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やまがたの実家に住んでいるときも毎日ではないが走っていた。 社会人になり社員寮に住んでいるときも走っていたし、初めてマラソンに出場したのは、1980年11月(33歳)で河口湖マラソン10kmの部で39:12秒だった。そのとき、橋田さん、(のちに奥さんとなるEさん)、スキーを教えていたA女史がワインを持って応援に来てくれた。
60代前半まで走っていたが、以降はウオーキング(歩く)に切り替え現在に至っている。振り返ってみればNPO活動を始めた2006年からは「源義経北国落ち180km」、「イザベラ・バード日本奥地紀行180km」、「松尾芭蕉おくの細道150km」、「清河八郎回天の道150km」まではNPOの仲間3人から8人だったが、再び一人で「イザベラ・バード150km」と、いずれも山形路だがざっと700kmの道のりを歩いたことになるのだが、他に旅企画でも数回歩いている。
何故歩くことになったのか? 1999年から長野県大町市でスキー&トライアスロン仲間7名で始めたスポーツイベント(正式名称:北アルプス山麓AdventureGames2001)だった。 仁科三湖(青木湖、中綱湖、木崎湖)とサンアルピナスキー場(佐野坂、青木湖、鹿島槍)周辺を活用して地域の活性化を図ろうと始めたのが手始めで、少子高齢化が進む地方の衰退を食い止める一助として“交流人口を増やそう“というのが狙いだった。その大会は現在も継続中だが、主催者だった私と事務局長だったS女史が10年間やったのち引退、その経験を活かしスポーツイベントで地方の活性化を図れるのではないかと模索を始めた。 そんなときに偶然見つけたのが山形大学が全国に向けて公募した「山形大が地球を救う/自然と人間の共生プロジェクト」というタイトルに惹かれ2006年春に応募した。【20250611(水)】
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