|
我がふるさと山形県で最高気温40.8℃を記録したのは1933年7月で2007年8月に熊谷(埼玉県)と多治見(岐阜県)の40.9℃に塗り替えられるまで74年間も日本の最高気温を維持していたが、今年は多くの地点でいとも簡単に40℃を超えるまでになった。今朝の都心の気温は28.3℃と一番高く、日中はどこまで高くなるのか・・・今日は仕事休みの日、ラッキーだった。(笑)
●武田浩和編集人:「本田靖春/戦後を追い続けたジャーナリスト」(株)河出書房新社
【明日どうなるか分からないのに花を育てているってことが、本田には不思議で仕方が無かったんですね。 そう考えると、物を持たずに何も無い所で生きるという本田の生き方が見えてくるんですよ。よく「シンプル・イズ・ベスト」と言っておりましたけど、それは「由緒正しい貧乏人」として、とても正しい生き方であったと思いますね。 なんにも持たないのも、これまた良いんですよ。一緒に住んでみて分かりましたけれど、シンプルに生きるっていうことは精神的にとても良いことですね。〔…〕 本田との生活は、悲しいことも大変なことも多い人生でしたけれども、飽きない人生をすごさせてくれたことに感謝しています。〔…〕
私は、本田に、「あなたが亡くなってから五年間は何とか頑張ります」って言ったんです。そしたら、「うん、まあ、それでいいんじゃないの」って。 「まあ五年頑張れないようだったら一緒に連れてってあげてもいいけどねえ」って言われたんで、「いいえ、結構です」って返したら、「そういうときは断り方ってもんがあるだろう」って。「いいえ、ありません」って(笑)。――本田早智「夫・本田靖春のこと」】
私が著者を知ったのは「我、拗ね者として生涯を閉ず」を読んでからだった。 1964年、売血の実態を抉った「黄色い血」追放キャンペーンでは、自らも山谷の売血常習者たちの列に並んで売血するなどの綿密な取材の効果あって大きな反響を呼び、献血事業の改善につながった。その数々の功績から「東の本田、西の黒田」と称えられるエース記者だった。60年代後半から、上からの売れ筋企画が押し付けられることに失望し、退社。ノンフィクションライターとして多くのジャーアリストから尊敬されるようになった。調査へのあくなき執念には頭が下がる。【20250804(火)】
|
|