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木曜山行恒例の大鹿村行も秋に行くのが2回続いたので、次は新緑の時季にと計画したが、すでに新緑というよりは初夏の雰囲気になっていたのはどこでも同様の今年の気候である。
これまででもっとも多い10人の参加者となった。空気ばかりを運んでいたロッジ山旅号が人間で満ちたのは久しぶりである。名古屋から5人、関東から4人と皆さん遠路はるばるの参加なのは、お互いが落ち合うのにまずまず都合がいいのが大鹿村の位置だからでもある。
好天が続いて、そろそろ下り坂になるだろうとの予報にやきもきしたが、幸いにも天気の崩れが遅くなって、初日はほぼ快晴といってもいい好天となった。
行きがけに登るつもりだったのは去年の秋に引き続いて中川村の大嶺山(おおみねやま)である。地形図に名前があるわりには一般的な登山道があるわけではなさそうなこの山に、去年は地形図から得られるだけの知識で入山したが、それだけに発見も多かった。
特筆すべきは、おそろしくいい道が通じていたことである。道があくまで柔らかいのは人通りがほとんどない結果であろうが、道の広さや形の良さは、かつては重要な道だったことを示している。この道を今年は緑萌える時季に再び歩いてみたくなったのである。
なんでこんなにいい道があるのだろう、そして、たいして目立つわけでもない山になんでこんなにたいそうな名前が付けられたのだろうと疑問に思っていたのが、下山後に、はたと気づいたことをこの掲示板に去年書いた。
要するに、古く「嶺」は現在の「峠」を意味し、「レイ」や「ミネ」と読むのではなく「トウゲ」と読むべきだったことに気づいたのである。山梨県の例でいえば、大菩薩嶺はそもそも大菩薩峠のことである。
となるとこの道の良さが納得できる。帰ってから明治時代の地形図で調べると、やはりここは「大嶺」となっていて「山」の字はなかった。いつしか峠の南の三角点ピークが峠名をつけた山になったのだろう。ちなみに、この三角点名は「大草」である。合併で中川村となる以前の小村の名前で、今も中川村の中心部である。
さて、大鹿村大河原(大鹿村とは大河原村と鹿塩村が合併してできた村である)で1300年代半ばごろの30年を過ごしたという信濃宮宗良親王のことは、最初に大鹿村を訪れたときに知ったことである。
各地を転々としてきた宗良親王を大河原で庇護したのが土地の豪族香坂高宗だった。高宗の領地は、小渋川北側の大草から大河原あたり、すなわち現在の中川村から大鹿村に及んでいたのいうのだから、当然「大嶺」はそれらの地域を結ぶ重要な道の要で、相当な往来があったに違いない。人通りが途絶えたとはいえ、立派な道が残っていたわけである。
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