このデビュー作の私たちに与えた影響は大であった。戦争がもたらした悲劇を、裏日本の一寒村に集約してみせたこの作品には、作者の鋭い人間観察の姿勢が伺える。標題の「二つの柩」は96号に発表され『北方ジャーナル』誌の、第二回同人雑誌賞をとっている。撰者の目黒士門の評である。――これは素晴らしい鎮魂歌だと思った。静かに歌いあげられた鎮魂歌である。赤銅色に焼けた精悍な漁師の父、十人の子を生み育て、貧乏と病いに苦しんだ母、この二人の老いと死とを何の衒も気負いもなく、淡々と語る筆致は確かである。幼い日々の両親、看病する姉の苦労、父の譜んじている経文、すべてが同じ調子、同じ高さで語られ、しかも個々の場面が読むものの心に強く迫ってくる。文章は秀逸、切々たる作者の情感をよく伝えている。審査した九篇中、もっとも読みごたえがあった。――彼の私小説の決定版といっていい作品である。父と母を、自ら語り、姉の話から拾い、淡々と話をすすめているが、私にはその背景に拡がる、裏日本の漁村がみえる思いがした。一つの評価を得た彼は、今迄自分がやってきた仕事が、始めて自分の血肉になっていたことを識って喜びにひたったことだろう。「イノックの家」と並んで、彼にとって記念すべき作品である。 (上澤祥昭)


▼ 「人間像」第122号 前半   [RES]
  あらや   ..2024/04/15(月) 11:12  No.1080
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「人間像」第122号の表紙絵、また丸本明子さんに戻ってしまいましたね。今度は藤茂勇さんが扉絵。第122号は各小説作品にも藤茂さんのカットが入る豪華版です。
今号のラインナップは、佐々木徳次『窓のない部屋』、丸本明子『耳鳴り』、神坂純『葬いの譜』、内田保夫『市川八幡有情』、針山和美『春の狂い』の五作品。今、『窓のない部屋』を人間像ライブラリーにアップしたところです。

じつは、この次の号、第123号は「人間像」創刊四十周年記念号なのです。ほぼ同人が勢揃い、ページ数も久しぶりの246ページという大作です。早くそれに着手したいので、少しずつ作業ペースを上げているのです。「人間像ライブラリー」の40年間を7年で駈け抜けて来たわけか… 時代もついに「平成」に入って来ました。


 
▼ 葬いの譜  
  あらや   ..2024/04/17(水) 17:32  No.1081
  とむらいのふ、と読むのだろうか… あまり自信がない。詩人の言葉づかいは独特で苦労します。『私の山頭火』で部分的に語られていた上澤祥昭氏の当時の変転の全貌が、この『葬いの譜』で一気に明らかにされました。なんとも切ない気持で読んだ。こんな状態になっても、なお「人間像」の仲間たちと切れなかったことに救いを感じた。

 自分が家にいられる訳がない。そう思い込んだ私は、誰にも相談しないで家を出ることにした。二、三日は、私の近況を全く知らない旧い学友の家を渡り歩いたが、それをするにも金がかかった。そして遂には、かつて通勤電車の窓から何気なく見過していた、都心の繁華街に隣接する、一泊二百円と屋根に大書された、軒の低い木賃宿にころがり込んだ。自分が必要とする会話が全くない、蚕棚での生活は、一刻の心を休めはしてくれたが、すえた汗の匂いと、何処からともなく漂ってくる糞尿の刺激臭で、自分のみじめさがたまらなかった。
(神坂純「葬いの譜」)

平成の世になっても〈木賃宿〉の言葉は残ってたのですね。

 
▼ 娘へ/私の山頭火  
  あらや   ..2024/04/22(月) 14:36  No.1082
   あまりにも突然な友の訃報だった。三日前に偶然彼の家に寄った知人から、脳溢血で倒れていた彼を、とにかく病院に運んで帰国した、という連絡をうけたばかりだったから、彼の退院迄に一度島へ渡って、取り残された二人の子供の様子をみて来てやろう、と思っていた位なのだ。
(神坂純「私の山頭火〈八〉」)

驚いた。巻頭の詩『娘へ』、そして『葬いの譜』、『私の山頭火』はひとつの繋がった物語だったんですね。これで、第122号は、忘れられない号となりました。

 
▼ 「人間像」第122号 後半  
  あらや   ..2024/04/22(月) 14:40  No.1083
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 針山君は、いわゆる私小説ではなく他人のことばかり書く。そして色々な人それぞれの立場や心情を実によく書き分ける。殊に、たがいに対立する何人かの人々がそれぞれ自己主張をするような場面に、それがいかんなく発揮される。私は針山君の作品を読むといつも、「ひとごと」とは思えず身につまされてしまう。彼としては失敗作に属する物でもそうなのだ。
(裏表紙/「百姓二代」解説文)

朽木氏の言葉が身に沁みる。こんなに的確に、しかも愛情を持って針山和美の小説を語れる人、他に知らない。『春の狂い』、ストーリーだけ追えば、そんな馬鹿な!なのだが、針山氏が書くと、きちんと目の前に『春の狂い』の光景が出現する。

「人間像」第122号、先ほど完了しました。110ページの作業時間は「46時間/延べ日数8日間」。収録タイトル数は「2305作品」になりました。もしかしたら最速記録、更新?


▼ 「人間像」第121号 前半   [RES]
  あらや   ..2024/04/04(木) 18:25  No.1077
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第120号が完了した翌日には、「人間像」第121号作業に入っています。
表紙絵が変わりましたね。第120号までは同人の丸本明子さんが描いていたのですが、今号からは藤茂勇さんが担当するみたいです。丸本さんは扉絵の方に移りました。
今号のラインナップは、朽木寒三『縁の下の砦』、内田保夫『これが規程だ』、丸本明子『つくし』、針山和美『俺の葬式』の四作。今、第121号の半分くらいを占める長篇作『縁の下の砦』を人間像ライブラリーにアップしたところです。いやー、面白かった!


 
▼ 縁の下の砦  
  あらや   ..2024/04/04(木) 18:28  No.1078
   とにかく、三つか四つの頃から並はずれて生き物を好む子供だったが、中でも馬が大好きで、やっと鉛筆を持って物の形らしいものを書くことができるようになったとき、まず描いたのが馬の絵で、それ以来、描く絵は全部馬ばかりだった。
 絵とはいっても、紙の上に横向きの細長い四角を書き、頭の部分は簡単な丸ですませて、そのあとは首も四つ足も一本の細い線という簡単なものである。だが、何枚も何枚も紙のありったけ同じものをくりかえし書きつづけて飽きることがない様子なので、父親の勇治が、
「これ何んの絵だ」
 と聞くと、昭は小さな胸を張り、
「馬っこだ」
 ためらうことなく明解に答えた。
(朽木寒三「縁の下の砦」)

いつもの〈斎藤昭〉シリーズとは趣を異にして、この作品では〈斎藤昭〉の幼少期が語られる。シリーズにこの一作が入ると、シリーズ全体の物語世界が十倍ぐらいに拡がりました。これは、朽木寒三の〈イーハトーヴ〉か。

 
▼ 「人間像」第121号 後半  
  あらや   ..2024/04/10(水) 11:16  No.1079
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「人間像」第121号、完了。112ページの作業時間は「52時間/延べ日数8日間」でした。収録タイトル数は「2294作品」に。

 ながーい昭和が、やっと終わった。六十二年間のうち、戦争に明け暮れたのは四分の一くらいだったが、まるまる昭和を生きて来た者にとっては、半分くらい、いや、それより長い期間だったような気がする戦争だった。昭和とか日の丸と言えば戦争のイメージばかりが強いが、昭和とともに戦争も永久に去り二度と来ないで欲しい。きっとそんな願いを込めての「平成」だと思うが、永い平和を期待したいものだ。
(「人間像」第121号/編集後記)

またまた裏表紙が変わりました。『百姓二代』を朽木氏が評するなんて素敵じゃないですか。

 針山君は、いわゆる私小説ではなく他人のことばかり書く。そして色々な人それぞれの立場や心情を実によく書き分ける。殊に、たがいに対立する何人かの人々がそれぞれ自己主張をするような場面に、それがいかんなく発揮される。私は針山君の作品を読むといつも、「ひとごと」とは思えず身につまされてしまう。彼としては失敗作に属する物でもそうなのだ。
 彼のもう一つの特色は、他人のことばかり書くのに、どの作品にも必ず、針山和美自身が影の形にそうように表現されていることだ。だから針山君の作品は、ある意味では非常に切実な『私小説』だと思う。


▼ 「人間像」第120号 前半   [RES]
  あらや   ..2024/03/24(日) 00:43  No.1072
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三月下旬より「人間像」第120号作業に入っています。丸本明子『夜叉』、内田保夫『選ばれた男』、針山和美『再会』と順調に来て、今、朽木寒三『凸凹三人衆』をやっているところです。前半とは言いながら、この『凸凹――』を仕上げると、もう作業のページは20ページ余りですから、もう後半と言ってもいいのかもしれない。なにか怖いぐらい順調です。

 京都の上醍醐にある、准胝堂という観音堂は、上醍醐寺にあり、麓の下醍醐から急な山道を四キロ登った所にある。
 准胝堂には、准胝観世音菩薩が祀ってあり、西国三十三ヵ所の巡礼札所のうちの第十一番だ。
 徳大寺宗利は、山道を登りはじめた。案内書によれば、ここは西国巡礼の寺では、第三十二番の観音正寺とともに難所のひとつであるという。
 徳大寺は、開伽井と呼ばれる湧き水の所で足を止めて、汗をぬぐった。
(内田保夫「選ばれた男」)

へえー。いつもの京成電鉄界隈から始まる物語が内田保夫氏だと思っていたから、今回の『選ばれた男』の京都にはびっくりしました。こんな技もあるのね。


 
▼ 再会  
  あらや   ..2024/03/24(日) 00:51  No.1073
   安川敬一が田坂寿子に出会ったのは、本当に偶然であった。
「鈴木佳弘さーん」
「安川敬一さーん」
 と続けて呼ばれて薬局の窓口に薬を貰いに行って行きあった。行きあったと言っても敬一は全然気がつかなかった。
「やっぱり、敬一さんなんですね」
 そう言われて、その女性の顔を見ても敬一はまだ分からなかった。
 (中略)
「そうじゃないかと思ってさっきから見ていたのよ。でも人違いなら困るので名前を呼ばれるまで待っていたの」
 そう言ってにこにこと笑う。美しい笑顔である。美しいと言うより敬一の好みのタイプなのだ。年甲斐もなく動悸が激しくなった。
(針山和美「再会」)

つい先月、『百姓二代』の強烈な四篇をやっていた身には、『再会』は鰊にすっきり冷えたビールのような味わいでした。春が近い。

 
▼ 凸凹三人衆  
  あらや   ..2024/03/25(月) 17:05  No.1074
   試みに手もとの『岩波』の小型国語辞典によって『ばくろう』の項を見たら次のように書かれていた。
「ばくろう【博労、馬喰、伯楽】 牛や馬の仲買い商人。産地の農家から牛馬を買い取り、それを広く売りさばいたり交換したりする。◇『伯楽』の転」
 (中略)
 殊に、「交換したりする」の一語には恐れ入った。馬喰は牛馬の売り買いももちろんするけれど、まさに『交換』こそが主目的の営業なのである。考えてみると私は子供の頃北海道でそだち、友達と何かを取りかえたい(交換をしたい)ときさかんに「バクルベ」を連発したものだが、これはあるいは「バクローするべ」が原型のことばなのかも知れない。(朽木寒三「凸凹三人衆」)

朽木氏のお父さん(水口茫氏)は倶知安中学の先生をしていたそうです。なぜか私の手許にある『北海道倶知安高等学校50年史』(←針山家から頂きました)にもお名前が見えますね。〈子供の頃〉の話なので、朽木氏と針山氏に倶知安での面識はなく、二人が出会うのは戦後の投稿雑誌時代になります。

 
▼ いじめについて  
  あらや   ..2024/03/27(水) 18:50  No.1075
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 僕のクラスにK子と言ういじめられっ子がいる。幼稚園時代からいじめの標的にされていたと言う事だ。
(春山文雄「いじめについて」)

『嫁こいらんかね』の着想がこんなところにあったなんて… 感じるところの多い文章でした。『百姓二代』の広告が第120号にあったので掲示します。針山氏の20代、30代、40代、50代を代表する自信作という理解でいいのかな。

 
▼ 「人間像」第120号 後半  
  あらや   ..2024/03/27(水) 18:54  No.1076
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ついに第120号まで来たぞ! あと70冊。
122ページの作業時間は「42時間/延べ日数7日間」、収録タイトル数は「2286作品」になりました。なにかてきぱきと仕事が進むなとは感じていたのですが、まさか40時間代になるとは思ってもみませんでした。「人間像」史上、最速でしょうか。

裏表紙が変わりました。こういう内容です。

 遠い疼き

 これは千田三四郎の六冊目の作品集である。今まで出した五冊のうち三冊は旅芸人「乾咲次郎」の伝記であり、『詩人の斜影』は啄木を巡る愛の群像を描いたものだった。伝記小説ではないが、その係累に属するものだった。従って千田自身が掘り起こした題材は『草の迷路』一冊と言ってよかった。しかもこの五冊はすべて長篇ばかりだったが、今度初めて短篇集を出すことになった。しかも珠玉揃いの好短篇集である。
 調べてみると、千田はこれまで二十五篇の小説を「人間像」に発表してきたが、その総枚数は二五〇〇枚に達する。一篇平均一○○枚と言うことになる。ところがこの集に収められた七篇は六十八枚を最長に平均五十枚で比較的短いものばかりであるが、この長さが千田の体質に合っているようだ。と言うのも、この長さのものに佳いものが多いのである。日常的な、事件とも言えない出来事の中に人間性を見事に捉えて味わい深い作品となっている。珠玉揃いと思う所以である。(針山和美)


▼ 「人間像」第119号 前半   [RES]
  あらや   ..2024/03/01(金) 05:56  No.1066
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二月中旬より「人間像」作業に復帰しています。丸本明子『花吹雪』、楢葉健三『あやつりの逃亡』、佐々木徳次『その男』、矢塚鷹夫『エデン』と来て、昨日(四年に一度のうるう日)針山和美『嫁こいらんかね』をライブラリーにアップしたところです。あと、朽木寒三『踊り子栄治影一勝負』、針田和明『迷界』を残すのみ。久しぶりの「人間像」作業ですが、意外と腕は鈍っていない。

 
▼ 嫁こいらんかね  
  あらや   ..2024/03/01(金) 06:02  No.1067
   二人を乗せたオートバイは、すがすがしい秋風を切って山を駆け降りた。
 途中の中山峠は細くて険しい砂利道である。一歩誤れば千仞の谷でもちろん命は無い。しかしおんちゃはあまりスピードもゆるめず右に左にカーブを切って駆け登った。雪子は声も出さずしっかりとおんちゃの腹にしがみついていた。
 頂上付近で一休みする。遠くに頂上を白く染めた羊蹄山がはっきりと輝き雪子を感激させた。
「わあ、綺麗だ。こうして広い景色を眺めていると下界の嫌な事なんかみんな忘れちゃうね」
(針山和美「嫁こいらんかね」)

この、たたみかける山麓の風景がたまらない。好きな針山作品は?、おすすめの針山作品は?と聞かれることがあると、いつもは『愛と逃亡』とか『百姓二代』とかと答えるのだが、たまに間違って『嫁こいらんかね』と答えてしまうこともあった。

 
▼ 踊り子栄治影一勝負  
  あらや   ..2024/03/04(月) 10:58  No.1068
  舞い込んだ舞い込んだ
御聖天が先に立ち、福大黒が舞い込んだ
四方の棚をながむれば
飾りの餅は十二重ね、神のお膳も十二膳
若親分、英七つぁんも末繁盛で
打ち込むところはサー、何よりもめでたいとナー
(朽木寒三「踊り子栄治影一勝負」)

やー、今回もサイコー。舞台も、私の好きな岩手県だし。

部屋の窓から見える小樽湾が少し碧(みどり)がかって来た。春かな。まさに、舞い込んだ、舞い込んだ…ですね。

 
▼ 迷界  
  あらや   ..2024/03/08(金) 11:00  No.1069
   かれこれ四時間あまり、僕は小説を読んでいた。あと十数枚で読みおわる。途中、三回電話がかかってきた。一回目は家族からであり、二回目は友人からだった。三回目は、むこうに人の気配はしたが無言であり、僕の声をじっときいているような無気味な電話であった。一体誰なのだろう、もしもしくらい言ってもよさそうなのに、と僕は思ったが、耐えられなくなってこちらからきった。柱にかかっている安物の時計が雨音に負けてなるものかといわんばかりにコチコチと音をたてている。その音は夜が深まるにつれて大きくなっていった。時を刻む音が規則正しいだけに、コチコチと無機質になる音をひとたび耳でとらえると、五分でも十分でもその音にのめりこんで聴いていることがある。そうしていると妙に僕の心が和んでくるのだ。
(針田和明「迷界」)

針山和美、朽木寒三、針田和明と、「人間像」大御所の三作品が並ぶのは壮観でした。針田氏の妙に沈んだ文体が気になる。

 
▼ 「人間像」第119号 後半  
  あらや   ..2024/03/08(金) 11:06  No.1070
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昨日、「人間像」第119号(134ページ)作業が完了しました。作業時間は「69時間/延べ日数13日間」、収録タイトル数は「2269作品」になりました。
裏表紙は第118号と同じですが、前回の画像があまり良くなかったのでもう一度載せます。

針山氏の『嫁こいらんかね』発表を受けて、この後、単行本『百姓二代』の復刻に入ります。もうワープロ時代に入っていますから、手書き時代のような細かな修正が入った清書原稿ではないのでしょう。そんなに作業時間はかからないと思います。ただ、『百姓二代』の大胆な修正には驚いた。

 
▼ 百姓二代  
  あらや   ..2024/03/17(日) 11:23  No.1071
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単行本『百姓二代』に載っている作品は、『百姓二代』、『傾斜』、『山中にて』、『嫁こいらんかね』の四篇。

「百姓二代」は昭和三十三年の作で最も古いものだが、また僕の二十代最後の作品でもあって愛着あるものである。結婚して初めての冬休みに何度か徹夜までして書いた思い出深い作品でもある。当時農村に住んでいた事もあり、百姓物に大きな関心を抱いていた。幾つか書いた中で比較的反響の良かったものである。
「傾斜」は、肝炎で長期間入院生活をしていた時の体験を生かして書いたもので、僕にとっては忘れがたい記念碑的作品である。病気そのものについては当時「病床雑記」(七〇〇枚ほど)に書いており、小説としては前集に載せた「三郎の手紙」くらいしかない。考えて見ればもっと書いて然るべきと思える。
「山中にて」は『京極文芸』に「敵機墜落事件」として書いたものを少し加筆し『人間像』に再掲したものである。まだ書き足りないと言う指摘もあったが、蛇足になるような気がして出来なかった。その辺が僕の限界らしい。
「嫁こいらんかね」はつい最近のもので、僕の目指すユーモアが少しは生かされたかなと考えている物のひとつである。
(針山和美「百姓二代」/あとがき)

雑誌発表形から、針山氏が何を捨て、何を足したかを知ることができる、私の大切な一冊です。復刻作業には、ここまで来た…という幸福感がありました。この気持を持って「人間像」第120号に入ります。


▼ えあ草子   [RES]
  あらや   ..2024/01/30(火) 17:22  No.1060
  なぜ「えあ草子」は大地震の直後にシステム更新を行うのだろうか?
六年前の北海道胆振東部地震の時も、その直後に「人間像ライブラリー」の全作品が読めなくなる事態が起きて、私は「これは何か今回の地震と関係があるのだろうか?」とか、けっこう真剣に考えたことを思い出す。
さすがに今度の能登地震ではそんなことは考えず、すぐに「えあ草子」だなと気がついたけれど、問題は、今度は使っている機種の方で起こりました。六年前でさえすでに絶滅危惧種だったWindows7と今のWindows11(Microsoft Edge)の間には深くて暗い溝がありましたね。使っている言葉が、いちいち何を言ってるのか解らないんだもの。
今でも、人間像ライブラリーの作品が読めなくなって困っている老人はいると思います。インターネット閲覧をMicrosoft Edgeで行っている人は、以下の方法を試してください。
https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/081100/cacheclear_d/fil/cacheclear.pdf
Windows対応はとっくにうち捨てて、スマホ・タブレット対応に特化していったのが「えあ草子」だと思っていたけど、今回のWindows対応版、すごく綺麗ですね。人間像ライブラリーが若返った。


 
▼ 中断  
  あらや   ..2024/02/05(月) 17:34  No.1061
  一月最後の一週間ばかり、「人間像ライブラリー」作業が中断してしまって結構苦しかった。作業部屋にいると、これで私の図書館人生も終わりか…とか、また一からやり直しか…とか、イヤな妄想ばかりしてしまう。窓の外は暴風雪だし。
で、部屋に長時間いない方向であれこれ溜まっていた仕事をすることにしました。ひとつ目が昔のプロレス本や手塚治虫本の処分。今度こそ、何円になるのかわからないけれど全部売り払ってしまおうと決心しましたね。もう私には残された時間がない。
ふたつ目が国立国会図書館の利用者登録。これをすると、デジタルコレクションの個人送信サービスで「送信サービスで閲覧可能」の図書も読めるようになる。大抵のデジタルコレクションは「ログインなしで閲覧可能」なのですが、時々「送信サービスで…」本があるのですね。今までは、そんな時は市立小樽図書館に行くか(図書館間なら閲覧できる)とうっちゃっていたのだけど、こんな時こそ、面倒な登録手続きなのじゃないかと思いついたのでした。

 
▼ 木賃宿  
  あらや   ..2024/02/05(月) 17:40  No.1062
   私たちは――祖父と、私と、――は、四五年前まで、この町外れで、貧しい木賃宿を営てゐた。この人は、その宿の、長い止宿人であつた。
(沼田流人「鑄掛師と見張番」)

 この乞食坊主が、或時同宿の靴修繕帥と、誰もゐない二階の客室で喧嘩をおつ始めた。でどんなことが原因で、それが擡がつたものか、誰も知らなかつた。
『蟇蛙奴!』
 全く、その靴屋はそれのやうな佝瘻の、倭さい躯をした痘面の男であつた。その蟇蛙は、勇敢に喚き立てた。
『何だと、やせ衰けた蝙蝠奴!』
『靴の底を噛つて生きてあがつて……』
『やましもの……。糞たれ坊主……』
(沼田流人「銅貨」)

おお、靴修繕帥(くつなをし)!
『三人の乞食』一篇では気づかなかったことだけど、この、沼田流人にとっての小説書き始めの時代に、流人は「木賃宿もの」とでも云えばいいのか、祖父と私の木賃宿を通り過ぎた様々な乞食たちの人生を集中的に描いているわけですね。そして、それは大正十二年の『血の呻き』までまっすぐ繋がっているように感じます。ある種、『血の呻き』は作家初期の流人にとってのピークだったのでしょう。その二年後に小樽新聞に発表されることになる『キセル先生』を今読むと、なにか、あまりにも飄々としていて「抜け殻」みたいなものさえ感じます。

 
▼ 左手  
  あらや   ..2024/02/05(月) 17:43  No.1063
   夜になれば、彼は魘はれたものゝやうに、不気味な譫言を言った。
 幾度も幾度も繰返して、その事件が語られた。水車の小屋の歯車の歯と歯とに喰破られて、血みどろになつて死んだ女のことが……。
(沼田流人「鑄掛師と見張番」)

流人の左手を連想しないではいられない。猫の死骸を素手で持って草むらで弔ったという『父・流人の思い出』の逸話など、流人の身体感覚って、常人とはかなり異なっているように思います。それがフルに駆使されたのが『血の呻き』なのではないでしょうか。同じタコ部屋でも小林多喜二の暴力描写とはかなり違う。

 
▼ 大正十年(一九二〇年)  
  あらや   ..2024/02/05(月) 17:47  No.1064
  『鑄掛師と見張番』の最後には「一九二〇、一〇、一四夜北海道のクチアン町にて」というクレジットが書かれてます。「北海道の」という言葉には、なにか「東京」の人たちに向けた挨拶と取れないこともない。(「函館」の人にだったら「北海道の」は不要ですから…)
『銅貨』、『鑄掛師と見張番』、『三人の乞食』とも大正十年の発表。大正十年は沼田一家が木賃宿を廃業して孝運寺に入った年です。仁兵衛には寺男、ハルイには庫裏の仕事がありますが、僧侶でもない沼田一郎(流人)には特に孝運寺における仕事というものは見当たらない。『このはずくの旅路』では大栄との確執によって倶知安八幡神社に移って行く様子がドラマチックに描かれていますが、実際のところは孝運寺に移って来たその日から沼田一郎には片腕の自分でもできる仕事を探す必然があったのだろうと私は考えています。東倶知安線の開通によって木賃宿の収入がなくなった大正九年あたりから八幡神社に職を得る大正十一年にかけて、流人が「東京」を考えなかったはずはないと思うのですが。

 
▼ 月刊おたる  
  あらや   ..2024/02/05(月) 17:50  No.1065
  国立国会のデジタルコレクション利用で便利になったのは、こんなところ。

ぬけぬけと入り来て小銭呉れろと言う乞食には同情の余地もなけれど
才能にめぐまれぬ我ら寄り合えば話はゴシツプに傾く
サラリーの為に働く教員となりさがりても生きねばならぬか
年ごとにずるくなりゆく自意識が今日も一日我を離れず
(「歌と観照」第22巻第3号)

明治大正の書籍デジタル化なんだろうとのんびり構えていたら、もう針山和美氏の時代まで来ていたんですね。「文章倶楽部」や「文学集団」がデジタルで読めるのには本当に感動した。大森作品の仕事が終わったら「人間像」作業に戻ろうと考えていたのだけど、「えあ草子」事件でちょっと予定が変わりました。「月刊おたる」調査を先に行ってしまおうと思います。もちろんこれも、国立国会でデジタル化していないことを確認した上で、それなら…と動くわけで、ずいぶん調べ物の世界も変わったもんですね。


▼ このはずくの旅路4   [RES]
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:22  No.1049
   孝運がランプ生活を苦にしていた形跡は見られない。が、次に起った東倶知安線の建設では、寺の歴史に残るほどの影響を受けた。この鉄道は、東倶知安村(京極町)の三井鉱山ワッカタサップ鉄山と函館本線倶知安駅を結ぶ全長十三・四キロの軽便鉄道である。第一次世界大戦によって需要が急増した鉄鉱石をワッカタサップ鉄山から倶知安経由で室蘭の輪西製鉄所(大正六年二月北海道製鉄と改称)へ輸送する目的で敷設されたのだった。
 このこと自体は孝運寺とあまり関係がないのだが、大正五年に着工が本決りとなり、六年五月から用地買収が始まる段階で、この鉄道が孝運寺の参道を横断して本堂の目の前を通ることを知らされて、孝運はあわてた。当時の孝運寺には前庭と呼べるほどの広場がなく、参道が本堂から真っ直ぐに基線道路まで延びていた。その本堂の約二十メートル前を汽車が走るとなると、騒音や煤煙の被害が大きく、踏切を渡って出入りする参詣者への危険度も大きい。孝運は、寺の裏を迂回して敷設するように鉄道院北海道建設事務所へ申し入れたが、地形的に無理という理由で認められず、用地買収に応ずるしかなかった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/1 東倶知安線)

今回の『このはずくの旅路』復刻、いちばんの目的は、『血の呻き』を書いている流人の姿を浮かび上がらせたいということです。その意味で、『血の呻き』の発火点ともいえる東倶知安線工事が始まった。


 
▼ 仁兵衛一家  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:25  No.1050
   京極線(東倶知安線)の六郷駅は、六号線市街の西寄り、孝運寺からでは直線二百メートルほど西側に開設された。六郷とは六号線の里を指すものと思われるが、以来、六号線市街は六郷市街と呼ばれるようになる。
 この駅の開業によって地元や近隣農村部は、交通、物資輸送の面から多大の恩恵を受けた。が、孝運寺にとっては必ずしも朗報とはいえなかった。前述のとおり線路が寺の目の前を通ることになったからだが、それだけではない。沼田仁兵衛が六郷市街(今出家の土地)で営んでいた木賃宿が新駅の開業によって宿泊客が激減したため廃業に追い込まれてしまったのだ。そして、その窮状を見るに見兼ねたのが沼田家とは隣同士の旅家タカだった。京極線開通の翌年(大正九年)雪解けごろのことである。
「どうやろ? 沼田一家を寺で引き受けてもらえんやろか。仁兵衛さんは歳だし、イッちゃはあのとおり片手がないから一家を支えるだけの働きができんでしょう。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

『三人の乞食』を目にした松崎天民はさぞ驚いたことだろう。木賃宿をルポルタージュするしか手段がない天民の前に、その木賃宿を今生きているもの書きが現れたのだから。

 
▼ 松本シン  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:28  No.1051
   〈……結婚の相手は余市町で澱粉製造業を営む松本三郎様の次女シンさんで、年齢は大栄とは四つ違いの二十一歳です。昨年秋に大栄は同町永全寺の成道会へお手伝いに行っておりますが、その折、会食の接待をつとめられたシンさんの姿が目にとまったらしく、結婚したい旨私に相談がありましたので、愚童とも話し合って先方に打診しておりましたところ、この度、快諾が得られました。本来ならば、事前に父上の御承諾を受けるべき事ですが、先日まで決まるかどうかわからなかったので、私どもで勝手に進めさせていただきました。悪からずお許し下さい。
 それにつきましてお願いがあります。この際、大栄を父上の許にお返しして、孝運寺にて花嫁を迎えるのが本筋と思われますので、本人の意志を確めてみましたところ、大栄も父上の御許しがあれば帰山して、父上の手助けをしたいと申しております。突然のことで驚きのことと拝察致しますが、父上も老齢であり、昨年のお盆のこともありますから、まげて私ども姉弟の願いを御聞き届けいただきたく、よろしくお願い申し上げます。今後のこと万端はいずれ参上致して御相談させていただきますが、まずは一筆まで。早々頓首〉
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

なぜ、大栄。

 
▼ 大栄夫婦  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:30  No.1052
   仮祝言の翌日、タカやヒサシとともに四年ぶりに帰山した息子の顔を見て、孝運もまた唖然とさせられた。鼻の下に泥鰌ひげをたくわえた禅僧などかつて一度も目にしたことがなかったからだ。縁なしの伊達眼鏡もどこかの商家のにやけた若旦那のようで気に入らなかった。久闊の挨拶を述べる大栄の態度は神妙だったし、いかにも初々しい新妻が傍に寄り添っているので、面と向って罵声を浴びせるわけにはいかなかったが、内心は苦虫を噛みつぶしたような気分だった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

なぜ、大栄。

 
▼ 写経  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:32  No.1053
   彼は一計を案じて、盂蘭盆が過ぎた九月初めのある日、まず大栄を方丈間に呼んでこう告げた。
「お前は役僧としてはもう一人前だが、悪筆が玉に疵だ。将来、住職になったときはそれでは務まらぬ。今月から毎週二回、月曜と木曜の午後に新座敷で一郎と一緒に写経をしろ」
 新座敷というのは、大栄夫婦のために新築した八畳二間だ。二人が庫裏に腰を据えて動こうとしないので、客殿として使用していたのである。
「イッちゃも一緒に?」
 案の定、大栄が怪訝な顔をしたので、押し返すように答えた。
「一郎もあの体では労働はできぬ、寺には過去帳とか、事務文書とか、正月の御札とか、いろいろあるから、当分は祐筆の仕事をやらせようと思うので、写経で毛筆を練習させたいのだ」
 ついで一郎を呼び付けてこう告げた。
「大栄と一緒に写経をやってくれぬか。大栄はあのとおり悪筆だが、いくらいっても一人では練習しない。お前が一緒だとやる気を起すかも知れんから付き合ってやってくれ。お前も寺の飯を食っているんだから般若心経ぐらい覚えるのも無駄ではあるまい」
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

沼田流人の後半生を決定づける〈書〉がここに芽生える。

 
▼ 舉一明三  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:35  No.1054
   孝運が一郎に得度の話を持ち出したのは翌十年正月のことである。
「お前は手筋がいいから将来はその才能を生活にいかせるかも知れない。といっても、おいそれとは実現するまい。当分はこの寺で書き物を手伝ってくれ。今は大して謝礼も出せないけれど、そのうちに書道塾を開けるようにしてやってもいい。ついては、寺の仕事をやるには得度を受けておいた方が何かと好都合だと思うが、どうだろう。もちろん、お前の体では僧堂で修行するのは無理だから和尚となって一寺の住職になるのはむずかしいだろうが、得度して僧籍を持っても損になるわけではない。仁兵衛ともよく相談して返事をくれ」
 (中略)
 得度すれば一郎は大栄の弟弟子ということになる。兄弟子に隠しておくわけにいかないので、その夜、大栄に一郎を弟子にする理由を簡単に伝えると、一瞬顔色を変えて、「イッちゃには務まらないと思うけれど、方丈さんが決めたのなら、わたしに文句はありませんよ」とちょっと投げ遣りな口調で答えた。
 孝運はやむを得ないと割り切って、二月四日(金曜日)に自ら授業師を務めて本堂で一郎の得度式を行った。二番弟子舉一明三(きょいつみょうざん)の誕生である。このとき孝運は七十八歳、明三は二十一歳であった。一郎改め明三は、間もなく曹洞宗宗務庁の僧籍簿に登録され、戸籍上も明三と改名された。戸籍名の変更はさまざまな規制があり、現在でも簡単ではないが、僧籍を取得した場合はほとんど無条件で認められている。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

 
▼ 沼田流人  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:39  No.1055
   流人が最初から決めていたのか、出版者の意向でそうなったのかはわからないが、このときの長篇小説は「血の呻き」というタイトルであった。彼はたいへんな意欲をもってこの執筆に取り組んだに違いない。が、不幸なことに、当時の孝運寺の環境は、彼がそれに没頭するための条件としては、必ずしも恵まれたものではなかった。
「三人の乞食」のような短篇ならともかく、長篇小説、それも沢山の資料や取材メモなどを手許に置く必要のある「血の呻き」の場合は、住職孝運や兄弟子大栄の目を盗んでこっそりと執筆する、というわけにはいかない。沼田家の住居は一応別棟になっていたものの、本堂、方丈間、庫裏とは廊下で繋がっていたし、両家の家族は三度の食事を庫裏の居間で一緒にとっていたから、流人が新たな構想でタコ部屋を扱った小説を書いていることは、たちまち孝運や大栄に知られてしまった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

十年前、この『このはずくの旅路』を書いている大森光章氏も、読んでいる私も、『沼田流人伝』の「出版されなかった」説を前提に生きていたことをどうか忘れないでほしい。私はこの復刻が終わったら、最終的な『沼田流人伝』批判を考えています。
もしかしたら私の最後の書きものになるかもしれない。この人間像ライブラリーで〈沼田流人〉を始めたあたりから、妙に私が今まで書いた文章が鬱陶しくなって来ている。もう、優れた作品を死ぬまでライブラリー化する毎日でいいんじゃないか。

 
▼ 或る女  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:42  No.1056
   「イッちゃの本だな」
「そうよ」
「ちょっと見せろ」
 取りあげてみると、『或る女』という小説本だった。二分冊になっているらしく、すぐ近くにもう一冊、続編が置かれていた。
 大栄はその本の内容も、著者有島武郎の名前も知らなかったが、自分が寺役に出ている留守中に、恋女房と新米の弟弟子明三が仲むつまじく語り合っている場面が瞼に浮かび、烈しい嫉妬心に駆られた。
 彼は『或る女』二冊を奪い取ると、廊下伝いに沼田家の住居に駆け込み、明三にそれを突き返して、「イッちゃが小説を書くのは勝手だ。しかし、こんな怪しげな本をシンに貸すのはやめてくれ」と一重瞼を三角にして抗議した。
 彼が自分の早とちりに気付いたのは、怪訝そうな面持で本を受け取った明三から、「シンさんに貸した覚えはないよ。これは二冊ともヒサちゃんに貸したんだよ」と反撃されたときだ。そういえばシンは、イッちゃから借りた、とは一言もいっていない。しまった、と思ったがすでに遅かった。引っ込みがつかないまま、「とにかく、シンには文学なんか教え込まんでくれ」といって退去したが、このとき以来、小説家志望の弟弟子の存在が目障りになりだしたのだった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

 
▼ 侍者擧一明三謹書  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:46  No.1057
   理解できない部分が多かった。開教者(孝運)の経歴も明治維新当時の仏教史に暗い彼にはちんぷんかんぷんのところが少なくなかったが、最後に「室中人法明峰下二十七代目ニ当ル」とあるのに注目した。
 曹洞宗では、宗祖道元(永平寺開山)を高祖、宗勢拡大の礎を築いた瑩山(総持寺開山)を太祖と呼んでいるが、明峰(素哲)は太祖瑩山の法嗣四哲の一人で、明峰派の創始者である。そんな知識のない大栄だったが、「二十七代目ニ当ル」の文言を読んで反射的に、するとおれは二十八代目だな、と思った。が、さらに読み進み、沿革の最後に「侍者擧一明三謹書」と記されるのを目にして、思わず息を飲んだ。二十八代目はおれではなく、イッちゃかも知れない、という想いが、閃光のように脳裏をかすめたからだ。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

 
▼ 訣別  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:49  No.1058
   「オドっちゃやハルイには悪いけど、イッちゃとは幼友達だから単刀直入にいわせてもらうよ。なるべく早く勤め口を探してここを出てもらえないだろうか。この寺は檀家も少ないし、大した金持もいないから暮し向きは楽ではない。方丈がお前にどんな約束をしているか知らんけど、寺役もまともに務められないお前を、いつまでも面倒みている余裕はないんだよ、イッちゃだって本気で坊主になるつもりはないんだろう。ヒサシの話じゃお前は小説家になりたいらしいが、それならばなおのこと、経済的にも独立して、自力でその夢を実現させるべきじゃないのかね。将来のことを考えるなら、その方がイッちゃのためになるんじゃないかな……」
 素直に受け入れてもらえるかどうか自信はなかった。孝運の意見を訊いてから、といわれる可能性もあったし、その場合は、頑固で偏屈な師の怒りを買い、明三と自分との立場が逆転しかねなかった。いちかばちかの思いで一気にしゃべったのだが、終始、無表情に耳を傾けていた明三の反応は、意外にも、「オドっちゃと姉も一緒に出て行けということかい」と訊き返しただけだった。
「とんでもない。二人にはずっといてほしい。そんな心配はしなくてもいいよ」
「わかった。今日、明日といわれても困るけれど、一、二ヵ月のうちにおれは出て行くよ」
「そうか。悪いな」
「気にせんでいいさ。いつかはこんな日がくるとは覚悟していたんだ。オドっちゃたちのことはよろしく頼むよ」
「それは約束する。しかし、ほっとしたよ。方丈に話を持ち込まれたらどうしようかと、実は内心はらはらしていたんだ」
「方丈さんには勤め先が決まってから話をするよ。方丈さんも安心するだろう。こんなおれを弟子にして、心の中では後悔しているに違いないからな……」
 明三はどこかさばさばした表情で薄く笑った。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

 
▼ 今出孝運  
  あらや   ..2024/01/09(火) 17:40  No.1059
   一人一冊、渋紙の表紙の本を受け取って本堂を出て行く子供らの長い行列を見送っていた孝運が不意に、「わしは旅に出る」とつぶやいたのはそのときであった。付き添っていたヒサシとタカがわが耳を疑ったのはいうまでもない。
「旅に出るって? その体でどこへ行くがですか」
 タカが思わず知らず富山弁で質すと、孝運は一瞬はっとした表情になり、しばらく、どこか侘しげなまなざしで十一歳年下の義姉の目を見据えていたが、「いや、今日、明日というわけではないですちゃ」と仙台弁で答えた。
(このはずくの旅路/第九章 旅路のはて/3 何處へ)

「こうなってみると、旅行中でなくてよかったわね。旅先で死なれたりしたら、ヒサちゃん、あんたたいへんだったよ」
「ほんとだ。思っただけでもぞっとするわ」
「それにしても、隠居さん、どこへ行くつもりだったのかね?」
(同章)

第九章についても別スレッドを立てて書いてみようとはしていたのだが、「2 幻の処女出版」の章に来るといつもゲンナリしてしまう。やる気が失せる。『沼田流人伝』を参考にして書かれているこの章は悲惨だ。私はこの章を削り取ってしまいたい。削り取って、物語の最後は〈旅に出る〉孝運のこのエピソードで終わればそれでよかったのだ。


▼ このはずくの旅路3   [RES]
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:15  No.1041
   仙台の曹洞宗第二中学林から孝運あてに一通の文書が届いたのは、それらのことが一段落した四月下旬のある日だった。開封して中味を見て、孝運は呆然となった。それは〈大栄が第一学年の課程を落第し、留年手続きも取らなかったため、四月十九日付で退学処分にした〉という通知書だった。そればかりか、〈御子息大栄殿が当林寄宿舎で使用していた所持品は舎内で御預りしているので可及的速やかに御引取りいただきたく……〉という添書まで付いていたのである。
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/3 弟子の行方)

〈父上様、母上様。御心配、御迷惑をおかけして申し訳ありません。夏休み以来、自分なりにいろいろ考えてみましたが、僕は僧侶には向かないと思いますので、学林をやめることにしました。二、三年、東京で自分の今後の生き方を探してみるつもりです。将来の見通しが立ちましたら手紙を書きますから、僕を探さないで下さい。くれぐれもよろしくお願い致します。大正二年三月二十二日。大栄拝〉
(同章)

イッちゃ(沼田一郎)の事故から四日後、仙台の曹洞宗第二中学林に戻った大栄。平常を装う心の底で、なにか得体の知れないものが蠢いていたようだ。


 
▼ 青木莫秀  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:17  No.1042
   大栄はそのころ、東京の繁華街浅草で役者修業をしていた。
 彼は初めから上京を望んでいたわけでも、役者になろうと志していたわけでもなかった。沼田一郎の事故があった大正元年(一九一二)十二月、曹洞宗第二中学林一学年の二学期を終えた大栄は、帰省列車の乗車券を購入すべく仙台駅へ行き、そこで偶然にある人物に出会った。彼が得度した明治四十一年(一九〇八)の夏、二ヵ月ほど孝運寺に滞在して天井画を描いた旅の絵師青木莫秀であった。
 先に気付いたのは大栄の方である。ふだんは外出先で友人に出会っても知らぬ顔で通り過ぎる大栄だが、このときはなぜか、四年ぶりに会った莫秀に自分から声をかけている。そして奇遇を喜ぶ莫秀から「おれは明日、東京へ帰るんだが、よかったら一緒に上京しないか。冬の北海道へ戻っても面白いことはあるまい」と誘われて、不意にその気になった。東京見物をしたかったというよりも、夏休みに一郎の事故のことで父親から厳しく叱責されて、正月の帰省がなんとなく重荷に感じられていたからだ。
 一郎の事故があった日、木工場での自分の軽率な行動を厳しく咎め立てる父親の顔を見詰めながら、「おれはやはりこの人の実子ではないんだな」という疑念に彼は囚われていた。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/1 浅草宮戸座)

 
▼ 浅草宮戸座  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:21  No.1043
   予期せぬ電報を受け取った親元孝運寺では、当然ながら突風に襲われたような騒ぎとなった。丸二年間も行方不明だった息子の消息を知らせる第一報が〈ビョウキオイデコウ〉である。大栄が東京浅草の青木莫秀宅にいることはわかったものの、その二年間何をしていたのか、病気がいかなる状況なのか、詳細はまったく不明なので、孝運とユキとの反応に違いが起った。
「あの絵描きの弟子になっているんだろう。もう坊主になる気はないに違いないから、死のうと生きようと放っておけ」
 すでに大栄破門の腹を決めていた孝運は、消息がわかって安堵した内心とは裏腹に冷たい態度をあらわにした。が、この二年間、寝ても覚めても心配し、一年前から高血圧の症状に悩まされているユキは、対照的な反応を見せた。
「何をいうがですか。取り返しのつかんことになったらどうします。わたしは行きますよ。あんたさんがなんといおうと東京へ行って大栄を連れ戻してきますからね」と夫に食ってかかり、ただちに旅支度を始めたのだった。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/2 最後の賭)

浅草宮戸座ということで、「人間像」の千田三四郎「乾咲次郎もの」と比較してみますと、この大正2年の時点で、大栄は18歳、乾咲次郎40歳でした。東京などの都会では、明治の壮士芝居はとっくに廃れ、松井須磨子の「芸術座」旗揚げなど新しい時代が花開いています。自ら「最後の壮士芝居役者」と公言して憚らない咲次郎は地方で一座を旗揚げしては解散を繰り返し、最後は中国大陸の大連まで流れ流れて行くわけですが、それはまた、壮士芝居終焉の姿でもありました。

 
▼ ユキからトミにあてた手紙  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:23  No.1044
   私はどうしても大栄に孝運寺を継いでほしいのです。方丈さんは、坊様はお釈迦様の弟子で、お釈迦様に代って世間の人々に仏の道を教えるのが使命だから、修行をやる気のない者は坊様になる資格はない。大栄を弟子にしたのは間違いだっちゃなどと言い張っておりますが、私は何がなんでも大栄に孝運寺の後を継がせたいのです。孝運寺を今のような寺にするためには、私なりの苦労がありました。子供たちには詳しいことはいっておりませんけれど、あの寺は方丈さんだけのものではありません。私にとっても二十数年間に流した汗と涙の結晶なのです。
 方丈さんは今年七十二歳です。いつ何時御迎えがくるかも知れません。もし方丈さんに万一のことが起ったとき、後継ぎがおらなければ、他人が孝運寺を継ぐことになり、私は行き場を失います。寺から追い出されるに違いありません。そのことを考えると、方丈さんのように、寺はお釈迦様の教えを説く所で、個人の持ち物ではないなどと呑気なことは言っておれませんし、あれだけ苦労してつくった孝運寺を他人に渡すのは無念で仕方ありません。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/2 最後の賭)

長女トミは明治44年に松前・花遊山龍雲院の近藤愚童と結婚。その後、愚童が小樽・龍徳寺の五世住職となるにつれて、その孝運寺に対する影響力は格段に大きなものとなって行く。

 
▼ 今出大栄  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:26  No.1045
   大栄の勤行は三年間の不在を感じさせなかった。経典の文句はもとより、礼拝や鏧、太鼓などの作法も忘れていなかった。孝運は感心して三日後にある檀家の年忌法要に同伴してみると、得度のころから大栄を知っている老女は、「まあ、立派な若様になられて。これでお住っさんも一安心でやんすね」といって歓待した。孝運やユキが事実を隠していたので、ほとんどの檀徒は大栄が大本山へ修行に行っていると思い込んでいたのである。実際、仏壇前の大栄の立ち居ふるまいを見ていると、灯明、線香、経本の扱い方から、礼拝の手順、鈴の打ち方、経文、回向文の読み方まで作法どおりで、堂々としている。
 この分では、たとえ大栄が東京で役者をやっていたという噂が立っても、それを信じる檀徒は少ないかも知れない、と孝運はようやく安堵した。
 が、その安堵感は一週間も経たないうちに揺ぎ出す。
 昼間は見事な修行僧ぶりを演じているものの、夜になると大栄は、居間の炉端に陣取り、ユキやヒサシを相手に東京での役者体験を面白おかしく語り、二人を笑わせているのである。ユキは方丈間の孝運に知れるのでは? とはらはらしたが、大栄の気分をそこねるのを怖れて注意できなかった。大栄は調子にのって、帰郷を知って訪ねてくる幼友達にも平気で、東京みやげ≠しゃべり、浅草の盛り場で写した自分の写真を見せびらかしたりしている。何種類かの洋服を着た早撮り写真である。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/2 最後の賭)

何も変わってはいなかった大栄は、即刻、小樽・龍徳寺に預けられ、さらに愚童の指図で広島県尾道市天寧寺の修行に飛ばされる。

 
▼ 今出ユキ  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:29  No.1046
   突然、養蚕を思い立った動機には、母親としてのそんな夢が潜んでいたのであるが、彼女のその夢はついに実現しなかった。桑畑づくりに着手して二ヵ月後の六月中旬のある朝、台所でヒサシと一緒に食事の支度をしている最中、ユキは不意に烈しい頭痛をともなう発作に襲われて倒れ、六日間意識を失ったまま眠り続けた末、同月十九日(月曜日)午前六時三十五分にこの世を去ったのである。享年五十九歳であった。
 病名は脳溢血(脳出血)であるが、現在のように点滴で栄養を体内に送り込む治療法はなかったから、実質的に餓死ということになる。この間、枕元に集まった身内の間で、尾道へ電報を打つかどうか、何度か意見の対立があった。長女トミや姉の旅家タカが知らせるべきだと強く主張したのに対し、師の孝運は、「出家とは肉親と縁を切るということだ。修行を中断させるわけにはいかない」と承知しなかったからだ。
「孝運さん、あなたも血の通った人間でやんしょう。出家道とかなんとかごちゃごちゃいわずに大栄を呼んでやったらどないですか。ユキはここの誰よりも大栄に会いたいと思ってるに違いないがですよ」
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/3 妻の死)

 
▼ 沼田家  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:32  No.1047
   畑づくりの要領は、境内の一部を利用して野菜を作っているので心得ているが、荒地の大部分は湿地帯だったので、囲りに溝を掘って土中の水分を抜く必要があった。他人に頼めば経費がかかるので、ユキは旅家家の裏隣で木賃宿を営んでいる沼田仁兵衛に手伝ってもらって、自分でその作業をやることにした。
 木賃宿は養子のハルイと一郎が手伝ってくれるので、仁兵衛はふだんから週に一回ほど、地主である孝運寺の雑役を引き受けていた。この年、ハルイは二十一歳で、宿の切盛りを任せられたし、十九歳の一郎は、四年前の森木工場での事故で左手を失って重労働はできなかったので、小学校高等科卒業後も養父の宿を手伝っていたのである。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/3 妻の死)

 三日後の午前、毎日往診に訪れる横尾医師から、ここ二、三日が山場だろう、と知らされたトミは、沼田一郎に頼んで小樽の龍徳寺で待機している夫へ打電した。その日の夕方到着した愚童は、妻から頼まれて、尾道へ知らせるように孝運を説得し、一郎を郵便局へ走らせた。が、大栄は結局、母親の臨終には間に合わなかった。
(同章)

「妻の死」の章には、沼田家と今出家の関係性をしのばせる記述が出て来て興味深い。

 
▼ 今出大栄  
  あらや   ..2024/01/05(金) 09:54  No.1048
   法要がすんで孝運が退座し、参列者たちが席を立とうとしたときである。まだ座ったままだった大栄がいきなり内陣の遺骨に向かって、「母さん、おれをひとり残してどうして死んだんだ。おれは母さんのために頑張っていたのに……」と激しく鳴咽し、居並ぶ一同をびっくりさせた。気色ばんだ姉トミから、「悲しいのはあんただけじゃないよ。坊さんのくせにしっかりなさい」と叱咤されて黙ったものの、むせび泣きはしばらく収まらなかった。
「母さんが猫可愛がりでしたから無理もないんですけどね」
 その場の様子を聞かせたトミは弟に同情するような言い方をしたが、孝運は頷けなかった。あいつはまだまだ修行が足りぬ。兵隊検査が終ったらすぐに尾道へ追い返そう、と腹を決めた。
 だが、七月二日の徴兵検査がすんだ後も大栄は旅支度をしようとはせず、妹ヒサシが旅費を差し出すと、「もう天寧寺には戻らないからいいよ」といって受け取らなかった。ヒサシから報告を受けた孝運が本人を呼んで真意を質すと、「僧堂の修行は大して意味があると思えないんです。法要や葬式の作法なら家にいたって覚えられますし、もうほとんどマスターしました」と平然と英語を用いていってのけたのである。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/1 東倶知安線)

この罰当りめ、と憤る心を抑えて諄々といい聞かせる孝運に、その場では反抗的態度を見せなかった大栄だが、翌日、孝運の隙をみて、「ちょっと姉さんに相談してくる」と言って小樽へ逃げてしまった。じつにそれから四年間、大栄は一度も孝運寺へ顔を見せなかったのであった。



 


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