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▼ 父・流人の思い出 交友編2   引用
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:28  No.618
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 敗戦から数年後のことである。交際ずきの母の数多い友人知人の中に、倶知安高校の教頭先生だった戸田先生の奥さんがいた。家が近いこともあって家族ぐるみの交際になった。ご夫妻共に私の両親よりだいぶお若い方々だったがよく気が合って、いつしか父と戸田先生は呑み友達になった。(中略)ある時、父の仕事の写経をごらんになった戸田先生が倶知安高校の書道講師にとすすめて下さった。終戦直後多忙を極めた父は、戦時中の不況を取戻すかのように徹夜をする事もしばしばで、健康を誇っていた父も血圧は上り、よる年波か足も弱ってきた頃だったので母は喜んですすめた。最初あまり気のりしなかった父も母に激励されて決心したらしい。そのため私は三年間の高校時代父と同じ高校へ通ったのであるが、勉強、努力、修練などには拒絶反応が強く、しめつけには断呼粉砕をムネとしていた不良娘には父もだいぶ恥をかいたのではなかろうかと、後に心が痛んだ。
(第九回/倶知安高校の戸田先生)

昔、短歌誌「防風林」に載った佐藤瑜璃『父・流人の思い出』を探して、なかなか行きあたらないので、ダメ元と思って倶知安高校にも手紙を書いた。そうしたら、送って来たのがこの『白樺会報』第10号だった。ありきたりの、いつもの流人伝説。私はすっかり「防風林」の『父・流人の思い出』もこんな内容なのだろうと誤解してしまって、本物に出会うのが十年遅れてしまった。今となっては「戸田先生」が写っている写真だけが救いか。

 
▼ 交友・十四   引用
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:35  No.619
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 父は私のするクラスメートの話などをウンウンと聞くばかりで、いつも静かに歩いていった。ある日、雪どけの線路脇に仔猫の死骸があった。父はすぐ素手で抱き上げると、すぐ側のお寺の裏の墓地の片隅に置いて、土をかけた。私は最初キャーッと叫んで逃げたけれど、父は笑いながら「土に還ったんだ」と言ったので心が鎮まり、近くに咲いていたカタクリの花を供えた。
(第九回/倶知安高校の戸田先生)

まるで藤田明三ですね。

写真は「白樺会報」より。札幌郷土を掘る会が『小説「血の呻き」とタコ部屋』を出版した際、白樺会も提灯記事を書いたのだろう。今となっては流人のいた図書室が写っている卒業アルバム写真だけが救いか。(流人の身分は実習助手。北海道立高校では図書館の運営は実習助手が行う時代が長く続いた。)

 
▼ 交友・十五   引用
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:40  No.620
   敗戦の日から三ヶ月後、月の美しい夜だった。突然、予科練に行っていた兄が帰って来た。(中略)
 間もなく兄は倶知安中学校に復学して、翌年卒業し、北電に入社した。初任地は比羅夫と狩太の中間地点にあった山の中の発電所で、近在の人々は日発と呼んでいた。人里離れた山合いに社宅が十軒ほど肩を寄せ合うように立並び、住人は皆親戚のように和気あいあいとくらしていたようである。独身の兄達も、小じんまりとしたきれいな社宅に二人づつくらしていて、その隣りに大きな造りの所長さんと次長さんの社宅があり、父は次長さんだった新谷さんという、父より少し年上の方と気が合い、兄が札幌へ転勤してからも新谷さんは時々私どもの家においでになり、深い山中でしか採れない珍らしいきのこや木の実などのおみやげを下さった。
(第九回/日発の新谷さん)

もちろんこの「新谷さん」は私とは関係ありません。針山和美氏の処女小説『三年間』にも「新谷先生」が出て来るのだけれど、なにか倶知安には縁のある名前なのだろうか。

「比羅夫と狩太の中間地点にあった山の中の発電所」って、あの発電所?

 
▼ 交友・十六、十八   引用
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:44  No.621
   のどかな春の休日、リヤカーに農具や幼児だった弟をのせて父が引き、私達が後押しでのんびりと行く。畑に着くと女学生だった姉は弟の子守りをしながら昼食の用意にとりかかる。大きな石を並べ林の中から枯木を集めてきて火を焚く。大きな鉄鍋に山菜を入れてみそ汁を作り、馬鈴薯をすりおろして作ったダンゴを入れて出来上り、家から持参した小豆の混ったご飯のおにぎりと自然の中で家族みんなで食べる昼食はとてもおいしかった。
(第十回/富士見の高田萬助さん)

 私が小学一年の頃の秋晴れの日、父につれられて中井さんの相馬神社のお祭りに行った。私はお祭りというので縁日を楽しみに、母に赤い花柄の着物を着せてもらい、髪に赤いリボンを結んで、うきうきとして出かけた。その頃はまだ田園風景で美しかった六郷の町はずれに近い所に、相馬神社である中井さんのお宅があり、父の字の大きな幟が立っていた。
(第十回/六郷の中井さん)

探し方が悪いのか、「相馬神社」が出て来ない。流人といえば軽川隧道の跡地を訪ねて流人が解ったような気持になっている奴(それは私です)もいるが、なにか、それでは駄目だという思いに捉われるようになって来た。流人や瑜璃さんが歩いた(もっと云えば人間像の人たちが歩いた)町並みを頭の中に再現できるようにならないと駄目ですね。山線がある内にそれをやろう。

 
▼ 交友・十九   引用
  あらや   ..2023/01/08(日) 09:45  No.622
   雪どけの頃には雪原(堅雪)を直線に近道して歩くことができた。途中、一人ぽっちの川≠ニいうきれいな小川が流れていて、誰が名づけたか解らないその小川のそばで一休みするのが習しだった。父と同行した私たち兄弟は思い思いに、木に登ったり、やちぶきの花を摘んだり、ざりがにを捕ったりして遊んだ。その間父は風倒木の枯木などに腰かけて、煙草をすいながらじっと川の流れを見つめたり、羊蹄山を眺めたりしていた。
(第十一回/比羅夫の寅さんと美代ちゃん)

瑜璃さんが今の比羅夫を見たら、たまげるだろうなぁ。ここに描かれているのは、現在のコンドミニアム乱立以前の、スキー温泉旅館繁盛以前の、さらにそれ以前の比羅夫ですからね。感覚としては、小沢村の写真家・前川茂利(1930〜1999)の写し撮った光景のようなものを私は想っています。
https://www.town.niseko.lg.jp/arishima_museum/kikaku/kikaku_2016/phot_maekawa/

 母が病死したのは九月、農家にとって忙しい時期で、父が急死した時も十一月の雪の来る前の繁忙期、それでも比羅夫のおじさんおばさんは真先に駈けつけてくれた。現在のように葬儀屋さんが全てとり仕切ってくれるのとは違い、当時は遺体の処理、白装束、納棺まで身内の仕事だった。体格がよく力持ちのおじさんは、母の時も父の時も遺体をかるがると抱き上げ、きれいに処置してくれた。
(同章)

 
▼ 交友・二十   引用
  あらや   ..2023/01/08(日) 09:53  No.623
   昭和三十四年頃、私は結婚して小樽へ移住していた。その頃、平凡社から日本残酷物語≠ニいう全集物が出版されて、ベストセラーになっていたらしい。実家に行った私が、父の机の上にあったその本を手にとり、何気なく頁をくっていると、父のペンネームが眼に入った。驚いて父に聞くと、「ああ、昔々の物語りだ」とそっけなく答えただけだった。(中略)
その本の間に、太い万年筆で書いたような、大きな文字のはがきがはさまれていたので、何気なく文面に眼をやると、依頼した件についての連絡を乞うという内容で、何度か催促の後のものらしかった。編集部野田、とあり、電話番号も書いてあった。私は父の性格を知っているので不安になり、「早く連絡して上げたら?」と云うと、「ああ、連絡済みだ」と面倒くさそうに答えた。「なんの連絡だったの?」と私は気になって聞いてみた。「本のことだ。もう済んだ」と、父は読んでいた新聞から目も離さずに云った。
(第十一回/平凡社の野田さん)

流人のタコ部屋物語は、『地獄』以降はパターンが決まっていて、皆、周旋屋〜タコ部屋〜棒頭〜脱走〜リンチといった流れで語られている。(唯一異なるのは『血の呻き』だけ) 『監獄部屋』以後、三十年の沈黙を破って、なぜ流人は『日本残酷物語 第五部 近代の暗黒』に書いたのだろう…ということは長年の疑問でした。佐藤瑜璃さんの『思い出』を読むにつれ、『監獄部屋』以降、流人が文学と決別したことは決定的であり、徹底的なものを感じます。その流人が『日本残酷物語』のためにだけ今一度ペンを執ったとはますます考えづらい。あるいはこれは、流人のタコ部屋パターンをなぞった平凡社の代筆なのではないか…

 
▼ 交友・二十二、二十三   引用
  あらや   ..2023/01/08(日) 09:56  No.624
   その頃、毎日のようにリンゴをリックサックで背負い、手に竹かごと棒秤を下げて来る五十歳くらいの行商のおばさんがいた。(中略) おばさんは誰かに聞いて来たといって、父に文字の読み書きを教えてほしいと頼みこんだ。戦争で夫も二人の息子も亡くしたと涙ながらに話した。そして「私は字が読めないのでだまされることが多い。せめて役場からの書類くらいは正確に読みたい。ばかにされたくないから」と言った。母は同情して一しょに涙ぐみながら父に向って「父さんの一番気になる戦争の犠牲者でしょう。力になってやってちょうだい」と言った。
(第十二回/吉田トメさん)

いい話だなあ。「流人研究」などと構えると見落とされてしまうエピソードなのだろうけど、私は研究者じゃないから引用します。もうひとつ、

父が「あのおかみさんは頭の切れる人だ」とよく言っていた奥さんは、店の経営と主婦業、八人の子供の母親と大多忙の中で短歌を趣味としていた。文芸のことなどさっぱり興味のない母より、父と話が合っていたようだ。そして奥さんは、昔父が小説を書いていた事を知っていたらしく「こんな田舎で生涯を終えてしまうなんて、惜しい人でした」と、父の葬儀に集った近所の奥さんたちに話していたことを懐しく思い出す。
(第十二回/日和呉服店のたいしょうとおかみさん)

なぜか流人のことを考えると、古宇伸太郎(人間像同人)の人生を思い浮かべる。

 
▼ 交友・二十三   引用
  あらや   ..2023/01/08(日) 10:02  No.625
   父が夕食の膳を前にテレビをみながら、晩酌を呑みほし、急にどっと倒れた時にも真先に姉が助けを求めたのは日和さんだった。夕食中のたいしょう≠ニおかみさん≠ヘ、箸を投げ出すようにして駈けつけて下さったとのこと。お医者様を迎えに行った義兄が帰るまで、ご夫妻は姉を励まして父につきそって下さった。父が息をひきとる時は、可愛がっていた孫と長女と日和さんのたいしょう≠ニおかみさん≠ェみとってくれたのである。
(第十二回/日和呉服店のたいしょうとおかみさん)

見ていたテレビは大相撲中継。呑んでいた酒は合成酒二合。大鵬の取り組みの時、肴の冷や奴が喉に詰まったのが死因…という話を、ここにも登場している「孫」の方から直接お聞きしています。それが、「ウイスキー」「荒城の月」に変化した経緯については、今となっては確かめようがない。ただ、瑜璃さんの『思い出』を読む限りは「ウイスキー」も「荒城の月」もまるっきりの作り話でもないわけだから、もう、この流人伝説はこのままでもいいか…と思っています。

お孫さんについては、この後、「交友・二十六」で詳しく登場します。昔、私がインタビューした記事は、『沼田流人マガジン』第5号(京極町湧学館/沼田流人読書会,2013.9発行)に発表したものですが、いつか早い時期にお孫さんに了承をいただいてライブラリーにアップしたいと考えています。

 
▼ 交友・二十六   引用
  あらや   ..2023/01/09(月) 05:51  No.626
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 晩年は殆んど和服で通し、義手をつけることはたまにしかなかったが、淳は父が義手をつける時の最善の助手だった。父が死んだとき、お棺の中に義手を入れるかどうかと大人達が話し合っていると、淳は「おじいちゃんは天国へ行ったから、ちゃんと両手のある人になるんだよ。義手はいらないよ」と言って、唐草模様の風呂敷に包んだ父の義手を抱きしめるように持ったまま、じっと立ちつくしていた。
(第十三回/孫・小谷淳)

小谷淳氏が京極町にお住まいだったことは、私たち沼田流人読書会にとって最大の幸運でした。これがひとつ隣町の倶知安町であったとしたら、没後六十年にもなんなんとする2013年に『血の呻き』を読んでいるグループがこの世に存在しているなどということは伝わらなかったかもしれません。

「交友」編は今回の小谷淳氏で終了し、次回からは「聞き書き」編が始まります。それと同時期に、短歌誌『防風林』第16号からは武井静夫『沼田流人小伝』の連載も始まります。(全6回) これは平成4年(1992年)に発行される『沼田流人伝』の前身形となる論考なのですが、ここで重要なことは、武井静夫氏は佐藤瑜璃『父・流人の思い出』を読んでいるということ。読んだ上で『沼田流人伝』のあの結論になったということです。



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