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No.1049 への▼返信フォームです。


▼ このはずくの旅路4   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:22  No.1049
   孝運がランプ生活を苦にしていた形跡は見られない。が、次に起った東倶知安線の建設では、寺の歴史に残るほどの影響を受けた。この鉄道は、東倶知安村(京極町)の三井鉱山ワッカタサップ鉄山と函館本線倶知安駅を結ぶ全長十三・四キロの軽便鉄道である。第一次世界大戦によって需要が急増した鉄鉱石をワッカタサップ鉄山から倶知安経由で室蘭の輪西製鉄所(大正六年二月北海道製鉄と改称)へ輸送する目的で敷設されたのだった。
 このこと自体は孝運寺とあまり関係がないのだが、大正五年に着工が本決りとなり、六年五月から用地買収が始まる段階で、この鉄道が孝運寺の参道を横断して本堂の目の前を通ることを知らされて、孝運はあわてた。当時の孝運寺には前庭と呼べるほどの広場がなく、参道が本堂から真っ直ぐに基線道路まで延びていた。その本堂の約二十メートル前を汽車が走るとなると、騒音や煤煙の被害が大きく、踏切を渡って出入りする参詣者への危険度も大きい。孝運は、寺の裏を迂回して敷設するように鉄道院北海道建設事務所へ申し入れたが、地形的に無理という理由で認められず、用地買収に応ずるしかなかった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/1 東倶知安線)

今回の『このはずくの旅路』復刻、いちばんの目的は、『血の呻き』を書いている流人の姿を浮かび上がらせたいということです。その意味で、『血の呻き』の発火点ともいえる東倶知安線工事が始まった。


 
▼ 仁兵衛一家   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:25  No.1050
   京極線(東倶知安線)の六郷駅は、六号線市街の西寄り、孝運寺からでは直線二百メートルほど西側に開設された。六郷とは六号線の里を指すものと思われるが、以来、六号線市街は六郷市街と呼ばれるようになる。
 この駅の開業によって地元や近隣農村部は、交通、物資輸送の面から多大の恩恵を受けた。が、孝運寺にとっては必ずしも朗報とはいえなかった。前述のとおり線路が寺の目の前を通ることになったからだが、それだけではない。沼田仁兵衛が六郷市街(今出家の土地)で営んでいた木賃宿が新駅の開業によって宿泊客が激減したため廃業に追い込まれてしまったのだ。そして、その窮状を見るに見兼ねたのが沼田家とは隣同士の旅家タカだった。京極線開通の翌年(大正九年)雪解けごろのことである。
「どうやろ? 沼田一家を寺で引き受けてもらえんやろか。仁兵衛さんは歳だし、イッちゃはあのとおり片手がないから一家を支えるだけの働きができんでしょう。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

『三人の乞食』を目にした松崎天民はさぞ驚いたことだろう。木賃宿をルポルタージュするしか手段がない天民の前に、その木賃宿を今生きているもの書きが現れたのだから。

 
▼ 松本シン   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:28  No.1051
   〈……結婚の相手は余市町で澱粉製造業を営む松本三郎様の次女シンさんで、年齢は大栄とは四つ違いの二十一歳です。昨年秋に大栄は同町永全寺の成道会へお手伝いに行っておりますが、その折、会食の接待をつとめられたシンさんの姿が目にとまったらしく、結婚したい旨私に相談がありましたので、愚童とも話し合って先方に打診しておりましたところ、この度、快諾が得られました。本来ならば、事前に父上の御承諾を受けるべき事ですが、先日まで決まるかどうかわからなかったので、私どもで勝手に進めさせていただきました。悪からずお許し下さい。
 それにつきましてお願いがあります。この際、大栄を父上の許にお返しして、孝運寺にて花嫁を迎えるのが本筋と思われますので、本人の意志を確めてみましたところ、大栄も父上の御許しがあれば帰山して、父上の手助けをしたいと申しております。突然のことで驚きのことと拝察致しますが、父上も老齢であり、昨年のお盆のこともありますから、まげて私ども姉弟の願いを御聞き届けいただきたく、よろしくお願い申し上げます。今後のこと万端はいずれ参上致して御相談させていただきますが、まずは一筆まで。早々頓首〉
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

なぜ、大栄。

 
▼ 大栄夫婦   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:30  No.1052
   仮祝言の翌日、タカやヒサシとともに四年ぶりに帰山した息子の顔を見て、孝運もまた唖然とさせられた。鼻の下に泥鰌ひげをたくわえた禅僧などかつて一度も目にしたことがなかったからだ。縁なしの伊達眼鏡もどこかの商家のにやけた若旦那のようで気に入らなかった。久闊の挨拶を述べる大栄の態度は神妙だったし、いかにも初々しい新妻が傍に寄り添っているので、面と向って罵声を浴びせるわけにはいかなかったが、内心は苦虫を噛みつぶしたような気分だった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

なぜ、大栄。

 
▼ 写経   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:32  No.1053
   彼は一計を案じて、盂蘭盆が過ぎた九月初めのある日、まず大栄を方丈間に呼んでこう告げた。
「お前は役僧としてはもう一人前だが、悪筆が玉に疵だ。将来、住職になったときはそれでは務まらぬ。今月から毎週二回、月曜と木曜の午後に新座敷で一郎と一緒に写経をしろ」
 新座敷というのは、大栄夫婦のために新築した八畳二間だ。二人が庫裏に腰を据えて動こうとしないので、客殿として使用していたのである。
「イッちゃも一緒に?」
 案の定、大栄が怪訝な顔をしたので、押し返すように答えた。
「一郎もあの体では労働はできぬ、寺には過去帳とか、事務文書とか、正月の御札とか、いろいろあるから、当分は祐筆の仕事をやらせようと思うので、写経で毛筆を練習させたいのだ」
 ついで一郎を呼び付けてこう告げた。
「大栄と一緒に写経をやってくれぬか。大栄はあのとおり悪筆だが、いくらいっても一人では練習しない。お前が一緒だとやる気を起すかも知れんから付き合ってやってくれ。お前も寺の飯を食っているんだから般若心経ぐらい覚えるのも無駄ではあるまい」
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

沼田流人の後半生を決定づける〈書〉がここに芽生える。

 
▼ 舉一明三   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:35  No.1054
   孝運が一郎に得度の話を持ち出したのは翌十年正月のことである。
「お前は手筋がいいから将来はその才能を生活にいかせるかも知れない。といっても、おいそれとは実現するまい。当分はこの寺で書き物を手伝ってくれ。今は大して謝礼も出せないけれど、そのうちに書道塾を開けるようにしてやってもいい。ついては、寺の仕事をやるには得度を受けておいた方が何かと好都合だと思うが、どうだろう。もちろん、お前の体では僧堂で修行するのは無理だから和尚となって一寺の住職になるのはむずかしいだろうが、得度して僧籍を持っても損になるわけではない。仁兵衛ともよく相談して返事をくれ」
 (中略)
 得度すれば一郎は大栄の弟弟子ということになる。兄弟子に隠しておくわけにいかないので、その夜、大栄に一郎を弟子にする理由を簡単に伝えると、一瞬顔色を変えて、「イッちゃには務まらないと思うけれど、方丈さんが決めたのなら、わたしに文句はありませんよ」とちょっと投げ遣りな口調で答えた。
 孝運はやむを得ないと割り切って、二月四日(金曜日)に自ら授業師を務めて本堂で一郎の得度式を行った。二番弟子舉一明三(きょいつみょうざん)の誕生である。このとき孝運は七十八歳、明三は二十一歳であった。一郎改め明三は、間もなく曹洞宗宗務庁の僧籍簿に登録され、戸籍上も明三と改名された。戸籍名の変更はさまざまな規制があり、現在でも簡単ではないが、僧籍を取得した場合はほとんど無条件で認められている。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

 
▼ 沼田流人   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:39  No.1055
   流人が最初から決めていたのか、出版者の意向でそうなったのかはわからないが、このときの長篇小説は「血の呻き」というタイトルであった。彼はたいへんな意欲をもってこの執筆に取り組んだに違いない。が、不幸なことに、当時の孝運寺の環境は、彼がそれに没頭するための条件としては、必ずしも恵まれたものではなかった。
「三人の乞食」のような短篇ならともかく、長篇小説、それも沢山の資料や取材メモなどを手許に置く必要のある「血の呻き」の場合は、住職孝運や兄弟子大栄の目を盗んでこっそりと執筆する、というわけにはいかない。沼田家の住居は一応別棟になっていたものの、本堂、方丈間、庫裏とは廊下で繋がっていたし、両家の家族は三度の食事を庫裏の居間で一緒にとっていたから、流人が新たな構想でタコ部屋を扱った小説を書いていることは、たちまち孝運や大栄に知られてしまった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

十年前、この『このはずくの旅路』を書いている大森光章氏も、読んでいる私も、『沼田流人伝』の「出版されなかった」説を前提に生きていたことをどうか忘れないでほしい。私はこの復刻が終わったら、最終的な『沼田流人伝』批判を考えています。
もしかしたら私の最後の書きものになるかもしれない。この人間像ライブラリーで〈沼田流人〉を始めたあたりから、妙に私が今まで書いた文章が鬱陶しくなって来ている。もう、優れた作品を死ぬまでライブラリー化する毎日でいいんじゃないか。

 
▼ 或る女   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:42  No.1056
   「イッちゃの本だな」
「そうよ」
「ちょっと見せろ」
 取りあげてみると、『或る女』という小説本だった。二分冊になっているらしく、すぐ近くにもう一冊、続編が置かれていた。
 大栄はその本の内容も、著者有島武郎の名前も知らなかったが、自分が寺役に出ている留守中に、恋女房と新米の弟弟子明三が仲むつまじく語り合っている場面が瞼に浮かび、烈しい嫉妬心に駆られた。
 彼は『或る女』二冊を奪い取ると、廊下伝いに沼田家の住居に駆け込み、明三にそれを突き返して、「イッちゃが小説を書くのは勝手だ。しかし、こんな怪しげな本をシンに貸すのはやめてくれ」と一重瞼を三角にして抗議した。
 彼が自分の早とちりに気付いたのは、怪訝そうな面持で本を受け取った明三から、「シンさんに貸した覚えはないよ。これは二冊ともヒサちゃんに貸したんだよ」と反撃されたときだ。そういえばシンは、イッちゃから借りた、とは一言もいっていない。しまった、と思ったがすでに遅かった。引っ込みがつかないまま、「とにかく、シンには文学なんか教え込まんでくれ」といって退去したが、このとき以来、小説家志望の弟弟子の存在が目障りになりだしたのだった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

 
▼ 侍者擧一明三謹書   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:46  No.1057
   理解できない部分が多かった。開教者(孝運)の経歴も明治維新当時の仏教史に暗い彼にはちんぷんかんぷんのところが少なくなかったが、最後に「室中人法明峰下二十七代目ニ当ル」とあるのに注目した。
 曹洞宗では、宗祖道元(永平寺開山)を高祖、宗勢拡大の礎を築いた瑩山(総持寺開山)を太祖と呼んでいるが、明峰(素哲)は太祖瑩山の法嗣四哲の一人で、明峰派の創始者である。そんな知識のない大栄だったが、「二十七代目ニ当ル」の文言を読んで反射的に、するとおれは二十八代目だな、と思った。が、さらに読み進み、沿革の最後に「侍者擧一明三謹書」と記されるのを目にして、思わず息を飲んだ。二十八代目はおれではなく、イッちゃかも知れない、という想いが、閃光のように脳裏をかすめたからだ。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

 
▼ 訣別   引用
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:49  No.1058
   「オドっちゃやハルイには悪いけど、イッちゃとは幼友達だから単刀直入にいわせてもらうよ。なるべく早く勤め口を探してここを出てもらえないだろうか。この寺は檀家も少ないし、大した金持もいないから暮し向きは楽ではない。方丈がお前にどんな約束をしているか知らんけど、寺役もまともに務められないお前を、いつまでも面倒みている余裕はないんだよ、イッちゃだって本気で坊主になるつもりはないんだろう。ヒサシの話じゃお前は小説家になりたいらしいが、それならばなおのこと、経済的にも独立して、自力でその夢を実現させるべきじゃないのかね。将来のことを考えるなら、その方がイッちゃのためになるんじゃないかな……」
 素直に受け入れてもらえるかどうか自信はなかった。孝運の意見を訊いてから、といわれる可能性もあったし、その場合は、頑固で偏屈な師の怒りを買い、明三と自分との立場が逆転しかねなかった。いちかばちかの思いで一気にしゃべったのだが、終始、無表情に耳を傾けていた明三の反応は、意外にも、「オドっちゃと姉も一緒に出て行けということかい」と訊き返しただけだった。
「とんでもない。二人にはずっといてほしい。そんな心配はしなくてもいいよ」
「わかった。今日、明日といわれても困るけれど、一、二ヵ月のうちにおれは出て行くよ」
「そうか。悪いな」
「気にせんでいいさ。いつかはこんな日がくるとは覚悟していたんだ。オドっちゃたちのことはよろしく頼むよ」
「それは約束する。しかし、ほっとしたよ。方丈に話を持ち込まれたらどうしようかと、実は内心はらはらしていたんだ」
「方丈さんには勤め先が決まってから話をするよ。方丈さんも安心するだろう。こんなおれを弟子にして、心の中では後悔しているに違いないからな……」
 明三はどこかさばさばした表情で薄く笑った。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

 
▼ 今出孝運   引用
  あらや   ..2024/01/09(火) 17:40  No.1059
   一人一冊、渋紙の表紙の本を受け取って本堂を出て行く子供らの長い行列を見送っていた孝運が不意に、「わしは旅に出る」とつぶやいたのはそのときであった。付き添っていたヒサシとタカがわが耳を疑ったのはいうまでもない。
「旅に出るって? その体でどこへ行くがですか」
 タカが思わず知らず富山弁で質すと、孝運は一瞬はっとした表情になり、しばらく、どこか侘しげなまなざしで十一歳年下の義姉の目を見据えていたが、「いや、今日、明日というわけではないですちゃ」と仙台弁で答えた。
(このはずくの旅路/第九章 旅路のはて/3 何處へ)

「こうなってみると、旅行中でなくてよかったわね。旅先で死なれたりしたら、ヒサちゃん、あんたたいへんだったよ」
「ほんとだ。思っただけでもぞっとするわ」
「それにしても、隠居さん、どこへ行くつもりだったのかね?」
(同章)

第九章についても別スレッドを立てて書いてみようとはしていたのだが、「2 幻の処女出版」の章に来るといつもゲンナリしてしまう。やる気が失せる。『沼田流人伝』を参考にして書かれているこの章は悲惨だ。私はこの章を削り取ってしまいたい。削り取って、物語の最後は〈旅に出る〉孝運のこのエピソードで終わればそれでよかったのだ。



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