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No.1240 への▼返信フォームです。


▼ 「人間像」第141号 前半   引用
  あらや   ..2025/10/31(金) 10:35  No.1240
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 火照りの残った石の台に横たわっている彼の骨をひろう。
「もう痛くないよねー」
 奥様と二女の美和子さんが肩を寄せ合い哀しみにむせびながら、腰部の骨を拾い壺にかさばる骨を、係の者が先の丸い棒でさくさくと砕いていく。強い炎で焼かれても頑丈さをみせ、大きな骨片として残っているべきなのだが、それは変色しくだけていた。ガン細胞が骨を砕いた痕跡なのか。
 ガンよ驕るなかれ。勝ったのではない。彼と相打ちなのだ。
(村上英治「友よ、さらば」)

第141号作業、始まりました。夏の物事の片付け、冬への準備をやりながらの毎日です。この第141号の発行は平成7年(1995年)の6月20日。ということは1月の阪神淡路大震災、3月のオウム真理教などを経験した社会を背景に持ってます。(個人的には、1995年は「Windows95」が発売された年として記憶されます。あそこからここまで一気呵成だったような気がする…)
後半の作品は、土肥純光『さまざまな足音』、佐々木徳次『いくつかの最後』、内田保夫『墨染に舞う』、丸本明子『花茣蓙』、北野広『あーまたこの二月の月が』、日高良子『八百字のロマン』と続きます。


 
▼ 獅子の死のごとくに   引用
  あらや   ..2025/11/04(火) 16:28  No.1241
   だが私は、三者三様の死を考えざるを得ない。白鳥は最後までガンとは知らされなかった。針田は検査入院の結果告知されるや、周囲のものに自分はガンだということをむしろ積極的に知らせていた。「あまりガンだと騒がないほうがいい」と友人に注意を受けていたことが日記にある。竹内の塲合は完全黙秘だった。誰にも知らせるなと家族に言い含めていた。
 (中略)
 竹内の死に方の希有なことに驚くのも私たちの論理であろう。告知されて三年、手術も拒絶し、ひたすらおのれの死を待っていた竹内に野性的な生きものを感じた。サバンナの象や獅子も死期を知ると、群れから離れ、独りじっと待つという。
 竹内にとって見舞い客などただ煩わしいだけだったろうな、と思う。見舞いの言葉の空々しさや、儀礼的な訪問や同情的な目をいっさい拒否し、世俗と絶って静かに眠りたかったか。
(福島昭午「獅子の死のごとくに」)

追悼文の部分を終え、本日から竹内寛作品集に入っています。「服部ジャーナル」からの作品が多数含まれており大変興味深い。ちなみに「服部ジャーナル」は道立図書館も文学館でも所蔵していません。

 
▼ 私の北海道史   引用
  あらや   ..2025/11/07(金) 10:31  No.1242
   浪淘沙ながくも声をふるわせてうたうがごとき旅なりしかな

竹内さんの〈私の北海道史〉シリーズから『北の涯の夢』『まぼろしの後方羊蹄政庁』『古代文字の謎』『啄木の歌』の四篇をアップしました。じつに強い四篇です。現在の私が北海道常識としている源流がここにあったのか!と改めて竹内さんを見直しました。(←何をエラそうに!) 最後の最後で「浪淘沙…」の歌が流れてきて、私は感無量です

 
▼ 雪下ろしと煙突掃除   引用
  あらや   ..2025/11/08(土) 17:41  No.1243
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 戦前戦後の子供たちの大きな仕事は、屋根の雪下ろしと、煙突掃除であった。
 サンタクロースでおなじみの三角屋根と四角の煙突は、実際には、ほとんど戦後のものだったから、私たちの経験した煙突は皆、二十センチ程度のブリキの丸いやつで、丸いブラシでよく掃除した。家庭用は、悪い石炭を使っていたので、すぐ詰まり、一週間ともたない状態だった。寒さと、遊びに行けない不満で、親子の大きなトラブルのもとだった。
 雪下ろしも、もう一つの不平材料だった。屋根といっても完全ではなく、特に、継ぎ目の多い屋根では、暖房の不完全も手伝って、暖気で解けた氷が、目詰まりし、寒さで折り重なって凍りつき、それをマサカリの頭でたたき割るという悪循環で、いつも雨漏りが絶えなかった。
 先日のテレビで、雪下ろし専門の人が話をしていたが、何よりも仕事は長靴が肝心で、月に三足は履き替えているとのことであった。それでなければ、あの滑る傾斜面では作業にならないのだろう。おれは大丈夫だ、と二年も三年も冬靴を履き替えないようでは危険この上ない。
 この二つの危ない寒い作業から解放されているだけでも、最近の子供たちは恵まれている。その分、もっと勉強しろなどと言っても、それとこれとは別だと、まったくレースになっていない。
(竹内寛「雪下ろしと煙突掃除」)

竹内寛追悼作品集部分は本日完了しました。全文引用した上の小品は、北海道新聞(1995年3月13日)のコラム「朝の食卓」に載った竹内さんの遺稿です。

 
▼ 平成七年一月十七日   引用
  あらや   ..2025/11/18(火) 18:08  No.1244
  「これは大変なことだ」と思いすぐ電話機をとった。神戸には丸本明子、奈良には佐々木徳次の両同人がいる。しかし「ただ今、その方面の電話は緊急なものを除き遠慮して頂いております」という録音の声が繰り返されるばかりだった。
 電話を諦め、両名に見舞いの葉書を出して、あとはテレビに釘付けになった。
 朝のうちはヘリコプターからの映像が主で、戦時中、空襲や原爆にやられた東京や広島を憶い出させた。
(春山文雄「阪神大震災雑感」)

 ボランティアで、十分ほど、車で走っていきますと、焼け野原の、マンション、ビルの倒壊と、凄ましい形相を呈しています。愛した街が、一瞬にして消え去りました。文化とは、人生とは、人間とはを根底から問いなおそうと思っています。戦中戦後の悲痛と、「阪神大震災」の悲痛と、その間の人生図が、うごめいています。犠牲者の方々の冥福を祈ります。
(丸本明子「『阪神大震災』のこと」)

増え続ける犠牲者の数と、崩壊する建物、燃え続けて次々に廃墟化して行く街の姿に、東京大空襲の翌日、目のあたりにした下町の悲惨さをダブらせて呆然としていた。
(楢葉健三「兵庫県南部地震」)

 こんどの阪神大震災で、テレビの画面にひろがる焼野原をみて、終戦になって数日後、汽車の窓から眺めた広島の街を思い出しました。(中略) そして着のみ着のままで焼け出された年輩の男性の「生命だけは助かったのを倖せに思います」と言った卒直な感慨にも、あの頃がオーバーラップしていました。五十年前、それは私の言葉でもあったのです。
(佐々木徳次「戦争体験」)

 
▼ 「人間像」第141号 後半   引用
  あらや   ..2025/11/18(火) 18:12  No.1245
  「人間像」第141号(186ページ)作業、終了しました。作業時間は「86時間/延べ日数20日間」。収録タイトル数は「2781作品」。裏表紙は前号と同じなので省略します。
庭の樹の冬囲いとか、冬タイヤへの交換とか、あれこれやらなければならないことがこの時期にはあって、なにか落ち着いて作業できない竹内寛氏の追悼号でした。

阪神淡路大震災に自らの戦争体験を重ねる最後の世代ではないだろうか、「人間像」は。



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