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敗戦から数年後のことである。交際ずきの母の数多い友人知人の中に、倶知安高校の教頭先生だった戸田先生の奥さんがいた。家が近いこともあって家族ぐるみの交際になった。ご夫妻共に私の両親よりだいぶお若い方々だったがよく気が合って、いつしか父と戸田先生は呑み友達になった。(中略)ある時、父の仕事の写経をごらんになった戸田先生が倶知安高校の書道講師にとすすめて下さった。終戦直後多忙を極めた父は、戦時中の不況を取戻すかのように徹夜をする事もしばしばで、健康を誇っていた父も血圧は上り、よる年波か足も弱ってきた頃だったので母は喜んですすめた。最初あまり気のりしなかった父も母に激励されて決心したらしい。そのため私は三年間の高校時代父と同じ高校へ通ったのであるが、勉強、努力、修練などには拒絶反応が強く、しめつけには断呼粉砕をムネとしていた不良娘には父もだいぶ恥をかいたのではなかろうかと、後に心が痛んだ。 (第九回/倶知安高校の戸田先生)
昔、短歌誌「防風林」に載った佐藤瑜璃『父・流人の思い出』を探して、なかなか行きあたらないので、ダメ元と思って倶知安高校にも手紙を書いた。そうしたら、送って来たのがこの『白樺会報』第10号だった。ありきたりの、いつもの流人伝説。私はすっかり「防風林」の『父・流人の思い出』もこんな内容なのだろうと誤解してしまって、本物に出会うのが十年遅れてしまった。今となっては「戸田先生」が写っている写真だけが救いか。
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