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司書室BBS

 
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▼ 「人間像」第135号 前半   [RES]
  あらや   ..2025/06/04(水) 18:12  No.1195
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「人間像」第135号作業を開始しました。全210ページの内、前半は針田和明追悼特集。同人たちの追悼文に続き、遺稿となった『病床日記』の第1回、『針田和明―枝木順子往復書簡集』、針田和明作品年譜が組まれています。枝木順子氏は『月刊さっぽろ』編集長とのこと。(不勉強で『月刊さっぽろ』という雑誌、知りませんでした…) 作品年譜では針田さんの執筆にも触れられていて、現在、『月刊さっぽろ』調査を検討中です。
第135号後半は通常の作品群。春山文雄『山あいの部落で』、北野広『朝起き教師』、福島昭午『森と記憶と(4)』、朽木寒三『柚木完三の青春日記(3)』、金沢欣哉『おんせん万華鏡(5)』、神坂純『サイパン日記(6)』などの掲載です。

人間像同人会は「人間像」の他に「同人通信」というものを発行しています。「同人通信」は同人・関係者のみに配布され、合評会報告、同人消息、事務連絡などを主な内容としているのですが、正規の「人間像」には見られない同人たちの生き生きとした交流が描かれていて、これはこれで魅力的なのですが、いかんせんガリ版のため復刻するとなるとけっこうな労力がかかります。元々が部外秘でもあり、人間像ライブラリーのラインナップに「同人通信」の作品群を不用意に加えるとライブラリー全体の質が変容するのではないかとも考え、今までは「同人通信」作品は除外していました。ところが今号の作品年譜を見ると、針山さんは『八木義徳先生積丹遊覧記』(「同人通信」第172号)などを針田和明さんの作品として挙げているんですね。うーん、迷ってます。『遊覧記』は私も好きな作品なので。


 
▼ 神も仏もあるものか  
  あらや   ..2025/06/05(木) 16:58  No.1196
   あれは、いつだったか、そう、八木義徳氏の「海明け」の取材で積丹半島にお招きした時が、元気な彼との最初の出会いだったか。私はその時の人懐っこい彼の笑顔や、しぐさを思い出した。
 札幌へ八木義徳氏をお迎えに上がり、途中の余市駅で針山や若干の人達と合流した。同人ではその時、東京から来合わせた上澤祥昭もいた。同人以外では評論家の武井静夫さんもいたが、針田は夫婦であったような気がする。そのことは定かではない。余市、古平をまわり、引き返して裏積丹の泊村のホテルで一泊した。札幌を出るとき八木氏は「福島さん、僕は色紙は書かない主義なんでね、そのことくれぐれも頼みます」と言われていた。
(福島昭午「神も仏もあるものか」)

『八木義徳先生積丹遊覧記』、まだ迷っています。まあ、この第135号が終わる頃までには決着をつけよう。どちらにしても、このおんぼろパソコンでは無理だ。(新パソコンは来週なんです…)

 
▼ 針田和明のこと  
  あらや   ..2025/06/06(金) 12:20  No.1197
   その頃の四、五年が、精神的にも一番充実していた時期であったと思う。滅多に書かなかった内部情報誌『同通』にも沢山の原稿を寄せているし、本誌に載せた作品も百枚前後の気力溢れるものが多かった。愛娘、志保ちゃんの誕生も大きな原動力だったようだ。
 その中の一つに「積丹遊覧記」と言う長文の記録文がある。「八木義徳先生を迎えて」のサブタイトルがあるように、八木さんを迎えて積丹半島に旅行した時の記録であるが、これは大変な労作であった。
(中略)
〈あれは(「積丹遊覧記」のこと)要点だけメモしたのですが、その不連続を連続させるのに苦心――その結果がアレなのですから、もうああいうのはやりたくないと、心底からそう思いました。針山大人殿がひょうひょうとして「頼むよ」と軽くおっしゃったのに対し、こちらもひょうひょうとして「ハイ」と言っちゃった(笑)。だけど、もうあの手には絶対にのらんぞ、死んでものらんからナ!(笑)〉
 冗談めかして書いているが、みんなの会話なども細かな部分まで記録していて、よくもまあ書けたものだと後で感心したものだった。
(針山和美「針田和明のこと」)

やー、迷うなあ。針山さんの追悼文が終わったので、明日から針田和明『病床日記』に入ります。今日は午後から「たるトク検診」。

 
▼ 病床日記  
  あらや   ..2025/06/15(日) 11:08  No.1198
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 8時、祖母に留守をお願いし、三人で出る。志保とは玄関前で別れる。二、三歩行ってから、「シホー」と呼んだが振り返らなかった。
 中島公園を通り、地下鉄に乗る。町子とは大通りで別れる。私は札幌駅前まで乗り、そこからJRへ。
 札幌駅発8時31分。六ッ目の駅が手稲だった。改札口を通って南口から降りず、北口へ向かう通路を通って駅を出ると、大学病院なみの病院がみえる。私の行く所だ。手稲渓仁会病院という。七階建。ベッド数五百ということだ。
(針田和明「病床日記(1)」)

新パソコンに移行中。針田和明『病床日記(1)』と『針田和明―枝木順子往復書簡集』の二本をアップしました。どうして追悼号はインクが薄いのだろう。針山さんの時もそうだった。文字読み取りは旧パソコンで行ったので文字化けが凄かった。まあ、それはこちらで努力すればいいことだからかまわないが、本文に挿し込まれている針田さんのスケッチ画のインクが薄いのは本当に困る。新パソコンの威力をもってしてもこの状態です。残念。

この文章は新パソコンで書いています。書くために日本語ワープロソフトをダウンロードしようとすると、まず、ソフト会社から本人確認が入り一旦メールに戻り暗唱番号を拾って申し込み画面に帰ってこなければならないし、金を払う段になると、今度はクレジット会社の方から本人確認が入りスマホからワンタイムパスワードを拾って画面に戻らなければならない。面倒くせー。なんでこんな世の中になったのだろう。

 
▼ 山あいの部落で  
  あらや   ..2025/06/17(火) 18:32  No.1199
   ココアの香りがここちよく流れる。
「熱いから、火傷しないでね」
 甘い香りを喉に流すと、ゆうべの酒の残り滓がいっしょに流れていった。
「ああ、おいしい」
 早苗が身ぶるいしながらいう。
「良かったら何杯でも作ってあげるわよ」
「一杯でいいの。うちではいつも一杯だけなの。うちのはココアじゃないけれど」
「お母さん、何を作ってくれるの?」
「甘酒なの。あったかで、甘いの。でも……、小父さんが来ると遊びに行って来いっていつもいうの」
「小父さんって?」
「スノーモービルの小父さん。今日も来たから、わたし先生のところへ行って来るって出て来たの」
「スノーモービルの小父さんって、鈴木さん?」
「名前は知らないけれど、いつもお菓子くれるの。でも、大っ嫌い!」
(春山文雄「山あいの部落で」)

「修飾語の少ない、テンポの良い」新スタイルにも大分慣れてきました。これに、原稿用紙75枚くらいのボリュームが加わると完璧な針山ワールドが立ち現れる。堪能しました。それにしても…、五十年前に近い代用教員時代の話が飛び出してくるとは! 恐れ入りました。

 
▼ 森と記憶と  
  あらや   ..2025/06/21(土) 13:58  No.1200
   「なにをぼんやりしてるの」
 と祖母に声をかけられ、我にかえる。
「うん、キノコの精とお話していたの」
「おかしな子。あまり本に夢中にならないで、外で遊びなさい」
「あのね、森にいったらいろいろな妖精が出てくるの」
「森なんかひとりで入ったら、いけないよ」
「どうして」
「どうしてって、森の奥に入ると、違う世界にいっちゃって、もうこの世に戻れないことになるのだからよ」
「違う世界があるの? 行きたいな」
「とんでもない。もう誰にも会えないことになるんだからね」
(福島昭午「森と記憶と(4)」)

どこをどう引用すればいいのかわからなくなった。でも、これまで福島さんが書いてきたすべての話が野幌原始林の森の中で繋がって生きている。二階の窓から見える森、私も見たかったなあ。


▼ 「人間像」第134号 前半   [RES]
  あらや   ..2025/05/16(金) 10:22  No.1188
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昨日、金沢欣哉『峡谷に鎮む』を人間像ライブラリーにアップしました。「人間像」第134号作業、開始です。今号は小説作品が多く、『峡谷に鎮む』の後、佐々木徳次『呉再び』、北野広『炎の舞』、佐藤瑜璃『宵待坂晩秋』、内田保夫『夜は惑う』、丸本明子『立体駐車場』、春山文雄『はじけた光』、福島昭午『森と記憶と』(『記憶』改題)、朽木寒三『柚木完三の青春日記』と続きます。

どうして針山さんは小説に〈春山文雄〉を使い始めたのかな。


 
▼ 峡谷に鎮む  
  あらや   ..2025/05/16(金) 10:27  No.1189
  安易な謎解きや犯人捜しに走らないで、しかし思考の緊張感は最後まで続く…という、じつに極上の味わいでした。〈おんせん〉文学、凄いじゃないか! ただ、これ。

 晩秋の空は広々と晴れ上がって、車内は行楽客が混みあっていた。国鉄B線はF盆地の緩やかな丘陵を縫って走る。丘陵を覆う一面の馬鈴薯畑は取り入れが終わったらしく、掘り起こされた土肌が茶褐色に輝いて見えた。
 列車の左方にはD連峰に連なる唯一の活火山・T岳がゆったりと噴煙を上げていた。村越は約一年前T岳の麓の美沢温泉にいて、朝夕T岳の噴煙を見上げては雄大な自然美に酔い、その日の天候に杞憂してきた。
(金沢欣哉「峡谷に鎮む」)

この表記は直してほしい。なぜ「美沢温泉」だけ実名なの。

 晩秋の空は広々と晴れ上がって、車内は行楽客が混みあっていた。国鉄美瑛線は富良野盆地の緩やかな丘陵を縫って走る。丘陵を覆う一面の馬鈴薯畑は取り入れが終わったらしく、掘り起こされた土肌が茶褐色に輝いて見えた。
 列車の左方には大雪山連峰に連なる唯一の活火山・十勝岳がゆったりと噴煙を上げていた。村越は約一年前十勝岳の麓の美沢温泉にいて、朝夕十勝岳の噴煙を見上げては雄大な自然美に酔い、その日の天候に杞憂してきた。

 
▼ 宵待坂晩秋  
  あらや   ..2025/05/21(水) 12:27  No.1190
   日が暮れたねえ、そろそろ灯をいれようか。めっきり日が短くなって、もうすぐ冬が来るんだねえー。あーあ、今日は朝から、にしん漬のつけ込みで腰が痛いよ、立ち上るのもおっくうだ、わたしもトシだねえ。でもさ、そりゃ大変だけど、うちのにしん漬がうまいって、わざわざこの坂登って来てくれるお客もいるんだからさあ、できるうちはがんばらなくちゃあねえ。
(佐藤瑜璃「宵待坂晩秋」)

と、この語り口で最後まで持って行く…という、昔、千田三四郎さんが一人芝居でやった技ですね。考えたら、この技、佐藤瑜璃さん以外に継承できる人ってあまり思いつかないなあ。針山さんもちがうし、丸本明子さんも似ているようで微妙にちがう。やっぱり佐藤瑜璃さんしかいないような気がする。『宵待坂晩秋』、堪能しました。余韻に浸っていたいけれど、次、行きます。

 
▼ はじけた光  
  あらや   ..2025/05/24(土) 16:46  No.1191
   警笛を鳴らすとバスは大きなエンジン音を響かせて動き始めた。どれほども乗っていないのにいかにも重そうな動きだった。
 一緒に降りた四人の客が二人ずつ左右に別れて去って行った。麻友美は突っ立ったまま十数年ぶりに見る郷里の街並を眺めた。知らない街のように変わっていた。今にも崩れそうだった古い木造の建物が、みんなけばけばしいサイディングの建物に変わっていた。店の看板までが都会並みに派手になっていた。五月の柔らかな西陽が黄色いセロハンを透したように街並を染めていた。人影はなかった。
(春山文雄「はじけた光」)

その五月ももうすぐ終わろうとしている。前号の『オートバイの女』の時にも感じたのだが、針山さんの文体、変わりましたね。良く言えば「修飾語の少ない、テンポの良いもの」ということなのかもしれませんが、私には持久力の衰えのようなものを先に感じてしまいます。変に都会風の登場人物も気になる。

 
▼ 森と記憶と  
  あらや   ..2025/05/26(月) 17:44  No.1192
   宵の雑踏の中で信号待ちをしていた時、隣に並んだ男と視線が合った。(おや?)と思った。どこかで見た顔だ。信号機の発する「通りゃんせ」のメロディの間、誰だったかと考えたが思いつかない。
 次の信号でまた隣の男が私を見た。どうやら私と同じ思いでいるらしいそぶりである。信号三つめで男は、
「失礼ですが、もしや××小学校の……」
「ああ、O君だ」 私は思わず大声を上げた。
(福島昭午「森と記憶と(3)」)

O君の話、もの凄く面白かった。人間像の同人って、自分の少年時代を書かせると異常な力を発揮する印象がありますけどね。昭和のヒト桁世代ですから、少年時代も青年時代も、時代が劇的な変化を遂げたせいかな…とも思うのだけど。針山さんの『三年間』という作品を読むと、その意味がよくわかる。最初の一年間が脇方鉱山への勤労動員。二年目で敗戦。食糧難で今度は援農動員。三年目で旧制中学最後の授業。戦前と戦後の合わせ目みたいな世界をど真ん中で生きてきた世代ですから描く少年時代にも青年時代にも時代の異常な圧がかかっているのだろうと想像します。
そして福島さんの場合は、ここに「父」の存在がプラスされます。『森と記憶と』にも「父」が登場しますが、この「父」は名作『漂流』を書いた古宇伸太郎ですからね。私などは、何気ない父子の会話の場面にも、『漂流』に描かれた古宇伸太郎の少年時代と『森と記憶と』の福島さんの少年時代を完全にオーバーラップして読むことになります。いや、これは、重大な作品かもしれない。
『森と記憶と』は、「人間像」第130号、第132号に発表された『記憶』の改題です。第3回から始まるのはそんな理由です。

 
▼ 針田和明逝く  
  あらや   ..2025/05/31(土) 11:13  No.1193
   前号の「編集雑記」欄に肝臓で入院と書いたばかりの針田和明が、三月九日入院先の病院で亡くなった。満五十二歳に一ヵ月足りない若死だった。昨年九月、職場に割り当てられる人間ドックで検査したところ、肝臓に影があると言うので再検査することになり、「肝臓癌」と判定されたのであった。それまで自覚症状は何もなく、本人にとっても晴天の霹靂であった。ただちに入院し治療となったが、最初から「ガン」と告知されるくらいだから、治癒の見込みがあってのことだろうと話を聞いていたのであった。しかし、後で知ったところによると、すでに三分の一程も腫瘍に侵され手術などの外科的処置は不可能の状態であったらしい。直接患部に投薬する最新の技術を施したが帰らぬ人となった。貴重な仲間を失い呆然自失の体である。急遽次号を「追悼特集」にする予定である。

 
▼ 「人間像」第134号 後半  
  あらや   ..2025/05/31(土) 11:19  No.1194
  「人間像」第134号(150ページ)作業を終了しました。作業時間は「71時間/延べ日数18日間」。収録タイトル数は「2576作品」になりました。裏表紙は前号と同じ『老春』なので省略します。

人間像ライブラリーの編集用に使っているノートパソコンの処理速度が今年に入ってからどーんと落ちて来て、我慢の限界を超えました。パソコンを買い替えようと思います。150ページに71時間もかかるなんて、やってられない。次号が「針田和明追悼」号とわかった以上、このおんぼろパソコンで対応すると何か思わぬ事故を引き起こしかねない…と思ったのです。

今、その「人間像」第135号の作業準備にかかっているのですが、つい読み耽ってしまってなかなか作業が進みません。もう針田さんの作品を読めないなんて、悲しいです。


▼ 「人間像」第133号 前半   [RES]
  あらや   ..2025/04/19(土) 18:44  No.1183
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 夜明けが近いのか障子に薄明りが差込む。
 蒲団の温もりの中でぐずぐずとしている。
 六十年前と同じ離れの八畳の部屋に泊まっている。
 南天の枝から、雪の落ちる音がする。
 六十年前も同じ音を聞いた。
(丸本明子「独言」)

本日、丸本明子『独言』、人間像ライブラリーにアップしました。「人間像」作業、再開です。
第133号は、丸本明子『独言』の後、春山文雄『オートバイの女』、北野広『新米教師奮戦記』、葛西庸三『屈折した狭間の中で』、村上英治『高瀬川(二)』と続くのですが、特筆すべきは村上英治さん。第133号170ページの内、80ページが『高瀬川』なんですからね。つい先日まで『北浜運河』をやっていた身としては辛いものが少しだけある。2012年から二十年前にまたタイムスリップして来たようで頭がくらくら。


 
▼ オートバイの女  
  あらや   ..2025/04/21(月) 10:53  No.1184
   ここは閑静な住宅街である。しかも土曜日の早朝で、新聞や牛乳配達の自転車の軋む音が時折するほかは、森としていた。
 弘恵の乗ったオートバイが音を鎮めながら走りだしたのは、ちょうど午前六時である。
 母の時江がひとり見送った。
(春山文雄「オートバイの女」)

久しぶりに老人ものじゃない作品ですね。オートバイの女が出発しました。この作品は後に針山さんの第七創作集『白の点景』に纏められるのですが、この本が創作集としては最後の本になります。これ以後はまるで遺言状みたいな『わが幼少記』とか『ボボロン雑記』があるばかりで、作品を描く力が次第に衰えて行く姿に私はいつも涙するのです。

なぜ針山さんは創作の手を止めて『わが幼少記』を書く気になったのか、少しだけ感じることがあります。この第133号のあと、第135号は「針田和明追悼」、第140号は「白鳥昇追悼」、第141号は「竹内寛追悼」、第144号は「土肥純光追悼」号とかつての同人たちの訃報が続くのです。なにか思うところがあったのではないでしょうか。

 
▼ 高瀬川(二)  
  あらや   ..2025/04/30(水) 18:46  No.1185
   加吉は振れ売りの女の声にうっすらと眠りから覚めた。下肥の臭いがした。田仕事のだんどりを考えながら寝返りをうった。こむらが硬く張っている。
「花いりまへんかあ」
 やわらかい女の声が近くなった。戸外に人の声がしている。加吉は聞くとはなしに耳を澄ました。耳馴れない言葉だった。加吉は跳ね起きた。
 京の朝なのだ。
 宿の天井に水の影が明るくゆれている。加吉は開け放ってある窓から軀をのり出した。
(村上英治「高瀬川(二)」)

と、ここから80ページ、活字びっしりのの高瀬川の流れが始まるわけですね。うー、六日間もかかってしまった… 本日、人間像ライブラリーにアップです。

今、桜と梅が一緒に咲いてます。連休の人混みが終わったら、「彫刻の設計図」展に行ってみよう。雪のない道路はありがたい。

 
▼ サイパン日記 〈五〉  
  あらや   ..2025/05/05(月) 09:29  No.1186
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『高瀬川』を終え、連載ものに入ってます。日高良子『八百字のロマン』、金沢欣哉『おんせん万華鏡』と来て、今、神坂純『サイパン日記』をライブラリーにあげたところです。この後、新連載の朽木寒三『柚木完三の青春日記』に入ります。昭和二十一年の青春ですからね、なかなか興味深い。

第十一 決戦間傷病者ハ後送セザルヲ本旨トス。負傷者ニ対スル最大ノ戦友道ハ速カニ敵ヲ撃滅スルニ在ルヲ銘肝シ、敵撃滅ノ一途ニ邁進スルヲ要ス。戦友ノ看護、付添ハ之ヲ認メズ。戦闘間、衛生部員ハ第一線ニ進出シテ治療ニ任ズベシ。
第十二 戦闘中ノ部隊ノ後退ハ之ヲ許サズ。斥候、伝令、挺進攻撃部隊ノ目的達成後ノ原隊復帰ノミ後方ニ向フ行進ヲ許ス。
(神坂純「サイパン日記」〈五〉)

必要があって、昭和二十年四月二十日付公布の「国土決戦教令」を参照したいと思ったんだけどヤフーの検索などではなかなか原文に辿り着けない。ふと思いついて国立国会図書館のデジタルコレクションを覗いてみたら(利用者登録してあるんです…)、見事にヒットしましたね。デジタルにも良いところはある。添付した画像は神坂純(上澤祥昭)さんが描いたサイパン地図。手描きゆえ、縦横が上手く決まらず往生した。

 
▼ 「人間像」第133号 後半  
  あらや   ..2025/05/08(木) 16:43  No.1187
  本日、「人間像」第133号(170ページ)作業、終了です。作業時間は「71時間/延べ日数19日間」でした。収録タイトル数は、三月に行った「月刊おたる」調査の採集分を含みますので一気に「2561作品」になっています。裏表紙は前号と同じ『老春』なので省略。

 今年度四冊目「冬季号」と言った所だが、内容は「春爛漫」(?) メンバーも多彩になった。葛西は何十年ぶりの復帰第一作、このハードルを越えれば第二、第三作はスムーズに行くに違いない。村上の長篇が連載三回目となった。エッセイ欄もナンバーを重ね順調に継続されそうで編集の形態が整ったようである。
(「人間像」第133号/編集後記)

なによりも針山作品が毎号読めることが嬉しい。

☆しかし、嬉しいニュースばかりでもない。佐藤瑜璃が骨折で長い間入院してやっと退院したと思ったら、今度は針田が肝臓で入院治療と言うことになった。かなり長い闘病生活になりそうだ。じっとベッドに臥していると、書きたいことが欝積してくるだろうから、病いを福となして書いて欲しいものである。
(「人間像」第133号/編集雑記)

第134号へ急ぎます。


▼ 水天宮よ   [RES]
  あらや   ..2025/04/14(月) 10:43  No.1175
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 外人坂は水天宮の境内からいきなり海へ転がり落ちるような石段で、坂というより段崖だった。いまは埋められて相生町だが多喜二の頃よりそう遠くない小樽は、水天宮の裾を日本海の潮があらっていたという。
 啄木の歌碑が境内で海に背を向けていた。小樽の街を啄木は哀しいと歌っている。そう私も思う。哀しみはこの街がいとしくて止まない、その果にある説明のしようがない情感なのだ。
 雪あかりの路、という処女詩集を抱き中学の教師をやりながら上京の機をうかがう伊藤整が、隣室の料理人夫婦の夜のこえに男女の何たるかを思索しながら、男としての自分に懊悩したのも水天宮のどこか斜面にある下宿屋だった。
(村上英治「水天宮よ」/「月刊おたる」2008年10月号)

村上さんが初めて「月刊おたる」に書いた作品冒頭です。私たちは「人間像」で慣れているから驚かないけれど、初めて村上作品を読んだ小樽人は愕然としたでしょうね。この蘊蓄、ただ者じゃない! そうです、啄木、伊藤整と来たら、次はこの技。


 
▼ 水天宮よ 再び  
  あらや   ..2025/04/14(月) 10:52  No.1176
   「僕の本棚にタキちゃんが読みたくなる本はあまりないねぇ。街の書店に読みたいものがあれば手紙のときに書いてくれると、僕はどこの書店にも出入りしているから届けてあげるよ。それに短歌のこともあまり考えすぎず、啄木のまねでいいからどんどん作ってみることだよ。僕はあまり短歌はやらないが、小説と同じようなものだから出来たらみてあげるよ」
 水天宮のベンチに坐って海を見つめているタキの淋しそうな横顔へ多喜二は言った。余市実科高等女学校で、ノラとモダンガールに就いて、という演題でイプセンを講演したときの女学生たちの表情や、ついでに余市の港を歩いて来た話などをしての別れぎわだった。
「だめかもわからない」 細い声でいうとタキは顔をふせた。「なにが、啄木のことかい――」 タキは黙って見つめ返してきた。
(村上英治「水天宮よ」/「月刊おたる」2008年10月号)

あそこで呑んだ酒…とか、私の好きな風景…とか、そんな文章が並ぶタウン誌の中でこの文章は異様です。でも、魅力はある。私は、この時の衝撃が2010年10月から連載が始まる『北浜運河』に繋がって行ったと思います。

 
▼ 北浜運河  
  あらや   ..2025/04/14(月) 10:57  No.1177
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 我は部下を率い大海を渡り戦い、この洞窟に入りたり――

 ナガサキヤ2Fの人工公園めいた休息の空間、その壁に手宮の古代文字が褐色に刻まれている。公園のベンチに憩っている静かな老人たち。白い頭と青白いくすんだ頬をみると、津田は雪もよいのただよう灰色のコンクリート団地、その狭間にあるどこか北欧のベンチだけを並べた、小公園を思う。
 古代文字の前で津田はいつも佇む。
 少年のときからその訳文は風化していない。読めない文字だといっても、意味を持たない、たとえ落書といわれても少年に摺り込まれた古代文字は、未知の人に何かの啓示として訳されたものかも知れないのだ。そんな思い入れがあるからだった。
 港町で暮す日常の食物や衣類などがフロアにあふれていた。地階でオレンジを買いナガサキヤを出た津田は、天へ思わず目を放った。背から小樽駅を抱いている山の向う、深い空が限りなく透明に夕焼けていた。
 その天へ入っていくように、仄ぐらく軒を重ねた家並の船見坂を上りながら振り返ると、第三埠頭に碇泊している白いフェリーが夕陽に染まっていた。
(村上英治「北浜運河」第一回/「月刊おたる」2010年10月号)

手宮文字か。始まりはオーソドックスな、小樽人が喜びそうな小説だったのだが…

 
▼ 小説は消耗品ではない  
  あらや   ..2025/04/14(月) 11:04  No.1178
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米谷 本離れ活字離れが言われていますが。
村上 メディアが勝手に決めつけていることで、現在は表現発表のシステムが多様になり、むしろオタメ本ばかりじゃなく、文芸書のたぐいは洪水のごとくあふれております。
米谷 とくに少年少女の文学もどき、小説以前の作品です。それが芥川賞をいただくのだから、文学の価値というのもわからなくなってきました。
村上 家計簿や日記でないだけいいんじゃないですか。読者は選択眼をもっておりますから、すぐに結果がでますよ。

なに幼稚なこと聞いてるんだか…

米谷 その小樽中毒みたいな村上さんの心情が北浜運河の密度を高めてゆくことでしょう。全国からいろんな便りがよせられています。みんなこの土地で生れ育った方々。そしては一時この地につとめた事のある方たちです。
村上 なんだかあおられて緊張してしまいます。
米谷 で後半から読み出す読者のために、次号か、次の号にこれまでのあらすじをのせてください。当初からの読者もまたふり返って、ああ、あの場面はそんな意味と展開のあやの仕掛けと気がつくはずです。
村上 それはすぐに書けますが、米谷さんも物書、それも短詩形の詩。そしてほとんどが海の詩ですね。毎年潮まつりを楽しんで来ていますが小樽を単なるご当地ソングでない。立派な歌詞に仕上げています。勢いがあっていい。
米谷 なんだそれってよいしょか。
村上 ヨイショで喜ぶような単純な男ですかあなたは。

単純な男だと言ってるんですよ。『北浜運河』もだんだん村上さんの小樽蘊蓄が重くなって来て、「人間像」で連載していた『海に棲む蛍』話題までが登場するに及んで、編集部も音をあげたのではないだろうか。『前回までのあらすじ』というのが連載第十五回(「月刊おたる」2011年12月号)に付いているんだけど、これ、村上さんに書かせていたんですね。横着な連中だな。

 
▼ 前回までのあらすじ  
  あらや   ..2025/04/14(月) 11:08  No.1179
   朝から魚を食べ猫をかいたい――
 船見坂に部屋をみつけ、札幌から移住したのは少年のとき、神だったというミカドから亡国を告げられたとき、浮んだのぞみだった。
 結果としてその望みは、妻にまかせていたことに、自分だけに残された時間の中で気づいたからだった。
 本能みたいに夫の食卓に、乏しいサラリーなのに旅館みたいに朝から、妻は魚をつけ続けた。
 もうそうしなくていいと言われても、知らずに魚をつけてしまうの、という妻の何かを見つめる微笑が津田は切なかった。
 そんな妻に単身赴任だといって、津田は船見坂に住んだ。
 留守宅には、魚にまったく気のない猫が妻により添っていた。
 この国来し方の歴史と、潮まつりと多喜二へのどこか共通するもの悲しい情念を、船見坂に住んで見つめてみたい、ということもあってのことだった。
 そのあいだに、夫への後天的な本能を妻には薄めてもらいたい思いもあった。
(「月刊おたる」2011年12月号)

 
▼ 父・流人の思い出  
  あらや   ..2025/04/14(月) 11:13  No.1180
  人間像ライブラリーに『北浜運河』のファイルをあげている時、四月上旬頃は〈村上英治〉の項目に、

 北浜運河 (第一回)
 北浜運河 (第二回)
 北浜運河 (第三回)
 …………

という感じでずらずらと並べていたのです。でも、さすがに24回分が並ぶとウットーしい。他の村上作品が探しにくくなる。それで、24回分が揃った時点で、一括ファイルに切り替えました。これでかなり見やすくなった。これが第一段階。
目次を作成しているエクセル上には24回分のフォーマットがまだ残っています。パソコンだからサーッと消すのは簡単。でも、せっかく作ったのにもったいない。そこで思いついたのが佐藤瑜璃さんの『父・流人の思い出』です。これは『北浜運河』とは逆に最初から一括ファイルで作っていたものなのですが、すごく評判が悪かった。沼田流人研究の重要資料なのに、一括にしてあるためにどこに何が書かれているのか探しづらいという声が多かったのです。で、これはいいチャンスではないか…となった次第です。これが第二段階。
結果は良好。(と思いたい…) 〈佐藤瑜璃〉の項目をぜひご覧ください。佐藤瑜璃さんという人がどういう人か一目でわかるようになりました。(と思いたい…) 私は毎日行って見とれています。

 
▼ 北浜運河を終えて ある詩人の死  
  あらや   ..2025/04/14(月) 11:19  No.1181
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 多喜二の死が特高の拷問を利用した自殺ではなかったのか――多喜二まんだら という作品を同人誌に発表した儀礼のように、小樽文学館と―月刊おたる へ送付したことが詩人との気運になり
 水天宮よ―というエッセイを書いた。
 そのときは未だ発行人が名の知れた詩人であることを知らなかった。
 そうして何の前ぶれもなく―月刊おたる への連載を依頼する電話があったのだ。
 同人誌とちがい、不特定な読者の多いタウン誌の二年連載は小説の構成も月々の原稿数も、全く異なる未知のものなのでお断りをした。
(村上英治「北浜運河を終えて ある詩人の死」/「月刊おたる」2013年3月号)

「詩人」という言葉、違和感あるなあ。

 
▼ 「月刊おたる」600号特集  
  あらや   ..2025/04/14(月) 11:29  No.1182
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佐藤瑜璃さんが亡くなる2015〜2016年頃までをチェックし終えました。ちょうどこの頃は「月刊おたる」が600号(2014年6月号)を迎える時期とも重なっていましたので貴重な資料がいくつか発表されています。そのうち、4月号(598号)の「題字と表紙絵」作者の全リスト、7月号(601号)の「連載小説と掌篇小説」の全リストはコピーを取って保存してあります。あとは「月刊おたる」に対するヨイショの類だから読み飛ばした。
1964年7月の創刊号から2016年12月号(630号)まで、館内閲覧のみの利用だったり、この時期の小樽ではマストの雪割り作業と重なったりで一ヶ月ほどの結構な時間がかかりました。気がつけば四月… さて、久しぶりに1992年の「人間像」に戻らなくては。


▼ 終りのない夢   [RES]
  あらや   ..2025/03/24(月) 17:55  No.1170
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大人になったら喫茶店をしようと思った。
 (中略)
ある日、決心し友達に話してみた。意外にも男友達は「いいんでないか、似合うかも…」といい、女友達は「あんたならできそう…」と真面目な顔で言った。有頂天になった私は父にも言ってみた、「わっはっはあ、このブスのじゃじゃ馬がぁ、金も無いくせに、見ろこう言っただけでふくれっ面だ。喫茶店などはお客さんに何を言われても愛想よく笑っていなきゃならんのだ、お前にできるもんか、ひっひっひ」 父は一笑に附され、母には叱られて私は、地方官庁の事務員になってしまった。
(佐藤瑜璃「終りのない夢」)

「月刊おたる」という場を得て、書き慣れるにつれてもの凄く重要なことを語り出していると思う。小樽の人間は小林多喜二が大事で沼田流人なんか知らないから、こういう貴重な発言に誰も気がつかないのだろう。


 
▼ 雪明りの街  
  あらや   ..2025/03/24(月) 18:01  No.1171
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若くして病死した私の母は戦時中、収入のとだえた父に変って一家を支えるため働きづくめだった。母は秋田の出身で、女学校一年までは秋田で裕福に育ったとのこと、味噌製造業を営んでいた父親が事業に失敗して家と工場を失い、一家は北海道の農村に開拓者として入植した。母は女学校をやめ仲よしの友達とも別れ、見知らぬ雪国へ来て故里を思い、毎日泣いていたとのこと。しかし年月の流れと共にのどかな田舎暮しにも馴れ、家は農業に成功し、母は裁縫や茶華道のお稽古事もできるようになって楽しい青春の日をおくり、十八才の若さで父とめぐり合い恋をし、愛されて結婚した。その後母の実家はさらに新天地を求め、再び一家をあげて樺太へ移住し、小さいけれど木工場を営んだ。北海道に残った母のもとには両親や弟妹から頻繁に良い便りと高価な毛皮製品や食品等が送られてきて、経営が良好であるらしかった。しかし数年後母の両親は他界し、日本は戦争に敗け樺太はロシア領になって弟妹が悲惨な引揚者となって、長女である母のもとを頼って来た。終戦後は食糧、物資が不足して人々は苦しい生活をしいられていた、そんな社会情勢の中で母は結構逞しく、突然、行商人となった。その頃流行した「闇屋」である。
(佐藤瑜璃「雪明りの街」)

マツヱさんのイメージもずいぶん変わりました。それにしても、さすが物書き、この『雪明りの街』は本当に名文ですね。戦後の小樽の街が頭の中にぶわーっと拡がって、孤独感と幸福感に身体が包まれました。

 
▼ 懐想文学散歩  
  あらや   ..2025/03/24(月) 18:06  No.1172
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 私が再び「本」を手にしたのは、小樽に嫁いで専業主婦となり時間に余裕ができた頃で、結婚の時、父が嫁入道具≠フ中に入れてくれた数冊の本だった。「読書は心を養い、生きる力になり、痛みを癒やしてくれる。」と、父のメモが挟んであった。
 (中略)
 後年、札幌へ移り住んで文通を始めた小樽の知人から、「手紙文がおもしろいのでエッセーを書いてみては?」と手紙をもらい、全く自信はなかったけれど思いきって文芸誌に応募してみると思いがけなく入選した、嬉しくなって何度か出しているうちに編集部の人から「小説を書いてみてわ?」と言われて投稿してみると、また思いがけなく佳作入選した。
 やがて息子が成人して巣立って行き時間に余裕ができると、一度味わった感激は新鮮なまま脳裏にあって、再びペンを執るようになった。
(佐藤瑜璃「懐想文学散歩」)

父や母のこと。そして娘である私のこと。もう自在に書きたいことを書く作家になっていますね。この『懐想文学散歩』は「月刊おたる」2004年2月号に載ったものです。佐藤瑜璃さんが爆発的に小説を書いていたのは1990〜92年頃ですから、もう十年の歳月が流れている。「人間像」みたいな作品発表の第一線からは退いて、大好きな小樽の「月刊おたる」に落ち着いたエッセイを書く作家に変化して行ったように感じます。でも、「月刊おたる」があってよかった。沼田流人という人を正しく知りたいと思う私には宝の山です。百年経って、ようやく流人から返事が来はじめた…という想いです。

 
▼ 雪明りの街 再び  
  あらや   ..2025/04/13(日) 17:12  No.1173
  母と屋台のおじさんは「戦争が終ってよかった、子供達に白米の御飯を食べさせられるのが嬉しい」と笑顔で話し合っていた。そこへ兵隊さんの帽子をポケットにねじこみながら一人のおじさんが来て椅子に座った。屋台のおじさんが笑顔で「まいど」と言いながらコップ酒をさし出した。二人は「小樽の街も活気をおびてきたね」と楽しそうに話して、「こんなきれいな着物を着たご婦人もみかけるようになったもの」などと言いながら母を見た。それから私を見て「可愛いな、年はいくつ?」ときいた。戦時中、わたしの周囲にいた軍国日本のおじさん達に比べてみて、ひどくめずらしい表情も言葉もとてもやさしかった。母はいつも「女の子は知らない人と気安すく話してはいけないよ」と言っていたので、私は母の顔をチラと見ると、母は微笑を浮べておじさんを見ていたので安心し、「おじさんは兵隊さんですか」とポケットにねじこんだ帽子を見ながら聞いた、「いや、もう兵隊なんかじゃないよ」と言いながら私の頭を撫でた。母は樺太の弟妹が引揚者になったので闇屋をした事、今は古着の行商をしている事など何人にも話さなかった事を話し、おじさんも復員してみると東京の家族は空襲でひどいめにあっていて、営んでいた書店も焼失して両親と兄弟ともバラバラになり、今は妻の実家にお世話になっている、とりあえず余市からリンゴの行商をしているけれど、近いうち必ず書店を復活すると静かな声で言い「小樽の人はいい人ばかりだ」と話した。
(佐藤瑜璃「雪明りの街」)

いやー、歴史的名文。この、母を語る名文を最後に佐藤瑜璃さんは「月刊おたる」を去って行ったんですね。なぜ書かなくなったのか、私には少しだけわかるような気がする。たぶん、世代交代。この時代なら私も小樽に移住してきています。要するに「戦争が終ってよかった」などという感情を理解しないパープリンが雪明りの街を跋扈するようになって来たのでしょう。

 
▼ 「月刊おたる」佐藤瑜璃作品リスト  
  あらや   ..2025/04/13(日) 17:24  No.1174
  幼なじみ 「月刊おたる」1991年6月号(通巻324号)
曲線組曲 「月刊おたる」1992年8月号(通巻338号)
小樽色 「月刊おたる」1994年2月号(通巻356号)
港の赤電話 「月刊おたる」1994年12月号(通巻366号)
海を見ていたお地蔵さん 「月刊おたる」1996年2月号(通巻380号)
ジョナさんは小樽の港へ帰った 「月刊おたる」1996年6月号(通巻384号)
ふるさと 「月刊おたる」1997年4月号(通巻406号)
幻想旅行 「月刊おたる」1999年9月号(通巻423号)
時の流れの忘れもの 「月刊おたる」2000年9月号(通巻435号)
風前のともし灯 「月刊おたる」2001年8月号(通巻446号)
終りのない夢 「月刊おたる」2003年新年号(通巻463号)
懐想文学散歩 「月刊おたる」2004年2月号(通巻476号)
雪明かりの街 「月刊おたる」2005年10月号(通巻496号)

※ 市立小樽図書館が所蔵する「月刊おたる」には欠号が何冊かあり、佐藤瑜璃さんの年代で言えば、1990年10月号(316)、1990年12月号(318)、1997年3月号(393)、1998年5月号(407)、1999年10月号(424)〜12月号(426)、2004年5月号(479)、2006年4月号(514)は未確認です。


▼ 幼なじみ   [RES]
  あらや   ..2025/03/14(金) 17:17  No.1165
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 あの夜の事は今も鮮明に憶えている。
もう三十年も昔の事とは思えないほど、思い出す度に私の胸はときめくのである。
 星のきれいな、水天宮の祭りの宵であった。金魚すくいや、わた飴の出店がジグザグと並び人波が坂道を埋めていた。娘ざかりだった私は、友人達と仕立おろしのワンピースを着て、少しばかりビールなどを呑んで、そぞろ歩いていた。私は、近郊の町の家へ帰る最終列車の時刻を気にしながら、花園町へぬける陸橋にさしかかった時、紅いジャンパーを着た青年とその連れらしいハデな服装をしたガラのよくない一団とすれちがった、私は咄嗟に、紅いジャンパーの彼が仲よしだった幼なじみのKちゃんである事に気づいた。
(佐藤瑜璃「幼なじみ」)

小樽のタウン誌「月刊おたる」の調査を二月頃から再開しています。佐藤瑜璃さんや村上英治さんが書いている…ということは前から知らされていたのですが、その二人以外にも「人間像」同人が書いているかもしれず、また、私自身、小樽の街の歩みを確認したい思いもあって1965年7月の創刊号以来の悉皆調査を去年から始めていたのです。何度かの中断を経て、この三月時点では「2001年(平成13年)」のところまで来ています。
佐藤瑜璃さんと「月刊おたる」の関係もわかってきました。「月刊おたる」は300号に到達した1989年あたりで「月刊おたる文学賞」を始めます。文学賞は最初は小説部門と随筆部門に分かれていたのですが、小説部門の応募が振るわず、翌年には「月刊おたる随筆賞」に一本化されます。紹介した佐藤瑜璃さんの『幼なじみ』は1991年の随筆賞の優秀作なのでした。佐藤瑜璃さんの「月刊おたる」でのデビュー作です。


 
▼ 曲線組曲  
  あらや   ..2025/03/14(金) 17:24  No.1166
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 曲りくねった野道を、一人でゆっくりと歩るくのが好き。とくに新婚生活をおくった若竹町二七番地の銀鱗荘へ通ずる曲線の坂道が好きだった、歩るくというより辿るといったムードが私をひきつけた。まだアスファルトでなかった雨あがりの道に青空や赤トンボや白い雲が写っている水たまりがあったり、見過していた雑草が意外と可愛い花を咲かせていたりした。その道で私は、突然眼下に広がった光る海を眺めて「ヤー、チャイカ」と呟いてカモメになったり、真赤に燃えながら海に沈む夕陽に向っでギンギンギラギラと唄って少女になったりした、独り歩るきのダイゴミである。
(佐藤瑜璃「曲線組曲」)

この『曲線組曲』は翌1992年の随筆賞佳作に選ばれました。二年続けての受賞であり、そしてこの頃はすでに「人間像」同人として『セピア色の薔薇』のような意欲作をばんばん発表していた時ですから、月刊おたる社の方でも注目していたのではないでしょうか。随筆賞とは関係なく、1994年2月号の『小樽色』や1996年2月号の『海を見ていたお地蔵さん』のように月刊おたるの方から原稿依頼が来るようにもなっています。
作品をお読みになれば気がつかれると思いますが、佐藤瑜璃さんの句読点の使い方は独特です。私のワープロ打ち間違いと思われる方もいらっしゃるでしょうが、そうではありません。原文の句読点を忠実に再現しています。

 
▼ 港の赤電話  
  あらや   ..2025/03/14(金) 17:29  No.1167
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 青い蛍光色の空の下に秋桜のゆれる昼下り、高一だった私が帰宅すると、母が新品の黒足袋のとじ糸を前歯でかみ切り、パンパンと、いせいよくたたいて父にわたしていた。
 父は、よそゆきのついの大島を着流しで、めずらしく母の鏡台をのぞきこんで、長い頭髪を手でなでつけていた。
「どこへ行くのっ」 突っ立ったまま私は少し興奮して聞いた。父は鏡の中から私に言った、「本屋だ、おまえも行くか?」、「いいの?」と私は母の顔を見た、母は笑いながら、「そんなに目ン玉丸くしなくたって行っといで、行きたいんだろ」と言った。私はカバンを放り出して、「ワーイ」と言いながら玄関へもどって靴を履いた。母は、「帰りは夜になるからねえ」と言いながら私のベビーダンスから赤いタータンチェックの衿巻をとり出して投げてよこした。父にもラクダの衿巻をかけながら、「カビのはえたような本のどこがいいんだか無学なわたしにゃわかんないけどねえ、今に父さんの本棚は古くさい本ばかりで雑品屋の倉庫のようになるんでないの」と笑った。父も笑いながら、「じゃ行くか」と下駄をはいた。
(佐藤瑜璃「港の赤電話」)

1994年の随筆賞佳作です。「人間像」発表の作品群と「月刊おたる」発表の作品群が大きくちがうのは「月刊おたる」では瑜璃さんの身のまわりの人々がばんばん登場することでしょう。こういうところは随筆形式の良さ。沼田家の様子が覗えて楽しい。

 
▼ ジョナさんは小樽の港へ帰った  
  あらや   ..2025/03/14(金) 17:33  No.1168
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 八十五才になったジョナさんは、真夜中とか、ひどい早朝など、一日数回も電話をかけてよこすようになった。「わたしの財布が無くなった」「どろぼうが入ったらしい」。そのたび息子が車をとばしてかけつける、「もう一人ぐらしは無理だよおばあちゃん」と言えば、「なにいってんだ、まだ若いもんにゃ負けないよ、わたしゃあ」と私達をにらんで言った。そしてきまって「札幌へなんか行かないよ」と言った。
(佐藤瑜璃「ジョナさんは小樽の港へ帰った」)

うーん、凄い。『セピア色の薔薇』のモチーフがこんなところにあったとは。

「月刊おたる」は館内閲覧のみの扱いなので調査には毎日市立小樽図書館に通わなければならない。二月下旬の頃はまだ雪の日々だったからいろいろ雑用も多く、毎日はとても無理でした。ペースが掴めてきたのはこの三月に入ってからです。じつは、この「月刊おたる」調査と並行して、北海道立文学館の『風の中の羽根のように』(佐藤ゆり著)調査も行っています。札幌の用事の隙間を見つけては文学館にも寄るようにしていますが、なかなかこちらもはかが行かない。『風の中の――』については読書会BBSの方で書こうと思っています。

 
▼ 時の流れの忘れもの  
  あらや   ..2025/03/14(金) 17:38  No.1169
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 小樽の街を歩いていると、青春時代の昔に還ったような気がして、みるみる若やいだ気分になり足どりまで軽くなっていた私だけれど、近年、そうでもなくなった。私が年をとってしまったからだろうと少し寂しくなっていたら、もう一つ思い浮かんだ。私の若い日の思い出がちりばめられていた街に、郷愁を誘う古いものが少しづつ無くなっている事、私の若かった日をかき消してしまうほどの新しさが視界を覆いつつある事に気づいた。
 小樽運河――、私はいまだに古い運河にこだわっている。悪評もあったけれど、エキゾチックで重厚な感じの風景が、私はとても好きだった。私が初めて見た頃は、もう往時の活気はなかったけれど歴史的なロマンが感じられた。河幅の半分を埋めたてて自動車の洪水になってしまった風景は、好きとはいえない。
(佐藤瑜璃「時の流れの忘れもの」)

この頃は「時の流れの忘れもの」とか「風前のともし灯」とか、小樽に対してやや感傷的な文章が続きますね。それとは別に、この「月刊おたる」2000年9月号には『どっこい函館本線』という現在の山線問題にも関連する重要な(と私には思える)記事が載っていました。詳しく展開したいので読書会BBSに行きます。この「月刊おたる」スレッドは一旦中断し、調査が完了したあたりで再開と考えています。


▼ 北からの風   [RES]
  あらや   ..2025/02/11(火) 11:39  No.1159
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 早いもので六冊目の作品集となった。最近に限ると一年一冊の割合である。原稿用紙にして四百枚ほど、六篇だから一年間の量としては決して多いとはいえないだろう。しかし、気ままに書いて行くぶんには恰度よいペースである。無理な駆け足で息を切らしても仕方がない。
 去年の『老春』に引き続き、この集も老人物になってしまった。考えてみると「天皇の黄昏」から最近の「RVの老人」まで三年間に十三篇続けて老人ばかりを対象としたことになる。自分ながら少し「しつこいな」と思う。でも、この「しつこさ」が大事なのだと自分を納得させている。
(針山和美「北からの風」/あとがき)

六冊目か… 「しつこさ」と自嘲気味に言っているけれど、私にはとても切なく聞こえます。定年退職のあたりから憑かれたように毎号作品を発表し続けている針山さん。この『北からの風』に至っては、「人間像」の発行を待ちきれず未発表作品を三篇も加えています。時間がない。残された時間がない。2025年を生きている私は、もう針山さんの小説集はこの『北からの風』の後の『白の点景』一冊しかないことを知っています。とても切ないです。


 
▼ 山の秋  
  あらや   ..2025/02/12(水) 17:10  No.1160
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 教えられたとおり、国道わきの地蔵尊から左折すると、細い農道が羊蹄山の裾野にむかってのびていた。馬鈴薯畑のなかに延びるこの道は、秋の収穫をはこぶためのものらしく、二、三十センチほどもある雑草に埋めつくされていた。そして車輪に踏みつけられたところだけが深い溝になって、そこだけ土が見えている。すこし心細い思いで車を乗り入れると、案の定草が車体の底を擦りつけ、思わず腰を浮かしたくなった。おまけに道の両脇は枯れかかったイタドリやヨモギ、オオバコ、コウゾリナなどの雑草が生い繁っていて車体をこすった。倒れかかったイタドリがフロントガラスを叩いた。よほど引き返して、さっきの地蔵尊のところにでも乗り捨てようかと何度も思いながら、重い撮影器具を背負って歩く苦労を厭う気持ちに負けて、そのまま進むことにした。まだかなり先まで道が続いているようであった。
(針山和美「山の秋」)

『山の秋』、本日アップしました。久しぶりに読み返して感じ入ってしまった。針山さんが延々と書いた老人物の中でも、これはある意味隠れた名作ではないだろうか。
写真は東川町の「松田与一彫刻の館」。もう十数年前の話なので今でもあるかどうかわからないけれど、『山の秋』を読むとなぜか反射的にこの彫刻の館を思い出すのです。

 
▼ RVの老人  
  あらや   ..2025/02/15(土) 09:46  No.1161
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【倶知安】 二十八日午後五時三十分ごろ、後志管内留寿都村字三の原××の国道で倶知安町南×条西×丁目無職坂田俊造さん(七八)運転のRV型乗用車が道路左側の立ち木に衝突、坂田さんは頭や胸を強く打ち即死した。倶知安署の調べによるとブレーキによるスリップ跡もないことから居眠りか脇見運転らしい。
(針山和美「RVの老人」)

三の原か… ああ、あそこかな…と思えるくらいには私も走りまわっていましたね。京極にいた頃はこういう「RVの老人」みたいな人は見かけなかったな。キャンピングカーで日本中を遊び呆けるバカ老夫婦ばっかりだったような気がする。
久しぶりに彫刻の館写真を引っ張り出して来たら、なにか昔のギャラリー写真が懐かしくなりました。これは洞爺湖キャンプ場の近くにある國松明日香。

 
▼ 浅き夢みし  
  あらや   ..2025/02/15(土) 10:18  No.1162
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 さざめいていた湖面が、にわかに鎮まったと思ったら、そこは一面の草原になっていた。今まで前方に屹立していた真っ白な風不死岳も樽前山も消えていて、どこまでも平原が続いている。よく眼を凝らすと遥か彼方に、粘土で固めたような粗末な家が点々としている。むかしどこかで眺めたことのある懐かしい風景のような気もするが、思い出せない。省三の田舎は山に囲まれた小さな山村であったが、眼前の風景は遮るものとてない曠野である。
 ふと気がつくと、その草原の中を掻き分けながらやって来る者がいる。背の高い草だとみえて、ときどき人影が見えなくなる。はて、どこへ行ってしまったのだろうと不審に思った途端、目の前に若い女が現れた。近ごろ見たこともない粗末なモンペ姿であるが、丸ぽちゃの可愛い娘である。女はつかつかとやって来て、断りもなくドアを開けると、いきなり助手席に腰をおろした。
(針山和美「浅き夢みし」)

『省三の夢』では、ここで小説『支笏湖』のモチーフになったと思われる夢になるのだが、『浅き夢みし』ではそれをばっさりと捨ててしまって戦争中の夢に繋げたところが大英断。物語としてすっきり締まって、作業していて楽しかったです。
写真は昔の支笏湖氷濤まつり。お魚さんが可哀想だ、残酷だというスマホ・ピープルの声でこのオブジェは中止になりました。

 
▼ バブル老人  
  あらや   ..2025/02/19(水) 17:54  No.1163
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「いらっしゃいませ、どんな御用でしょうか」
 折り目正しい対応で躾も行き届いているようだし、顔も肢体も並以上である。さすがに儲け頭の職場だと感心しながら用件を切りだす。
「株を注文したいのだが、T社は今いくらになっているね」
 新米と思われたくなくて、少しぞんざいな言い方をする。
「ただいま調べます。当社とはお取り引きありますでしょうか」
「いや、ここは初めてだよ」
「ハイ、分かりました。有難うございます」
 そう言いながら、机上のパソコンを操作している。何秒もしないうちに、
「二十円高の八百十五円です」という。
 出来れば八百円以内で買おうと考えていたので二十円高は残念な気がしたが、一日でも遅れればドンドン上がってしまう気がして、
「それでいいよ。三千株頼もうかな」
(針山和美「バブル老人」)

という訳で、札幌駅前通りの小野寺紀子です。

 
▼ K老人の話  
  あらや   ..2025/02/24(月) 13:39  No.1164
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 71号の表紙絵やカットをK老人に描いて貰うことにする。若いころ東京で彫刻や絵の勉強をしたと言い、かなり自信ありげな様子なので頼むことにしたのだ。それに生活保護を受けている人なので、少しでも謝礼すれば喜んで呉れると考えたからでもある。簡単なものでいいと何度も言ったのに、見ていると誠にこまごました支那風の山水画を描いている。K老人の風貌にはふさわしい絵であるが、『人間像』という誌名にはそぐわない感じに思える。
 (中略)
 もうこの頃になると私とK老人のあいだはかなり打ち解けていて、たがいに我がままも言いあえる仲になっていたようだ。
「なにせ、おれの習ったのは中国の山水画だからよ、ピカソみたいな今風のを書けと言われても、それは無理と言うもんだ」
(針山和美「K老人の話」)

その、第71号表紙です。

本日、単行本『北からの風』作業、すべて終了しました。作業時間は「64時間/延べ日数15日間」でした。内地の大雪が凄いので言うのも気が引けますが、小樽もそこそこには雪かきの毎日でいつもよりは日数がかかりました。窓から見える海はやや碧がかって春先のような様相です。


▼ 「人間像」第132号 前半   [RES]
  あらや   ..2025/01/29(水) 15:32  No.1154
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第131号が終わった翌日には「人間像」第132号(114ページ)作業を開始しました。今、針山和美『バブル〈株〉老人』を人間像ライブラリーに挙げたところです。今号は、以下、福島昭午『記憶』、北野広『六十二才の誕生日』、内田保夫『夜のあわいに』、丸本明子『水芭蕉』、土肥純光『廃娼の家』と続きます。

第132号作業を急いでいるのは、『バブル老人』を挙げたことによって、針山さんの単行本『北からの風』の必要条件を満たしたからです。「人間像」発表分はこれでカバーしたから、早く『北からの風』所収の書き下ろし作品三作をやりたくてうずうずしています。この中には、私の好きな作品『山の秋』が入っているんですね。


 
▼ バブル〈株〉老人  
  あらや   ..2025/01/29(水) 15:35  No.1155
   「さっきから、格言めいたことを言ってますが、それなんでしょうか」
 すると、先に対局していた一人が、「それは株の格言なんだよ。杉山さんは碁も名人だけど株も名人なんだよ。あまり気にせんで打たないと相手の薬籠にはまってしまうから」
 と、笑いながら教えてくれた。
「そうなんですか。株のことはさっぱり知識がありませんもので、なんのことか意味が飲み込めませんでしたが」
「まあ、下手な知識は持たん方が身のためというもんじゃ。だいたい株は碁と似ているところがあって、定石通りには動かぬものさ。碁だって定石通りでは面白くもなんともないものな。……」
(針山和美「バブル〈株〉老人」)

碁と株に関する専門用語が飛び交っていて、そのどちらも知らない私にはなかなか骨の折れる作業でした。ミスがありましたらご指摘ください。

 
▼ 記憶  
  あらや   ..2025/01/30(木) 18:28  No.1156
   自宅の裏は遊歩道をはさんで雑木林が続いている。雑木林とはいえ野幌原始林の一部だから、巨木ばかりの広大な森林に続いている。そもそもこの団地は、原始林の中を切り開いて造成したものである。
 私は混雑する遊歩道を避け林の中の小径を辿ることを思い付いた。といっても月に一、二回くらいのものである。まったく気紛れな思い付きである。それでも小径を辿って林中に閑を求め、沈思黙考、瞑想にふけるといえばはなはだ格好はいいが、どういうわけか林に入ると雑念ばかり泛んでくるのである。
 昨秋、紅葉も終わろうとしているし、今日は秋晴れだから、久しぶりに森の妖精でも探しに行ってみよう、という気を起こしスニーカーを履いた。
(福島昭午「記憶」第2回)

福島さんの作品に時折り姿を見せる「裏の原始林」。子どもの頃私もこの原始林がある町に暮らしていたこともあって、いいなあ…といつも羨ましく思っていたのです。それがまさか、ここにエスコンフィールドなんていうチャラチャラしたもんがやって来るとは考えもしなかったな… 『記憶』、愛読しています。

 
▼ おんせん萬華鏡  
  あらや   ..2025/02/06(木) 16:36  No.1157
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 北海道内では殆んどその習慣はないが、本州では暑中見舞いが年賀状に次いで、お互いの消息を伝える季節的な習慣に近いものがあったはずだが、近年急激にそれが影を薄めてきたのは、電話の普及と同時に生活が豊かになって色々な形で避暑の機会に恵まれ、それだけ暑さからの重圧感が少くなったからだろう。
 僅か数枚の暑中見舞い状の中に、今年は川中登記子からのがなかったのが気になった。
 健康を害して定年一年前にホテルを退職してから六年になり、元の従業員仲間からの年賀状は今でも数十枚は届くが、更に登記子からは必らず暑中見舞いが届いてきて十六、七年にはなるだろう。勿論道内の知友人からも唯一のものであったし、それだけに今年の状況はやはり気になった。
(金沢欣哉「おんせん萬華鏡 三」/暑中見舞い)

金沢さんの書く「温泉もの」も楽しみです。今回の『暑中見舞い』もよかったなあ。その『おんせん萬華鏡』の横のページにこんな広告が。へえー、「佐藤ゆり」名で本を出していたことは聞いていたが、これがその本なのか。この第132号作業が終わったら単行本『北からの風』の復刻に入ろうと考えているのですが、さらに続けてこの本もやってみようかな。「月刊おたる」調査もそろそろ1992年に入って来ることだし。

 
▼ 「人間像」第132号 後半  
  あらや   ..2025/02/06(木) 16:41  No.1158
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「人間像」第132号(114ページ)作業、終了です。作業時間、なんと「40時間/延べ日数10日間」。収録タイトル数は「2489作品」になりました。

前回、第131号の後半に雪が全然降らないことを書いたのですが、その後一転、第132号作業の最中は連日の大雪でした。朝の雪かきを終えて部屋に戻ってきても30分くらいパソコンを操作する腕の力が抜けたようになって仕事にならない。まあ、小樽はまだマシな方です。12時間積雪量の観測史上最高が、朱鞠内でも羊蹄山麓でもなく帯広(2月4日記録)ってのはなにか意外な感じですね。


▼ 「人間像」第131号 前半   [RES]
  あらや   ..2025/01/18(土) 14:04  No.1148
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第131号作業、開始です。120ページですので月末までに終わるでしょう。今号は、千田三四郎『つけらっと…』、日高良子『春が行く』、佐々木徳次『風が吹く』、内田保夫『絆』、丸本明子『鳥と画学生』、針山和美『省三の夢』と続きます。

 意気込んで始めた創作が、サッパリ捗らない。毎日が日曜日と言う事になれば今日ぐらい休んでも明日があるさと思いがちになる。これがノンプロ作家の落とし穴かも知れない。なにせ、締切なんてないのだし、尻を叩く者もいないのだから、自分の精神力だけが頼りと言う訳だ。
 精神力を試すために、急に思い立って今日から禁煙を始める事にした。禁煙を完成させる精神力と言うのは大変な事だと信じているからである。
(針山和美「四月馬鹿日記」/四月十八日)

禁煙の効果なんでしょうか。この頃からの「人間像」は煙草のヤニに汚れていない、キレイなんですね。


 
▼ つけらっと…  
  あらや   ..2025/01/18(土) 14:09  No.1149
   「むじゃけるでないの、ほれ袖がこんになにむじゃけて。あれ、おめは小泊の……、わいー、めぐせじゃ」
 ソノは身をひねり用心深く拒んだ。ずれた笠と手拭いを元のように被りなおし、うねる踊りの列に戻ろうとした。だが嘉助は袖をにぎって放さず、ひたむきに「前から懸想してたんだ。なでねばまえねって。あっちで、わと所帯もつ相談こしなべか」と誘ったが、ソノは汚らわしそうに男をにらみつけて、
「はんかくせ、なして、おめとそったらこと……」
(千田三四郎「つけらっと…」)

まず、一発目の「つけらっと」がわからない。千田さんの文章はルビの多用が特徴なのですが、今回はルビにプラスして方言の標準語訳までが付いたので恐ろしく時間がかかりました。今は亡き瀬田栄之助さんを懐かしく思い出す。今月中の作業完了は無理かもしれない。

 
▼ 鳥と画学生  
  あらや   ..2025/01/24(金) 11:12  No.1150
   鳥の鋭叫が脳裡を被う薄紙を剥す。
 ビルの外壁の塗り替えの塗装工事のために、外壁にそって組まれた足場の上で、トシはペンキ塗りをしている。
 手を上下左右に動かす単純な行為の惰性のような時間の中にいる。落下したら命は無くなることは重々知っている。神経は極限状況に張り詰めたまま、ビル風の強風に吹き哂しの、危険に身を曝して、感覚が麻痺する。
 トシは、昨日の画学生の事を考えていた。
(丸本明子「鳥と画学生」)

丸本さんの作品には、七、八回に一度くらい素材と語り口がぴたっと嵌まる一瞬があり、その時の作品はとても深い印象を残します。この『鳥と画学生』がそうでした。誰にも真似ができない。

 
▼ 省三の夢  
  あらや   ..2025/01/24(金) 11:16  No.1151
   下手稲通りをまっすぐ東へ抜け、札幌の中心街を突っ切る石山街道を南に走る。
「花つむ野辺に、日は落ちて……」 そんな古い唄が口を衝いている。藻岩山の麓を左折して豊平川を渡り真駒内を抜けると、一路支笏湖をめざした。石山・常盤などの新興住宅街を抜けると道はすぐに緩やかな登り曲線の連続となり、やがて蝦夷松や岳樺の樹木が鬱蒼としている。最初の坂を登りきったところで先のとがった鋭い稜線が見えてくる。恵庭岳の頂上である。
(針山和美「省三の夢」)

本当に「省三」の「夢」だった。

『四月馬鹿日記』に描かれた人間関係や事件から、針山さんの小説の様々なアイデアが生まれて来ることを知りましたが、針山さんの「夢」からも生まれていたんですね。『支笏湖』や『春の淡雪』の閃きが随所に露出していて、私は乗りに乗って根をつめて一日で仕上げてしまいました。他人の夢の話を聞かされることくらい苦痛なことはないのですが、この『省三の夢』には一切そういう感情は起こりませんでした。ある種、針山さんの隠れた名作ではないだろうか。

 
▼ 作品と作者  
  あらや   ..2025/01/27(月) 06:31  No.1152
   長いこと『人間像』の愛読者であった女性から「講読をやめたいので送本不要」という申し入れを受けた。これはショックだった。
 ご存じのように同人誌の読者などは、どの雑誌だってごく少数に限られていると思う。特に『人間像』の場合は誌代を払ってくれる定期講読者はきわめて少ない。従ってお金を払って読んで下さる人は大事にしているのだが、十数年来の読者から絶縁状を受けたのだからショックの大きさは想像されよう。
「内容がくだらんから止す」というのであれば、いさぎよく納得するしかないけれど、「貴方の作品を読んで怖くなりました。そんな怖い方とは知りませんでした」という理由だったから、ショックは更に倍加したのである。
 彼女がいう「貴方の作品」とは、僕の三冊目の作品集『愛と逃亡』のことであった。〈なぜ、どこが?〉――僕としては当然おきる疑問である。
(針山和美「作品と作者」)

「十数年来の読者」なのに『愛と逃亡』も『支笏湖』も『女囚の記』も読んでいないのだろうか。私は逆です。私はこれらの作品に加えて、『百姓二代』や『山中にて』などに接することによって「針山和美をやってみたい」となったのでした。この女性が「怖い」と感じた〈男〉の描写を私は想像することができますが、この自分の中の〈人間(男)〉や〈時代〉を書き切ったからこそ初めて針山和美は小説家になったのだと思っています。
「人間像」第131号は、『省三の夢』のほかに『作品と作者』(←いつもの「春山文雄」ではなく「針山和美」名を使っています)を読むことができ、私には意義深い号でした。

 
▼ 「人間像」第131号 後半  
  あらや   ..2025/01/27(月) 06:39  No.1153
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「人間像」第131号(120ページ)作業、終了です。作業時間、「57時間/延べ日数11日間」。収録タイトル数は「2475作品」になりました。

今年は、元日の朝にさらっと雪かきをしただけで、それ以来今日まで全然雪かきしていないのです。非常におかしな一月。近年、クリスマス直前まで雪がなく土が見えていたり、一月に雨が降っていたり(小樽しか知らないけれど…)確実に世界は温暖化していることを感じます。「人間像」の仕事がサクサク進むのは有難いが、こういう便利さを当然のように享受し続けている姿は、裏返せば、いつか終わりの日が近づいていることの兆しではないのか。世界中の山火事の映像を見ていると、こうやって人間は火につつまれて終わって行くのか…と思ったりします。

裏表紙は『老春』の広告に変わりましたが、「あとがき」の一部引用なので人間像ライブラリーの『老春』をご参照ください。


▼ 老春   [RES]
  あらや   ..2024/12/28(土) 13:29  No.1143
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 ぼくらの年代は戦中から戦後にかけて青春時代を過ごしたことになるが、一世代前の老人と言われる人たちは戦前から戦中にかけて青春時代を送っている。従ってそう言う人たちを描く場合どうしても戦争時代の影を省くことはできない、と言うのがぼくの固定観念にもなっている。関わりの軽重・深浅はあろうが、むしろ老いが深まるにつれて戦争にまつわる影は濃さと重さを増して思いだされるのではないか、と言うのもぼくの中に固く観念化されている。そうした影を意識しない人がおれば、その人はまだ実際には〈老いて〉はいない人なのではないか。一作ずつを書きながら、そんなことを思った。
(針山和美「老春」/あとがき)

2024年の暮れから2025年の新年にかけての仕事になるのかな。小樽のひきこもり生活も8年目に入ります。『老春』の作品群を今一度ワープロから起こしていると、なぜか、馬鹿だった自分の若い頃をあれこれ思い出す。


 
▼ シマ婆さん  
  あらや   ..2024/12/28(土) 13:35  No.1144
   私がシマ婆さんを初めて訪ねたのは、もう十五年程も前になる。
 K町と言う私の生まれ故郷で、開町八十周年記念の行事が開催され、その一環として町史を発行する事になった。当時、私は中学で社会科を教えながら、郷土史に関心を抱き、特に戦時中の庶民の生活や官憲の横暴、朝鮮人や中国捕虜の様子など調べていたので、戦時中の章について執筆を依頼されたのがそもそもの始まりだった。ところが、警察関係を調べているうちに、佐坂正平という者が治安維持法違反容疑で逮捕され、数日後には急性肺炎で死亡した事になっている事実を知った、小林多喜二の例もある事だし、私はその真相を明確にする事に興味を持った。
(針山和美「シマ婆さん」)

驚いた。「京極文芸」に発表した『敵機墜落事件』が「人間像」の『山中にて』に変身した時と同じくらいの衝撃でしたね。針山さんの小説家としての力量をまざまざと感じました。と同時に、合評会の威力というものも感じた。同人たちの講評無くして、こういう作品はなかなか生まれて来ないだろう。K町、W鉱山、手宮富士、胸がわくわくする。

 
▼ 老春  
  あらや   ..2025/01/04(土) 17:11  No.1146
   今日のために一生懸命練習したには違いないが、素人は素人、テレビで眼の肥えている者にとっては気の毒なほどにも見えた。しかし時間つぶしにはちょうど良く、生あくびを噛み殺しながら見ていた作太郎だったが、おしまい近くなって三人の老婦人の踊りが始まると知らず知らず舞台に喰い入っていた。踊りが上手と言うよりはその中の一人に魂が奪われたのである。まだ姿形も若々しく、厚化粧してはいるのだろうが、顔も綺麗だった。それだけならそんなに心が奪われる事もなかった筈だが、見ているうちに胸が苦しくなる程の懐かしさが込みあげていた。作太郎は石にでもなったように身じろぎもせず見入っていたが、あっと言う間に幕が閉まっていた。
(針山和美「老春」)

大晦日のあたりで別の作品に関わっていました。それが終わって一昨日あたりから『老春』の作業再開です。『洋三の黄昏』を終えて、本日『老春』をアップ。明日より『まぼろしのビル』〜『黄昏の同級会』〜『四月馬鹿日記』へと続きます。ザーッと読んだだけですが、『シマ婆さん』のような大胆な改稿はなく、雑誌発表形に近い形のようです。

 
▼ 四月馬鹿日記  
  あらや   ..2025/01/13(月) 13:47  No.1147
  その家内が今度ばかりは僕の言う事を無視して、道議は誰とか、市議は誰などとメモしている。何せ隣近所に自民党や民社党や公明党のファンが大勢いて、義理と人情で縛りつけ後援会にまで参加させると言う訳だ。まあ最初のうちは名前だけ貸したつもりでも、演説会などに出入りしているうちにだんだん妙なしがらみが生じて、いつの間にか庇を貸して母屋を取られる式に、気がついて見たら身も心も後援者になっていたと言う具合らしい。
(針山和美「四月馬鹿日記」/四月七日)

まず起床は六時である。これは休みの身に早すぎるかも知れないが、実際にはもっと早く五時には覚めているのだから、仕方がないところだ。あまり早くから起き出してストーブなど焚いたのでは小言の種になるから、六時までは我慢して布団の中にいる事にしている。
(四月二十五日)

「婆さんや、国旗は立てたか?」
「国旗って、あの日の丸のこと?」
「決まってるじゃないか。今日は陛下のお誕生日じゃろうが、国旗立てんで、どうする」
「お爺ちゃん、日の丸なんて、うちにはありませんよ」
「そんな事あるもんか。ちゃんと神棚の下に入れてあるはずだ」
「そんなの、大昔の話ですよ。ここ何十年も日の丸なんて揚げたことなんかありませんよ」
(四月二十九日)

どういう時に針山さんの小説が生まれるのかが窺え、大変興味深かった。『老春』、終了です。一応、参考として、かかった時間は「75時間/延べ日数17日間」でした。大晦日〜正月の時間を跨いでいますのであまり参考にはなりません。さて、第131号かな。



 


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