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読書会BBS

 
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▼ 菅原浩志さん   [RES]
  あらや   ..2025/11/19(水) 12:12  No.776
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今朝の北海道新聞に菅原浩志さんの訃報が載っていました。

 「カムイのうた」監督
菅原浩志さん(すがわら・ひろし=映画監督、プロデューサー) 12日午前0時3分、膵臓がんのため死去。70歳。札幌市出身。自宅は川崎市多摩区西生田。葬儀は近親者で済ませた。
 札幌啓成高卒業後、米・カルフォルニア州立大で映画製作・演出を学んだ。映画「里見八犬伝」(1983年)などのプロデューサーを務め「ぼくらの七日間戦争」(88年)で監督デビュー。上川管内東川町が舞台の「写真甲子園 0.5秒の夏」(2017年)、アイヌ文化伝承者の知里幸恵がモデルの「カムイのうた」(23年)などを手掛けた。

なにげなくウィキペディアで「カムイのうた」を引いてみたら、その精密な解説に読み耽ってしまった。一昨年の登別を懐かしく思い出す。「カムイのうた」監督のご冥福をお祈りします。



▼ 近現代アイヌ文学史論   [RES]
  あらや   ..2025/10/06(月) 17:51  No.775
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昨日一日、毎日の「人間像」作業を休んで『近現代アイヌ文学史論〈現代編〉』を読んでいました。一日で理解できるような本ではありませんが、ただ、ルーチンの仕事を休んででも、この本に向きあうことはこれからの自分にとって必要なことなのだという自覚があります。「ヘカッチ」と同じく、たぶん、これからの人間像ライブラリーの成長にとっても大切な本でしょう。いろいろなことを考えた愉しい一日でした。『近現代アイヌ文学史論〈資料編〉』を夢見た一日でもありました。


▼ 浮浪の子   [RES]
  あらや   ..2025/09/05(金) 18:25  No.767
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 風に軀を委ねる、浮浪の子は、その夏の日を到る処の空の下で過して来ました。これは、そのきれぎれな、思い出です。
(沼田流人「浮浪の子」)

一時は東京(国立国会図書館)かな…とまで思い詰めた『浮浪の子』ですが、道立図書館のアドバイスでマイクロフィルムという手段があることを知りました。とても有難かった。一年間もぐずぐずしてたのが馬鹿みたい。これを機に、今まで溜め込んでいた懸案の作品を一気にデジタル化しようと考えています。しばらく「人間像」作業を離れます。

「東京日日新聞」に連載小説を書いた…と単純に考えていたのですが違いましたね。連載小説は別の面に当時の大御所が書いたものがあります。流人の『浮浪の子』が載った八面は、いわば投稿欄みたいな紙面でした。原稿料は出ないけれど、意欲ある作品を活字にしてあげようという場所ですね。


 
▼ 函館  
  あらや   ..2025/09/05(金) 18:28  No.768
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 昨年は、函館の監獄に近い町外れの、汚い下宿屋で夏を過ごしました。その時は、ひどい憂鬱症で、勤めていた小さな新聞をお払箱になっててもうその街の誰とも、何の要事もない軀でした。で、汚ない下宿の二階の隅この三畳で、窓枠に後頭部を靠せかけて、退屈な苦々しい、日と夜とを過したのでした。無論、街へ出もしません。その、塵埃と、雑音と口銭取りの巷では、私なぞに要事のあるべき筈がなかったのです。
 窓は、西向きになっていて、小さな空地を隔てて貧民窟の、薄気味悪いようなぼろぼろな陋屋の屋根が見えました。それらの家々の靠れかかりあって並んでいる間には、ほとんど日の光りもあたらないような狭い泥濘路があるのでした。
(沼田流人「浮浪の子」)

大正十年は沼田流人が小説家への可能性(片腕でもできる仕事!)を求めて孝運寺で盛んに習作を新聞・雑誌に送っていた時期です。小樽新聞などを避けて東京の新聞に投稿したのは、同居している今出孝運や大森大栄に知られるのを嫌ったためでしょうか。でも、そのおかげで都会の知識人たちの目にもとまったわけですし、新聞自体もきちんと保存されて残ったのですから良いことづくめです。東京日日など、『血の呻き』の大正十二年あたりまで丁寧に拾って行けばまだ作品は出て来るのかもしれません。

 
▼ クチアン町  
  あらや   ..2025/09/05(金) 18:32  No.769
   私ら――私と祖父と――が、野葡萄や、コクワの蔓に縋って、その深い峡谷を這い出した時は、そこにはもうすっかり深い夜の幕が下されていました。で、私らは、辛うじて見つけた炭焼竈でその夜を明すことにきめました。それは、羊蹄山の北側の国有林の中で、私らは、その日赤腹魚を漁りに来て、深林の中に迷い込んだのでした。祖父の家は、麓のクチアン町にあったのです。
(沼田流人「浮浪の子」)

先頭のスレッドの画像は道立図書館で取ったコピー。二番目は札幌市立中央図書館のコピーです。流人の文章のリズムはかなり独特で、例えばこのスレッドの「深い夜の幕が」という部分、私たちは無造作に「夜」を「よる」と読み飛ばしてしまいますが、ルビを見ると「よ」とふってある。(当時の新聞は総ルビです) マイクロ・リーダーの画面はもちろん、コピーを画像にとって、それを超拡大して見たりもしたのですが、それでも判読できない文字・ルビはあります。間違いがありましたらご一報いただけるとありがたい。人間像ライブラリーの長所は、ファイルさえ出来上がれば、あとはいつでも訂正・修正が可能なことです。

 
▼ 「東京ひび」のかわきたさん  
  あらや   ..2025/09/05(金) 18:37  No.770
   太平洋戦争が最も激化した頃のこと、私は小学校四年生ぐらいで、学校帰りの秋風の道を友達と四五人で歩いていると、あちこちすり切れたような黒いコートを着て、少し白髪の混じったおじさんが私達に近づいて来て、「ちょっと尋ねるが、このあたりは8号線というのかね」と言った。私達はうさんくさい目を向けながら、「そうです」と答えた。「じゃあ、沼田さんという家を知らないかね」と言った。私は驚いて、おじさんをしげしげと観察した。少しよごれていたけれど、白いマフラーはすてきだったし、チラと見えるグレーのネクタイもすてきだった。そして細おもての顔は上品で都会風だった。目はやさしげだったけれど、私は用心深く少し間をおいて、「私のうちです」と言った。「しっけいだが、お父さんは片手のない人じゃないかね」 「そうです」 おじさんはにっこり笑って「そうか、よかった。その沼田さんをたづねて来たものだが」 おじさんは言い終らぬうちに私は何故か興奮してかけ出した。「あ、お父さんがご在宅なら東京ひびのかわきたが来たと言って下さい」と、おじさんも歩を早めながら大きな声で言った。
(佐藤瑜璃「父・流人の思い出」第五回」)

「函館」も「クチアン町」も登場する『浮浪の子』。二年後の『血の呻き』をかすかに予想はさせるが、まだ、ここから『血の呻き』へ飛躍させるには無理が多いと感じる。まだ描かれていない領域が多すぎる。まだ未読の作品はあると信じたい。

 
▼ これからの沼田流人  
  あらや   ..2025/09/11(木) 17:22  No.774
  1940年(昭和15年)、有光社から発行された『観音全集』第7巻「観音信仰史」に、

……二十歳の春得度し僧侶としての心を固め信仰生活にいそしみながらも彼は天性の文学的才能を深め、大正十五年九月の改造に「地獄」を書き、引続き東京日日に「浮浪の子」、中央新聞に「ケドリル中尉の靴」、大阪毎日に「雪の棺」(何れも北海の浮浪者を描いたもの)を発表し、その後「血の呻き」(叢文閣)、「地に呻く人々」(金星社)の二巻を出したのであった。……

と、沼田流人に触れている部分があります。作品の発表年は目茶苦茶ですが、ただ『浮浪の子』はちゃんと東京日日新聞にあったわけですから、『ケドリル中尉の靴』『雪の棺』についても存在すると考えてもいいのではないでしょうか。しかし、中央新聞や大阪毎日新聞となると、これはもう国立国会図書館クラスの話になってくるわけで、今の私には、東京に行って何日かかるかわからない国立国会通いをしている暇も金もありません。この二作品については、もう少し考えさせてください。
『浮浪の子』で動いた余禄というか、古宇伸太郎など数名の人間像同人の作品を発掘しました。順次、人間像ライブラリーにアップしたいと思います。


▼ 山内壮夫展   [RES]
  あらや   ..2025/09/07(日) 18:43  No.771
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遅ればせながら、昨日「山内壮夫 共鳴する彫刻」展に行ってきました。
http://www.hongoshin-smos.jp/d_detail.php?no=200
五月の「本郷新 彫刻の設計図」展でチラシを手にした時から楽しみにしていたんだけど、今年の夏の暑さに日和っていました。内地の人には笑われるかもしれないが、小樽の人には充分異常気象だったです。

さて、山内壮夫。昔から思っているんだけど、札幌を象徴する彫刻は、本郷新の『泉の像』でも坂坦道の『丘の上のクラーク像』でもなく、市民会館の前に立つ『希望』像だと思います。知恵がついてからは本郷新などに目が行きますが、『希望』はそういうものでない。子どもの時分、親に連れてってもらった街中のなにもかものスタート地点にはあの女の人(像)が立っていたような気がする。


 
▼ 花と子供  
  あらや   ..2025/09/07(日) 18:46  No.772
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その有名な『希望』を仰々しく取りあげることもなく、山内作品を淡々と平等に扱っているのは、さすが本郷新の彫刻美術館だと思いました。あと、面白かったのは、いつもは見上げている彫刻を二階から鳥の眼で見られたり、手の届かない場所にある彫刻を10センチの近くで見られることは意外な面白さでしたね。水野メガネ店の『花と子供』をこんな形で見られるとは、ほんと得がたい体験。

 
▼ 記念館  
  あらや   ..2025/09/07(日) 18:49  No.773
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本郷新彫刻美術館に行ったら記念館も見るのは当然です。まずは本館で今回のカタログを買って、ついでにコロナ下で見過ごした鈴木吾郎展カタログも買って、準備万端。
記念館の一階は変化なし。(あんな巨大な像、動かしようがないか…) 驚いたのは二階です。かなり変化しましたね。エスキースを使って、かなり展示数が増えている。その中に『牧野富太郎』像もあって、私も撮りたかったんだけど、スマホでばしばし撮りまくってる夫婦づれが煩くて、なかなか二階を去らないので今回は諦めました。二階には、北海道デジタル彫刻美術館
https://sapporo-chokoku.jp/digital-sculpture/search.php
の基になった資料群も置くようになったので、たぶんそれらの閲覧を目的にもう一度来ることになるでしょう。


▼ ヘカッチ 第20号   [RES]
  あらや   ..2025/07/28(月) 18:04  No.762
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七月のある日、ルーチンのパソコン仕事を休んで日本児童文学学会北海道支部の機関誌「ヘカッチ」第20号を一日読み耽っていました。第20号ということで、『ヘカッチの30年』という巻頭言が載っています。全文引用させてください。

「へカッチ」の創刊号は、1994年5月に出された。創刊の言葉を、鈴木喜三夫、比良信治、佐藤将寛、谷暎子、柴村紀代が書いた。「へカッチ」創刊のきっかけは、西田良子先生だった。日本児童文学学会で、当時、国内留学中(佐藤は兵庫教育大学大学院、柴村は日本女子大学大学院)だった2人と谷暎子が話し合い、北海道子どもの文化研究同人誌が誕生した。「へカッチ」というタイトルは、鈴木喜三夫が、アイヌ語の「子ども」という意味から付けた。創刊から9号(2005.4)までは、北海道子どもの文化研究同人誌として出していたが、2006年に改めて日本児童文学学会北海道支部を立ちあげ、「へカッチ」通巻10号から、支部の機関誌として創刊号とした。
 現在、会員・会友を含め16名が在籍している。それぞれ自分の研究テーマを持ち、活発に研究を進めている。
「ヘカッチ」も今回、支部機関誌として20号、通巻で29号を数える。
 思えば、30年にわたる歳月、2度も北海道で学会を引き受け、少ない人員でよく頑張ってきたと思う。
 支部も今、代表も事務局も若い人に代わり、てきぱきと例会の運営も機関誌の発行も続けてくれている。
 創刊の頃のメンバーは、今、揃って年をとった。これから若い人たちが、それぞれに児童文学研究を深め、「へカッチ」というこの年1回のささやかな冊子を充実した発表の場として続けてくれることを心から願っている。
(柴村紀代「ヘカッチの30年」)


 
▼ 教育紙芝居  
  あらや   ..2025/07/28(月) 18:07  No.763
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谷暎子さんの二論文、『北海道教育紙芝居研究会』と『座談会「教育紙芝居を語る」』の配置には唸ってしまいました。北海道の教師たちが立ち上げた紙芝居制作や僻地校への慰問紙芝居実演などの教育実践が、1940〜41年の「生活綴方事件」「生活図画事件」の弾圧によってつぶされ、その後の日本社会に「少国民文化協会」のようなものが蔓延って行くことを『座談会――』は露骨に教えてくれます。翼賛会道支部員や札幌署特高係が混じった座談会の異様さを確かめる意味からも1941年6月の「北海タイムス」記事を私も自分の目で読まなきゃなと思いました。今はそれができる時代なのだから。

 
▼ 松村武雄  
  あらや   ..2025/07/28(月) 18:10  No.764
  平倫子さんの『夢十夜 ― ルイス・キャロルと南方熊楠の幻想魔景』は、この二人に何の関心もないままこの年まで生きてしまった人間には難しくて歯が立たなかった。『松村武雄』にも同じく無知な自分ではあるのですが、前号から続く高橋晶子さんのアイヌ児童文学研究には興味があって頑張って跡について行こうと思います。

 
▼ 坂本直行  
  あらや   ..2025/07/28(月) 18:12  No.765
  八木 坂本直行ね、「スズランの咲くところは不毛地帯だ」とおしえてくれたよ。スズランの話が出るたびに坂本のあのことば、思い出すねえ。
針田 千秋庵の包装紙、坂本さんの描いたもので、私、ときどき集めてはたのしんでます。
八木 あゝ、千秋庵のはそうだね。
武井 あの人の娘さんの旦那さんも山ばかり歩いているそうですよ。
(針田和明「八木義徳先生を迎えて 積丹遊覧記」)

最近の人間像ライブラリーの仕事で「千秋庵の坂本直行の包装紙」という発言があって、これは六花亭の勘違いなのでは…と気になっていたのです。が、久保田知惠子さん、福島令佳さんの二論文を読んで納得です。これに、NHK「日曜美術館」で撮った「坂本直行」を加えれば鉄壁だ。(まだビデオ消してない…たぶん)

 
▼ 子どもと文学  
  あらや   ..2025/07/28(月) 18:15  No.766
  あと、安藤理恵子さんの『子どもと文学』の解析はとても勉強になりました。私は昔からジョン・ロウ・タウンゼンドやトールキンのファン・クラブなので当時の瀬田貞二さんたちの立ち位置がわかってとても嬉しい。早速、道立図書館から2024年9月発行の増補新版を取り寄せて今読んでいるところです。
学校図書館勤務時代には必読書であり、あれほど一世を風靡した本が今の図書館にはないと知った時はショックでしたね。書庫にはあるだろうと思っていたら、書庫にもない。なぜ2024年9月の今にこの本が再発されたのか、私にはその理由がわかるようで実はよくわからない。いや、わかる気がする。今の世に必要だから『子どもと文学』は呼び戻されたのだと信じたい。


▼ 戦時下の日本彫刻   [RES]
  あらや   ..2025/05/20(火) 12:34  No.758
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彫美連続講座『戦時下の日本彫刻』に行ってきました。
https://doubigakugeiken.com/news/20250506-227/
三月の『北海道・謎の彫刻史』に続いて、これで二回目。今回も充実してました。

平瀬礼太さんは昔から尊敬している人です。『彫刻と戦争の近代』のおかげで私の彫刻知識は二倍も三倍にも拡大しました。いや、彫刻知識といった表現は陳腐だな、もっと戦争とは何かといった範疇まで私の思考を拡げてくれた本と思っています。チラシにも写真があげられている朝倉文夫の『再起の踊』、これを何度も何度も見つめていたことを思い出す。


 
▼ 援護の手  
  あらや   ..2025/05/20(火) 12:40  No.759
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チラシの本郷新『援護の手』は、先日見た「彫刻の設計図」展の『像を持つ』『手の中の母子像』などに繋がるモチーフ、本郷新が生涯持っていた固有のモチーフであることがわかります。講演では、本郷新や高村光太郎の戦中、戦後の態度、言動にまで話が及び大変勉強になりました。

平木國夫さんの作品に、副業として飲食店を始めた若き日の本郷新らしき人物に蕎麦の出汁をとる秘伝を平木さんが教える…という場面が確かあったと思うんだが、今回、「人間像」をあちこち探したのですが見つかりませんでした。もちろん『秘伝』も探しましたが見つからない。たしかにこの手が入力したんだがなあ…(面目ない話です)

 
▼ 平和の塔  
  あらや   ..2025/05/20(火) 12:46  No.760
  チラシにある『平和の塔』については、「人間像」でも言及があります。福島さんは針山さん亡き後の「人間像」を率いた人。旧制の倶知安中学以来の盟友。

 南下して宮崎に入った。
 平和台公園に行った。巨大な塔があった。それはいやにくろぐろと聳えてみえる。晴天にかかわらずである。平和台公園の平和の塔、つまり平和のシンボルタワーだと気づく。歩を進めた。
 塔に彫られた文字が読めた。「八紘一宇」とあるではないか。突然タイムスリップして過去の世界に踏み込んだ錯覚を起こした。旧跡など随分見たがついぞそんな気はしなかった。自分と古いものとの距離があることを納得づくの上で見てきたからである。にもかかわらず「八紘一宇」の字を見上げたとたん軽い立ち眩みを感じた。(今、自分は戦後の現代の旅行者なのだ。一九四〇年ではない)と思い直すのに時間がかかった。
 (中略)
 経済統制も厳しくなった。新聞や雑誌の統合とか用紙の配給などが進んだ。
 父は小さな雑誌の編集をしていた。それが戦時下体制のせいで失職せざるを得なかった。職探しのため父は東京に残った。家族は母の実家に一時寄留することになった。級友と別れるのが辛かった。上野を発つ時、妙に不安な気がした。こども心にもそれは不吉なものだったことを記憶している。そして何故か「八紘一宇」の文字が脳裏に焼き付いている。
(福島昭午「悪霊の塔」)

 
▼ 神田比呂子さん  
  あらや   ..2025/05/20(火) 12:51  No.761
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会場はいつも札幌市民交流プラザ一階のSCARTSなのですが、開演までの時間調整で二階の情報館をぶらぶらしていたらこんなチラシ葉書を見つけました。神田比呂子さん、亡くなられたのですね。悲しいです。ご冥福を祈ります。私の彫刻巡礼は洞爺湖の『夏〜渚へ』から始まりました。

絵楽屋って何だろう…と検索していたら、こんなHPを見つけました。
https://cafehokutokangallery.jimdofree.com
神田一明・比呂子遺作展、つい昨日(5月12日)までやっていたんですね。残念…


▼ 「彫刻の設計図」展   [RES]
  あらや   ..2025/05/10(土) 18:17  No.752
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遅ればせなから「本郷新 彫刻の設計図 リターンズ」展、行ってきました。
http://www.hongoshin-smos.jp/d_detail.php?no=197

本郷新彫刻美術館は小樽からだともの凄く接続が悪い。いつもなら第一鳥居前からてくてく歩くんだけど、今回は西区役所前でバスを降りて歩くことにしました。これ、私の通学路です。五十年以上も昔の話ですけどね。使っていた抜け道がすっかり潰されて、横にぶっとい道路が走っていたり、大型量販店が建っていたりしてわからないことばっかりだ。学校も、昔はこの佐藤忠良の『蒼穹』ひとつだけだったと思うんだが、今は、本郷新、山内壮夫、本田明二とどんどん増えて、ちょっとした彫刻公園の趣きですね。桜も咲いているし…


 
▼ 雪華の像  
  あらや   ..2025/05/10(土) 18:29  No.753
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ロビーで流してるビデオで、鹿児島市の『太陽の讃歌』や大阪市の『緑の賛歌』の大きさを確かめてから展示を見ると大変わかりやすい。(『緑の賛歌』なんか、本郷新、フォークリフトみたいなものに乗って造っているんですからね。吃驚です…)

個人的には、真駒内公園にある『雪華の像』に感激。実物はあまりにも高い台の上に設置されているのでその姿を確認できないんです。こういう二体だったんですね。石膏像なのも、なにか雪華らしくていい。(昔のカタログでは「雪華の舞」と題されていることだし…) これを目に焼きつけて、もう一度真駒内に行こう。

 
▼ 天の扉  
  あらや   ..2025/05/10(土) 18:32  No.754
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忘れていたけれど、鹿児島や大阪以外にもまだ見ていない本郷新はあるんだった。この『天の扉』もそのひとつ。東京飯田橋の大日本印刷に在るんですが、屋内に置かれた彫刻って七面倒くさいんだよね。アポイント取ったり、人が監視しているところで写真撮らなきゃいけなかったりして。もうほとんど諦めている私みたいな人には、ここで『天の扉』に出会えたのは大変幸運なことでした。私の『天の扉』は、もうこれでいい。

 
▼ 風雪の群像  
  あらや   ..2025/05/10(土) 18:37  No.755
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旭川の常盤公園にある『風雪の群像』が辿った道のりが一つも漏らさず展示されていてとても勉強になった。さすが本郷新の彫刻美術館だけのことはある。『風雪の群像』の最初のモチーフがこういうものだったことになにか衝撃を受けました。こんな荒々しいものが大通り公園に建っていたら、札幌市民は腰を抜かしたでしょうね。(『泉の像』でよかったですね…)

 
▼ 上遠野徹  
  あらや   ..2025/05/10(土) 18:40  No.756
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私、勘違いしていて、本館も現在記念館として使われている旧アトリエも設計は田上義也だとばかり思っていました。今回、記念館に「建物みどころガイド」というパンフレットがあり、それを見て、記念館の設計者は上遠野徹(かとの・てつ)であることを知りました。上遠野徹とは、
https://bunganet.tokyo/katonotetsu/
(誰かウィキペディアに書いてほしい…)
記念館は『緑の賛歌』や私の出た大学の正門にあった『蒼穹』(こちらも蒼穹だ!)などの等身大石膏像があり、その大きさに私はいつも見とれていたものですが、今回はそれに加え、建物全体にも目が行くようになりましたね。アトリエか… それで吹き抜けになっているんだ。前述のビデオでは小樽の春香山アトリエの映像も見られたし、いや、非常に得した一日でした。

 
▼ 鶏を抱く女  
  あらや   ..2025/05/10(土) 18:44  No.757
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帰り道も学校の方へ。三角山はありがたきかな。たしか、学校の前にもバスの停留所があったはずだから、それでなんとか小樽方面へつながるだろうと思っていたら、案の定、琴似営業所経由で宮の沢に出ることができました。

この界隈、五十年前には「人間像」の佐藤瑜璃さんや針田和明さんの家があったあたりなんですが、その面影もない。針田さんの小説に出て来る「宮の沢」の情景に人は吃驚することでしょうね。半世紀か…


▼ 隠蔽捜査 9.5   [RES]
  あらや   ..2025/03/28(金) 17:29  No.749
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「月刊おたる」調査で市立小樽図書館に通うことが多くなっています。で、書架をチェックする機会も多くなって来ていて、新作が出たら読みたいと思っていた佐々木譲の「道警シリーズ」や今野敏の「隠蔽捜査シリーズ」も、ようやく百何十人待ちの予約状況を脱して一般書架に並ぶようになりました。例えば『隠蔽捜査 9.5』の出版年は2023年1月ですから、二年遅れで新作(?)を手にしたことになるのかな。ま、今の私にはお似合いという気もする。

どんな時も原理原則を貫くキャリア・竜崎伸也の周囲で日々まき起こる、本編では描かれなかった9つの物語。家族や大森署、神奈川県警の面々など名脇役たちも活躍する、大人気シリーズ待望のスピンオフ短編集。本書のための特別書き下ろし短編も収録!(帯より)

竜崎家の家族構成って、ぴったり私の家族構成と同じなんですね。時代も合っているので、事件とは別に、家族それぞれの動きも興味を持って読んでいます。そういう意味では、いきなり「隠蔽捜査 10」にならないで「9.5」があってよかった。『内助』、楽しく読みましたよ。


 
▼ 隠蔽捜査 10  
  あらや   ..2025/03/28(金) 17:45  No.750
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神奈川県警刑事部長・竜崎伸也のもとに、著名な小説家・北上輝記が小田原で誘拐されたという報が舞い込む。犯人も目的も安否もわからない中、竜崎はミステリ作家・梅林の助言も得ながら捜査に挑むことに。劇場型犯罪の裏に隠された、悲劇の夜の真相とは――。
累計330万部突破の大人気シリーズ、記念すべき第10弾!(帯より)

普段は「人間像」の作品を集中的に読んでいるから、そこを離れたら、読むのはこういう本がよくなって来ている。警察小説ってのには何か理由があるのだろうか。同じ警察小説でも、好きな作家と肌が合わない作家があるんですけどね。

 
▼ 警官の酒場  
  あらや   ..2025/03/28(金) 17:54  No.751
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大ベストセラー道警シリーズ、第1シーズン完!
それぞれの季節、それぞれの決断――。
警官射殺命令を阻止する24時間を描いた『笑う警官』から、《己の信念と矜持》を描き続ける警察小説の金字塔、待望の最新刊&最高傑作。

捜査の第一線から外され続けた佐伯宏一。だが能力の高さは重大事案の検挙実績では道警一だった。その佐伯は、度重なる警部昇進試験受験の説得に心が揺れていた。
その頃、競走馬の育成牧場に強盗に入った四人は計画とは異なり、家人を撲殺してしまう。強盗殺人犯となった男たちは札幌方面に逃走を図る……。
それぞれの願いや思惑がひとつに収束し、警官の酒場にある想いが満ちていく――(帯より)

「第1シーズン完!」なら、フィナーレの舞台はあそこだな…と読んでる途中でわかりましたよ。まあ、タイトルが『警官の酒場』ですからね、誰だってわかるか… 「第2シーズン」なんて、あるのかな?


▼ 風のページ   [RES]
  あらや   ..2025/03/16(日) 17:37  No.744
   その日、みどりが降り立った札幌駅は、夏の終りの饐えた匂いが漂い、薄暗い洞窟のような構内には疲れた目をした人々が群れていて、立ち止る事もできないままみどりは出口へと押し流されてしまった。駅前でタクシーに乗ろうと思っていたのだけれど、みどりはなんとなく雑沓にもまれて歩いていた。どこまで行っても人の波はとぎれる事がない、ビルの谷間をひんやりとした風が吹きぬけていった。おひる少し前の大通公園は、思っていたほどのざわめきもなく、みどりはベンチに腰かけてホッと一息つくと、鞄の中のノートにはさんでおいた古い手紙の封筒をとり出してみた、中身はない。「中央区南七条 西十丁目アカシアハイツ二○三 石川三枝」。近くの交差点の表示からすると、ここから、そう遠くはないと思われる。汽車で二時間程のK町に住むみどりだが、一人で札幌へ出て来たのは、高二の今日がはじめてだった。
 みどりは今日、小学校五年だった自分を捨て、年下の男とかけおちしてしまった母をたずねて逢うために父や義母にだまって学校を休み札幌へ出て来たのである。
(佐藤ゆり「風のページ」)

佐藤ゆり『風の中の羽根のように』(叙情文芸刊行会,1992.7)は九つの短篇を集めた小説集。その巻頭に『風のページ』を持って来た気持ちがなんとなくわかるような気がします。すすきの界隈の描写が巧い。佐藤ゆりさんの句読点の打ち方は一風変わっているのですが、その句読点でさえみどりの心象を現すのには適っているように思ってしまう。私は好きですよ。


 
▼ 十字架  
  あらや   ..2025/03/16(日) 17:45  No.745
   美奈はふと思い出した。少女の頃、いつも祖母と歩いた森の中の枯葉の道。
 今はもうゲレンデの下に埋もれて、あとかたもないニセコアンヌプリの麓の熊笹の中に、おきざりにされたような部落で美奈は生まれ育った。今思うと、アパルトヘイトのような感じもするけれど、みんな仲よく助け合って、のどかに暮していた。
 美奈は四季を通じて祖母や部落の人達と森へ行き、薪木を拾い、山菜を採り、木の実を採った。みんな貧しかった。食生活の大半は森や野山から採ったものだった。祖母は森へ入る時、きまって「シリコロカムイ」(木の神様)と呟いて、てのひらを天に向け頭を深く下げた。
 娘ざかりは部落で一番のピリカメノコ(美しい娘)だった祖母の名はアイリン。
(佐藤ゆり「十字架」)

短篇だけど、きちっと締まった展開に目が洗われるようだ。汚くうす気味悪いニュースに取り囲まれて毎日を生きている私には、こういうニセコアンヌプリの麓の物語が必要だったのだと心底思った。私には札幌と小樽の対比が面白い。

 
▼ 風の中の羽根のように  
  あらや   ..2025/03/16(日) 21:17  No.746
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『十字架』を読んだ後で『風の中の羽根のように』や『星の国から』を読むのはちょっと辛かった。アイデア倒れと感じました。
いつもなら表紙の画像くらいは付けるのですが、この本、所蔵しているのが北海道でただ一館、道立文学館だけなんですね。で、道立文学館は写真撮影やカラーコピーを受けつけていないので諦めました。まあ、文学館で資料の閲覧やコピーができるだけでも有難いことなのですが…(考えてみたら珍しい文学館だ) 表紙の代わりに芸術の森美術館の入口にあったオブジェです。ちっとは〈風〉っぽいかなと(笑)
昨日、札幌市民交流プラザで行われた講演『北海道・謎の彫刻史』の帰り道、道立文学館にも寄って『風の中の羽根のように』の後半五篇をコピーして来ました。ライブラリー公開を急ぎます。

 
▼ 終点  
  あらや   ..2025/03/18(火) 17:36  No.747
   あの人はいつも土曜日の午後になると、うす汚れた灰色のジープに乗ってやってきた。泥だらけのこともあった。ジープが小さく見えるくらい大きな身体にカーキ色の作業服をいつも着ていた。あの人は道路工事の現場監督で、父の部下だった。葉子が中三、弟が中一の晩秋父は工事現場の事故で死んだ。泣きくずれ、おろおろするばかりの母をよく助け、葉子たちにも力づけてくれたあの人は二年後母と結婚した。生前の父の上司の世話であった。父が大好きだった葉子はあの人を絶対に父親と認めなかった。
(佐藤ゆり「終点」)

話の流れの途中から突如「あの人」が登場する。逆断層みたいな進行なのだが、これが意外とロックしていて私は面白く読みました。同じ逆断層技でも『裏窓』はよくわからん。

 
▼ 帰郷  
  あらや   ..2025/03/20(木) 18:05  No.748
   夕暮れのビル街に降る雪は灰色だった。やがて深まる暗い冬を想い煩うように、誰もが無口で、肩を落して行き交っていた。
 家路を急ぐサラリーマンの波が黒く長く、うねりながら遠ざかると、地下鉄ススキノ駅には夜の花が、にぎにぎしく咲き乱れる。なまめかしい和服に厚化粧、きらびやかなドレスに、ふーんわりとした毛皮のコート。そうかと思えば普通のOLのような感じでDCブランドスタイルの若い女性、みな夜の職場へ急ぐママやホステス達だ。ホステス不足を反映して、女子大生のバイトや、ヤングミセスのパートホステスなど、プロやセミプロ、ノンプロが華やかにブレンドされて、おびただしい数の女、女、女が、電車が止るたび、ひしめきあいながらはき出され、花吹雪のように散って行く。ひととき吹き荒れた消費税反対の嵐も、時の流れと共になんとなく静まって、不夜城の林立するススキノは年の瀬を迎えて再び巨大歓楽街の喧騒をきわめている。
 昨夜までのセンチメンタルな思いをふっ切って、今宵、祐子は足どりも軽く、お店≠ヨ向って歩いた。無力な女をこばかにしているようなネオンサインの点滅も、もう気にしない。
(佐藤瑜璃「帰郷」/「人間像」第128号)

 夕暮れのビル街に降る雪は灰色だった。やがて深まる暗い冬を想い煩うように、誰もが無口で、肩を落して行き交っていた。
 昨夜までのセンチメンタルな思いをふっ切って、今宵、祐子は足どりも軽く、お店≠ヨ向って歩いた。無力な女をこばかにしているようなネオンサインの点滅も、もう気にしない。
(佐藤ゆり「帰郷」/『風の中の羽根のように』所収)

「人間像」にはあった、やや饒舌な部分をばさっと削ぎ落として、全体に筋肉質の『帰郷』になりましたね。私はどちらも好きですよ。単行本の『帰郷』は、北原ミレイの『石狩挽歌』みたいな存在になったと感じました。


▼ 『どっこい函館本線』について   [RES]
  あらや   ..2025/03/16(日) 09:54  No.738
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この記事は小樽のタウン誌「月刊おたる」2000年9月号(通巻435号)に載ったものです。現在、「人間像」同人が書いた作品を探して「月刊おたる」を創刊号から調査しているのですが、その過程で見つけました。
2000年3月の有珠山噴火と山線(函館本線)の関係については「北海道新聞」2024年5月11日後志・小樽欄に載った渡辺真吾さんの記事で初めて知りました。で、いつものようにそのサイトを引用しようとしたのですが…
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1010510/
有料なんだもんな。がっかりだ… 要旨は、この有珠山噴火によって運休状態になった室蘭本線の代替として函館本線が使われたということ。山線なき後は有珠山が噴火しないことを祈るばかりだということでした。
『どっこい函館本線』は当時の様子を詳細に語ってくれます。山線の意味を知らない、東京から来た知事や社長にはぜひ読んでいただきたい。


 
▼ どっこい函館本線  
  あらや   ..2025/03/16(日) 10:01  No.739
   ▼直通列車走る
 虻田町の有珠山噴火は、世紀末の本年のトップニュースになるだろう。残雪があった三月二十七日に火山噴火予知連絡会が噴火警報をだし、住民の避難勧告をしたとき虻田町周辺の住民は長期避難、深刻な被害も覚悟したろう。
 有力な観光地である洞爺湖温泉街では、シーズンにかけての予約が例年通りのところ、よもやの事態に大あわてだったという。ホテルは堅固な建物で頻発した振動は宿泊客に不安を与えるものでなかったというが、二十七日に急転し、震度のレベルが上がって、断層、隆起、地溝発生と目に見えて悪化した。クライマックスの噴火はいつかに、報道の焦点がしぼられ、湖畔に設置したテレビカメラの前でアナは懸命に実況放送を続けていた。
 噴火の第一報は三月三十一日午後一時といわれている。火口は湖畔の温泉街から見て稜線沿いに開いたようだった。いくつもの火口から噴煙が上がり、テレビでも噴石がはじき飛ぶ様が見受けられた。
 しかし七月末には火口周辺以外は避難解除になっているが、この噴火で洞爺湖温泉街の観光客入り込みは莫大な影響を受けた。洞爺湖ばかりでなく小樽も、例年より周遊客が減少し、予想外の成り行きに不安を党えている向きもある。有珠山噴火は洞爺湖ばかりでなく、ただちに道央の小樽にも影響があるのだ。全道的に観光客の入り込みは昨年度までは右肩上がりだったが、本年度は四月期マイナス一○%で、その傾向は続くと思われる。積極的な誘致対策が展開されているが挽回できるだろうか。
 この噴火で国道二三〇号線が地盤隆起でストップとなったが、同時にJR室蘭本線も洞爺―有珠間で線路がS字状にずれて運休となった。列車は翌一日以降は東室蘭―長万部間は全列車が運休し、一部は函館本線に迂回となった。噴火で札幌―小樽―函館を結ぶ函館本線を、二ヵ月ほど直通特急列車が走った。ひさしぶりのことだった。

 
▼ どっこい函館本線(続き)  
  あらや   ..2025/03/16(日) 10:07  No.740
   ▼優等列車があった頃
 特急などの列車は鉄道会社では優等列車と呼ぶらしい。函館本線でそうした列車は走っているだろうか。冬季には優美華麗な快速スキー列車が走るが、あれが優等列車なのであろう。
 いささか昔を振り返ると、国鉄当時、函館本線の直通列車にも愛称がつけられたが、鉄道ファンの記憶にある優等列車は急行『まりも』だろう。『まりも』は昭和三十一年(一九五六)秋のダイヤ改正からC62型のSLに牽かれた。C62は東海道線で特急『つばめ』を牽いたことで知られていた。ところが東海道線が全線電化されたので余剰SLとなって、海を渡って北海道に回ってきたのだ。そしてツバメのマークをつけたままさっそく『まりも』を牽いた。
 だがエネルギー革命は着々と進んで、昭和四十二年には函館本線にジーゼル特急『北海』が走るようになり、同六十一年に『北海』は千歳線の『北斗』と併合になって、函館本線から特急はなくなっている。
 この特急開設当時はC62が牽く急行『ニセコ』も走っていたが、季節急行になったり、長万部発の普通列車になったりしているうちに、ばっさりナタを振られて小樽回りの優等列車はなくなってしまった。
 かっては首都札幌と函館を結ぶ大動脈は函館本線だったが、優等列車は消え、その座は千歳・室蘭本線に明け渡した。同線が複線化され輸送力が向上したのに加え、千歳空港という要衝をひかえ、苫小牧、室蘭港の進展もある。
 札幌を中心とする旭川や、太平洋側の苫小牧、室蘭の各般のプロジェクトの発展は戦後の流れで、それに比して小樽から後志にかけては山間、豪雪地をかかえ開発に後れをとっている。人口、産業が伸びていない。だから水が引くように優等列車もなくなってきたのだろう。

 
▼ どっこい函館本線(続き)  
  あらや   ..2025/03/16(日) 10:12  No.741
   ▼日は当たったが…
 函館本線が大動脈であった頃は急行、準急の列車を時刻表で何本か数えられた。いまは函館までの直通列車がないので、その日のうちに函館にたどりつくかと思われる時刻表の心細さだ。長万部まで三時間かかる普通列車が日に四本ほどあり、不便な接続で函館まで続いている。時刻表では二五二・五キロの函館までの鉄路を六時間ほどかけて行くことになっているが、接続の待ち時間があるから、もっとかかる。結局千歳回りの特急に乗ることになる。それだけ金もかかる。千歳回りでは札幌から函館まで三一八・七キロを三時間半ほど、小樽からはさらに札幌までの距離三三・八キロと時間三〇分ほどを加え、四時間ほどかかる。小樽から千歳回りは、迂回だが、しぶしぶ利用されている。
 そこへ噴火である。函館行きの特急列車は小樽を回った。といっても四月から六月初めまでの二ヵ月間だったが、忘れられていた函館本線につかの間の日が当たった。単線運行だからスムーズな運行だったとはいえない。待ち合わせ時間があって所要時間は延びた。
 ところが小樽―長万部間の普通列車がバス転換となった。優等列車優先で、普通列車は切り捨てられている。いまの時刻表を見ると、線路は三種になっている。新幹線、幹線、地方線である。函館本線は幹線の表示がしてある。だが幹線を走る列車でも、じゃまになれば切り捨てるのが会社の方針なのだろう。切り捨ててもかまわない列車が走っているのが函館本線で、幹線とは名ばかりだと多くの人は知った。今回はそれがあって、公共の面目が立ったといえる。

 
▼ どっこい函館本線(続き)  
  あらや   ..2025/03/16(日) 10:15  No.742
   ▼新幹線で…
 最近は北海道新幹線の話題が盛んである。新幹線は小樽市内を経て札幌に至るとされている。かつて北海道新幹線は、室蘭経由か小樽経由かで揺れた。南北戦争といわれ、路線争奪があったが昭和四十八年九月に北回りが決定している。路線決定とともに新駅の話題もあって、小樽は新小樽駅の誘致を図った。新駅は従来朝里インターチェンジ付近が有望とされている。
 北海道新幹線のルートは青函トンネルから木古内、函館、八雲、長万部、ニセコ、小樽を経るルートになると思われている。それぞれに新駅はできるだろうが、超特急が停まるのは、札幌を出発したあとはせいぜい函館くらいで、その他は急行が停まるくらいだ。
 それでも長万部や八雲では新駅の決定を見越して、一帯活性化のプラン作りをスタートさせているという。気になるのは長万部の進め方で、ここは函館本線と室蘭本線の合流点だ。どうやら新駅と室蘭線の連携を探っているらしいという。では一方の函館本線をどう考えているのだろう。眼中にないのだろうか。ひょっとしたら新幹線の開通で、長万部以北の函館本線は不必要と見られている現れのようで、気味悪さを漂わせている。幹線といいながら、状況で列車を切る扱いなら、新幹線とひきかえにばっさりもありそうなことだ。
 函館本線は噴火でつかの間の日があったが、新幹線導入時でも後志地方の基盤整備に欠かせない線路であることを示す必要があるのではないか。(T)

 
▼ 山線  
  あらや   ..2025/03/16(日) 10:21  No.743
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 父が「本屋」といえば小樽の古本屋だ。私達が住んでいた倶知安の本屋の場合は「文化堂」とか「日進堂」といい、父はわざわざ家人にことわる事もなく散歩の途中で立寄る程度のものだった。汽車に乗ると父は家から持ってきた本をふところから出して読みはじめる。私は久しぶりに汽車に乗った事が楽しくて、窓外の風景を夢中で見つめながら父に「あの木はなんていう木?」とか「あの木に止っている鳥はなんていう鳥?」とか矢つぎ早やにうるさく質問しても、父はその都度目を上げて、やさしい語り口で詳しく教えてくれた。
 父とそうして小樽の古本屋へ行くのが私の大きな楽しみであった。最初は太平洋戦争中で、小学生だった私は私のランドセルにお米を入れたのを背負い駅員やお巡りさんの目をのがれて父に手をひかれ古本屋さんへ行くと、父は何かいかめしい金文字で横文字の皮表紙の本とそのお米を交換したのを今も懐かしく思い出す事がある。ぶ厚いグレーのセーターを着たやせたおじさんが奥の方からその本を新聞紙に包んで重そうに持って来て、チラと中味を見せ父に手渡した。それをまた父は私のランドセルに入れると、おじさんは上りがまちに座布団を敷いてお茶を出し、父と談笑を始める。私は店頭の古い「キンダーブック」とかワラ半紙のような「少女クラブ」などを手あたり次第に読みあさる。私があきた頃におじさんは、当時めづらしかったジャムパンとココアなどを出してくれて引続き父と話しこんだ。
(佐藤瑜璃「港の赤電話」)

北海道の作品にはいつも山線が走っている。



 


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