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▼ このはずくの旅路3   引用
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:15  No.1041
   仙台の曹洞宗第二中学林から孝運あてに一通の文書が届いたのは、それらのことが一段落した四月下旬のある日だった。開封して中味を見て、孝運は呆然となった。それは〈大栄が第一学年の課程を落第し、留年手続きも取らなかったため、四月十九日付で退学処分にした〉という通知書だった。そればかりか、〈御子息大栄殿が当林寄宿舎で使用していた所持品は舎内で御預りしているので可及的速やかに御引取りいただきたく……〉という添書まで付いていたのである。
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/3 弟子の行方)

〈父上様、母上様。御心配、御迷惑をおかけして申し訳ありません。夏休み以来、自分なりにいろいろ考えてみましたが、僕は僧侶には向かないと思いますので、学林をやめることにしました。二、三年、東京で自分の今後の生き方を探してみるつもりです。将来の見通しが立ちましたら手紙を書きますから、僕を探さないで下さい。くれぐれもよろしくお願い致します。大正二年三月二十二日。大栄拝〉
(同章)

イッちゃ(沼田一郎)の事故から四日後、仙台の曹洞宗第二中学林に戻った大栄。平常を装う心の底で、なにか得体の知れないものが蠢いていたようだ。


 
▼ 青木莫秀   引用
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:17  No.1042
   大栄はそのころ、東京の繁華街浅草で役者修業をしていた。
 彼は初めから上京を望んでいたわけでも、役者になろうと志していたわけでもなかった。沼田一郎の事故があった大正元年(一九一二)十二月、曹洞宗第二中学林一学年の二学期を終えた大栄は、帰省列車の乗車券を購入すべく仙台駅へ行き、そこで偶然にある人物に出会った。彼が得度した明治四十一年(一九〇八)の夏、二ヵ月ほど孝運寺に滞在して天井画を描いた旅の絵師青木莫秀であった。
 先に気付いたのは大栄の方である。ふだんは外出先で友人に出会っても知らぬ顔で通り過ぎる大栄だが、このときはなぜか、四年ぶりに会った莫秀に自分から声をかけている。そして奇遇を喜ぶ莫秀から「おれは明日、東京へ帰るんだが、よかったら一緒に上京しないか。冬の北海道へ戻っても面白いことはあるまい」と誘われて、不意にその気になった。東京見物をしたかったというよりも、夏休みに一郎の事故のことで父親から厳しく叱責されて、正月の帰省がなんとなく重荷に感じられていたからだ。
 一郎の事故があった日、木工場での自分の軽率な行動を厳しく咎め立てる父親の顔を見詰めながら、「おれはやはりこの人の実子ではないんだな」という疑念に彼は囚われていた。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/1 浅草宮戸座)

 
▼ 浅草宮戸座   引用
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:21  No.1043
   予期せぬ電報を受け取った親元孝運寺では、当然ながら突風に襲われたような騒ぎとなった。丸二年間も行方不明だった息子の消息を知らせる第一報が〈ビョウキオイデコウ〉である。大栄が東京浅草の青木莫秀宅にいることはわかったものの、その二年間何をしていたのか、病気がいかなる状況なのか、詳細はまったく不明なので、孝運とユキとの反応に違いが起った。
「あの絵描きの弟子になっているんだろう。もう坊主になる気はないに違いないから、死のうと生きようと放っておけ」
 すでに大栄破門の腹を決めていた孝運は、消息がわかって安堵した内心とは裏腹に冷たい態度をあらわにした。が、この二年間、寝ても覚めても心配し、一年前から高血圧の症状に悩まされているユキは、対照的な反応を見せた。
「何をいうがですか。取り返しのつかんことになったらどうします。わたしは行きますよ。あんたさんがなんといおうと東京へ行って大栄を連れ戻してきますからね」と夫に食ってかかり、ただちに旅支度を始めたのだった。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/2 最後の賭)

浅草宮戸座ということで、「人間像」の千田三四郎「乾咲次郎もの」と比較してみますと、この大正2年の時点で、大栄は18歳、乾咲次郎40歳でした。東京などの都会では、明治の壮士芝居はとっくに廃れ、松井須磨子の「芸術座」旗揚げなど新しい時代が花開いています。自ら「最後の壮士芝居役者」と公言して憚らない咲次郎は地方で一座を旗揚げしては解散を繰り返し、最後は中国大陸の大連まで流れ流れて行くわけですが、それはまた、壮士芝居終焉の姿でもありました。

 
▼ ユキからトミにあてた手紙   引用
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:23  No.1044
   私はどうしても大栄に孝運寺を継いでほしいのです。方丈さんは、坊様はお釈迦様の弟子で、お釈迦様に代って世間の人々に仏の道を教えるのが使命だから、修行をやる気のない者は坊様になる資格はない。大栄を弟子にしたのは間違いだっちゃなどと言い張っておりますが、私は何がなんでも大栄に孝運寺の後を継がせたいのです。孝運寺を今のような寺にするためには、私なりの苦労がありました。子供たちには詳しいことはいっておりませんけれど、あの寺は方丈さんだけのものではありません。私にとっても二十数年間に流した汗と涙の結晶なのです。
 方丈さんは今年七十二歳です。いつ何時御迎えがくるかも知れません。もし方丈さんに万一のことが起ったとき、後継ぎがおらなければ、他人が孝運寺を継ぐことになり、私は行き場を失います。寺から追い出されるに違いありません。そのことを考えると、方丈さんのように、寺はお釈迦様の教えを説く所で、個人の持ち物ではないなどと呑気なことは言っておれませんし、あれだけ苦労してつくった孝運寺を他人に渡すのは無念で仕方ありません。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/2 最後の賭)

長女トミは明治44年に松前・花遊山龍雲院の近藤愚童と結婚。その後、愚童が小樽・龍徳寺の五世住職となるにつれて、その孝運寺に対する影響力は格段に大きなものとなって行く。

 
▼ 今出大栄   引用
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:26  No.1045
   大栄の勤行は三年間の不在を感じさせなかった。経典の文句はもとより、礼拝や鏧、太鼓などの作法も忘れていなかった。孝運は感心して三日後にある檀家の年忌法要に同伴してみると、得度のころから大栄を知っている老女は、「まあ、立派な若様になられて。これでお住っさんも一安心でやんすね」といって歓待した。孝運やユキが事実を隠していたので、ほとんどの檀徒は大栄が大本山へ修行に行っていると思い込んでいたのである。実際、仏壇前の大栄の立ち居ふるまいを見ていると、灯明、線香、経本の扱い方から、礼拝の手順、鈴の打ち方、経文、回向文の読み方まで作法どおりで、堂々としている。
 この分では、たとえ大栄が東京で役者をやっていたという噂が立っても、それを信じる檀徒は少ないかも知れない、と孝運はようやく安堵した。
 が、その安堵感は一週間も経たないうちに揺ぎ出す。
 昼間は見事な修行僧ぶりを演じているものの、夜になると大栄は、居間の炉端に陣取り、ユキやヒサシを相手に東京での役者体験を面白おかしく語り、二人を笑わせているのである。ユキは方丈間の孝運に知れるのでは? とはらはらしたが、大栄の気分をそこねるのを怖れて注意できなかった。大栄は調子にのって、帰郷を知って訪ねてくる幼友達にも平気で、東京みやげ≠しゃべり、浅草の盛り場で写した自分の写真を見せびらかしたりしている。何種類かの洋服を着た早撮り写真である。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/2 最後の賭)

何も変わってはいなかった大栄は、即刻、小樽・龍徳寺に預けられ、さらに愚童の指図で広島県尾道市天寧寺の修行に飛ばされる。

 
▼ 今出ユキ   引用
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:29  No.1046
   突然、養蚕を思い立った動機には、母親としてのそんな夢が潜んでいたのであるが、彼女のその夢はついに実現しなかった。桑畑づくりに着手して二ヵ月後の六月中旬のある朝、台所でヒサシと一緒に食事の支度をしている最中、ユキは不意に烈しい頭痛をともなう発作に襲われて倒れ、六日間意識を失ったまま眠り続けた末、同月十九日(月曜日)午前六時三十五分にこの世を去ったのである。享年五十九歳であった。
 病名は脳溢血(脳出血)であるが、現在のように点滴で栄養を体内に送り込む治療法はなかったから、実質的に餓死ということになる。この間、枕元に集まった身内の間で、尾道へ電報を打つかどうか、何度か意見の対立があった。長女トミや姉の旅家タカが知らせるべきだと強く主張したのに対し、師の孝運は、「出家とは肉親と縁を切るということだ。修行を中断させるわけにはいかない」と承知しなかったからだ。
「孝運さん、あなたも血の通った人間でやんしょう。出家道とかなんとかごちゃごちゃいわずに大栄を呼んでやったらどないですか。ユキはここの誰よりも大栄に会いたいと思ってるに違いないがですよ」
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/3 妻の死)

 
▼ 沼田家   引用
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:32  No.1047
   畑づくりの要領は、境内の一部を利用して野菜を作っているので心得ているが、荒地の大部分は湿地帯だったので、囲りに溝を掘って土中の水分を抜く必要があった。他人に頼めば経費がかかるので、ユキは旅家家の裏隣で木賃宿を営んでいる沼田仁兵衛に手伝ってもらって、自分でその作業をやることにした。
 木賃宿は養子のハルイと一郎が手伝ってくれるので、仁兵衛はふだんから週に一回ほど、地主である孝運寺の雑役を引き受けていた。この年、ハルイは二十一歳で、宿の切盛りを任せられたし、十九歳の一郎は、四年前の森木工場での事故で左手を失って重労働はできなかったので、小学校高等科卒業後も養父の宿を手伝っていたのである。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/3 妻の死)

 三日後の午前、毎日往診に訪れる横尾医師から、ここ二、三日が山場だろう、と知らされたトミは、沼田一郎に頼んで小樽の龍徳寺で待機している夫へ打電した。その日の夕方到着した愚童は、妻から頼まれて、尾道へ知らせるように孝運を説得し、一郎を郵便局へ走らせた。が、大栄は結局、母親の臨終には間に合わなかった。
(同章)

「妻の死」の章には、沼田家と今出家の関係性をしのばせる記述が出て来て興味深い。

 
▼ 今出大栄   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 09:54  No.1048
   法要がすんで孝運が退座し、参列者たちが席を立とうとしたときである。まだ座ったままだった大栄がいきなり内陣の遺骨に向かって、「母さん、おれをひとり残してどうして死んだんだ。おれは母さんのために頑張っていたのに……」と激しく鳴咽し、居並ぶ一同をびっくりさせた。気色ばんだ姉トミから、「悲しいのはあんただけじゃないよ。坊さんのくせにしっかりなさい」と叱咤されて黙ったものの、むせび泣きはしばらく収まらなかった。
「母さんが猫可愛がりでしたから無理もないんですけどね」
 その場の様子を聞かせたトミは弟に同情するような言い方をしたが、孝運は頷けなかった。あいつはまだまだ修行が足りぬ。兵隊検査が終ったらすぐに尾道へ追い返そう、と腹を決めた。
 だが、七月二日の徴兵検査がすんだ後も大栄は旅支度をしようとはせず、妹ヒサシが旅費を差し出すと、「もう天寧寺には戻らないからいいよ」といって受け取らなかった。ヒサシから報告を受けた孝運が本人を呼んで真意を質すと、「僧堂の修行は大して意味があると思えないんです。法要や葬式の作法なら家にいたって覚えられますし、もうほとんどマスターしました」と平然と英語を用いていってのけたのである。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/1 東倶知安線)

この罰当りめ、と憤る心を抑えて諄々といい聞かせる孝運に、その場では反抗的態度を見せなかった大栄だが、翌日、孝運の隙をみて、「ちょっと姉さんに相談してくる」と言って小樽へ逃げてしまった。じつにそれから四年間、大栄は一度も孝運寺へ顔を見せなかったのであった。



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