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東京上野から山交バス(現(株)ヤマコー)樹氷号で蔵王に向かい、一番の蔵王ケーブルで中央ゲレンデから蔵王山荘に落ち着くというものだった。 当時の山荘の食事は盛りが良い上に実に旨かった。風呂場も湯舟も大きく、雪のちらつくドッコ沼を眺めながらの風呂は格別だった。夕飯は鍋が多く、仲間と突っつきながら食べる鍋は疲れた体に良く染み渡った。
蔵王山荘からホテルに改修されたのはバブル最盛期の1989年だった。 ホテルになってからの食事は、品数は多いが味は山荘の味の方がはるかに良かった。そんなこともあり、御徒町にあるキムチ専門店からキムチを買っていき、良くキムチ鍋にして食べた。また当時は小学館から雑誌「極楽スキー」の発刊や映画「私をスキーに連れて行って」の流行もあってスキー客は多く、蔵王には160万人のスキー客(その殆どが日本人)が訪れ、リフトやケーブルにも長蛇の列が出来「スキーを踏んだ、割り込むな」という言い合いが行われるのも日常茶飯事だった。1990年からバブルが崩壊すると一気にスキー客は減少、平成の大合併なども影響し、廃業するスキー場が増えていった。
白洲次郎が建てたヒュッテ・ヤレンのプロジェクトで蔵王に訪れたころ、上ノ台ゲレンデで滑っているスキーヤーは数えるほどしかいなかった。最近はインバウンドのスキーヤーも増え、40万人ほどに増えているようだが、その数は前年よりも増えたというもので、ニセコバブルのようになるまでにはいっていないというのが実情のようだ。これから日本人スキーヤーが増えることなど考えられない。【20260114(水)】
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