| 昭和十二年七月七日、蘆溝橋に端を発した中国大陸の戦火は、一力月後には北平をつつみこみ、次第に果しないひろがりをみせはじめていた。 その頃、九州の漁業界に異変が起っていた。 初め、人々は、その異変に気づかなかつた。が、それは、すでに半年近くも前からはじまつていたことで、ひそかに、しかしかなりの速さで九州一円の漁業界にひろがつていた。 初めに棕櫚(しゅろ)の繊維が姿を消していることに気づいたのは、有明海沿岸の海苔養殖業者たちであつた。 (吉村昭「戦艦武蔵」)
或る夜、藤平は突然人の喚き声を耳にしてはね起きた。 淡い坑道のカンテラの下で、半身を起している技師の青山が、眼を吊り上げてなにかしきりに叫び声をあげている。坑道の一隅に寝ていた技師たちが、起きて青山をとりかこんでいる。根津も天知も起き出してきた。 「ホウだ、ホウだ」 青山は、手にノートのようなものをつかんで譫言のように叫びつづけている。 (吉村昭「高熱隧道」)
当時の関係者を訪ねる旅。費用はすべて吉村昭氏の自己負担だったという。出版社や関係団体から取材費を貰ったことは一度もないという。想像するのだが、インタビューで「これは!」という証言が得られた瞬間、ほぼ小説は氏の頭の中で成立していたのではないでしょうか。東京へ帰る汽車の中で小説の組み立て作業はすでに始まっていると書いていましたが、全部が全部「これは!」ということはなかっただろう。空振りの旅の帰りの車内の姿を思い描くと、今読んでいる吉村昭の小説の有難さをしみじみと感じる。
|