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No.1175 への▼返信フォームです。


▼ 水天宮よ   引用
  あらや   ..2025/04/14(月) 10:43  No.1175
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 外人坂は水天宮の境内からいきなり海へ転がり落ちるような石段で、坂というより段崖だった。いまは埋められて相生町だが多喜二の頃よりそう遠くない小樽は、水天宮の裾を日本海の潮があらっていたという。
 啄木の歌碑が境内で海に背を向けていた。小樽の街を啄木は哀しいと歌っている。そう私も思う。哀しみはこの街がいとしくて止まない、その果にある説明のしようがない情感なのだ。
 雪あかりの路、という処女詩集を抱き中学の教師をやりながら上京の機をうかがう伊藤整が、隣室の料理人夫婦の夜のこえに男女の何たるかを思索しながら、男としての自分に懊悩したのも水天宮のどこか斜面にある下宿屋だった。
(村上英治「水天宮よ」/「月刊おたる」2008年10月号)

村上さんが初めて「月刊おたる」に書いた作品冒頭です。私たちは「人間像」で慣れているから驚かないけれど、初めて村上作品を読んだ小樽人は愕然としたでしょうね。この蘊蓄、ただ者じゃない! そうです、啄木、伊藤整と来たら、次はこの技。


 
▼ 水天宮よ 再び   引用
  あらや   ..2025/04/14(月) 10:52  No.1176
   「僕の本棚にタキちゃんが読みたくなる本はあまりないねぇ。街の書店に読みたいものがあれば手紙のときに書いてくれると、僕はどこの書店にも出入りしているから届けてあげるよ。それに短歌のこともあまり考えすぎず、啄木のまねでいいからどんどん作ってみることだよ。僕はあまり短歌はやらないが、小説と同じようなものだから出来たらみてあげるよ」
 水天宮のベンチに坐って海を見つめているタキの淋しそうな横顔へ多喜二は言った。余市実科高等女学校で、ノラとモダンガールに就いて、という演題でイプセンを講演したときの女学生たちの表情や、ついでに余市の港を歩いて来た話などをしての別れぎわだった。
「だめかもわからない」 細い声でいうとタキは顔をふせた。「なにが、啄木のことかい――」 タキは黙って見つめ返してきた。
(村上英治「水天宮よ」/「月刊おたる」2008年10月号)

あそこで呑んだ酒…とか、私の好きな風景…とか、そんな文章が並ぶタウン誌の中でこの文章は異様です。でも、魅力はある。私は、この時の衝撃が2010年10月から連載が始まる『北浜運河』に繋がって行ったと思います。

 
▼ 北浜運河   引用
  あらや   ..2025/04/14(月) 10:57  No.1177
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 我は部下を率い大海を渡り戦い、この洞窟に入りたり――

 ナガサキヤ2Fの人工公園めいた休息の空間、その壁に手宮の古代文字が褐色に刻まれている。公園のベンチに憩っている静かな老人たち。白い頭と青白いくすんだ頬をみると、津田は雪もよいのただよう灰色のコンクリート団地、その狭間にあるどこか北欧のベンチだけを並べた、小公園を思う。
 古代文字の前で津田はいつも佇む。
 少年のときからその訳文は風化していない。読めない文字だといっても、意味を持たない、たとえ落書といわれても少年に摺り込まれた古代文字は、未知の人に何かの啓示として訳されたものかも知れないのだ。そんな思い入れがあるからだった。
 港町で暮す日常の食物や衣類などがフロアにあふれていた。地階でオレンジを買いナガサキヤを出た津田は、天へ思わず目を放った。背から小樽駅を抱いている山の向う、深い空が限りなく透明に夕焼けていた。
 その天へ入っていくように、仄ぐらく軒を重ねた家並の船見坂を上りながら振り返ると、第三埠頭に碇泊している白いフェリーが夕陽に染まっていた。
(村上英治「北浜運河」第一回/「月刊おたる」2010年10月号)

手宮文字か。始まりはオーソドックスな、小樽人が喜びそうな小説だったのだが…

 
▼ 小説は消耗品ではない   引用
  あらや   ..2025/04/14(月) 11:04  No.1178
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米谷 本離れ活字離れが言われていますが。
村上 メディアが勝手に決めつけていることで、現在は表現発表のシステムが多様になり、むしろオタメ本ばかりじゃなく、文芸書のたぐいは洪水のごとくあふれております。
米谷 とくに少年少女の文学もどき、小説以前の作品です。それが芥川賞をいただくのだから、文学の価値というのもわからなくなってきました。
村上 家計簿や日記でないだけいいんじゃないですか。読者は選択眼をもっておりますから、すぐに結果がでますよ。

なに幼稚なこと聞いてるんだか…

米谷 その小樽中毒みたいな村上さんの心情が北浜運河の密度を高めてゆくことでしょう。全国からいろんな便りがよせられています。みんなこの土地で生れ育った方々。そしては一時この地につとめた事のある方たちです。
村上 なんだかあおられて緊張してしまいます。
米谷 で後半から読み出す読者のために、次号か、次の号にこれまでのあらすじをのせてください。当初からの読者もまたふり返って、ああ、あの場面はそんな意味と展開のあやの仕掛けと気がつくはずです。
村上 それはすぐに書けますが、米谷さんも物書、それも短詩形の詩。そしてほとんどが海の詩ですね。毎年潮まつりを楽しんで来ていますが小樽を単なるご当地ソングでない。立派な歌詞に仕上げています。勢いがあっていい。
米谷 なんだそれってよいしょか。
村上 ヨイショで喜ぶような単純な男ですかあなたは。

単純な男だと言ってるんですよ。『北浜運河』もだんだん村上さんの小樽蘊蓄が重くなって来て、「人間像」で連載していた『海に棲む蛍』話題までが登場するに及んで、編集部も音をあげたのではないだろうか。『前回までのあらすじ』というのが連載第十五回(「月刊おたる」2011年12月号)に付いているんだけど、これ、村上さんに書かせていたんですね。横着な連中だな。

 
▼ 前回までのあらすじ   引用
  あらや   ..2025/04/14(月) 11:08  No.1179
   朝から魚を食べ猫をかいたい――
 船見坂に部屋をみつけ、札幌から移住したのは少年のとき、神だったというミカドから亡国を告げられたとき、浮んだのぞみだった。
 結果としてその望みは、妻にまかせていたことに、自分だけに残された時間の中で気づいたからだった。
 本能みたいに夫の食卓に、乏しいサラリーなのに旅館みたいに朝から、妻は魚をつけ続けた。
 もうそうしなくていいと言われても、知らずに魚をつけてしまうの、という妻の何かを見つめる微笑が津田は切なかった。
 そんな妻に単身赴任だといって、津田は船見坂に住んだ。
 留守宅には、魚にまったく気のない猫が妻により添っていた。
 この国来し方の歴史と、潮まつりと多喜二へのどこか共通するもの悲しい情念を、船見坂に住んで見つめてみたい、ということもあってのことだった。
 そのあいだに、夫への後天的な本能を妻には薄めてもらいたい思いもあった。
(「月刊おたる」2011年12月号)

 
▼ 父・流人の思い出   引用
  あらや   ..2025/04/14(月) 11:13  No.1180
  人間像ライブラリーに『北浜運河』のファイルをあげている時、四月上旬頃は〈村上英治〉の項目に、

 北浜運河 (第一回)
 北浜運河 (第二回)
 北浜運河 (第三回)
 …………

という感じでずらずらと並べていたのです。でも、さすがに24回分が並ぶとウットーしい。他の村上作品が探しにくくなる。それで、24回分が揃った時点で、一括ファイルに切り替えました。これでかなり見やすくなった。これが第一段階。
目次を作成しているエクセル上には24回分のフォーマットがまだ残っています。パソコンだからサーッと消すのは簡単。でも、せっかく作ったのにもったいない。そこで思いついたのが佐藤瑜璃さんの『父・流人の思い出』です。これは『北浜運河』とは逆に最初から一括ファイルで作っていたものなのですが、すごく評判が悪かった。沼田流人研究の重要資料なのに、一括にしてあるためにどこに何が書かれているのか探しづらいという声が多かったのです。で、これはいいチャンスではないか…となった次第です。これが第二段階。
結果は良好。(と思いたい…) 〈佐藤瑜璃〉の項目をぜひご覧ください。佐藤瑜璃さんという人がどういう人か一目でわかるようになりました。(と思いたい…) 私は毎日行って見とれています。

 
▼ 北浜運河を終えて ある詩人の死   引用
  あらや   ..2025/04/14(月) 11:19  No.1181
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 多喜二の死が特高の拷問を利用した自殺ではなかったのか――多喜二まんだら という作品を同人誌に発表した儀礼のように、小樽文学館と―月刊おたる へ送付したことが詩人との気運になり
 水天宮よ―というエッセイを書いた。
 そのときは未だ発行人が名の知れた詩人であることを知らなかった。
 そうして何の前ぶれもなく―月刊おたる への連載を依頼する電話があったのだ。
 同人誌とちがい、不特定な読者の多いタウン誌の二年連載は小説の構成も月々の原稿数も、全く異なる未知のものなのでお断りをした。
(村上英治「北浜運河を終えて ある詩人の死」/「月刊おたる」2013年3月号)

「詩人」という言葉、違和感あるなあ。

 
▼ 「月刊おたる」600号特集   引用
  あらや   ..2025/04/14(月) 11:29  No.1182
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佐藤瑜璃さんが亡くなる2015〜2016年頃までをチェックし終えました。ちょうどこの頃は「月刊おたる」が600号(2014年6月号)を迎える時期とも重なっていましたので貴重な資料がいくつか発表されています。そのうち、4月号(598号)の「題字と表紙絵」作者の全リスト、7月号(601号)の「連載小説と掌篇小説」の全リストはコピーを取って保存してあります。あとは「月刊おたる」に対するヨイショの類だから読み飛ばした。
1964年7月の創刊号から2016年12月号(630号)まで、館内閲覧のみの利用だったり、この時期の小樽ではマストの雪割り作業と重なったりで一ヶ月ほどの結構な時間がかかりました。気がつけば四月… さて、久しぶりに1992年の「人間像」に戻らなくては。



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