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No.725 への▼返信フォームです。


▼ 「人間像」第68号   引用
  あらや   ..2020/02/07(金) 10:22  No.725
  .jpg / 45.2KB

本日、「人間像」第68号をライブラリーにアップです。(二月に入っちゃった…) デジタル化にかかった時間は、久しぶりに「80時間/延べ日数12日間」。現在の収録タイトル数は「1286作品」になりました。

 二月二十日(木)
 もう二度と『病床雑記』などは書くまいと思っていたが、念願もむなしく再度入院ということになった。こうなったらもうやけくそ半分に、書き続けてやろうと思う。
(針山和美「病床雑記[3]」)

三度目の入院は余市の小嶋内科。『病床雑記』は、この第三回の連載より毎日の記録の最後に歌が一首付きます。ちなみにこの日の歌は、

〈春の雪のはげしく降りて冷える夜に吾はふたたび入院の身となる〉


 
▼ 樺太   引用
  あらや   ..2020/02/07(金) 10:26  No.726
  彼女は清藤(せいとう)と云うめずらしい姓をもっていた。色が白く、黒目の大きい、そしていつも真赤に形良い唇をぬっている女性だった。いかにも北国生れと云った美人で、こんな綺麗な人がどうしてここにつとめることになったか不思議に思う位だった。少時してここの馬方の近所にいる人で、樺太からの引揚者と云う事を知った。彼女は恵須取(えすとる)の大きな料理屋の娘だった。終戦の混乱で父を失い、妹二人と病弱の母との四人が漸く小樽迄たどりついたと云う身の上も聞いた。昔の裕福な生活から戦後一きょに社会の底辺に押しこまれてしまった境遇から、いつとなく話題は共通なものになっていった。
(上沢祥昭「蹌踉の記[3]」)

『蹌踉の記』も第三回。1964年の小樽については私も書いたことがあります。

 記念碑のことを調べていていちばん驚いたのは、当時、市内に、樺太からの引揚者が一万人もいたこと。小樽の人口のピークは昭和三十九年(一九六四年)の「二十万七千人」です。その約十年後の小樽で、まだ一万人もの引揚者が暮らしていた事実には感じ入ってしまいました。樺太からの引揚者。シベリア抑留で亡くなった人たち、生きて帰ってきた人たちの想いは、その後の小樽(あえて「北海道」とは言わない)の生き方を深いところで規定するものではないでしょうか。
(新谷保人「小樽日報 九月」/樺太を偲ぶ)

 
▼ 武漢   引用
  あらや   ..2020/02/07(金) 10:30  No.727
  第68号作業を行っていた12日間は、中国武漢から始まった新型コロナウイルスがあれよあれよという間に世界中に広まって行った12日間でもありました。今日現在のニュースでも、

新型肺炎の死者600人超 感染者3万人突破 中国
【北京時事】中国湖北省武漢市で発生した新型コロナウイルスによる肺炎の死者は中国本土で600人を超えた。
 湖北省政府の7日午前0時(日本時間同1時)時点の集計によると、死者は前日から69人増え618人、感染者は2447人増え2万2112人になった。新型肺炎の拡大が続き、各地で人々が接触を避け互いに監視する動きがますます強まっている。
 中国本土の感染者は3万人を超えた。中国メディアによると、当局が新型肺炎の発生を発表する前に「重症急性呼吸器症候群(SARS)の再来」をネット上で警告し、警察に一時拘束された医師、李文亮氏が7日未明、新型肺炎で死去した。
(2/7(金) 7:51配信 時事通信)

と、こんな状態。リーマン・ショックよりひどい世界恐慌の臭いがする。



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