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▼ 父・流人の思い出 メモワール編3   引用
  あらや   ..2023/01/16(月) 17:41  No.644
  「さあ夜祭り見物だ、行きたい人はついて来い」と言って立上がる。子供達はみんな「ワーイ」と喜んで後を追う。サーカスのジンタが聞こえてくると父は、スローテンポで「旅のつばくら淋しかないかあ」と小さな声で唄いながら私達をサーカス見物につれて行ってくれた。哀愁にみちたクラリネットの音色や、スポットライトをあびて華やかな曲芸をしている少女の、笑っているのに泣いているように見えた美しい顔、虎やライオンの恐しいのに悲しげな目など私は今でも懐しく思い出す。
(第二十一回/祭りのあと)

 そして、風に躯を委ねる放浪者の群に入って、いろんな世間師等の仕事をした末、とどS市である小さな曲馬団の歌手として雇われた。
 彼女は、そのK曲馬団で、エリナと称ばれていた、馬つかいで、その群の中で果てもない漂浪の日を送っている娘であった。
 明三の頭には、その時A市で興行中起ったある場面が、幻のように湧き上って来た。
 舞台は、総ての光を取り去られて暗くされていた。明三は、慄える燭灯を掲げて、そこに立った。青ざめた小さい光に、恐ろしい程の無数の人間の視線が、暗い観客席から光った。
 エリナは、その微かな光の下に跪いて、自分の胸の中に怜悧な仔馬の首を抱いて、その鬣を撫でて寝せつけた。明三は、沈んだ弱音でその馬の為に、小唄を歌った。
(沼田流人「血の呻き」/第二章)

 
▼ メモワール・二十二、二十四   引用
  あらや   ..2023/01/16(月) 17:44  No.645
  父は終日机に向って坐っていたので、気分転換とか足の運動という意味もあってか散歩は日課のようになっていた。私が子供だった頃も戸外で父の姿を見かけると必ずかけ寄っていったものだった。たしか小学校四・五年生までは手をつないで歩いた。一しょに遊んでいた友達もきまって同行した。父が道端の草花などの名やそれにまつわる民話などを話してくれるのが、みんな楽しみだったからである。クラス会などで、昔の友達に逢うと、よくその頃の話しが出る。みんな懐しそうに「おじさんやさしかったもね、いろいろきいたお話し忘れないよ。子供にも話して上げたよ」と言われると、私は心の中でひそかにつぶやくのである。「これは父さんの大いなる遺産だわ」と。
(第二十一回/遺産)

淳が幼稚園から小学生になる頃には、おじいちゃんのお話は淳の友達にも知れわたり、近所の子、遠くから自転車に乗って来る子もいて日中からお話会が始まることもあった。父は仕事の手休めに煙草をすいながら淡々と話したが、子供達は結構興奮して、怖ろしい所では身をすり寄せたり、おかしな話には笑いころげたりしていた。私はその光景を見てほほ笑ましく思ったものである。
(第二十二回/おじいちゃんの連続ドラマ)

流人の思い出を語れる倶知安高校の同僚の方々はもうお亡くなりになっているのだが、ここに描かれている子供たちはまだご存命かもしれない。

 
▼ メモワール・二十三   引用
  あらや   ..2023/01/16(月) 17:47  No.646
   私が小樽の男と結婚する事になった時の父の第一声は、「小樽は父さんもいろいろ縁のある街だったが、とうとう娘までご縁があったとはなあ」 「小樽はいい街だ。父さんは小樽が好きだよ。東京へ行けないと決った時、せめて小樽へ出てくらしたいと思ったものだ。倶知安から一番手近かな都会ということもあったが、何よりも眼の前に広がっている海がよかった。
 (中略)
 その頃はもう家にひきこもりがちだった父は、私が小樽に移住すると、小樽築港近くの私の家によく遊びに来た。孫の小谷淳が小学生で必ず同行して来て、よく海辺へ行った。春夏秋冬のそれぞれの晴れた日、雨の日、雪の降りしきる暗い日の海を、父はあかずに眺めていた。ある夏の、月の光が波間をキラキラ照らしている夜だった。ほろ酔い気嫌の父と私は熊碓海岸の砂丘を散歩した。父はため息のような低い声で呟くように言った。
(第二十一回/故郷)

この家は、私の住んでる桜の隣町、若竹ですね。

 
▼ メモワール・二十六   引用
  あらや   ..2023/01/16(月) 17:50  No.647
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次週再び倶知安の父のもとに訪れた夫が「弁慶隧道に決定した。ついてはトンネルの正面に名前をつける字を書いて下さい」と言った。父は喜んで、長い間机の引出しにしまったままの大きなさばきを出した。一字が七〜八十糎四方もの大きな字なので部屋一杯に新聞紙を敷き、父はいつもの和服をセーターに着替え、厚い大きな美濃紙に一気に書いた。その時の父の嬉しそうな表情を私は今も忘れない。「もうこんなデカイの書けないと思ってた。よかった。いい冥土のみやげができた。ありがとう」と言って筆をおいた。
(第二十二回/弁慶隧道)

流人の書作品は残さなければならない。そして、流人の書について、生涯を踏まえた上で作品として正確に語れる人が欲しいといつも思う。写真は岩内にある尾形家(倶知安神社)の墓標。書はもちろん沼田流人。

 
▼ メモワール・二十八   引用
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:40  No.648
  そして、月がきれいな夜は、そのまま、散歩といって、ほろ酔い気げんで夜道をさまようので夏はいいけれど冬は身体に悪いと家族は心配した。みんなが注意すると、「俺はもういつでもあの世へ行く準備はできている。借金もないし未練もない。きれいな月の道をあの世まで歩いて行けたらいいのになあ」などと言っていたが、ある冬の凍れる夜、帰宅するとすぐふらふらとしながら布団に入った。姉は心配になって、「父さん、目まいでもしたんでないの」と枕元に行くと父はじっと目を閉じたまま何も言わなかったという。すぐ医者を呼んでみてもらうと、「血圧がひどく高い、心臓も弱っている。すぐ入院して下さい」と言われたが、「家族のものが大変だから明日にします」と言って父は眠ってしまったと夜遅く小樽の私のところへ姉から電話が入った。私も心配になって、翌日早朝の汽車で行くと、「一晩ぐっすり眠ったから治ったよ」と父は、ケロリとした顔で言ったが、当時室蘭にいた兄も来て、息子、娘全員がそろって説得し倶知安厚生病院に入院することになった。父にとって少年の日、片腕を失った時の入院以来の事だった。
(第二十三回/入院)

 
▼ メモワール・二十九   引用
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:44  No.649
  私はさっそく倶知安の実家へ行き、向いの小柴運送社のおじさんから「車はどうせオンボロで投げてもいいもんだが、ゆりちゃんはまだ雑品には惜しいぞ、気をつけてな」と、古い軽自動車を借り、まだ舗装のしていないのどかな山道を、父を乗せて走り廻った。父は京極や喜茂別の神社など、ゆかりの所へ行くと、必ず車から下りて、まるで自分の足で昔を懐しむように、そぞろ歩いた。当時の田舎道は交通量もなく、道端でも橋の上でも自由に駐車ができ、初心者の私でも羊蹄山麓はなんとか廻ることが出来た。思えばあの時のドライブが、父が最後に見た京極や喜茂別の神社であり、岩内の海だった。
(第二十三回/ドライブ)

入院を境に家族がどんどん介護モードに入って行くのが切ないです。晩年の流人が何に別れを告げていったのかがわかり大変興味深い。

 
▼ メモワール・三十   引用
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:49  No.650
  秋風が立つ頃には再び家にとじこもり、たまに散歩に出るか浅田屋さんへ呑みに行くくらいになった。そして呑む度に、「小樽の高島の海はよかった、イキのいい魚がうまかった」、「余市のりんご園で見た月はきれいだった、もぎたてのリンゴはうまかった」、「比羅夫の坂道の地蔵さんはそのままで安心した、ミヨちゃんの手打そばは昔と変らずうまかった」などと話した。短い間の小旅行だったが、父はとても楽しそうだった。「父さんすっかり元気になってよかったね」と私達も嬉しかった。思えば父は若い頃からこんな放浪生活にあこがれていたようだった。父の人生をふり返ってみれば、父が旅立つという時それを引き止める事情が必ず出現し、父の足には重い鎖がまきついていたように思われる。
(第二十四回/流浪の人)

 
▼ メモワール・三十二   引用
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:51  No.651
   昭和三十九年秋、私がまもなく二才になる息子をつれて倶知安へ行くと、父は突然、神社参拝に行きたいので車に乗せて行ってくれないかと言った。私も姉も「お祭りも終ったのに、なんで今頃?」ときくと、「お祭りに行けなかったし、なんとなく若い頃のおれの字見たくなったんだ」と言った。
(第二十四回/神社参拝)

 
▼ メモワール・三十三   引用
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:54  No.652
  未完成の家には鍵はかかっていて中に入れなかったが、父は庭先に腰を下ろしてさえぎる物のない羊蹄山をあかず眺めていた。その夜姉が「父さんどうでした、静かでいいでしょう」と言うと、「ああ、いいよ、俺はいいが、母さんにはお前から言ってくれ」と、仏壇を見て言った。
 その十日後、父は突然他界した。集まって下さった近所のおばさん達は、「やっぱり母さんと同じ家で逝きたかったんだね、仲よかったもね」と話した。
(第二十五回/アカシア並木の思い出)

 
▼ メモワール・三十四   引用
  あらや   ..2023/01/18(水) 17:58  No.653
  もう一度赤いタンスを開け、やっと見つけてやれやれと元通りに入れはじめると、数枚の写真の入った大きめの封筒があったので何気なくとり出してみた。それは若い日の父であることがすぐ判った。絣の着物を着て頭髪を長くたらしたのや、黒紋付を着て数人の男性と並んだもの、上野駅をバックにして初めて背広を着たという感じの青年時代の父であった。島田を結った若い美しい女性のが二枚あった。私の見知らぬ人だった。姉もはじめて見たと驚き、そのセピア色の写真を何回も見た。
 (中略)
私はふとあの写真を思い出し姉に聞いてみたが「小引出しはきれいに片付けられていて、あの写真はいくら探しても無かった」とのこと、「そういえば父さん、お盆すぎから、古い手紙などうら庭に出ては焚火のように燃やしていたっけ。引出しからはみ出したとか言って」とも言った。
(第二十五回/赤いタンス)

上野駅をバックにして…か。函館ならなんとか頑張ってみようという気に今はなっているが、東京となると正直キツイ。

 
▼ メモワール・三十五   引用
  あらや   ..2023/01/18(水) 18:02  No.654
   父は晩酌のテーブルに夕刊を広げ、可愛がっていた孫の淳が見ている相撲のテレビをいっしょに観戦しながら、コップ酒をグイッと呑み、急に咳こんで後ろにたおれたという。淳が背をさすり、台所にいた姉がとんで来て、ちょうど車で帰宅した義兄が病院へとび、妹の家にいた私達を迎えに来て、私達がかけつけた時は、お医者さんが来ていて「ご臨終です」と言っていた。
(第二十五回/父をおくる)

佐藤瑜璃『父・流人の思い出』は第二十五回が最終回です。函館の謎を始め、今まで解らなかった多くの事柄に解明の光をあててくれた『父・流人の思い出』に感謝です。何を探し、何処に行けばよいのかがはっきりしました。

今のところ、依然として謎のままなのは『ライチシの涙』ひとつだけという状態。明日からは司書室BBSの方で「松崎天民」について調べます。



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