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司書室BBS

 
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▼ このはずくの旅路2   [RES]
  あらや   ..2024/01/01(月) 12:06  No.1033
   三十九年の春を迎えて参禅会を再開したものの、初回も二回目も参加者はいなかった。本堂でひとりで、坐禅を行っていると庫裏の方から聞えてくる子供らの騒いでいる声や、それを叱っているユキの声が耳について気分が散る。呼吸を止めたり、心の中で経文をとなえたりしても、容易に雑念は消えず、遊びに興じている子供らの姿が瞼にちらつくのである。
 事実、この二年間に庫裏には子供らの数が増えていた。長女トミはその春から岩内女子小学校高等科に転校し、岩内の檀徒の家に下宿して通学していたので、孝運寺にはいなかったのだが、前年春から倶知安高等小学校に通学している旅家家の末娘スエは相変らず日曜日には母タカについて寺を訪れていた。この年、三号線の第一尋常小学校へ通っていたのは長男恒栄(四年)と次女ヒサシ(三年)であるが、数年前から倶知安に居住して今出家の敷地内で木賃宿を営んでいた沼田仁兵衛の養子ハルイ(四年)と一郎(二年)が恒栄兄妹と一緒に通学していたので、当時、日曜日の庫裏はこの子供らの遊び場と化していたのである。
(このはずくの旅路/第五章 絆と柵/2 戸籍族)

第五章から沼田一郎(後の流人)が登場。沼田流人の生涯を考える時、ここに出てくる「トミ」「恒栄」「ヒサシ」「スエ」「ハルイ」「一郎」(そして「ひろせ」)という名はすべて重要なのだということを大森光章『このはずくの旅路』を読んで初めて知りました。それを、この尋常小学校の時代から描いてくれる大森氏の仕事には頭が下がります。


 
▼ クニとひろせ  
  あらや   ..2024/01/01(月) 12:09  No.1034
   思えばクニとは不思議な因縁で結ばれてきた。肉親といっても母が違うし、五歳で生地瀬上宿を追われ、六歳で出家させられた彼には、明治五年に戸籍法が施行されてクニが彼の戸籍に入り、今出姓を名乗った後も、姉に対して肉親の情を実感したことはなかった。その意味ではクニは彼にとって戸籍上の家族でしかなかったのだが、彼女が田中仙隆と結婚(内縁)したことから交流が深まり、彼が北海道へ渡った後までさんざん迷惑をかけることになる。そうした過去の出来事がつぎつぎと思い出されて、今回の養子問題で多少でも姉の役に立てたことが、素直にうれしかったのだった。
 だから、姉の養女に決まった下山ひろせを翌年、自分の養女として入籍しなければならない仕儀になろうなどとは、このときは夢想だにしていなかった。
(このはずくの旅路/第五章 絆と柵/2 戸籍族)

家族ではなくて、戸籍族。今出姓のもとに集まった名前の異様さに改めて驚く。

 
▼ 今出ひろせ  
  あらや   ..2024/01/01(月) 12:12  No.1035
   仲よしのトミとひろせは、朝の本堂の拭き掃除をすませたあとも、孝運のおつとめが終るまで本堂から去ろうとしなかった。毎日ではないのだが、ユキから台所の用事を命じられない限り、参詣席に正座して合掌していた。
 そのうちに孝運は、自分の読経に合わせてひろせが小声で般若心経を唱えているのに気付いた。どこで覚えたのか訊いてみると、「お師匠さんがよくお仏壇であげていたので、自然に覚えたのす」という返事だった。姉が読経しているのを見かけたことがなかったので、ちょっと意外に感じたが、ひろせが寺の養女になることを躊躇いもなく承知した背景には、そんな姉との暮しがあったのか、とようやく納得した。
 すると間もなく、トミがひろせと一緒に心経を唱えるようになった。そればかりか、修行中断以来、まったく経文に興味を示さなかった恒栄までが、夏休みに入って間もなく朝のおつとめに加わり、経典を手に心経を唱えるようになったのである。
(このはずくの旅路/第五章 絆と柵/3 初弟子)

〈研究〉で「ひろせ」のような存在を捉えることはほぼ不可能に感じる。〈小説〉という形式だったからこそ描きうる世界であり真相ではないか。そして、大森氏のこの仕事があったからこそ、佐藤瑜璃の〈思い出〉が生きてくる。〈思い出〉に描かれた流人像は相当に正確なものだ。

 
▼ ユキと大栄  
  あらや   ..2024/01/02(火) 18:26  No.1036
   妻から突然、「ひろせを親元へ帰してほしい」といわれて、またか、と孝運は内心むかっとした。以前、大栄とひろせが駅前大火の現場へ行ったとか、亜麻会社を見に行ったとかで、ユキから、「ひろせが大栄を引っ張り出しているようだから、注意してほしい」と要望されたことがあったが、孝運は取り合わなかった。ひろせを不良少女のように思っているらしいユキの口ぶりに腹が立ったからである。
「ひろせはよくやっている。大栄が得度を受けたのも、ひろせのおかげではないか。ふだん女中代りに使ってるくせに、一度や二度羽を伸ばしたからといって、文句をいうな」
 夫が不意に怒り出したので、ユキは黙ってしまい、以来、ひろせへの批判は一言もいわなくなった。それで孝運は今回も、またか、と苦々しく思ったのだが、このときはユキは引き下がらなかった。前年十月の競馬見物の一件や、今回の尻別川転落事件は、ひろせが大栄を誘い出したために起きたものだと主張し、「大栄の身に何かあったらどうしますか。ひろせをこのまま家へ置くのは考えものですちゃ」と力説した。
「何かあったらとはどういうことだ。あの二人の仲を疑ってるのか」
「そうはいってませんよ。いまのところ、そんな気配はないけれど、この先のことを心配しているがです。姉弟といってもあの子たち、実際は赤の他人なんですからね」
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/1 養女離縁)

この「亀裂」の章は、意図的に、ひろせと大栄の動きに焦点を絞って引用を続けています。たぶん、それが、沼田一郎の左腕を説明するために最も重要だと私は考えるから。

 
▼ ひろせと大栄  
  あらや   ..2024/01/02(火) 18:29  No.1037
   学校から帰宅した大栄は、ひろせが姿を消したのに気付いて騒ぎ立てたが、ユキから「急に裁縫塾に通うことが決まったんだよ。お盆には帰ってくるから我慢しなさい」と慰められてしぶしぶ納得した。
 しかし、ひろせが二度と孝運寺に戻ってくることはなかった。一ヵ月後の七月中旬、彼女は無断で坂本家から姿を消したのである。孝運とユキがその事実を知ったのは、十日ほど経ってからだった。ひろせが倶知安村へ帰ったものと推量した坂本家が、いずれ孝運から連絡があるものと考えて、ひろせの家出を通知しなかったからだ。ある日、ひろせの実父下山彦右衛門から届いた手紙で、ひろせが突然帰郷して、二度と倶知安には戻らないと言い張っていることを知らされたのである。
〈娘ひろせの話では、岩内の檀家宅へ下女に出されたとのこと、あまりの仕打ちに当方一同憤慨している。二度と娘を貴下の許に戻すつもりはないから、しかるべくご承知被下度し〉
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/1 養女離縁)

結局、ひろせは帰って来なかった。ひろせ失踪をはずみに、ユキは今まで以上にユキになり、大栄も今まで以上に大栄たる本性を露わにして来るような印象を受ける。もう止められない、隠しようがないほどに。

 
▼ 養嗣子  
  あらや   ..2024/01/02(火) 18:31  No.1038
   ところが、入学手続きをする段になって、突然、予期せぬ難題が発生して、孝運とユキをあわてさせた。入学手続きの書類には本人の戸籍抄本が必要だった。入学が決まって気分的に高揚していた大栄は、自分で村役場へ抄本を受け取りに出掛けた。そして、交付された抄本に、「明治二十九年三月一日生、岩内郡野束村二番地大森多蔵五男入籍、養嗣子」と記載されているのを見て愕然となった。それまで戸籍抄本を目にしたことがなかったので、そこに書かれている文言の意味がよく飲み込めなかったものの、自分は今出家の養子で、本当は岩内の大森多蔵という人の子らしいと直感したのである。
 頭の中が混乱したまま帰宅した彼は、事実を知らされるのが怖かったのだろう、その抄本を父親ではなく、母親に示し、「これ、どういうことなんだ?」と問い質した。驚いたのはユキも同じだった。内心、あっと叫んだに違いない。事情はわかっているものの、彼女もまた今出家の戸籍文書を一度も見たことがなかったからだ。しまった、と思ったが、すでに後の祭りだった。彼女はその紙切れを手に方丈間に駆け込んだ。
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/3 弟子の行方)

これは亀裂の決定打ではない。もっと恐ろしい亀裂の予兆にすぎない。

 
▼ 沼田一郎  
  あらや   ..2024/01/02(火) 18:36  No.1039
   十六日の盂蘭盆会が無事にすみ、仙台に戻る日が近づいたある日、大栄は沼田一郎ら小学校高等科の後輩数人と、尻別川の岸辺にある森製軸所へ遊びに出掛けた。
 その木工場は、二年前に姉(養女)ひろせを誘って見物に行き、貯木場の水中に転落した思い出の場所である。そのあと間もなくひろせが急に寺から姿を消したため、彼はそれが両親の画策によるものと疑って反抗的な態度をとったものだが、今は当時の記憶も断片的にしか浮かんでこない。後輩から「馬鉄線を見に行こう」と誘われて気楽に応じたのだが、そのとき中学林の制帽と羽織を着用して外出した。
 木工場は二年前にも増して景気がいいらしく、工場から倶知安駅まで約二キロに線路を敷き、トロッコを馬に曵かせて製品を運び出していた。その馬車鉄道を村の人たちは「馬鉄線」と呼んでいるのである。
 (中略)
 そのうち大栄は奇妙な衝動に襲われて、羽織のひもをベルトと車輪の間に投げ込んでみた。後輩たちの前で格好のいいところを見せたかったのかも知れない。車輪が半回転して、ひもがポイとはじき出される。少年たちが面白がるので、彼は得意になり、何度もそれを繰り返した。すると、傍で見ていた一郎が、突然、絣の着物の袂でそれを真似た。次の瞬間、とんでもない事故が発生していた。袂と一緒に一郎の左手がベルトと車輪の間に吸い込まれたのである。事故に気付いた工員があわてて機械を止めたが、間に合わなかった。
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/3 弟子の行方)

 
▼ 孝運と大栄  
  あらや   ..2024/01/02(火) 18:39  No.1040
   「お前は何もわかっていないし、わかろうともしないようだから、この際一言いっておく。きのうのことは、お前に責任があるとか、ないとかの問題ではない。しかし、お前が木工場で不用意にやったいたずらが、イッちゃの無分別なひとまねを誘い、それがあの子の片腕を奪ったのだ。なぜあんなことをしたのか、いまそこに気付かなければ、お前はまた同じような間違いを犯すだろう。だいたい、友達と工場見物に行くのに羽織なんか着て行く必要はないではないか。中学林の帽子もかぶっていったそうだが、おそらくお前は、中学林の服装をみんなに見せびらかしたかったのだろう。羽織のひもで機械にいたずらしたのも、根は同じだ。そんな虚飾は仏道でも厳しく戒められている。虚栄心は誰にでもあるが、仏道修行にとっては邪魔でしかない。そんなものは捨てない限り、学校でなんぼ学問をしても本物の出家にはなれん。お前はまだ自分のそんな性格に気付いていないようだから、学校へ戻るまで、夜のおつとめのあとも、ここで坐禅を組んで、自分の心の内側と真剣に向い合ってみろ。これはお前の師としてのわしの命令だ」
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/3 弟子の行方)


▼ 迎春   [RES]
  あらや   ..2024/01/01(月) 09:55  No.1032
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画像は昨年秋に閉店した札幌駅前のデパート「エスタ」の屋上にあった國松明日香『テルミヌスの風』。今年もよろしく。



▼ このはずくの旅路1   [RES]
  あらや   ..2023/12/21(木) 11:12  No.1024
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十二月中旬より大森光章『このはずくの旅路』のデジタル復刻作業に入りました。

大森光章氏の作品については、著作権継承者の許諾を頂くべく探しているのですが、現在も継承者の方に辿り着いていません。ご存じの方がおられましたら新谷に御一報をお願いいたします。

許諾もないのに復刻を始めるのには理由があります。沼田流人についてもっと深く知りたいという思いは、今年の二月、佐藤瑜璃『父・流人の思い出』の発見をもたらしました。これによって、従来『沼田流人伝』が流布していた流人イメージをかなり修正することができたと思います。それに加えて、今年は、竹中英俊氏の新発見資料によって、東京(中央文壇)における流人イメージが劇的に変化する年でもありました。鳴かず飛ばずのように語られていた流人の作品が、じつは届くべき人には届いていたということを知るにつけ、その流人が小説を書いていた時代をもっと深く考えなければいけないと感じます。その気持ちが『このはずくの旅路』復刻を急がせました。ここには孝運寺の片隅で『血の呻き』を書いている沼田流人の姿がある。


 
▼ シオ  
  あらや   ..2023/12/24(日) 14:03  No.1025
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 今出孝運の母親シオもそんな飯盛女予備軍の一人として瀬上宿今出屋に登場する。シオに関する資料は皆無に等しいが、萬年寺の墓誌に「明治二年(一八六九)四月に五十一歳で死亡」とあるから、生れは文政二年(一八一九)ということになる。萬年寺の記録(孝運経歴)から推量すると、出身地は陸奥国(宮城県)栗原郡高清水村である。生家は奥州街道高清水宿の旅籠屋だったが、火災で身代を失い、生活に困った親はやむなく娘のシオを瀬上宿今出屋へ飯盛下女として年季奉公に出した。文政十一年(一八二八)のことで、シオは十歳だった。
 だから、遅くとも十五、六歳から飯盛女として泊り客の相手をさせられる運命にあったのだが、生れつき利発で性格も明るく、初歩的な読み書きができ、旅籠屋の仕来りにも慣れていたのが、その運命から彼女を救い出した。
(このはずくの旅路/第一章 みちのく無常)

十年前、『このはずくの旅路』を読んでいた頃は、どうしてもイッちゃ(流人)に焦点をあてて読んでしまうのでした。今回はずいぶんと違う。小源太(孝運)の生まれから目を皿のようにして読んでいます。

 
▼ 小源太  
  あらや   ..2023/12/24(日) 14:07  No.1026
   今出孝運(幼名小源太)の記憶は、今出屋出身の老僧坦道に伴われて沼辺村の陽山寺を訪ね、住職の眞孝和尚に初めて対面した日から始まる。それ以前の記憶がまったくないわけではない。母とともに瀬上村を退去した日、見送りにきた異母兄右源太が町外れの摺上川の土橋の端にじっと突っ立っていた姿が、ぼんやりと瞼の裏に残っている。が、それが現実の光景なのか、後日母から聞かされて定着した映像なのか、はっきりしない。脳裏に鮮明に浮かぶ最初の記憶は、この日、陽山寺の方丈間で、大きな大福餅を食べた場面なのである。
 自分がなんの目的で陽山寺に連れてこられたのか、六歳の小源太はすでに知っていた。母から「学問を教えてもらうために沼辺の禅寺へ行きなさい」と命じられていたからだ。具体的にどういうことをするのかは理解できなかったのだが、当分、母に会えないのだ、という認識はあった。だから、入山した翌日、寺を去る坦道から、「どうだ、大丈夫か」と訊かれたときも、「大丈夫だす」とはっきり答えている。
(このはずくの旅路/第一章 みちのく無常)

研究論文じゃなくて、小説という形で〈流人〉を描いてくれた大森光章氏には感謝してもしきれない。たいした見識だと思う。

 
▼ 今出孝運  
  あらや   ..2023/12/24(日) 14:13  No.1027
   慶応二年といえば、徳川幕府が崩壊する前年である。孝運が京都に到着する十日前の三月七日には、京都鹿児島藩邸で、討幕のための薩長提携が結ばれている。七月十八日には幕府の第二次長州征伐が始まったものの、幕府軍が敗北して十月に撤兵している。
 また、この年は明治二年(一八六九)まで続いた大凶作が始まった年で、全国各地で農民や庶民の暴動、打壊しが発生していて、約二百年にわたって仏教の擁護者であった徳川幕府は、断末魔の状態に追い詰められつつあった。
 けれども、孝運の道中日誌にはそうした時代の激変をうかがわせる記述は一行もない。京都では京大仏(方広寺)、清水寺、西本願寺、六角堂などに参詣したり、祇園などの名所の見物や買物をしたりしているし、江戸でも、神田明神、東叡山(寛永寺)、浅草観音などに参詣、回向院の角力、柳原の古着屋街などの見物と買物をしている。危機感らしいものがのぞかれるのは、四月十日の夜に止宿していた馬喰町の近くで大火事があったという記述だけである。
(このはずくの旅路/第二章 嶺松山萬年寺)

いや、興味深い。孝運の人生には幕末〜明治維新の東北(日本)がかかっていると知ると不思議に胸が震える。ラストが倶知安の孝運寺ということに大きな意味を感じる。

 
▼ 朝日ユキ  
  あらや   ..2023/12/27(水) 11:24  No.1028
   ある日、岩内からの帰りに猛烈な吹雪に見舞われ、寒さと歩行困難のため途中で動けなくなり、意識を失って倒れているところを、通りかかった馬橇に助けられた。目を覚ましたとき、彼は見知らぬ座敷の布団の中にいた。枕元に誰かがいる気配に起き上がろうとすると、「寒いがで、寝てらっしゃい」と制止されて、相手が女であることに気付いた。
(このはずくの旅路/第三章 千石場所)

ある意味、『このはずくの旅路』の中での最重要箇所ではないだろうか。この托鉢の帰り道から孝運の人生が劇的に動き始めるのだから。

 二代勝兵衛の次女タカは、越中国射水郡新湊港の海運業三代旅家(たや)権七に嫁した。三女ユキは明治七年(十七歳)に富山の薬種問屋の次男に嫁いだものの二年足らずで夫と死別、入籍もされていなかったので、三歳年上の姉タカを頼って新湊の旅家家に身を寄せた。
 独立心の強かったユキは明治十五年、二十五歳のとき、義兄権七の持船(北前船)で北海道の基地岩内港に渡り、旅家海運の取引先であった商人坂本栄蔵、大森多蔵らの世話で(後略)

ああ、このはずく劇場の役者たちがどんどん舞台に上がって来る。

 
▼ 関本孝吟  
  あらや   ..2023/12/27(水) 11:28  No.1029
   「坊主が生涯独身を通すという時代は終ったよ。昔気質のあんたには抵抗があるかも知れないが、いずれ日本中の坊主が妻帯するだろう。当然、寺も世襲になるだろう。あまり深刻に考える必要はないよ」
 それ自体は予想できた意見だったので、孝運はさほど驚かなかったのだが、「それよりも、孝運さん」と続けて口にした孝吟の話を聞いて彼は顔色を変えた。
「岩内に説教所を開くというのはどうかな。信者三十人の説教所を持っても苦労するだけだよ。それくらいならイワウヌプリの向う側にあるクッチャン原野で開拓が始まったらしいから、そこへ入植して布教活動をしてみてはどうかね。前人未踏の原野だというから、あんたには理想の場所なんじゃないかな」
(このはずくの旅路/第三章 千石場所)

ついに〈クッチャン原野〉の登場。こちらも最重要箇所だ。『このはずくの旅路』は倶知安の始まりからを描いている点でも得がたい小説。

 
▼ 縫部兼次郎  
  あらや   ..2023/12/29(金) 11:45  No.1030
   同伴の二人の信者も同じ思いらしく、「こんなところに説教所を建ててもどうにもならんべよ。一、二年様子を見たらどうかな」と大森多蔵がつぶやくようにいい、「うだな。近く集団入植が入るそうだが、曹洞宗の信者がどれだけいるかわからんしな。今すぐ岩内を引き揚げるのは考えもんでねえか」と菊池兼蔵も相槌を打った。
 孝運はしかし即座に同意できなかった。願書提出時に植民課の係員からいわれた言葉が脳裏にへばりついていたからだ。
「倶知安原野は基線を中心に市街地を設ける計画です。あなたの場合はお寺さんですから、この辺りが適当と思います……」
 親切な係員はそういって区画図面に整然と列んだ碁盤の目の一つに朱丸を付けたのだったが、その場所がここなのだ。今は無人の原野であり、信者も檀徒もいないが、将来は布教活動に有利な市街地に発展するに違いない。孝運としては、一、二年様子を見るといった逡巡は許されなかったのである。
(このはずくの旅路/第四章 萬年山孝運寺創建)

集団入植以前のクッチャン原野に、すでにマッチ軸木工場の縫部兼次郎のような人間が入り込んでいたという事実は興味深い。植民課の係員が朱丸を付けた場所は、後に「函館本線」の「六郷駅」ができる場所ですね。確かに倶知安市街の中心地になるはずでした。

 
▼ 旅家タカ  
  あらや   ..2023/12/29(金) 11:49  No.1031
   それはかまわないのだが、二ヵ月ほどすると、孝運に対するタカの態度が豹変して、彼を戸惑わせた。ユキ母子がいまだに入籍されておらず、長女トミが朝日姓のまま通学していることを知ったタカは、急に興奮しだし、「おやっさまは偉い坊さまと聞いちょったに、どないしよったが? 人に法を説く資格があるがかいね……」と富山弁で食ってかかり一日も早く婚姻届を出して三人の子を入籍せよ、と厳しい口調で要求したのである。
 あまりの見幕に孝運はたじたじとなり、タカがやってきても方丈間に閉じ籠って会おうとしなかったが、彼女は方丈間にまで押しかけてきて、「おやっさまにはユキと結婚できんわけがあるがに? 仙台に大黒さまがおるがですか」と詰め寄り、孝運があわてて否定すると、「ならば、なにをびくびくしとるだら。子供らがかわいそうだっちゃ」などと泣きの涙で訴えることも再三どころではなかった。
(このはずくの旅路/第四章 萬年山孝運寺創建)

孝運寺の一角になぜ旅家米店や沼田仁兵衛の木賃宿があったのか、初めてこれを説明してくれたのが『このはずくの旅路』でした。こんな大事なことも知らず、『沼田流人伝』は暢気に「倶知安の優良児童(沼田一郎)表彰」の新聞記事なんか載せている。なんの意味があるんだ。


▼ 「人間像」第118号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/12/04(月) 17:37  No.1019
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 会社の帰り、気の合ういつもの五、六人で、スナックバーに寄ることがある。雑談をしたり、カラオケをやったりと言うたわいないものだが、これが純平たち安サラリーマンの簡便なストレス解消法になっていた。
 この日も、誰いうとなしにいつものメンバーが集まり、行きつけのスナック『ブルーバード』に来ていた。上司の悪口や同僚の噂ばなしをつまみに安い焼酎やウイスキーの水割りを飲むのだ。当面の話題が尽きると、カラオケをやったり、それに合わせて踊ったりする。いつもなら、純平がマイクを握ることが多いのだが、この日は若い連中が先に踊り始めたので、純平はいささか手持ちぶさたであった。
「川上さん、踊りましょうか」
 立木英子が声をかけた。
(針山和美「雪が解けると」)

第118号作業、スタートしました。久しぶりの針山作品。この『雪が解けると』は、三年後、単行本『天皇の黄昏』に『春の淡雪』とタイトルを変えて発表されています。私は『春の淡雪』の方を先に読んでいますから、今回の雑誌発表形の『雪が解けると』にはかなり驚きました。結末部分が大胆に書き換えられている。同じ話で二度楽しめる。


 
▼ 定年退職  
  あらや   ..2023/12/07(木) 17:51  No.1020
   ところが、ここ二、三年急に多作になった。多作と言っても年に三作ほどの割合に過ぎないが、それまでに較べると三倍の量になる。根気も体力も衰えて来るこの時期に俄に書き出したものだから、口さがない連中は無意識裡に死期を察してのことではないかと軽口を叩く始末である。しかし、違うのだ。長かった教員生活もいよいよ今年限りで、来年からは待望の執筆人生が実現出来る訳だが、突然書き出すと言っても仲々大変だろうから、その助走訓練をして置こう、と言う思惑から多少無理をして書き始めたのである。
(針山和美「天皇の黄昏」/あとがき)

たしかに、この第118号『雪が解けると』を皮切りに針山氏は毎号発表ペース(第119号は私の大好きな『嫁こいらんかね』だ!)に入って行くのですが、同じようなことは千田三四郎氏にも云えて、数年前に北海道新聞社を定年退職してからは爆発的に書きまくっていますね。そういう「人間像」充実の影で少し心配なことが…
デビュー以来、毎号、長い作品を精力的に書き続けてきた針田和明氏の作品が第116号『雄冬の冷水』を最後にぱたっと止まっているんですね。作業をしていて何か変だな…と感じていたのですが、数日前に、ああ針田氏がいないんだ…と漸く気がつきました。

 
▼ 歌ふことなき人々  
  あらや   ..2023/12/07(木) 17:54  No.1021
   そろそろ店を開けようか。閑古鳥が鳴きっぱなしのここには、どうせ客はこないだろうが、さ、気を入れてやろうじゃないか。今日でこの小樽での仕事はおしまい。それなりにけじめをつけなければな。……あいつのせいで店じまいにまで追い込まれたけど、思い直せば、生まれ故郷の東京でもうひとふんばり、〈理髪床 江戸屋〉の看板をあげる踏ん切りがつけられたのも、裏返せばあいつのおかげだ。根も葉もない中傷記事で商売あがったり、いちじは夫婦一緒に死んで、あの記者野郎に崇ってやりたいと恨んだが、いまとなっては降りかかった禍を福に転じさせるため、東京で何がなんでも頑張りたい、そんな意気込みでいっぱいだ。
(千田三四郎「歌ふことなき人々」)

もうこれは、千田作品の中でも一、二を争う名作だと私は思っています。ついに、ライブラリーに入ったことに感無量。

 
▼ 百一ほら話  
  あらや   ..2023/12/07(木) 17:57  No.1022
   百一というのはアダ名で、田中勝男という名前の馬喰である。
 その人は「百語るうちにホントは一つあるかどうか」というほら吹きなので、名前を呼ぶ者がなく『百一』でとおっていた。ところが、
「百一つぁん」と声をかけると、
「ほい」 気楽に答える。
 だから斎藤昭は最初アダ名とは知らず、一体これはどういう意味なのか珍らしい名前だなあと思っていた。
(朽木寒三「百一ほら話」)

前号の『マルホほら話』に続いて、今度は『百一』のほら話。面白いなあ、朽木さんは。斎藤昭シリーズは永久に続いてほしいと願っています。

 
▼ 「人間像」第118号 後半  
  あらや   ..2023/12/11(月) 11:40  No.1023
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「人間像」第118号(134ページ)作業、完了です。作業時間は「60時間/延べ日数10日間」、収録タイトル数は「2224作品」になりました。

本の裁断が狂っていて、画像データ作りにけっこう時間をとられました。その最たるものが裏表紙。半日くらい悪戦苦闘したわりには、まだ納得はしていない。活字が細かいので読みにくいと思います。こういう内容です。

 曲り角

 丸本明子は昭和三十年代『人間像』に参加し、五十号の前後に毎号発表し続けていたが、子育てにかかる頃から中断し、百号が過ぎて再び参加、御存じのように毎号欠かす事なく発表し続けて来た。旺盛な制作力と言うべきである。
 彼女は日常生活の中では滅多に遭遇しない悲劇のひと駒を、また超現実的な世界を好んで描く。遇いたくない現実に遇わねばならない悲劇の主人公達は、その辺にいつもいる普通の市井人なのである。ときには残酷とも言える結末が何の予告もなしに訪れて、読者を震憾させる。日常生活の中に存在する不条理なる現実を丸本さんは書きたいのだと、僕は自分なりに解釈している。知っての通り丸本さんは沢山の詩集を持つ優れた詩人だが、その詩人らしい冷徹な感覚とともに人間への温みのこもった小説である。(針山和美)


▼ 「人間像」第117号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/11/17(金) 16:49  No.1015
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 牛泥棒でつかまった『百一馬喰』は、百話すうちにほんとのことはせいぜい一つしかないのでその名前がついたのだが、その百一つぁんのほかにもう一人『マルホ』というのがいた。これは、隣県、とはいっても斎藤昭の住む岩手県一関からそんなに遠くない宮城県々北の馬喰なのだが、
「言ってることがまるっきり全部ほらばかり」
 なのがこのあだ名の由来だった。しかし考えてみると百一にしろマルホにしろ一匹馬買いのちんぴらなのに、ほら吹きの看板を背にしょったまま、鬼より恐い海千山千、ばの字づくしの荒くれ男がむらがるこの渡世でなんとかかんとか生きて暮らしているのだから、それなりに大したもんだと言わねばならなかった。
(朽木寒三「マルホほら話」)

第117号作業、開始です。まずは、絶好調の「斎藤昭」シリーズ、朽木寒三『マルホほら話』完了。以降、内田保夫『境界は凪であれ』、丸本明子『マーガレット』、矢塚鷹夫『ロールプレイング』、千田三四郎『手探り寅吉ノート』と続きます。

昨日は庭木の冬囲いで丸々一日時間を取られてしまった。


 
▼ ワープロ時代  
  あらや   ..2023/11/24(金) 18:42  No.1016
   たとえば、「花が咲いた」などはそのまま旨く行くが、「お考えに」などと打つものなら「悪寒が絵に」などと訳の判らない文字の羅列になってしまうのである。打ち手の方は「考え」に丁寧語の「お」をつけたつもりでも、機械の方は「悪寒」「が」「絵に」なったと判断してしまうらしい。こういう時は「お」だけをさきに確定しておいて、後から「考え」を打てば旨く行くようである。
(針山和美「ワープロを手がけてみて」)

やあ、始まりましたね。1987年か…

 職場の同僚が、翌日までに必要な書類を打たねばならなくなり、久しぶりにワープロに向かったまでは良かったが、キィーワードが判らなくなるたびに「操作説明書」を調べながらやっていたら、とうとう朝までかかってしまったと嘆いていた。とにかく使いこなすまでにならなければ、文明の利器も宝の持ちぐされになってしまうようである。
 Kの話によると、書くのと打つのが同じ速さとしても、訂正が楽な上に清書も不要なのでトータルではワープロの方が速い、という結論になるらしい。一日も早くそう思えるようになりたいものである。
(同書)

 
▼ 手探り寅吉ノート  
  あらや   ..2023/11/24(金) 18:47  No.1017
   とり憑かれたわけではないが、成り行きに意地がからんで〈寅吉〉を追究するはめになった。自分の短かい余生にとって、これは道草かもしれないが、手を付けた以上、掴んだ事実と疑問を、霧の中に葬り去りたくなかった。これまでに実録とか、実説とか、実話とかいわれてきた文学が、まったくのノン・フイクションでなかった点にも触れてみたかった。
(千田三四郎}「手探り寅吉ノート」)

原稿用紙で65枚。『マルホほら話』の70枚より少ないはずなのだが、かかった時間は『マルホ』の三倍。ようやく今日アップしました。

もう今日はこれで作業終わろう… 天気予報は明日から猛吹雪とか言ってるし。

 
▼ 「人間像」第117号 後半  
  あらや   ..2023/11/27(月) 14:44  No.1018
   ところで、この働き者の権兵衛はどうしたわけか、三十をすぎた今日まで独り身ですごしてきた。世話好きな村の年寄り連中が、働き者で名の売れた権兵衛を見逃すわけがない。虎吉爺さんも、お熊婆さんも、猿之助爺さんも、嫁御を世話しようと何度権兵衛を口説いたかわかりゃあしない。
「わしに嫁女はまだ早いわい」
 権兵衛はそういって、今日もまたこうして鍬を振り上げているのである。
 さて、仕事も一段落かたずくと、権兵衛はそばの切り株に腰をおろして、いかにもうまそうに、すぱりすぱりと煙草をふかしていた。そのうち、権兵衛は仕事の疲れでついうとうとその場で居睡りはじめたのである。
(佐々木徳次「夢女房」)

前号の『針田和明詩集』に続いて、今号では「雑記帳」欄に佐々木氏が民話風(?)の小品『夢女房』を発表… こういうの、同人間で流行っているのかな。

「人間像」第117号(101ページ)作業、完了。作業時間は「51時間/延べ日数9日間」で、収録タイトル数は「2213作品」になりました。裏表紙は第116号と同じなので省略。


▼ 「人間像」第116号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/11/03(金) 11:38  No.1012
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『あの若者がはだか馬に乗って、何頭もの馬をたくみに追い込んでいくのを見ていると、オレの青春を埋めた満州での日々が思い出されてならぬ。なんとか、あの青年と会って話してみたい』
 斎藤昭は毎朝、台町の家を出て近くの磐井川の堤防に、ごじまんの愛馬「ときいわ号」を運動がてら走らせにいく。少年時代、北海道釧路の大湿原で牧夫をしていた頃の彼は、他の親方たちや先輩の牧夫連中と同様、よほどの遠出か改まった用事ででもない限り鞍など置いたことはなく、せいぜい古毛布をハンケチほどの小さに切った四角なきれっぱしを尻の下に挟むぐらいのことで、はだか馬を乗り回していた。それで彼は、故郷の一関に帰り数年たったいまも、「ときいわ号」をはだか馬のまま自由自在に走らせるのが快いのである。
(朽木寒三「小山田さんの鉄砲」)

この「斎藤昭」シリーズ、最高。今回は特に、元馬賊の老人と博労の若者の出合いとか、朽木さんでなければ絶対に書けない世界ではあります。舞台が釧路(北海道)と岩手県というのも私好みだし。しばらくご無沙汰していた朽木さんの「人間像」復帰を心から喜んでいます。

第115号が完了した翌日から「人間像」第116号作業を開始しています。『小山田さんの鉄砲』の次は、千田三四郎『ぎんぎらぎん』、丸本明子『竜の落し子』、矢塚鷹夫(新同人)『吸血鬼物語』、針田和明『雄冬の冷水』と続きます。


 
▼ 針田和明詩集  
  あらや   ..2023/11/10(金) 18:26  No.1013
   俺の冷蔵庫

冷蔵庫をあけて
俺はめずらしい食い物を
掌にとっては口に運んだ
鮭の切り身、筋子、
豚肉、白菜、人参
まだ食いたりない気がしたが
中はもう空っぽだ

二階でふるえている人間どもに
俺は掌をふって合図をしたが
だれ一人として
降りてこない
用心深い人間どもよ
ごちそうさん

山へ帰る途中
牧場で牛を一頭
失敬しようとおもったが
あいにくとトンマな牛は
いなかった
仕方がないとあきらめて
俺は西瓜畑に入り
大きいのを二十個ばかり割って
ガブガブと水分を補った

以下、略。人間像ライブラリーの『針田和明詩集』をお楽しみください。

 
▼ 「人間像」第116号 後半  
  あらや   ..2023/11/10(金) 18:30  No.1014
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 間に別冊を発行したこともあるが、遅刊の原因は原稿が期日に揃わないことである。結構忙しい針田が毎号書いているのだから、多忙は理由にならないと思う。この号の中で佐々木が書いているように「枯渇」してしまったのであろうか。そんな我々の仲間に若い矢塚鷹夫が参加した。成長を期待すると同時に、潤滑剤となって古い同人達の再起にも役立ってほしいものである。
(「人間像」第116号/編集後記)

その矢塚さんのデビュー作『吸血鬼物語』の冒頭。

 ある朝、目を覚ますと俺は吸血鬼になっていた。カガミが無かったので姿形がどう変わっていたのか知るよしも無かったが……。

ちょっと大丈夫かなあ…とも思ったが、なんとかラストまで話を持って行ったので一安心。考えれば、針田さんもデビュー時はこんなだったかな…

「人間像」第116号(100ページ)作業、完了です。作業時間は「47時間/延べ日数9日間」でした。収録タイトル数は「2199作品」。裏表紙が久しぶりの更新。


▼ 「人間像」第115号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/10/10(火) 17:02  No.1009
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〈沼田流人〉関係を一旦止めて、「人間像」作業を再開することにしました。『「血の呻き」の発禁をめぐって』を書くには、やはり大森光章『このはずくの旅路』をアップしてからの方が正解、正確だと思ったからです。それにもしかすると、『このはずく』は、現在「人間像」で進行中の千田三四郎〈乾咲次郎もの〉に絡んでくるのではないか…という予感もちょっとあります。いずれにせよ、慌てて結論を出す愚だけは避けたい。

第115号は、久しぶりの村上英治『あした秋篠寺へ』(原稿用紙218枚!)を筆頭に、丸本明子『蓑虫』、針田和明『幌の女』、神坂純『母を恋うる記』といったラインナップ。針田氏は他に『二百一号室』という作品も発表しています。

一ヶ月前には、たしか、北海道にして30度越えの毎日の中にいたはずなのに… 二三日前、ストーブの試運転をしました。


 
▼ あした秋篠寺へ  
  あらや   ..2023/10/25(水) 16:47  No.1010
  本日、村上英治『あした秋篠寺へ』をライブラリーにアップしました。
本文中に写植の打ち間違いがあって意味が通らなくなっていたので、確認のため道立図書館の単行本を取り寄せてもらいました。申し込んだのが先週の水曜日です。その日のうちに連絡がつけば、金曜の相互貸借便に乗って土曜には読める…はずだったんだけど、なんとその本を手にしたのは今週の火曜日でした。
なぜこういうことになるのかというと、この原因は、郵便局の働き方改革によるものらしいですね。木曜以降に出した郵便物は翌週の配達になるみたい。事実、先月、札幌まで郵便物を出すのに「明日はまだ平日(金曜日)だから、今日(木曜日)出せば明日着くだろう」と雨の中を郵便局まで行ったのに、それが届いたのは月曜日だったと後で知らされてひどく驚いたものでした。なんでこんな世の中になったのだろうか。

『あした秋篠寺へ』のチェックを待っている間に、丸本明子『蓑虫』、針田和明『幌の女』、神坂純『母を恋うる記』とどんどんアップは進み、これからラストの大作、針田和明『二百一号室』に取り掛かります。第115号は今月中に完了かな。

 
▼ 「人間像」第115号 後半  
  あらや   ..2023/10/31(火) 11:02  No.1011
   浜益国保診療所へ勤務して十一ヶ月たった。住宅のすぐ隣りが診療所のせいか、歩くことが少なくなり、足腰が弱ってきた。二十代の初めには八十キロの大豆の麻袋をかつぐことができたのに、四十四歳の今、十キロの米を持っても重いと思うし、娘の志保を肩車して五十メートルも歩くと息切れしてしまう。志保は二十キロだ。二十キロでふらついているのだから、もう八十キロには到底挑戦できない。
(針田和明「二百一号室」)

ついに針田氏の『病床雑記』が始まったのか…と少しひゃーっとしましたね。

「人間像」第115号(190ページ)作業、完了です。作業時間、「90時間/延べ日数21日間」。収録タイトル数は「2182作品」になりました。裏表紙は第111号以来変わらないので省略。Windows11のわけのわからないバージョンアップに少し苛々した第115号でもありました。冬近し。


▼ 沼田流人伝   [RES]
  あらや   ..2023/10/06(金) 09:20  No.1005
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「人間像」第114号を終えてから二週間ほど休暇をもらって、「沼田流人」のこれからをあれこれ考えていました。いくつか試みたこともあります。そのひとつが、武井静夫『沼田流人伝』のライブラリー化。付随して、『沼田流人伝』の前身となる『沼田流人小伝』も復刻してみました。『小伝』は大森亮三主宰の歌誌「防風林」に6回連載。同じ「防風林」には3年前から佐藤瑜璃『父・流人の思い出』が始まっており、『小伝』はこの『思い出』連載に割り込むような形で展開された流人伝と云えます。年代順にすると、
@ 北海道文学全集 第6巻 『地獄』/流人略歴 1980(昭和55)年6月発行
A 『父・流人の思い出』 1987(昭和62)年7月〜1991(平成3)年10月連載
B 『沼田流人小伝』 1990(平成2)年1月〜年12月連載
C 『沼田流人伝』 1992(平成4)年3月発行
これらを踏まえて「沼田流人マガジン」第5号(2013年9月発行)に発表した拙文『「血の呻き」の「発禁」をめぐって』を内容整理した上でライブラリーに載せたいと考えています。


 
▼ このはずくの旅路  
  あらや   ..2023/10/06(金) 09:24  No.1006
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現在、大森光章『このはずくの旅路』のライブラリー化を考慮です。しかし、大森光章氏の著作権継承者の方になかなか尋ねあたりません。どなたか情報をお持ちの方は御一報ください。

沼田流人理解には、佐藤瑜璃『父・流人の思い出』とこの『このはずくの旅路』があれば、後はいらないというのが今の私の考えです。
そして、『このはずくの旅路』のライブラリー化が完成した暁には、現在封印している拙文『文芸作品を走る胆振線』の再掲載をお許しいただきたいのです。当時、『沼田流人伝』の影響下で〈沼田流人〉を描いていたという点では、佐藤氏も大森氏も私も同じです。事実誤認を書いてしまった痛みは残るけれど、私もそれを隠すのではなく、私の今の仕事で『沼田流人伝』を乗り越えて行かなければならないと考えています。

 
▼ 松崎天民  
  あらや   ..2023/10/06(金) 09:29  No.1007
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人間像ライブラリーに〈松崎天民〉の項目をつくりました。今は『悽愴たる火葬場』一篇しか載っていませんが、将来的には多面的な天民の世界を構築してみたいと夢みています。沼田流人の理解には天民作品が欠かせないと感じる日々です。

また松崎天民に付随して、「おたるの青空」以来二十年ぶりに〈石川啄木〉に一作品を加えました。『日本無政府主義者隠謀事件経過及び附帯現象』という、大逆事件に触発された作品ですが、啄木の大きな情報源が東京朝日新聞の同僚だった天民と云われています。

旧漢字を使いこなすほど頭が良くないので、テキストに筑摩書房版「石川啄木全集」を使いました。作業中、岩波版「啄木全集」」をベースに使っている「青空文庫」を参照させてもらいましたが、そこで明らかに入力ミスと思われる箇所を三つ見つけました。漢字や踊り字の使用にも厳格だし、校閲者も別にいる「青空文庫」にして、こういう入力ミスが存在するんだということに少し驚いています。

 
▼ 雪に撃つ  
  あらや   ..2023/10/06(金) 09:35  No.1008
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「ベトナムのひとには、北海道はきっと寒いよね」
 チャムが言った。
「信じられない寒さでした。わたし、気温零度っで、初めての体験でした」
 声が明るくなっていた。車の中が、ふいになごんだ。このふたりの女性たちは、どうやらこのまま逃走できるだろう。列車に乗ってしまえば、あとは札幌で支援団体が彼女たちを助ける。もう心配しなくていい。
 それにしても、と太一は思った。どこに本社を置く会社なのか知らないが、こんな土地にタコ部屋を設けるなんて。奴隷を使うように外国人労働者を集めて、安く働かせて利益を出しているなんて。
(佐々木譲「雪に撃つ」)

作業中に読んでいました。(百何十人の予約が終わったのか、最近書架で出廻るようになりました) そんなに多く小説を読んでるわけではないから断言はできないが、自分の作品で公然と「タコ部屋」を言い放った人、佐々木譲が初めてです。

あなたは、佐々木譲が技能実習生の現場に「潜入取材」したと思いますか?


▼ 「人間像」第114号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/08/30(水) 17:51  No.1001
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さむがりやの母だったから
厚い坐布団をつくって
置いてきた
電話のむこうの妹の声が
いつ迄もひえびえと
心の底に残っている
(艀参三「納骨」)

 母が死んだ。
 その日は、朝から風が吹き荒れ、海は白い波濤を幾重にもして、遠い水平線にまで展がっていた。岩場に打寄せた波頭がくずれこわれて、さまざまな大きさの波の華をつくり、それが風にのって、あたりに吹きとんでいた。空には黒い雲がたちこめ、昼すぎになると、それは雪にかわった。
(針田和明「波の華」)

 母が、あわただしく、この世から消えてしまった。二年間の闘病生活の間には、元気な時の母と違って、受身になってしまった、病人という弱者の母との思い出が、次から次へと、思い出されて、やりきれなくなる。誰でもが辿る道だが、空しさのみが、去来する。
(我楽多あき「関西模様」)

八月下旬より「人間像」第114号作業を開始しています。現在、千田三四郎『道のり』(約100ページ)一本を残すところまで来ています。しかし、それにしても!、第114号は、あちらでもこちらでも「母が死んだ」の続出で少々気が滅入ります。(『道のり』でもたぶん出てくるし…)
昔、喪中葉書が互いに乱れ飛ぶ形で賀状挨拶をしていた一時期があったけれど、「人間像」同人もそんな時代なのだろうか。


 
▼ 道のり 第一幕  
  あらや   ..2023/09/03(日) 16:56  No.1002
  〈月形村は百戸余りの市街なれども、名高い樺戸集治監の官舎が相当あり、三日間の興行中に看守に連れられた囚徒の作業ぶりを〉、連日参考までに見聞してあるいた。それをもとに咲次郎は三年後の山形県巡業中、岩村家に仮託した石村家と囚徒九里嶋常喜をつなぐ因縁劇『軽命』をまとめあげて、以後なんどとなく上演している。明治新派のアクが濃い作品だが、それなりに虚構のおもしろさがただよう。荒筋にやや補正をほどこして紹介してみたい。
(千田三四郎「道のり」/第一幕「勇躍」)

『道のり』は長いので、一幕(章)完了する毎に、ライブラリー上に公開して行こうと考えています。

第一幕の最後で、独立理想団がやっていた芝居の一例をかなり詳細に紹介してくれているのが有難い。(『軽命』、面白いじゃないか!) 乾咲次郎という人間がぐっと鮮明になった。千田さんの仕事は丁寧だな。石川啄木も同じ頃「小樽日報」に芝居評記事を書いているのですが、気どった文章でどんな芝居なのか全然わからん。

 
▼ 道のり 第三幕  
  あらや   ..2023/09/07(木) 17:37  No.1003
   二月二十五日の春日座正面には、でかでかと〈独立理想団霧嶋一行初御目見得開演〉の看板が掲げられた。深夜のうちに巌麗道と高木が協力して据えつけたもので、これが第三次旗挙げの宣言だった。
 出し物は咲次郎自作の『軽命』三幕と喜劇『演芸道楽』一幕。庵の俳優名も墨痕あざやかだ。朝、それを眺めた咲次郎は、胸が青年のように高鳴った。たとえ劇場は小さくとも、花の都で開演できるのだ。「よーし、やってのけるぞ」と。
(千田三四郎「道のり」/第三幕「展開」)

おー、ここで『軽命』が来るのか!

八月の異常な暑さにも負けず、『道のり』こつこつと歩んでいます。あと一週間くらいかな…

 
▼ 「人間像」第114号 後半  
  あらや   ..2023/09/14(木) 11:59  No.1004
   風の音をあらわす寝鳥の能管=B花道を白狐に先導されて高無竜三がツケの蔭打ち≠ナ登場する。白狐は藪畳に消える。「お尋ねいたします。このあたりに高無秋子という少女が住んでいるときいてきたのですが、心当りないでしょうか」。秋子、小屋からとびだして「あっ兄さんだ、兄さん、帰ってきたのね」と抱きつく。「おお、秋ちゃん。ずいぶん捜したんだよ」 「逢いたかった、逢いたかったのよ、兄さん。……兄さんの留守中にお父さんもお姉さんも」 「え、父上と春子がどうしたって……。屋敷には誰もいなかったが」 「……殺されました」 「殺された、殺されたって……、いったい誰に、誰に殺されたんだ」
(千田三四郎「道のり」/第三幕「展開」/『神使狐』の筋立て)

『軽命』に続いて『神使狐』をかなり詳しく紹介してくれたので、咲次郎たちがやっていた舞台の姿がかなり明瞭になりました。有難い。

長かった『道のり』の作業も完了し、昨日、「人間像」第114号(約150ページ)を人間像ライブラリーにアップしました。作業時間は「96時間/延べ日数19日間」でした。収録タイトル数は「2162作品」になりました。裏表紙は第111号以来変わらないので省略。


▼ 「人間像」第113号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/07/28(金) 17:11  No.996
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二三日前から第113号作業に入りました。第113号は約230ページの大冊なんですが、その半分は千田三四郎『見果てぬ夢舞台』という乾咲次郎ものです。つまり、前号の連作「落ち穂」の続きといつもの「人間像」レギュラー作品群が合体したものが第113号といえるでしょう。「落ち穂」の感覚がまだ残っているうちに仕事を始めようと考えました。

 誘われてその気になったのは、政論を劇で鼓吹≠オようという壮士芝居の客気が地方に余燼をくすぶらせていたからで、中央でとうに途絶えたはずの幕間演説もまだ堂々とやられていたせいだろう。大衆に何かを訴えかける自分の、颯爽とした姿が、想像をくすぐったにちがいない。しかも前年に、その草分けと称えられる川上音二郎(一八六四―一九一一年)一座の東上公演を見物しており、舞台がかもす劇と演技の世界≠ノも魅了されていたからだ。
(千田三四郎{見果てぬ夢舞台}/序幕「模索」)

作業を進めているとこんな箇所にぶつかる。ちょっとだけ手を止めて、啄木の新聞記者を想ったりする。啄木の人生も明治の「小新聞」(北海道)から現代につながる「〈東京〉朝日新聞」の時代の変転の中にあったけれど、同じことを、東京で観た壮士芝居を起点に人生を生ききった人間がいたことにじつは感動しているのです。


 
▼ 見果てぬ夢舞台  
  あらや   ..2023/08/08(火) 10:03  No.997
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 咲次郎は、英吉の姓を失念したのか、私記に書きもらしている。たぶん尾張ではないかと思われるが、それは詩人石川啄木の文章のなかに出てくるからだ。釧路で新聞記者をしていた啄木が、親友の宮崎郁雨宛てに明治四十一年二月に送った手紙によると、料理店○コ喜望楼について言及し、○コには大小十一人のペンペン猫(芸妓)がいる。呼んだのはその十一人のうちでチョイト名の売れてゐる小静というので、三面先生のノートによると年齢二十四、本名尾張ミヱ、小樽・札幌ではやっている新派俳優朝霧映水の妹だ。小静はよく弾きよく歌った。僕はよく笑いよく酔った≠ニ書き添えている。咲次郎から朝霧の芸名を貰って八、九年後には道央でかなり知られた存在になっていたようだ。
(千田三四郎「見果てぬ夢舞台」/第二幕「愛憐」)

なるほどね。これで〈乾咲次郎〉の時代的な位置関係がぐっと鮮明になった。今読んでいる『ゴールデン・カムイ』(←今頃!という声もあるが、絶対に完結してから読んだ方がいい)にもこの釧路時代の啄木が登場したりして、一人でニヤニヤしています。

ヤフーで「小静」の写真を探したけれど見つからなかった。(「小奴」ばっかり!) たぶんこれだったと思うのだけど、自信なし。検索してたら、昔やってた「おたるの青空」の澤田信太郎『啄木散華』が出て来て吃驚した。

 
▼ Windows XP  
  あらや   ..2023/08/12(土) 10:14  No.998
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先ほど、千田三四郎『見果てぬ夢舞台』(約100ページ)をアップしました。

このところ小樽でも30度を超える毎日が続いています。そのせいなのかどうかわからないけれど、「人間像」作業のワープロ編集段階に使っていたデスクトップ・パソコンがついにご臨終になってしまいました。今のパソコンみたいに無駄な機能がごてごて付いてなくて、Windows XP上でワープロソフト「一太郎」がサクサク動くという昭和の風景が気に入っていたんですけどね。残念無念。ご冥福を祈ります。デスクトップがなくなると、机の上がとたんに広々としたのが救いか。

さて、今日から通常の「人間像」第113号作業です。まずは日高良子さんの『中三病棟十六号室』から。

 
▼ 竜宮城から来た馬  
  あらや   ..2023/08/22(火) 14:54  No.999
   ふと気がつくと馬そりがとまっている。
 そしてすぐ目の前に一軒の家があった。
「あっ、着いてる」
 アキラが叫び、毛利さんも眼をさました。だが親方はすぐに気がついたのだ。
「やれやれカメの奴どこさ来たんだべ。これ、別の家だぞ。今夜のカメはちょっとへんだ」
 まちがいをまず馬のせいにしておいて、親方はのろのろとそりを降りた。アキラもつづく。仕方ない、ここで道をたしかめてもう今夜は支ホロロさ帰るべと、二人して門ぐちを入って行った。
 そうしたらなんと、ここが目ざす灯の見える家だったのだ。
(朽木寒三「竜宮城から来た馬」)

朽木寒三、恐るべし! 千葉の人がここまで〈北海道〉を描いちゃうんだ…と腰を抜かしました。本当は、『見果てぬ夢舞台』を仕上げた時点で、あとはてきぱき作業を進めて第113号完了となるはずだったんだけど、最後で『竜宮城から来た馬』みたいな作品に遭遇しちゃってまことに嬉しい悲鳴です。いい夏の思い出になった。

 
▼ 「人間像」第113号 後半  
  あらや   ..2023/08/25(金) 17:09  No.1000
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本日、「人間像」第113号(約230ページ)作業、完了。作業時間は「123時間/延べ日数28日間」でした。収録タイトル数は「2151作品」になりました。

作業途中でデスクトップ・パソコンが壊れたため、その廃棄とワープロ専用の代替パソコンの設置などで少し時間をくいました。今度はノートパソコン2台なので、かなり部屋がすっきりした。これを機に、もう使うあてのない資料は処分して、来るべき〈松崎天民〉用のスペースを部屋に作ろうかとも考えています。

千田三四郎氏の〈咲次郎もの〉は次号の『道のり』という作品で完結するみたいなので、これから休みなしで「人間像」第114号作業に入る予定です。

裏表紙は第111号以来変わらないので省略。画像は今回第113号の奥付ページです。なんと「編集後記」に墨ぬり部分がある! 創刊号以来「人間像」を長らく扱って来ましたが、こんな墨ぬりは初めてです。何かあったのだろうか。
あと、針田和明氏の住所、「浜益村」に変わっていますね。『ねずみ』に書いてあったことは本当だったんだ。








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