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No.767 への▼返信フォームです。


▼ 浮浪の子   引用
  あらや   ..2025/09/05(金) 18:25  No.767
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 風に軀を委ねる、浮浪の子は、その夏の日を到る処の空の下で過して来ました。これは、そのきれぎれな、思い出です。
(沼田流人「浮浪の子」)

一時は東京(国立国会図書館)かな…とまで思い詰めた『浮浪の子』ですが、道立図書館のアドバイスでマイクロフィルムという手段があることを知りました。とても有難かった。一年間もぐずぐずしてたのが馬鹿みたい。これを機に、今まで溜め込んでいた懸案の作品を一気にデジタル化しようと考えています。しばらく「人間像」作業を離れます。

「東京日日新聞」に連載小説を書いた…と単純に考えていたのですが違いましたね。連載小説は別の面に当時の大御所が書いたものがあります。流人の『浮浪の子』が載った八面は、いわば投稿欄みたいな紙面でした。原稿料は出ないけれど、意欲ある作品を活字にしてあげようという場所ですね。

 
▼ 函館   引用
  あらや   ..2025/09/05(金) 18:28  No.768
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 昨年は、函館の監獄に近い町外れの、汚い下宿屋で夏を過ごしました。その時は、ひどい憂鬱症で、勤めていた小さな新聞をお払箱になっててもうその街の誰とも、何の要事もない軀でした。で、汚ない下宿の二階の隅この三畳で、窓枠に後頭部を靠せかけて、退屈な苦々しい、日と夜とを過したのでした。無論、街へ出もしません。その、塵埃と、雑音と口銭取りの巷では、私なぞに要事のあるべき筈がなかったのです。
 窓は、西向きになっていて、小さな空地を隔てて貧民窟の、薄気味悪いようなぼろぼろな陋屋の屋根が見えました。それらの家々の靠れかかりあって並んでいる間には、ほとんど日の光りもあたらないような狭い泥濘路があるのでした。
(沼田流人「浮浪の子」)

大正十年は沼田流人が小説家への可能性(片腕でもできる仕事!)を求めて孝運寺で盛んに習作を新聞・雑誌に送っていた時期です。小樽新聞などを避けて東京の新聞に投稿したのは、同居している今出孝運や大森大栄に知られるのを嫌ったためでしょうか。でも、そのおかげで都会の知識人たちの目にもとまったわけですし、新聞自体もきちんと保存されて残ったのですから良いことづくめです。東京日日など、『血の呻き』の大正十二年あたりまで丁寧に拾って行けばまだ作品は出て来るのかもしれません。

 
▼ クチアン町   引用
  あらや   ..2025/09/05(金) 18:32  No.769
   私ら――私と祖父と――が、野葡萄や、コクワの蔓に縋って、その深い峡谷を這い出した時は、そこにはもうすっかり深い夜の幕が下されていました。で、私らは、辛うじて見つけた炭焼竈でその夜を明すことにきめました。それは、羊蹄山の北側の国有林の中で、私らは、その日赤腹魚を漁りに来て、深林の中に迷い込んだのでした。祖父の家は、麓のクチアン町にあったのです。
(沼田流人「浮浪の子」)

先頭のスレッドの画像は道立図書館で取ったコピー。二番目は札幌市立中央図書館のコピーです。流人の文章のリズムはかなり独特で、例えばこのスレッドの「深い夜の幕が」という部分、私たちは無造作に「夜」を「よる」と読み飛ばしてしまいますが、ルビを見ると「よ」とふってある。(当時の新聞は総ルビです) マイクロ・リーダーの画面はもちろん、コピーを画像にとって、それを超拡大して見たりもしたのですが、それでも判読できない文字・ルビはあります。間違いがありましたらご一報いただけるとありがたい。人間像ライブラリーの長所は、ファイルさえ出来上がれば、あとはいつでも訂正・修正が可能なことです。

 
▼ 「東京ひび」のかわきたさん   引用
  あらや   ..2025/09/05(金) 18:37  No.770
   太平洋戦争が最も激化した頃のこと、私は小学校四年生ぐらいで、学校帰りの秋風の道を友達と四五人で歩いていると、あちこちすり切れたような黒いコートを着て、少し白髪の混じったおじさんが私達に近づいて来て、「ちょっと尋ねるが、このあたりは8号線というのかね」と言った。私達はうさんくさい目を向けながら、「そうです」と答えた。「じゃあ、沼田さんという家を知らないかね」と言った。私は驚いて、おじさんをしげしげと観察した。少しよごれていたけれど、白いマフラーはすてきだったし、チラと見えるグレーのネクタイもすてきだった。そして細おもての顔は上品で都会風だった。目はやさしげだったけれど、私は用心深く少し間をおいて、「私のうちです」と言った。「しっけいだが、お父さんは片手のない人じゃないかね」 「そうです」 おじさんはにっこり笑って「そうか、よかった。その沼田さんをたづねて来たものだが」 おじさんは言い終らぬうちに私は何故か興奮してかけ出した。「あ、お父さんがご在宅なら東京ひびのかわきたが来たと言って下さい」と、おじさんも歩を早めながら大きな声で言った。
(佐藤瑜璃「父・流人の思い出」第五回」)

「函館」も「クチアン町」も登場する『浮浪の子』。二年後の『血の呻き』をかすかに予想はさせるが、まだ、ここから『血の呻き』へ飛躍させるには無理が多いと感じる。まだ描かれていない領域が多すぎる。まだ未読の作品はあると信じたい。

 
▼ これからの沼田流人   引用
  あらや   ..2025/09/11(木) 17:22  No.774
  1940年(昭和15年)、有光社から発行された『観音全集』第7巻「観音信仰史」に、

……二十歳の春得度し僧侶としての心を固め信仰生活にいそしみながらも彼は天性の文学的才能を深め、大正十五年九月の改造に「地獄」を書き、引続き東京日日に「浮浪の子」、中央新聞に「ケドリル中尉の靴」、大阪毎日に「雪の棺」(何れも北海の浮浪者を描いたもの)を発表し、その後「血の呻き」(叢文閣)、「地に呻く人々」(金星社)の二巻を出したのであった。……

と、沼田流人に触れている部分があります。作品の発表年は目茶苦茶ですが、ただ『浮浪の子』はちゃんと東京日日新聞にあったわけですから、『ケドリル中尉の靴』『雪の棺』についても存在すると考えてもいいのではないでしょうか。しかし、中央新聞や大阪毎日新聞となると、これはもう国立国会図書館クラスの話になってくるわけで、今の私には、東京に行って何日かかるかわからない国立国会通いをしている暇も金もありません。この二作品については、もう少し考えさせてください。
『浮浪の子』で動いた余禄というか、古宇伸太郎など数名の人間像同人の作品を発掘しました。順次、人間像ライブラリーにアップしたいと思います。



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