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▼ 父・流人の思い出 メモワール編1    引用
  あらや   ..2022/12/25(日) 14:29  No.603
  『父・流人の思い出』はあまりにも新発見に溢れているので、手打ちワープロ作業と同時進行で、読書会BBSでもメモを取り続けるつもりです。人間像ライブラリーの方では「工事中」の形で出来上がった章から順次アップしてゆく予定です。

 父は二十三年前の晩秋、夕食のテーブルに届いたばかりの夕刊をひろげ、荒城の月≠ハミングしながら、大好きな水割りを飲みほすと、急にせきこんでどっと倒れ、そのまま息を引きとったのですから大往生も見事すぎました。それは、いかにも父らしいあっさりとした幕切れでした。
(第一回/わが心の沼田流人)

 父の左手は、父が十九歳の時働いていた、マッチ工場で機械にまきこまれて大怪我をして切断してしまったのだという。母が涙ぐんで話してくれた時、小学生だった私と姉はくやしくてしゃくり上げて泣いた。
(第一回/かた雪の朝)

まずは典型的な今まで流布された〈流人〉伝説。「ウイスキー」「荒城の月」は葬儀の際にでも語られた公式見解なのでしょうか。これについては、『父・流人の思い出』最終章あたりで瑜璃さん自身が訂正しています。「働いていたマッチ工場」については、語る相手が小学生の娘のため母・マツヱが脚色したのでしょう。この時の経緯については、今後デジタル化を考えている大森光章『このはずくの旅路』に詳しい。


 
▼ メモワール 二〜四   引用
  あらや   ..2022/12/26(月) 11:22  No.604
  「港が見えてきたぞ」と父が指示した頃、左てに洒落た洋風建築の北海ホテルがあり、父は麻のソフトを脱ぎながらロビーに入り、フロントに「東京の吉田先生へ」と言った。
(第二回/海)

天に昇るか地にもぐるか、どっちにしても俺は見送られるのが嫌いでね。昔俺が東京へ発った時、吹雪の中をじっちゃんが駅まで見送りに来て、鼻水をすすった顔が眼に残って、俺はとうとう帰って来てしまったんだ。
(第二回/流離の時)

「東京の吉田先生」とは、吉田絃二郎。吉田の『供養の心』という作品は、当時倶知安に暮らす流人の姿が描かれている。当時の流人にもまた、かなりの「東京」志向があったようだ。流人が洗練された都会風の人だったのは意外。

 
▼ メモワール 五〜七   引用
  あらや   ..2022/12/27(火) 17:49  No.605
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翌日から父は、それまで毎日勤務していた神社の書記をやめ、自宅で紺色のラシャ紙に金泥で写経する仕事を始めた。妻子と義父の生活が父の右腕にずしりと重たくかかっていた。
(第三回/紺紙金泥書)

 母が十二歳も年上の、左手のない、しかも文士などという貧乏の代名詞みたいな身分で身元もよくわからない、風来坊のような男と結婚したいと言った時、まじめな農業人である母の両親や親戚一同は猛反対だったという。父ははじめ、十二も年下の小娘など気にもとめていなかったし、心は東京に向いていて雪国倶知安で結婚して落着くことなど考えていなかったということだけれども、母の想いはつのるばかりで、性格から想像しても炎となっていたにちがいない。
(第三回/樺太旅情)

画像は「紺紙金泥書」の一部分。全体は20×90pの巻物状の薄紙です。所有者に返さなければならなかったので、現在はコピーをパネル状にしたもので持っています。
『血の呻き』には「藤田明三」という、女性にとって無関心ではいられない主人公が登場しますけれど、これは、若き日の沼田流人の〈理想〉を描いたものと長らく解釈していたのですが、なにか『樺太旅情』などを読むと、これは流人の〈資質〉のようなものではないだろうかと思い始めました。

 
▼ メモワール 八   引用
  あらや   ..2022/12/28(水) 16:48  No.606
  父はおしゃれで、外出の時の和服は大きな行李で二〜三個あり、当時近所では珍らしい洋服ダンスにいっぱいの背広があった。これらが後年戦争中、衣料品が欠乏した頃私たち一家だけでなく、親戚までの衣料として皆んなに喜ばれた。昭和初期まで独身時代が長く、「函館で洋服屋を開いていた友人が頼みもしないのに何着も作らせた」と笑いながら父が誰かに言っていたのを聞いた。
(第四回/父と子)

出た、函館! 『父・流人の思い出』を読みたかった第一の理由は、なにか「函館」への手がかりが掴めないかというものでした。『血の呻き』を読めば一目瞭然ですが、この本は単純な「タコ部屋告発の書」なんかじゃない、函館の物語なんです。ドラマは函館の街から始まり、函館の街で終わる。函館に心得がある人なら、S町は新川町、W町は若松町、A町はああ青柳町ね…とすぐわかる。問題は、その町々を動きまわる登場人物たちの距離/時間関係が恐ろしく正確なことなんです。これは函館の街に暮らした人でなければ書けない小説だと昔から思ってましたけど、倶知安の人に聞いても何も出てこない。(倶知安高校の思い出ばかりでうんざりしてしまう…) しかし、それも今日で終わりだ。「函館の北原洋服店」、しかと憶えましたよ。

 
▼ メモワール 九   引用
  あらや   ..2022/12/28(水) 16:51  No.607
   父が苛酷な労働や迫害を受けていた鉄道工事の土工夫の小説を世に出したのは、まさにこのれんびんの情であったと思う。貧しかった父はお金もほしかったであろうけれども、弱い者≠いじめる強い奴≠ノ、無力な父は、ペンで立向かう外に正義を発動する方法がなかったのであろう。そうすることで救えると単純には思わなかったであろうが、父は弱いもののかなしみを代弁せずにはいられなかったのだと思わずにはいられない。父には文学者になりたいという情熱より、れんびんの情の方がより大きなウエイトで働いていたのではなかろうかと思いたい私である。
(第四回/れんびんの情)

普通の読解能力があれば、誰だってこういう感想になるだろう。それを、「小樽に多喜二、倶知安に流人」という結論に無理矢理持ち込もうとするから(それに文学的センスがないので)愚かな『血の呻き』解釈が出来上がる。

 
▼ メモワール 十   引用
  あらや   ..2022/12/28(水) 16:54  No.608
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 母は四十四才で、五十六才の父を残して死んだ。「父さん、やきもちやかないから、私が死んだらおせいさん(母の友達の未亡人)とでも一しょになりな。甘えんぼうの身体障害者じいさんなんて、嫁や娘に苦労かけるばかりだからね」 「ばかやろう。口ばかり達者なばばあこそ気をつけろ。大丈夫、俺の方が先だ。お前こそ若いつばめでも探しておきな」
 これが最後の夫婦げんかであった。
(第四回/夫婦げんか)

私の「マツヱさん」イメージは、長らくこの流人が描いたスケッチのイメージだったんですけどね。でも、『父・流人の思い出』でけっこうイメージ変わりました。いやぁ、倶知安の人だ。



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