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No.609 への▼返信フォームです。


▼ 父・流人の思い出 交友編1   引用
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:09  No.609
  父が先生と呼んでいたこの二人は、フルネームが判らずじまいだったけれど、もう一人父が尊敬の念を抱いた表情で語っていて印象的だったのは、松崎天民という人だった。やはり東京からよく手紙や書籍が送られてきた。函館新聞社におられた頃に、独身だった父は時折り訪れては、半月くらい寄宿させていただいたものだと誰かに話しているのを聞いたことがある。東京といえば私にとって遠い他国のような感じで、父が「先生」という人がとても偉い人に思え、私たちとは世界の違う人という考えしかなかった。そして父もまた急に違った人間になったように感じられ、私はこの三人を思い出すと、いまだに不思議な感情におそわれるのである。
(第五回/三人の先生)

「三人の乞食」じゃなくて、「三人の先生」ですね。松崎天民については書き出すと長くなりそうなので、別枠で、司書室BBSの方で扱います。

 
▼ 交友・二   引用
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:12  No.610
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岡本さんが叫んだ。「沼田君、書かなきゃだめだ。めんこい嫁さんや子供の事を思う気持ちは解るけど、君の筆は鉄砲より強靱だよ、な、根岸君!」 「そうですとも、惜しい、実に惜しい」 「沼田さん頑張りましょう。僕たちも戦っているのです」 青年がこぶしをにぎった。もう一人の青年が突然歌い出した。私の知らない歌だったけれど、力強い調子で合唱した。
(第五回/根岸さんと岡本米司氏)

『倶知安百年史』の中巻/第一章「昭和」暗い幕開け/第九節 冷害・火災・事件/四 倶知安の無産運動/(1)「東倶知安行」に関する人のページに岡本米司も出て来ます。写真には沼田流人も写っている。

 
▼ 交友・三   引用
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:16  No.611
  日暮れになると母は、「父さんの友達ってほんとにのんべいばかりなんだから」と笑いながら、台所の床下のむろの中から、親戚などからいただいた大事な酒を出してお膳の用意をはじめた。母には初めての客だったが、父の手の合図で判ったらしい。茶の間の奥の台所で私は集って夕食をとるので、父とおじさんの弾んだ話し声がよく聞こえた。「シャンハイ」「朝日」「日比谷」「マカオ」などと言う言葉が、何度も聞えてきたと記憶している。
(第五回/「東京ひび」のかわきたさん)

「東京ひび」というのは、これだろうか。

東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は、日本の日刊新聞である『毎日新聞』(まいにちしんぶん)の東日本地区の旧題号、および毎日新聞社の傍系企業であった東京日日新聞社が昭和20年代に東京都で発行していた夕刊紙。共に略称は「東日」(とうにち)。前者は現在の毎日新聞東京本社発行による毎日新聞の前身である。
(ウィキペディア)

「日日」を「にちにち」と言わず「ひび」と発音する人は研究者の間でもたまに見かける。

 
▼ 交友・四   引用
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:19  No.612
   私は高校時代、切手コレクションの趣味をもち、さかんに友達と交換したり、珍らしいのを見せびらかしたりして楽しんだ。
 ある日、それを父に見せると、「もっと珍らしいのをやろうか」と言って押入れの中の木箱を持ち出した父は、古い封筒の束を出してくれた。
(第六回/文通 里見ク)

と、その束の中には、里見クや有島武郎の書簡もあった…というのがこの章の主旨なのだが、私には次の件の方がショックだった。

私は文学書などに親しんでいない事もあって、その名前に全く無関心だったけれど、父にきいた「トン」という発音がおかしくて笑ったので記憶は確かである。里見クの手紙は数通あったように思う。連想するに、有島武郎などのものもあったような気がするが、父はその時、私が切手を切りとった封筒と他の葉書類も全部くずかごに捨ててしまったのであった。
(同章)

流人の、文学との決別はかくも凄まじいものであったのか…

 
▼ 交友・五   引用
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:22  No.613
   あれから三十年あまり、私は何か父の事が知りたくて池田町にいる父の親類に手紙を出してみた。幸い札幌にいる父の姪にあたる、ナナ子さんを知ることが出来、色々話を聞くことが出来た。矢張り没交渉だった父の事を彼女はよく知らなかったが、叔父の武男さんとは同居していたので、私の父からの手紙はとても大切にし、長兄でもある父をものすごくしたっていたこと、学生時代から父に会いたがっていたこと、父を訪ねたあと武男さんと生母が毎日のように父の話をしていたこと、武男さんが毎日父を待っていたこと、武男さんの葬儀に父の出席を心待ちにしていた生母のこと、父が送った自筆の般若心経を死ぬまで生母は大切にしていたこと、などなど、色々なことをナナ子さんは話してくれた。
(第六回/弟・沼田武男)

驚いた。各種の流人伝でも「沼田武男」の名が出て来たことはない。これが初めてです。アイヌ文学関係で仕事を残した人らしいが何も気がつかなかった。
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I031395609-00
なるほど、国立国会にも所蔵がある。その千葉大学の中川裕さん(この前、NHKの「100分de名著」で『アイヌ神謡集』の解説をしてた人ですね。あれは良かったなあ…)の序文も見えますね。
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/104912/S18817165-325-P001-preface.pdf
ふーん、このような催しも行われているんだ。最近の話ですよね。
https://m100.jp/wp-content/uploads/2022/01/ainuculturelecture220221.pdf

生母・カツについても、単純に流人を捨てていった母という解釈ではこれからは通用しないことも感じます。「ナナ子さん」にも興味を持った。

 
▼ 交友・六   引用
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:26  No.614
  高田さんはビールをのみながら、私に父のことを聞いたり、私の知らない父のことを話してくれたりした。
 積丹半島の紀行文を書くために父と二人でわらじをはいて出かけたら、道に迷って足にマメが沢山できてしまい、見知らぬ漁師宅に泊めてもらった時のこと、大江鉱山に行って誤解を受けて人夫達にとりかこまれてしまった時、父の話し方がうまくて説得に成功し、逆にとても親切にされたことなど、大きな声で楽しげに聞かせてくれた。
(第六回/弟・小樽の高田さん)

「小樽の高田さん」といえば、私には高田紅果(小樽啄木会初代会長)しか浮かばないが…
高田紅果の生没年(1891〜1955)を見てみると、流人の(1898〜1964)から「父より五・六歳年長のインテリ風の人」といった記述には合っているような気がする。ただ、紅果の家はあの田上義也設計の有名な建築だろうから「生垣のある、こじんまりした和風の家」とはほど遠い。
流人の小樽関係の交友には、時々、啄木の影がちらちらするのが面白い。ちなみに啄木の生没年は(1886〜1912)。意外と思われるかもしれませんが、流人と同時代です。

 
▼ 交友・八   引用
  あらや   ..2023/01/02(月) 14:40  No.615
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 神社に勤めていた頃の父の交友は、宮司の尾形家の人々をはじめ、老若男女、実に多種多彩で十指にあまる。
(第七回/倶知安神社の人々)

隻腕の流人にとって出来る職業というのは非常に限定されたものになります。若い時、その唯一の可能性を賭けていた「小説」を流人は捨てた。なぜだろう、何があったのだろう、といつも考えているのですが、現時点での感想としては、第一に「マツヱ」との結婚、そして第二に「書」への開眼ではないかと私は考えています。

それは、啄木風に「喰らふべき書」とでも云えばいいのだろうか。書には無知な私だが、流人の書を見ていると胸が締めつけられるような気持になる。早く、正確に、そして次から次へと書かなければならない。神社の一日というのが意外にばたばたした世界だということを知った。次から次へといろいろなことが起きる。いろいろな人が出入りする。

倶知安神社には流人の書が溢れかえっている。画像は、今でも現役で使われている祝詞のひとつ。流人の書だそうだ。芸術展に出品するわけではない書。書記の職を得て、マツヱや子供たちの生活を守るための書。

 
▼ 交友・十   引用
  あらや   ..2023/01/03(火) 14:19  No.616
   天涯孤独のような父に対して母は十人兄弟、六人のいとこ、その家族と約四十人の一族郎党が倶知安、余市、東京、樺太とひしめいていた。長女だった母は皆から「姉さん」と呼ばれ、父は何故か「おじちゃん」と呼ばれていた。年令の差か、異色の人間だったからか、おかしいとは思ったけれど、何となく自然でもあった。結婚する時は猛反対だった長老達も「沼田さん」と呼んで頼りにしていた。役所への対応や書類、金銭問題、結婚問題、人間関係等、父が中心になって処理していた。母の実家が樺太へ移住してからは、娘時代を迎えた妹が次々と舞い戻り、私の家に寄宿して花嫁修業をした。
(第八回/いもうとたち)

マツヱと結婚することによって、流人は、自分の前半生と和解したのだと思う。

その頃私は、クラスメートの中で父のことを共産党と噂さしているのを知った。意味はよくわからぬまま、なんとなく不快な感情におそわれて父に話すと、父は笑いながら「父さんは共産党≠カゃなくて父さん党≠セよ。お前たちの父さんだ。それだけだよ」といった。
(第八回/湯本獣医さんと坂上さん)

 
▼ 交友・十一   引用
  あらや   ..2023/01/03(火) 14:23  No.617
   坂上さんは精悍な風貌で元気に大声で「ワッハッハァ」と笑いながら語りつづける人で、湯本さんを通じて父は知り合い、気が合ったらしい。その後転勤で倶知安を去られてからも交渉はあったらしい。湯本さんは静かな声で温厚な語り口の人で、皆をやさしく包みこむようなムードを持っていた。父もどちらかといえば静かな方で、静≠フ二人と活≠フ岡本さん、坂上さんとバランスのよくとれた仲間といった感じがした。皆さんが父の葬儀に参列して下さった際に、父の棺に布製の赤い旗をかけられ、瞑目したままで長い時間じっとしておられた姿が私の目に今も残っている。
(第八回/湯本獣医さんと坂上さん)

「赤い旗」のエピソードは流人の孫の方からもお聞きしたことがあります。その方の「異様な光景だった」といった受け取り方とは違う記述に接し大変興味深いものがありました。



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