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樫山から下ってくる途中にある道標については、3月のこの掲示板で詳しく書いた。要するに、今の道がなかった明治時代、増富温泉の津金楼の創始者、津金胤林(たねしげ)が増富鉱泉と樫山集落へとの分岐に置いたものである。
さて前回、新緑の小森川右岸稜線を歩いた帰りに、その道標あたりを仔細に観察し、なるほど道らしきものがそこから分かれていることに気づいた。となれば、この山域がもっとも美しいこの時季、鉄は熱いうちに打てとばかりに、続けざまに今週はその道を探ることにしたのだった。
実のところ、先週、私は足の調子があまり良くなかったので、今週は、体力的には簡単なところにしたかったという事情があった。ところが、この計画への参加に手を挙げてくれたのが、5月初めにロッジに泊まって信州峠から清里へ歩いた、体力充分のペンタコさんひとりだけ、しかも遠路川崎から日帰りだというのだから、あまり簡単でもお気の毒である。
ペンタコさん、先週の「奇跡的に思えるほど素晴らしい稜線」にぜひ参加したかったのだがかなわず、今週また同じ山域に行くと聞いて、いてもたってもいられず、無理やり休暇をひねり出したのだという。
そんなわけで、当初、くだんの道標から旧道を探しながら日向へと向かうだけのつもりだった計画を見直さなければと、地形図を今一度よく眺めてみた。すると、ほほう、この山域に、頂点を直線でつなげると、きれいな三角形をなす3つのピークがあるではないか。旧道を探しついでに、この3つにも登ってしまおう。むろん私にとっても初めての山々である。これらのピークについては、原全教の本にもまったく記述はない。したがって簡易的に「樫山三山」と名付け、西山、北山、東山と命名した。
これがまた、「奇跡的なくらいすばらしかった」というと、奇跡の大安売りだけれども、本当なのだから仕方がない。当初たどるはずの旧道はやがて沢の高みに消えていき、方針を変えて登ることにはなったが、その後の多くの発見は、またここへ来なければと思わせるに十分だった。
ペンタコさん、お疲れ様でした。
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