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しばらく前までは芳しくなかった天気予報が、前日にはすっかり好転した。当たりもしない1週間前の予報なんかしないほうが精神衛生上良いとは前々から思っていたことである。
秋の好日、諏訪へ向かう中央道からは一足早い冬姿の槍穂の峰々が見えて気分は上々である。
大鹿村山行の行きがけの山に選んだのは、中川村の大嶺山だった。天気が良ければ陣馬形山もいいかなとは思ったが、これまで何度も登っているし、頂上が以前よりさらに観光開発されたと聞くと、いくら眺めが良くとも少々意気が落ちる。大嶺山は初めての山で興味もある。
名古屋のNさんと松川で合流し、天竜川右岸の河岸段丘を降りたのち、左岸の河岸段丘を登る。伊那谷の午前は中央アルプスが順光になる。こちらがある程度の高さにあったほうが眺める山は迫力を増す。振り返る中央アルプスは南駒あたりが雲間に見え隠れしている中、越百山がひときわ端正な姿を見せていた。
地形図に名前があるので、ある程度は人も入る山ではあろうが、一般的な登山道があるわけではなさそうだ。地形図から得られるだけの知識で入山したが、それだけに発見も多かった。それらを下山後に調べてみるのも、こういった山の楽しみのひとつである。
つまり特筆すべきは、おそろしくいい道が通じていたことである。道があくまで柔らかいのは人通りが長年ない結果であろうが、道の広さや形の良さは、かつては重要な道だったことを示している。これで路傍に石仏でもあれば最高なのだが、おそらくは山を巻く林道の開通によってそれらは麓に集められたのだと思う。ともあれ、参加した皆さんからも、いい道だねえという賛嘆がしきりだった。
下山後、ほんの1分もしないところに村営展望荘の風呂があるのがいいところで、山の汗を間髪を入れず流すのは何とも言えない気分である。この施設は、窓からの中央アルプスの眺めこそが見ものだが、我々にとっては、裏手に登ってきたばかりの大嶺山が見えるのがうれしい。
そのときにはたと気づいた。そういや「嶺」は現在の「峠」を意味したのだったと。当然「レイ」や「ミネ」ではなく「トウゲ」と読むのである。そんなことは『甲斐国志』を見れば一目瞭然なのにすっかり頭から抜けていたのである。
となるとこの道の良さが納得できる。帰ってから明治時代の地形図で調べると、やはり「大嶺」となっていて「山」の字はなかった。いつしか峠の南の三角点ピークが峠名をつけた山になったのだろう。ちなみに、この三角点名は「大草」、合併で中川村となる以前の小村の名前で、今も中川村の中心部である。つまり「大嶺」の「大」はそこに由来するのだと思われる。ひょっとすると、かつては「大草峠」だったのかもしれない。「大嶺山」は「おおみねさん」と読むらしいのだが、山容にしてはあまりに大げさな名前に感じるのは現代の感覚による勘違いというものであろう。
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