| TOP | HOME | ページ一覧 |


No.1024 への▼返信フォームです。


▼ このはずくの旅路1   引用
  あらや   ..2023/12/21(木) 11:12  No.1024
  .jpg / 37.3KB

十二月中旬より大森光章『このはずくの旅路』のデジタル復刻作業に入りました。

大森光章氏の作品については、著作権継承者の許諾を頂くべく探しているのですが、現在も継承者の方に辿り着いていません。ご存じの方がおられましたら新谷に御一報をお願いいたします。

許諾もないのに復刻を始めるのには理由があります。沼田流人についてもっと深く知りたいという思いは、今年の二月、佐藤瑜璃『父・流人の思い出』の発見をもたらしました。これによって、従来『沼田流人伝』が流布していた流人イメージをかなり修正することができたと思います。それに加えて、今年は、竹中英俊氏の新発見資料によって、東京(中央文壇)における流人イメージが劇的に変化する年でもありました。鳴かず飛ばずのように語られていた流人の作品が、じつは届くべき人には届いていたということを知るにつけ、その流人が小説を書いていた時代をもっと深く考えなければいけないと感じます。その気持ちが『このはずくの旅路』復刻を急がせました。ここには孝運寺の片隅で『血の呻き』を書いている沼田流人の姿がある。


 
▼ シオ   引用
  あらや   ..2023/12/24(日) 14:03  No.1025
  .jpg / 21.9KB

 今出孝運の母親シオもそんな飯盛女予備軍の一人として瀬上宿今出屋に登場する。シオに関する資料は皆無に等しいが、萬年寺の墓誌に「明治二年(一八六九)四月に五十一歳で死亡」とあるから、生れは文政二年(一八一九)ということになる。萬年寺の記録(孝運経歴)から推量すると、出身地は陸奥国(宮城県)栗原郡高清水村である。生家は奥州街道高清水宿の旅籠屋だったが、火災で身代を失い、生活に困った親はやむなく娘のシオを瀬上宿今出屋へ飯盛下女として年季奉公に出した。文政十一年(一八二八)のことで、シオは十歳だった。
 だから、遅くとも十五、六歳から飯盛女として泊り客の相手をさせられる運命にあったのだが、生れつき利発で性格も明るく、初歩的な読み書きができ、旅籠屋の仕来りにも慣れていたのが、その運命から彼女を救い出した。
(このはずくの旅路/第一章 みちのく無常)

十年前、『このはずくの旅路』を読んでいた頃は、どうしてもイッちゃ(流人)に焦点をあてて読んでしまうのでした。今回はずいぶんと違う。小源太(孝運)の生まれから目を皿のようにして読んでいます。

 
▼ 小源太   引用
  あらや   ..2023/12/24(日) 14:07  No.1026
   今出孝運(幼名小源太)の記憶は、今出屋出身の老僧坦道に伴われて沼辺村の陽山寺を訪ね、住職の眞孝和尚に初めて対面した日から始まる。それ以前の記憶がまったくないわけではない。母とともに瀬上村を退去した日、見送りにきた異母兄右源太が町外れの摺上川の土橋の端にじっと突っ立っていた姿が、ぼんやりと瞼の裏に残っている。が、それが現実の光景なのか、後日母から聞かされて定着した映像なのか、はっきりしない。脳裏に鮮明に浮かぶ最初の記憶は、この日、陽山寺の方丈間で、大きな大福餅を食べた場面なのである。
 自分がなんの目的で陽山寺に連れてこられたのか、六歳の小源太はすでに知っていた。母から「学問を教えてもらうために沼辺の禅寺へ行きなさい」と命じられていたからだ。具体的にどういうことをするのかは理解できなかったのだが、当分、母に会えないのだ、という認識はあった。だから、入山した翌日、寺を去る坦道から、「どうだ、大丈夫か」と訊かれたときも、「大丈夫だす」とはっきり答えている。
(このはずくの旅路/第一章 みちのく無常)

研究論文じゃなくて、小説という形で〈流人〉を描いてくれた大森光章氏には感謝してもしきれない。たいした見識だと思う。

 
▼ 今出孝運   引用
  あらや   ..2023/12/24(日) 14:13  No.1027
   慶応二年といえば、徳川幕府が崩壊する前年である。孝運が京都に到着する十日前の三月七日には、京都鹿児島藩邸で、討幕のための薩長提携が結ばれている。七月十八日には幕府の第二次長州征伐が始まったものの、幕府軍が敗北して十月に撤兵している。
 また、この年は明治二年(一八六九)まで続いた大凶作が始まった年で、全国各地で農民や庶民の暴動、打壊しが発生していて、約二百年にわたって仏教の擁護者であった徳川幕府は、断末魔の状態に追い詰められつつあった。
 けれども、孝運の道中日誌にはそうした時代の激変をうかがわせる記述は一行もない。京都では京大仏(方広寺)、清水寺、西本願寺、六角堂などに参詣したり、祇園などの名所の見物や買物をしたりしているし、江戸でも、神田明神、東叡山(寛永寺)、浅草観音などに参詣、回向院の角力、柳原の古着屋街などの見物と買物をしている。危機感らしいものがのぞかれるのは、四月十日の夜に止宿していた馬喰町の近くで大火事があったという記述だけである。
(このはずくの旅路/第二章 嶺松山萬年寺)

いや、興味深い。孝運の人生には幕末〜明治維新の東北(日本)がかかっていると知ると不思議に胸が震える。ラストが倶知安の孝運寺ということに大きな意味を感じる。

 
▼ 朝日ユキ   引用
  あらや   ..2023/12/27(水) 11:24  No.1028
   ある日、岩内からの帰りに猛烈な吹雪に見舞われ、寒さと歩行困難のため途中で動けなくなり、意識を失って倒れているところを、通りかかった馬橇に助けられた。目を覚ましたとき、彼は見知らぬ座敷の布団の中にいた。枕元に誰かがいる気配に起き上がろうとすると、「寒いがで、寝てらっしゃい」と制止されて、相手が女であることに気付いた。
(このはずくの旅路/第三章 千石場所)

ある意味、『このはずくの旅路』の中での最重要箇所ではないだろうか。この托鉢の帰り道から孝運の人生が劇的に動き始めるのだから。

 二代勝兵衛の次女タカは、越中国射水郡新湊港の海運業三代旅家(たや)権七に嫁した。三女ユキは明治七年(十七歳)に富山の薬種問屋の次男に嫁いだものの二年足らずで夫と死別、入籍もされていなかったので、三歳年上の姉タカを頼って新湊の旅家家に身を寄せた。
 独立心の強かったユキは明治十五年、二十五歳のとき、義兄権七の持船(北前船)で北海道の基地岩内港に渡り、旅家海運の取引先であった商人坂本栄蔵、大森多蔵らの世話で(後略)

ああ、このはずく劇場の役者たちがどんどん舞台に上がって来る。

 
▼ 関本孝吟   引用
  あらや   ..2023/12/27(水) 11:28  No.1029
   「坊主が生涯独身を通すという時代は終ったよ。昔気質のあんたには抵抗があるかも知れないが、いずれ日本中の坊主が妻帯するだろう。当然、寺も世襲になるだろう。あまり深刻に考える必要はないよ」
 それ自体は予想できた意見だったので、孝運はさほど驚かなかったのだが、「それよりも、孝運さん」と続けて口にした孝吟の話を聞いて彼は顔色を変えた。
「岩内に説教所を開くというのはどうかな。信者三十人の説教所を持っても苦労するだけだよ。それくらいならイワウヌプリの向う側にあるクッチャン原野で開拓が始まったらしいから、そこへ入植して布教活動をしてみてはどうかね。前人未踏の原野だというから、あんたには理想の場所なんじゃないかな」
(このはずくの旅路/第三章 千石場所)

ついに〈クッチャン原野〉の登場。こちらも最重要箇所だ。『このはずくの旅路』は倶知安の始まりからを描いている点でも得がたい小説。

 
▼ 縫部兼次郎   引用
  あらや   ..2023/12/29(金) 11:45  No.1030
   同伴の二人の信者も同じ思いらしく、「こんなところに説教所を建ててもどうにもならんべよ。一、二年様子を見たらどうかな」と大森多蔵がつぶやくようにいい、「うだな。近く集団入植が入るそうだが、曹洞宗の信者がどれだけいるかわからんしな。今すぐ岩内を引き揚げるのは考えもんでねえか」と菊池兼蔵も相槌を打った。
 孝運はしかし即座に同意できなかった。願書提出時に植民課の係員からいわれた言葉が脳裏にへばりついていたからだ。
「倶知安原野は基線を中心に市街地を設ける計画です。あなたの場合はお寺さんですから、この辺りが適当と思います……」
 親切な係員はそういって区画図面に整然と列んだ碁盤の目の一つに朱丸を付けたのだったが、その場所がここなのだ。今は無人の原野であり、信者も檀徒もいないが、将来は布教活動に有利な市街地に発展するに違いない。孝運としては、一、二年様子を見るといった逡巡は許されなかったのである。
(このはずくの旅路/第四章 萬年山孝運寺創建)

集団入植以前のクッチャン原野に、すでにマッチ軸木工場の縫部兼次郎のような人間が入り込んでいたという事実は興味深い。植民課の係員が朱丸を付けた場所は、後に「函館本線」の「六郷駅」ができる場所ですね。確かに倶知安市街の中心地になるはずでした。

 
▼ 旅家タカ   引用
  あらや   ..2023/12/29(金) 11:49  No.1031
   それはかまわないのだが、二ヵ月ほどすると、孝運に対するタカの態度が豹変して、彼を戸惑わせた。ユキ母子がいまだに入籍されておらず、長女トミが朝日姓のまま通学していることを知ったタカは、急に興奮しだし、「おやっさまは偉い坊さまと聞いちょったに、どないしよったが? 人に法を説く資格があるがかいね……」と富山弁で食ってかかり一日も早く婚姻届を出して三人の子を入籍せよ、と厳しい口調で要求したのである。
 あまりの見幕に孝運はたじたじとなり、タカがやってきても方丈間に閉じ籠って会おうとしなかったが、彼女は方丈間にまで押しかけてきて、「おやっさまにはユキと結婚できんわけがあるがに? 仙台に大黒さまがおるがですか」と詰め寄り、孝運があわてて否定すると、「ならば、なにをびくびくしとるだら。子供らがかわいそうだっちゃ」などと泣きの涙で訴えることも再三どころではなかった。
(このはずくの旅路/第四章 萬年山孝運寺創建)

孝運寺の一角になぜ旅家米店や沼田仁兵衛の木賃宿があったのか、初めてこれを説明してくれたのが『このはずくの旅路』でした。こんな大事なことも知らず、『沼田流人伝』は暢気に「倶知安の優良児童(沼田一郎)表彰」の新聞記事なんか載せている。なんの意味があるんだ。



Name 
Mail   URL 
Font
Title  
File  
Cookie  Preview      DelKey