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 大嶺山    ..山旅     >>引用
      2025/11/08(土) 09:10  No.7502
 
 
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しばらく前までは芳しくなかった天気予報が、前日にはすっかり好転した。当たりもしない1週間前の予報なんかしないほうが精神衛生上良いとは前々から思っていたことである。

秋の好日、諏訪へ向かう中央道からは一足早い冬姿の槍穂の峰々が見えて気分は上々である。

大鹿村山行の行きがけの山に選んだのは、中川村の大嶺山だった。天気が良ければ陣馬形山もいいかなとは思ったが、これまで何度も登っているし、頂上が以前よりさらに観光開発されたと聞くと、いくら眺めが良くとも少々意気が落ちる。大嶺山は初めての山で興味もある。

名古屋のNさんと松川で合流し、天竜川右岸の河岸段丘を降りたのち、左岸の河岸段丘を登る。伊那谷の午前は中央アルプスが順光になる。こちらがある程度の高さにあったほうが眺める山は迫力を増す。振り返る中央アルプスは南駒あたりが雲間に見え隠れしている中、越百山がひときわ端正な姿を見せていた。

地形図に名前があるので、ある程度は人も入る山ではあろうが、一般的な登山道があるわけではなさそうだ。地形図から得られるだけの知識で入山したが、それだけに発見も多かった。それらを下山後に調べてみるのも、こういった山の楽しみのひとつである。

つまり特筆すべきは、おそろしくいい道が通じていたことである。道があくまで柔らかいのは人通りが長年ない結果であろうが、道の広さや形の良さは、かつては重要な道だったことを示している。これで路傍に石仏でもあれば最高なのだが、おそらくは山を巻く林道の開通によってそれらは麓に集められたのだと思う。ともあれ、参加した皆さんからも、いい道だねえという賛嘆がしきりだった。

下山後、ほんの1分もしないところに村営展望荘の風呂があるのがいいところで、山の汗を間髪を入れず流すのは何とも言えない気分である。この施設は、窓からの中央アルプスの眺めこそが見ものだが、我々にとっては、裏手に登ってきたばかりの大嶺山が見えるのがうれしい。

そのときにはたと気づいた。そういや「嶺」は現在の「峠」を意味したのだったと。当然「レイ」や「ミネ」ではなく「トウゲ」と読むのである。そんなことは『甲斐国志』を見れば一目瞭然なのにすっかり頭から抜けていたのである。

となるとこの道の良さが納得できる。帰ってから明治時代の地形図で調べると、やはり「大嶺」となっていて「山」の字はなかった。いつしか峠の南の三角点ピークが峠名をつけた山になったのだろう。ちなみに、この三角点名は「大草」、合併で中川村となる以前の小村の名前で、今も中川村の中心部である。つまり「大嶺」の「大」はそこに由来するのだと思われる。ひょっとすると、かつては「大草峠」だったのかもしれない。「大嶺山」は「おおみねさん」と読むらしいのだが、山容にしてはあまりに大げさな名前に感じるのは現代の感覚による勘違いというものであろう。

 そして大鹿村・延齢草へ    ..山旅     >>
        2025/11/08(土) 09:11  No.7503
 
 
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初日は大嶺山に登ったあと、同じく中川村の大草城址公園に寄ってみるつもりだったが、時間切れで大鹿村へ向かうことにした。

今年の遅い紅葉が幸いして、今しも大鹿村の山々の色づきは最高潮であった。深い谷では4時半ではすでに山の半分以上だけが夕照で輝いていた。

2年ぶりの延齢草には、下にも書いたとおり、木曜山行としては今回が12回目の宿泊だった。相変わらずの佐藤夫妻の歓待で、山の夜はゆっくりと更けていった。

明けて、まさしく秋晴れとなった。以前なら、また山へというところだが、昨日の山でだいたい満足している。そこで、中央構造線博物館を訪ねたり、これは初めての大西公園へ行ってみることにした。勝手知ったる佐藤さんが道々案内してくれるのもありがたい。

多少は歩きましょうと対岸から博物館へと小渋橋を渡るころには逆光だった赤石岳は、博物館を見学後に向かった大西公園の展望所に着くころにはすっきりとした姿になっていた。無数の桜が植えらえていて、桜のころにはシャトルバスが出るほどの賑わいだという。36豪雨で崩壊し、多くの死者を出した大西崩れの跡は大河原のどこからも眺められるが、近くに寄るといっそう生々しい。悲惨な災害の跡がこうやって平和な公園になっているのはいいなあと思う。

大鹿村を出て、最後に向かった大草城址公園も桜の名所らしい。公園内にある見事な桜が、こちらはまだ赤い葉を残していた。花の時季でなければ広大な駐車場に車はまばらだった。ここからは桜の枝越しに昨日には隠れていた中央アルプスがすべて見えた。桜と残雪のアルプスの頃には圧巻であろう。

こんな晴天に食堂なんかで飯を食うほどバカげたことはなというのが私の考えである。大きなあづまやを貸し切って弁当を使った。

ここで佐藤さんとは別れ、自宅へとまだ長い距離を残している人たちばかりだから、午後も早めの帰還となった。

延齢草の佐藤ご夫妻と参加の皆様に御礼申し上げます。

 Re:そして大鹿村・延齢草へ    ..名古屋のN     >>
        2025/11/08(土) 11:39  No.7504
 
 
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「ロッジ山旅」の『延齢草』一泊の山旅。山旅師匠が12回目というこの旅で出会った大鹿村。半分以上は参加してきただろうか。そこにある、戦後すぐに村民総出で造り上げた、村の未来を託した旧大河原中学校の学び舎。『延齢草』開業に至る歴史にも惹かれ、何より標高1000mの深い山あいの地の魅力。そして佐藤さんご夫妻のもてなし‥。夕食と朝食のお膳、地のものを存分に生かしたお料理。堪能しました。

伊那谷の松川町で、「ロッジ山旅」号に合流、目指した中川村の大嶺山(1020m)。山旅師匠の未踏の地への興味が、こちらにも伝わって「望外の手ごたえ」ある山歩きだった。松川町も、中川村も、大鹿村から伊那谷へ出る窓口のような町だというのも分かって、興味はいっそう深まった。

それにしても、大鹿村に通って、定点観測してきたかのような、中央構造線もある巨大な山塊の下を通す「信じがたい」巨大なトンネル工事‥。「大西崩れ」の現場、初めて訪れた大西公園から俯瞰すると、小渋川の谷の先にどっしりと構える赤石岳が、その人間の業(ごう)を見据えているかのようだった。

 Re:そして大鹿村・延齢草へ    ..山旅     >>
        2025/11/09(日) 09:09  No.7505
 
 
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大鹿村大河原(大鹿村とは大河原村と鹿塩村が合併してできた村である)で30年を過ごしたという信濃宮宗良親王のことは、最初に大鹿村を訪れたときに知ったことだが、歴史に疎いというか、さらに調べるといった熱意のない自分にとっては頭の片隅に残った記憶だった。

宗良親王を庇護したのがこの一帯を支配していた香坂高宗である。この香坂高宗を顕彰するどでかい碑がひょんなことから訪れることになった佐久の閼伽流山に登る途中にあったのだから面白い。くだくだしい由来は書かないが、このときにも少々文献を調べてみた。閼伽流山は佐久市香坂にあって、むろんこの地名は香坂氏と関係する。

今回、大嶺山に登ったり、帰り道に大草城址公園に立ち寄ったことで、香坂高宗が大草から大河原あたりの領主であったことを知った。要するに、小渋川の北側一帯に支配が及んでいたことになる。

となると、今回歩いた大嶺山への道、すなわち「大峠道」は大草と大河原をつないでいた道のひとつに違いない。立派な道なわけである。

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