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司書室BBS

 
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▼ 「人間像」第120号 前半   [RES]
  あらや   ..2024/03/24(日) 00:43  No.1072
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三月下旬より「人間像」第120号作業に入っています。丸本明子『夜叉』、内田保夫『選ばれた男』、針山和美『再会』と順調に来て、今、朽木寒三『凸凹三人衆』をやっているところです。前半とは言いながら、この『凸凹――』を仕上げると、もう作業のページは20ページ余りですから、もう後半と言ってもいいのかもしれない。なにか怖いぐらい順調です。

 京都の上醍醐にある、准胝堂という観音堂は、上醍醐寺にあり、麓の下醍醐から急な山道を四キロ登った所にある。
 准胝堂には、准胝観世音菩薩が祀ってあり、西国三十三ヵ所の巡礼札所のうちの第十一番だ。
 徳大寺宗利は、山道を登りはじめた。案内書によれば、ここは西国巡礼の寺では、第三十二番の観音正寺とともに難所のひとつであるという。
 徳大寺は、開伽井と呼ばれる湧き水の所で足を止めて、汗をぬぐった。
(内田保夫「選ばれた男」)

へえー。いつもの京成電鉄界隈から始まる物語が内田保夫氏だと思っていたから、今回の『選ばれた男』の京都にはびっくりしました。こんな技もあるのね。


 
▼ 再会  
  あらや   ..2024/03/24(日) 00:51  No.1073
   安川敬一が田坂寿子に出会ったのは、本当に偶然であった。
「鈴木佳弘さーん」
「安川敬一さーん」
 と続けて呼ばれて薬局の窓口に薬を貰いに行って行きあった。行きあったと言っても敬一は全然気がつかなかった。
「やっぱり、敬一さんなんですね」
 そう言われて、その女性の顔を見ても敬一はまだ分からなかった。
 (中略)
「そうじゃないかと思ってさっきから見ていたのよ。でも人違いなら困るので名前を呼ばれるまで待っていたの」
 そう言ってにこにこと笑う。美しい笑顔である。美しいと言うより敬一の好みのタイプなのだ。年甲斐もなく動悸が激しくなった。
(針山和美「再会」)

つい先月、『百姓二代』の強烈な四篇をやっていた身には、『再会』は鰊にすっきり冷えたビールのような味わいでした。春が近い。

 
▼ 凸凹三人衆  
  あらや   ..2024/03/25(月) 17:05  No.1074
   試みに手もとの『岩波』の小型国語辞典によって『ばくろう』の項を見たら次のように書かれていた。
「ばくろう【博労、馬喰、伯楽】 牛や馬の仲買い商人。産地の農家から牛馬を買い取り、それを広く売りさばいたり交換したりする。◇『伯楽』の転」
 (中略)
 殊に、「交換したりする」の一語には恐れ入った。馬喰は牛馬の売り買いももちろんするけれど、まさに『交換』こそが主目的の営業なのである。考えてみると私は子供の頃北海道でそだち、友達と何かを取りかえたい(交換をしたい)ときさかんに「バクルベ」を連発したものだが、これはあるいは「バクローするべ」が原型のことばなのかも知れない。(朽木寒三「凸凹三人衆」)

朽木氏のお父さん(水口茫氏)は倶知安中学の先生をしていたそうです。なぜか私の手許にある『北海道倶知安高等学校50年史』(←針山家から頂きました)にもお名前が見えますね。〈子供の頃〉の話なので、朽木氏と針山氏に倶知安での面識はなく、二人が出会うのは戦後の投稿雑誌時代になります。

 
▼ いじめについて  
  あらや   ..2024/03/27(水) 18:50  No.1075
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 僕のクラスにK子と言ういじめられっ子がいる。幼稚園時代からいじめの標的にされていたと言う事だ。
(春山文雄「いじめについて」)

『嫁こいらんかね』の着想がこんなところにあったなんて… 感じるところの多い文章でした。『百姓二代』の広告が第120号にあったので掲示します。針山氏の20代、30代、40代、50代を代表する自信作という理解でいいのかな。

 
▼ 「人間像」第120号 後半  
  あらや   ..2024/03/27(水) 18:54  No.1076
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ついに第120号まで来たぞ! あと70冊。
122ページの作業時間は「42時間/延べ日数7日間」、収録タイトル数は「2286作品」になりました。なにかてきぱきと仕事が進むなとは感じていたのですが、まさか40時間代になるとは思ってもみませんでした。「人間像」史上、最速でしょうか。

裏表紙が変わりました。こういう内容です。

 遠い疼き

 これは千田三四郎の六冊目の作品集である。今まで出した五冊のうち三冊は旅芸人「乾咲次郎」の伝記であり、『詩人の斜影』は啄木を巡る愛の群像を描いたものだった。伝記小説ではないが、その係累に属するものだった。従って千田自身が掘り起こした題材は『草の迷路』一冊と言ってよかった。しかもこの五冊はすべて長篇ばかりだったが、今度初めて短篇集を出すことになった。しかも珠玉揃いの好短篇集である。
 調べてみると、千田はこれまで二十五篇の小説を「人間像」に発表してきたが、その総枚数は二五〇〇枚に達する。一篇平均一○○枚と言うことになる。ところがこの集に収められた七篇は六十八枚を最長に平均五十枚で比較的短いものばかりであるが、この長さが千田の体質に合っているようだ。と言うのも、この長さのものに佳いものが多いのである。日常的な、事件とも言えない出来事の中に人間性を見事に捉えて味わい深い作品となっている。珠玉揃いと思う所以である。(針山和美)


▼ 「人間像」第119号 前半   [RES]
  あらや   ..2024/03/01(金) 05:56  No.1066
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二月中旬より「人間像」作業に復帰しています。丸本明子『花吹雪』、楢葉健三『あやつりの逃亡』、佐々木徳次『その男』、矢塚鷹夫『エデン』と来て、昨日(四年に一度のうるう日)針山和美『嫁こいらんかね』をライブラリーにアップしたところです。あと、朽木寒三『踊り子栄治影一勝負』、針田和明『迷界』を残すのみ。久しぶりの「人間像」作業ですが、意外と腕は鈍っていない。

 
▼ 嫁こいらんかね  
  あらや   ..2024/03/01(金) 06:02  No.1067
   二人を乗せたオートバイは、すがすがしい秋風を切って山を駆け降りた。
 途中の中山峠は細くて険しい砂利道である。一歩誤れば千仞の谷でもちろん命は無い。しかしおんちゃはあまりスピードもゆるめず右に左にカーブを切って駆け登った。雪子は声も出さずしっかりとおんちゃの腹にしがみついていた。
 頂上付近で一休みする。遠くに頂上を白く染めた羊蹄山がはっきりと輝き雪子を感激させた。
「わあ、綺麗だ。こうして広い景色を眺めていると下界の嫌な事なんかみんな忘れちゃうね」
(針山和美「嫁こいらんかね」)

この、たたみかける山麓の風景がたまらない。好きな針山作品は?、おすすめの針山作品は?と聞かれることがあると、いつもは『愛と逃亡』とか『百姓二代』とかと答えるのだが、たまに間違って『嫁こいらんかね』と答えてしまうこともあった。

 
▼ 踊り子栄治影一勝負  
  あらや   ..2024/03/04(月) 10:58  No.1068
  舞い込んだ舞い込んだ
御聖天が先に立ち、福大黒が舞い込んだ
四方の棚をながむれば
飾りの餅は十二重ね、神のお膳も十二膳
若親分、英七つぁんも末繁盛で
打ち込むところはサー、何よりもめでたいとナー
(朽木寒三「踊り子栄治影一勝負」)

やー、今回もサイコー。舞台も、私の好きな岩手県だし。

部屋の窓から見える小樽湾が少し碧(みどり)がかって来た。春かな。まさに、舞い込んだ、舞い込んだ…ですね。

 
▼ 迷界  
  あらや   ..2024/03/08(金) 11:00  No.1069
   かれこれ四時間あまり、僕は小説を読んでいた。あと十数枚で読みおわる。途中、三回電話がかかってきた。一回目は家族からであり、二回目は友人からだった。三回目は、むこうに人の気配はしたが無言であり、僕の声をじっときいているような無気味な電話であった。一体誰なのだろう、もしもしくらい言ってもよさそうなのに、と僕は思ったが、耐えられなくなってこちらからきった。柱にかかっている安物の時計が雨音に負けてなるものかといわんばかりにコチコチと音をたてている。その音は夜が深まるにつれて大きくなっていった。時を刻む音が規則正しいだけに、コチコチと無機質になる音をひとたび耳でとらえると、五分でも十分でもその音にのめりこんで聴いていることがある。そうしていると妙に僕の心が和んでくるのだ。
(針田和明「迷界」)

針山和美、朽木寒三、針田和明と、「人間像」大御所の三作品が並ぶのは壮観でした。針田氏の妙に沈んだ文体が気になる。

 
▼ 「人間像」第119号 後半  
  あらや   ..2024/03/08(金) 11:06  No.1070
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昨日、「人間像」第119号(134ページ)作業が完了しました。作業時間は「69時間/延べ日数13日間」、収録タイトル数は「2269作品」になりました。
裏表紙は第118号と同じですが、前回の画像があまり良くなかったのでもう一度載せます。

針山氏の『嫁こいらんかね』発表を受けて、この後、単行本『百姓二代』の復刻に入ります。もうワープロ時代に入っていますから、手書き時代のような細かな修正が入った清書原稿ではないのでしょう。そんなに作業時間はかからないと思います。ただ、『百姓二代』の大胆な修正には驚いた。

 
▼ 百姓二代  
  あらや   ..2024/03/17(日) 11:23  No.1071
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単行本『百姓二代』に載っている作品は、『百姓二代』、『傾斜』、『山中にて』、『嫁こいらんかね』の四篇。

「百姓二代」は昭和三十三年の作で最も古いものだが、また僕の二十代最後の作品でもあって愛着あるものである。結婚して初めての冬休みに何度か徹夜までして書いた思い出深い作品でもある。当時農村に住んでいた事もあり、百姓物に大きな関心を抱いていた。幾つか書いた中で比較的反響の良かったものである。
「傾斜」は、肝炎で長期間入院生活をしていた時の体験を生かして書いたもので、僕にとっては忘れがたい記念碑的作品である。病気そのものについては当時「病床雑記」(七〇〇枚ほど)に書いており、小説としては前集に載せた「三郎の手紙」くらいしかない。考えて見ればもっと書いて然るべきと思える。
「山中にて」は『京極文芸』に「敵機墜落事件」として書いたものを少し加筆し『人間像』に再掲したものである。まだ書き足りないと言う指摘もあったが、蛇足になるような気がして出来なかった。その辺が僕の限界らしい。
「嫁こいらんかね」はつい最近のもので、僕の目指すユーモアが少しは生かされたかなと考えている物のひとつである。
(針山和美「百姓二代」/あとがき)

雑誌発表形から、針山氏が何を捨て、何を足したかを知ることができる、私の大切な一冊です。復刻作業には、ここまで来た…という幸福感がありました。この気持を持って「人間像」第120号に入ります。


▼ えあ草子   [RES]
  あらや   ..2024/01/30(火) 17:22  No.1060
  なぜ「えあ草子」は大地震の直後にシステム更新を行うのだろうか?
六年前の北海道胆振東部地震の時も、その直後に「人間像ライブラリー」の全作品が読めなくなる事態が起きて、私は「これは何か今回の地震と関係があるのだろうか?」とか、けっこう真剣に考えたことを思い出す。
さすがに今度の能登地震ではそんなことは考えず、すぐに「えあ草子」だなと気がついたけれど、問題は、今度は使っている機種の方で起こりました。六年前でさえすでに絶滅危惧種だったWindows7と今のWindows11(Microsoft Edge)の間には深くて暗い溝がありましたね。使っている言葉が、いちいち何を言ってるのか解らないんだもの。
今でも、人間像ライブラリーの作品が読めなくなって困っている老人はいると思います。インターネット閲覧をMicrosoft Edgeで行っている人は、以下の方法を試してください。
https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/081100/cacheclear_d/fil/cacheclear.pdf
Windows対応はとっくにうち捨てて、スマホ・タブレット対応に特化していったのが「えあ草子」だと思っていたけど、今回のWindows対応版、すごく綺麗ですね。人間像ライブラリーが若返った。


 
▼ 中断  
  あらや   ..2024/02/05(月) 17:34  No.1061
  一月最後の一週間ばかり、「人間像ライブラリー」作業が中断してしまって結構苦しかった。作業部屋にいると、これで私の図書館人生も終わりか…とか、また一からやり直しか…とか、イヤな妄想ばかりしてしまう。窓の外は暴風雪だし。
で、部屋に長時間いない方向であれこれ溜まっていた仕事をすることにしました。ひとつ目が昔のプロレス本や手塚治虫本の処分。今度こそ、何円になるのかわからないけれど全部売り払ってしまおうと決心しましたね。もう私には残された時間がない。
ふたつ目が国立国会図書館の利用者登録。これをすると、デジタルコレクションの個人送信サービスで「送信サービスで閲覧可能」の図書も読めるようになる。大抵のデジタルコレクションは「ログインなしで閲覧可能」なのですが、時々「送信サービスで…」本があるのですね。今までは、そんな時は市立小樽図書館に行くか(図書館間なら閲覧できる)とうっちゃっていたのだけど、こんな時こそ、面倒な登録手続きなのじゃないかと思いついたのでした。

 
▼ 木賃宿  
  あらや   ..2024/02/05(月) 17:40  No.1062
   私たちは――祖父と、私と、――は、四五年前まで、この町外れで、貧しい木賃宿を営てゐた。この人は、その宿の、長い止宿人であつた。
(沼田流人「鑄掛師と見張番」)

 この乞食坊主が、或時同宿の靴修繕帥と、誰もゐない二階の客室で喧嘩をおつ始めた。でどんなことが原因で、それが擡がつたものか、誰も知らなかつた。
『蟇蛙奴!』
 全く、その靴屋はそれのやうな佝瘻の、倭さい躯をした痘面の男であつた。その蟇蛙は、勇敢に喚き立てた。
『何だと、やせ衰けた蝙蝠奴!』
『靴の底を噛つて生きてあがつて……』
『やましもの……。糞たれ坊主……』
(沼田流人「銅貨」)

おお、靴修繕帥(くつなをし)!
『三人の乞食』一篇では気づかなかったことだけど、この、沼田流人にとっての小説書き始めの時代に、流人は「木賃宿もの」とでも云えばいいのか、祖父と私の木賃宿を通り過ぎた様々な乞食たちの人生を集中的に描いているわけですね。そして、それは大正十二年の『血の呻き』までまっすぐ繋がっているように感じます。ある種、『血の呻き』は作家初期の流人にとってのピークだったのでしょう。その二年後に小樽新聞に発表されることになる『キセル先生』を今読むと、なにか、あまりにも飄々としていて「抜け殻」みたいなものさえ感じます。

 
▼ 左手  
  あらや   ..2024/02/05(月) 17:43  No.1063
   夜になれば、彼は魘はれたものゝやうに、不気味な譫言を言った。
 幾度も幾度も繰返して、その事件が語られた。水車の小屋の歯車の歯と歯とに喰破られて、血みどろになつて死んだ女のことが……。
(沼田流人「鑄掛師と見張番」)

流人の左手を連想しないではいられない。猫の死骸を素手で持って草むらで弔ったという『父・流人の思い出』の逸話など、流人の身体感覚って、常人とはかなり異なっているように思います。それがフルに駆使されたのが『血の呻き』なのではないでしょうか。同じタコ部屋でも小林多喜二の暴力描写とはかなり違う。

 
▼ 大正十年(一九二〇年)  
  あらや   ..2024/02/05(月) 17:47  No.1064
  『鑄掛師と見張番』の最後には「一九二〇、一〇、一四夜北海道のクチアン町にて」というクレジットが書かれてます。「北海道の」という言葉には、なにか「東京」の人たちに向けた挨拶と取れないこともない。(「函館」の人にだったら「北海道の」は不要ですから…)
『銅貨』、『鑄掛師と見張番』、『三人の乞食』とも大正十年の発表。大正十年は沼田一家が木賃宿を廃業して孝運寺に入った年です。仁兵衛には寺男、ハルイには庫裏の仕事がありますが、僧侶でもない沼田一郎(流人)には特に孝運寺における仕事というものは見当たらない。『このはずくの旅路』では大栄との確執によって倶知安八幡神社に移って行く様子がドラマチックに描かれていますが、実際のところは孝運寺に移って来たその日から沼田一郎には片腕の自分でもできる仕事を探す必然があったのだろうと私は考えています。東倶知安線の開通によって木賃宿の収入がなくなった大正九年あたりから八幡神社に職を得る大正十一年にかけて、流人が「東京」を考えなかったはずはないと思うのですが。

 
▼ 月刊おたる  
  あらや   ..2024/02/05(月) 17:50  No.1065
  国立国会のデジタルコレクション利用で便利になったのは、こんなところ。

ぬけぬけと入り来て小銭呉れろと言う乞食には同情の余地もなけれど
才能にめぐまれぬ我ら寄り合えば話はゴシツプに傾く
サラリーの為に働く教員となりさがりても生きねばならぬか
年ごとにずるくなりゆく自意識が今日も一日我を離れず
(「歌と観照」第22巻第3号)

明治大正の書籍デジタル化なんだろうとのんびり構えていたら、もう針山和美氏の時代まで来ていたんですね。「文章倶楽部」や「文学集団」がデジタルで読めるのには本当に感動した。大森作品の仕事が終わったら「人間像」作業に戻ろうと考えていたのだけど、「えあ草子」事件でちょっと予定が変わりました。「月刊おたる」調査を先に行ってしまおうと思います。もちろんこれも、国立国会でデジタル化していないことを確認した上で、それなら…と動くわけで、ずいぶん調べ物の世界も変わったもんですね。


▼ このはずくの旅路4   [RES]
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:22  No.1049
   孝運がランプ生活を苦にしていた形跡は見られない。が、次に起った東倶知安線の建設では、寺の歴史に残るほどの影響を受けた。この鉄道は、東倶知安村(京極町)の三井鉱山ワッカタサップ鉄山と函館本線倶知安駅を結ぶ全長十三・四キロの軽便鉄道である。第一次世界大戦によって需要が急増した鉄鉱石をワッカタサップ鉄山から倶知安経由で室蘭の輪西製鉄所(大正六年二月北海道製鉄と改称)へ輸送する目的で敷設されたのだった。
 このこと自体は孝運寺とあまり関係がないのだが、大正五年に着工が本決りとなり、六年五月から用地買収が始まる段階で、この鉄道が孝運寺の参道を横断して本堂の目の前を通ることを知らされて、孝運はあわてた。当時の孝運寺には前庭と呼べるほどの広場がなく、参道が本堂から真っ直ぐに基線道路まで延びていた。その本堂の約二十メートル前を汽車が走るとなると、騒音や煤煙の被害が大きく、踏切を渡って出入りする参詣者への危険度も大きい。孝運は、寺の裏を迂回して敷設するように鉄道院北海道建設事務所へ申し入れたが、地形的に無理という理由で認められず、用地買収に応ずるしかなかった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/1 東倶知安線)

今回の『このはずくの旅路』復刻、いちばんの目的は、『血の呻き』を書いている流人の姿を浮かび上がらせたいということです。その意味で、『血の呻き』の発火点ともいえる東倶知安線工事が始まった。


 
▼ 仁兵衛一家  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:25  No.1050
   京極線(東倶知安線)の六郷駅は、六号線市街の西寄り、孝運寺からでは直線二百メートルほど西側に開設された。六郷とは六号線の里を指すものと思われるが、以来、六号線市街は六郷市街と呼ばれるようになる。
 この駅の開業によって地元や近隣農村部は、交通、物資輸送の面から多大の恩恵を受けた。が、孝運寺にとっては必ずしも朗報とはいえなかった。前述のとおり線路が寺の目の前を通ることになったからだが、それだけではない。沼田仁兵衛が六郷市街(今出家の土地)で営んでいた木賃宿が新駅の開業によって宿泊客が激減したため廃業に追い込まれてしまったのだ。そして、その窮状を見るに見兼ねたのが沼田家とは隣同士の旅家タカだった。京極線開通の翌年(大正九年)雪解けごろのことである。
「どうやろ? 沼田一家を寺で引き受けてもらえんやろか。仁兵衛さんは歳だし、イッちゃはあのとおり片手がないから一家を支えるだけの働きができんでしょう。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

『三人の乞食』を目にした松崎天民はさぞ驚いたことだろう。木賃宿をルポルタージュするしか手段がない天民の前に、その木賃宿を今生きているもの書きが現れたのだから。

 
▼ 松本シン  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:28  No.1051
   〈……結婚の相手は余市町で澱粉製造業を営む松本三郎様の次女シンさんで、年齢は大栄とは四つ違いの二十一歳です。昨年秋に大栄は同町永全寺の成道会へお手伝いに行っておりますが、その折、会食の接待をつとめられたシンさんの姿が目にとまったらしく、結婚したい旨私に相談がありましたので、愚童とも話し合って先方に打診しておりましたところ、この度、快諾が得られました。本来ならば、事前に父上の御承諾を受けるべき事ですが、先日まで決まるかどうかわからなかったので、私どもで勝手に進めさせていただきました。悪からずお許し下さい。
 それにつきましてお願いがあります。この際、大栄を父上の許にお返しして、孝運寺にて花嫁を迎えるのが本筋と思われますので、本人の意志を確めてみましたところ、大栄も父上の御許しがあれば帰山して、父上の手助けをしたいと申しております。突然のことで驚きのことと拝察致しますが、父上も老齢であり、昨年のお盆のこともありますから、まげて私ども姉弟の願いを御聞き届けいただきたく、よろしくお願い申し上げます。今後のこと万端はいずれ参上致して御相談させていただきますが、まずは一筆まで。早々頓首〉
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

なぜ、大栄。

 
▼ 大栄夫婦  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:30  No.1052
   仮祝言の翌日、タカやヒサシとともに四年ぶりに帰山した息子の顔を見て、孝運もまた唖然とさせられた。鼻の下に泥鰌ひげをたくわえた禅僧などかつて一度も目にしたことがなかったからだ。縁なしの伊達眼鏡もどこかの商家のにやけた若旦那のようで気に入らなかった。久闊の挨拶を述べる大栄の態度は神妙だったし、いかにも初々しい新妻が傍に寄り添っているので、面と向って罵声を浴びせるわけにはいかなかったが、内心は苦虫を噛みつぶしたような気分だった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

なぜ、大栄。

 
▼ 写経  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:32  No.1053
   彼は一計を案じて、盂蘭盆が過ぎた九月初めのある日、まず大栄を方丈間に呼んでこう告げた。
「お前は役僧としてはもう一人前だが、悪筆が玉に疵だ。将来、住職になったときはそれでは務まらぬ。今月から毎週二回、月曜と木曜の午後に新座敷で一郎と一緒に写経をしろ」
 新座敷というのは、大栄夫婦のために新築した八畳二間だ。二人が庫裏に腰を据えて動こうとしないので、客殿として使用していたのである。
「イッちゃも一緒に?」
 案の定、大栄が怪訝な顔をしたので、押し返すように答えた。
「一郎もあの体では労働はできぬ、寺には過去帳とか、事務文書とか、正月の御札とか、いろいろあるから、当分は祐筆の仕事をやらせようと思うので、写経で毛筆を練習させたいのだ」
 ついで一郎を呼び付けてこう告げた。
「大栄と一緒に写経をやってくれぬか。大栄はあのとおり悪筆だが、いくらいっても一人では練習しない。お前が一緒だとやる気を起すかも知れんから付き合ってやってくれ。お前も寺の飯を食っているんだから般若心経ぐらい覚えるのも無駄ではあるまい」
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

沼田流人の後半生を決定づける〈書〉がここに芽生える。

 
▼ 舉一明三  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:35  No.1054
   孝運が一郎に得度の話を持ち出したのは翌十年正月のことである。
「お前は手筋がいいから将来はその才能を生活にいかせるかも知れない。といっても、おいそれとは実現するまい。当分はこの寺で書き物を手伝ってくれ。今は大して謝礼も出せないけれど、そのうちに書道塾を開けるようにしてやってもいい。ついては、寺の仕事をやるには得度を受けておいた方が何かと好都合だと思うが、どうだろう。もちろん、お前の体では僧堂で修行するのは無理だから和尚となって一寺の住職になるのはむずかしいだろうが、得度して僧籍を持っても損になるわけではない。仁兵衛ともよく相談して返事をくれ」
 (中略)
 得度すれば一郎は大栄の弟弟子ということになる。兄弟子に隠しておくわけにいかないので、その夜、大栄に一郎を弟子にする理由を簡単に伝えると、一瞬顔色を変えて、「イッちゃには務まらないと思うけれど、方丈さんが決めたのなら、わたしに文句はありませんよ」とちょっと投げ遣りな口調で答えた。
 孝運はやむを得ないと割り切って、二月四日(金曜日)に自ら授業師を務めて本堂で一郎の得度式を行った。二番弟子舉一明三(きょいつみょうざん)の誕生である。このとき孝運は七十八歳、明三は二十一歳であった。一郎改め明三は、間もなく曹洞宗宗務庁の僧籍簿に登録され、戸籍上も明三と改名された。戸籍名の変更はさまざまな規制があり、現在でも簡単ではないが、僧籍を取得した場合はほとんど無条件で認められている。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/2 二人の弟子)

 
▼ 沼田流人  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:39  No.1055
   流人が最初から決めていたのか、出版者の意向でそうなったのかはわからないが、このときの長篇小説は「血の呻き」というタイトルであった。彼はたいへんな意欲をもってこの執筆に取り組んだに違いない。が、不幸なことに、当時の孝運寺の環境は、彼がそれに没頭するための条件としては、必ずしも恵まれたものではなかった。
「三人の乞食」のような短篇ならともかく、長篇小説、それも沢山の資料や取材メモなどを手許に置く必要のある「血の呻き」の場合は、住職孝運や兄弟子大栄の目を盗んでこっそりと執筆する、というわけにはいかない。沼田家の住居は一応別棟になっていたものの、本堂、方丈間、庫裏とは廊下で繋がっていたし、両家の家族は三度の食事を庫裏の居間で一緒にとっていたから、流人が新たな構想でタコ部屋を扱った小説を書いていることは、たちまち孝運や大栄に知られてしまった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

十年前、この『このはずくの旅路』を書いている大森光章氏も、読んでいる私も、『沼田流人伝』の「出版されなかった」説を前提に生きていたことをどうか忘れないでほしい。私はこの復刻が終わったら、最終的な『沼田流人伝』批判を考えています。
もしかしたら私の最後の書きものになるかもしれない。この人間像ライブラリーで〈沼田流人〉を始めたあたりから、妙に私が今まで書いた文章が鬱陶しくなって来ている。もう、優れた作品を死ぬまでライブラリー化する毎日でいいんじゃないか。

 
▼ 或る女  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:42  No.1056
   「イッちゃの本だな」
「そうよ」
「ちょっと見せろ」
 取りあげてみると、『或る女』という小説本だった。二分冊になっているらしく、すぐ近くにもう一冊、続編が置かれていた。
 大栄はその本の内容も、著者有島武郎の名前も知らなかったが、自分が寺役に出ている留守中に、恋女房と新米の弟弟子明三が仲むつまじく語り合っている場面が瞼に浮かび、烈しい嫉妬心に駆られた。
 彼は『或る女』二冊を奪い取ると、廊下伝いに沼田家の住居に駆け込み、明三にそれを突き返して、「イッちゃが小説を書くのは勝手だ。しかし、こんな怪しげな本をシンに貸すのはやめてくれ」と一重瞼を三角にして抗議した。
 彼が自分の早とちりに気付いたのは、怪訝そうな面持で本を受け取った明三から、「シンさんに貸した覚えはないよ。これは二冊ともヒサちゃんに貸したんだよ」と反撃されたときだ。そういえばシンは、イッちゃから借りた、とは一言もいっていない。しまった、と思ったがすでに遅かった。引っ込みがつかないまま、「とにかく、シンには文学なんか教え込まんでくれ」といって退去したが、このとき以来、小説家志望の弟弟子の存在が目障りになりだしたのだった。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

 
▼ 侍者擧一明三謹書  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:46  No.1057
   理解できない部分が多かった。開教者(孝運)の経歴も明治維新当時の仏教史に暗い彼にはちんぷんかんぷんのところが少なくなかったが、最後に「室中人法明峰下二十七代目ニ当ル」とあるのに注目した。
 曹洞宗では、宗祖道元(永平寺開山)を高祖、宗勢拡大の礎を築いた瑩山(総持寺開山)を太祖と呼んでいるが、明峰(素哲)は太祖瑩山の法嗣四哲の一人で、明峰派の創始者である。そんな知識のない大栄だったが、「二十七代目ニ当ル」の文言を読んで反射的に、するとおれは二十八代目だな、と思った。が、さらに読み進み、沿革の最後に「侍者擧一明三謹書」と記されるのを目にして、思わず息を飲んだ。二十八代目はおれではなく、イッちゃかも知れない、という想いが、閃光のように脳裏をかすめたからだ。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

 
▼ 訣別  
  あらや   ..2024/01/05(金) 17:49  No.1058
   「オドっちゃやハルイには悪いけど、イッちゃとは幼友達だから単刀直入にいわせてもらうよ。なるべく早く勤め口を探してここを出てもらえないだろうか。この寺は檀家も少ないし、大した金持もいないから暮し向きは楽ではない。方丈がお前にどんな約束をしているか知らんけど、寺役もまともに務められないお前を、いつまでも面倒みている余裕はないんだよ、イッちゃだって本気で坊主になるつもりはないんだろう。ヒサシの話じゃお前は小説家になりたいらしいが、それならばなおのこと、経済的にも独立して、自力でその夢を実現させるべきじゃないのかね。将来のことを考えるなら、その方がイッちゃのためになるんじゃないかな……」
 素直に受け入れてもらえるかどうか自信はなかった。孝運の意見を訊いてから、といわれる可能性もあったし、その場合は、頑固で偏屈な師の怒りを買い、明三と自分との立場が逆転しかねなかった。いちかばちかの思いで一気にしゃべったのだが、終始、無表情に耳を傾けていた明三の反応は、意外にも、「オドっちゃと姉も一緒に出て行けということかい」と訊き返しただけだった。
「とんでもない。二人にはずっといてほしい。そんな心配はしなくてもいいよ」
「わかった。今日、明日といわれても困るけれど、一、二ヵ月のうちにおれは出て行くよ」
「そうか。悪いな」
「気にせんでいいさ。いつかはこんな日がくるとは覚悟していたんだ。オドっちゃたちのことはよろしく頼むよ」
「それは約束する。しかし、ほっとしたよ。方丈に話を持ち込まれたらどうしようかと、実は内心はらはらしていたんだ」
「方丈さんには勤め先が決まってから話をするよ。方丈さんも安心するだろう。こんなおれを弟子にして、心の中では後悔しているに違いないからな……」
 明三はどこかさばさばした表情で薄く笑った。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/3 訣別)

 
▼ 今出孝運  
  あらや   ..2024/01/09(火) 17:40  No.1059
   一人一冊、渋紙の表紙の本を受け取って本堂を出て行く子供らの長い行列を見送っていた孝運が不意に、「わしは旅に出る」とつぶやいたのはそのときであった。付き添っていたヒサシとタカがわが耳を疑ったのはいうまでもない。
「旅に出るって? その体でどこへ行くがですか」
 タカが思わず知らず富山弁で質すと、孝運は一瞬はっとした表情になり、しばらく、どこか侘しげなまなざしで十一歳年下の義姉の目を見据えていたが、「いや、今日、明日というわけではないですちゃ」と仙台弁で答えた。
(このはずくの旅路/第九章 旅路のはて/3 何處へ)

「こうなってみると、旅行中でなくてよかったわね。旅先で死なれたりしたら、ヒサちゃん、あんたたいへんだったよ」
「ほんとだ。思っただけでもぞっとするわ」
「それにしても、隠居さん、どこへ行くつもりだったのかね?」
(同章)

第九章についても別スレッドを立てて書いてみようとはしていたのだが、「2 幻の処女出版」の章に来るといつもゲンナリしてしまう。やる気が失せる。『沼田流人伝』を参考にして書かれているこの章は悲惨だ。私はこの章を削り取ってしまいたい。削り取って、物語の最後は〈旅に出る〉孝運のこのエピソードで終わればそれでよかったのだ。


▼ このはずくの旅路3   [RES]
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:15  No.1041
   仙台の曹洞宗第二中学林から孝運あてに一通の文書が届いたのは、それらのことが一段落した四月下旬のある日だった。開封して中味を見て、孝運は呆然となった。それは〈大栄が第一学年の課程を落第し、留年手続きも取らなかったため、四月十九日付で退学処分にした〉という通知書だった。そればかりか、〈御子息大栄殿が当林寄宿舎で使用していた所持品は舎内で御預りしているので可及的速やかに御引取りいただきたく……〉という添書まで付いていたのである。
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/3 弟子の行方)

〈父上様、母上様。御心配、御迷惑をおかけして申し訳ありません。夏休み以来、自分なりにいろいろ考えてみましたが、僕は僧侶には向かないと思いますので、学林をやめることにしました。二、三年、東京で自分の今後の生き方を探してみるつもりです。将来の見通しが立ちましたら手紙を書きますから、僕を探さないで下さい。くれぐれもよろしくお願い致します。大正二年三月二十二日。大栄拝〉
(同章)

イッちゃ(沼田一郎)の事故から四日後、仙台の曹洞宗第二中学林に戻った大栄。平常を装う心の底で、なにか得体の知れないものが蠢いていたようだ。


 
▼ 青木莫秀  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:17  No.1042
   大栄はそのころ、東京の繁華街浅草で役者修業をしていた。
 彼は初めから上京を望んでいたわけでも、役者になろうと志していたわけでもなかった。沼田一郎の事故があった大正元年(一九一二)十二月、曹洞宗第二中学林一学年の二学期を終えた大栄は、帰省列車の乗車券を購入すべく仙台駅へ行き、そこで偶然にある人物に出会った。彼が得度した明治四十一年(一九〇八)の夏、二ヵ月ほど孝運寺に滞在して天井画を描いた旅の絵師青木莫秀であった。
 先に気付いたのは大栄の方である。ふだんは外出先で友人に出会っても知らぬ顔で通り過ぎる大栄だが、このときはなぜか、四年ぶりに会った莫秀に自分から声をかけている。そして奇遇を喜ぶ莫秀から「おれは明日、東京へ帰るんだが、よかったら一緒に上京しないか。冬の北海道へ戻っても面白いことはあるまい」と誘われて、不意にその気になった。東京見物をしたかったというよりも、夏休みに一郎の事故のことで父親から厳しく叱責されて、正月の帰省がなんとなく重荷に感じられていたからだ。
 一郎の事故があった日、木工場での自分の軽率な行動を厳しく咎め立てる父親の顔を見詰めながら、「おれはやはりこの人の実子ではないんだな」という疑念に彼は囚われていた。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/1 浅草宮戸座)

 
▼ 浅草宮戸座  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:21  No.1043
   予期せぬ電報を受け取った親元孝運寺では、当然ながら突風に襲われたような騒ぎとなった。丸二年間も行方不明だった息子の消息を知らせる第一報が〈ビョウキオイデコウ〉である。大栄が東京浅草の青木莫秀宅にいることはわかったものの、その二年間何をしていたのか、病気がいかなる状況なのか、詳細はまったく不明なので、孝運とユキとの反応に違いが起った。
「あの絵描きの弟子になっているんだろう。もう坊主になる気はないに違いないから、死のうと生きようと放っておけ」
 すでに大栄破門の腹を決めていた孝運は、消息がわかって安堵した内心とは裏腹に冷たい態度をあらわにした。が、この二年間、寝ても覚めても心配し、一年前から高血圧の症状に悩まされているユキは、対照的な反応を見せた。
「何をいうがですか。取り返しのつかんことになったらどうします。わたしは行きますよ。あんたさんがなんといおうと東京へ行って大栄を連れ戻してきますからね」と夫に食ってかかり、ただちに旅支度を始めたのだった。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/2 最後の賭)

浅草宮戸座ということで、「人間像」の千田三四郎「乾咲次郎もの」と比較してみますと、この大正2年の時点で、大栄は18歳、乾咲次郎40歳でした。東京などの都会では、明治の壮士芝居はとっくに廃れ、松井須磨子の「芸術座」旗揚げなど新しい時代が花開いています。自ら「最後の壮士芝居役者」と公言して憚らない咲次郎は地方で一座を旗揚げしては解散を繰り返し、最後は中国大陸の大連まで流れ流れて行くわけですが、それはまた、壮士芝居終焉の姿でもありました。

 
▼ ユキからトミにあてた手紙  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:23  No.1044
   私はどうしても大栄に孝運寺を継いでほしいのです。方丈さんは、坊様はお釈迦様の弟子で、お釈迦様に代って世間の人々に仏の道を教えるのが使命だから、修行をやる気のない者は坊様になる資格はない。大栄を弟子にしたのは間違いだっちゃなどと言い張っておりますが、私は何がなんでも大栄に孝運寺の後を継がせたいのです。孝運寺を今のような寺にするためには、私なりの苦労がありました。子供たちには詳しいことはいっておりませんけれど、あの寺は方丈さんだけのものではありません。私にとっても二十数年間に流した汗と涙の結晶なのです。
 方丈さんは今年七十二歳です。いつ何時御迎えがくるかも知れません。もし方丈さんに万一のことが起ったとき、後継ぎがおらなければ、他人が孝運寺を継ぐことになり、私は行き場を失います。寺から追い出されるに違いありません。そのことを考えると、方丈さんのように、寺はお釈迦様の教えを説く所で、個人の持ち物ではないなどと呑気なことは言っておれませんし、あれだけ苦労してつくった孝運寺を他人に渡すのは無念で仕方ありません。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/2 最後の賭)

長女トミは明治44年に松前・花遊山龍雲院の近藤愚童と結婚。その後、愚童が小樽・龍徳寺の五世住職となるにつれて、その孝運寺に対する影響力は格段に大きなものとなって行く。

 
▼ 今出大栄  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:26  No.1045
   大栄の勤行は三年間の不在を感じさせなかった。経典の文句はもとより、礼拝や鏧、太鼓などの作法も忘れていなかった。孝運は感心して三日後にある檀家の年忌法要に同伴してみると、得度のころから大栄を知っている老女は、「まあ、立派な若様になられて。これでお住っさんも一安心でやんすね」といって歓待した。孝運やユキが事実を隠していたので、ほとんどの檀徒は大栄が大本山へ修行に行っていると思い込んでいたのである。実際、仏壇前の大栄の立ち居ふるまいを見ていると、灯明、線香、経本の扱い方から、礼拝の手順、鈴の打ち方、経文、回向文の読み方まで作法どおりで、堂々としている。
 この分では、たとえ大栄が東京で役者をやっていたという噂が立っても、それを信じる檀徒は少ないかも知れない、と孝運はようやく安堵した。
 が、その安堵感は一週間も経たないうちに揺ぎ出す。
 昼間は見事な修行僧ぶりを演じているものの、夜になると大栄は、居間の炉端に陣取り、ユキやヒサシを相手に東京での役者体験を面白おかしく語り、二人を笑わせているのである。ユキは方丈間の孝運に知れるのでは? とはらはらしたが、大栄の気分をそこねるのを怖れて注意できなかった。大栄は調子にのって、帰郷を知って訪ねてくる幼友達にも平気で、東京みやげ≠しゃべり、浅草の盛り場で写した自分の写真を見せびらかしたりしている。何種類かの洋服を着た早撮り写真である。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/2 最後の賭)

何も変わってはいなかった大栄は、即刻、小樽・龍徳寺に預けられ、さらに愚童の指図で広島県尾道市天寧寺の修行に飛ばされる。

 
▼ 今出ユキ  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:29  No.1046
   突然、養蚕を思い立った動機には、母親としてのそんな夢が潜んでいたのであるが、彼女のその夢はついに実現しなかった。桑畑づくりに着手して二ヵ月後の六月中旬のある朝、台所でヒサシと一緒に食事の支度をしている最中、ユキは不意に烈しい頭痛をともなう発作に襲われて倒れ、六日間意識を失ったまま眠り続けた末、同月十九日(月曜日)午前六時三十五分にこの世を去ったのである。享年五十九歳であった。
 病名は脳溢血(脳出血)であるが、現在のように点滴で栄養を体内に送り込む治療法はなかったから、実質的に餓死ということになる。この間、枕元に集まった身内の間で、尾道へ電報を打つかどうか、何度か意見の対立があった。長女トミや姉の旅家タカが知らせるべきだと強く主張したのに対し、師の孝運は、「出家とは肉親と縁を切るということだ。修行を中断させるわけにはいかない」と承知しなかったからだ。
「孝運さん、あなたも血の通った人間でやんしょう。出家道とかなんとかごちゃごちゃいわずに大栄を呼んでやったらどないですか。ユキはここの誰よりも大栄に会いたいと思ってるに違いないがですよ」
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/3 妻の死)

 
▼ 沼田家  
  あらや   ..2024/01/04(木) 10:32  No.1047
   畑づくりの要領は、境内の一部を利用して野菜を作っているので心得ているが、荒地の大部分は湿地帯だったので、囲りに溝を掘って土中の水分を抜く必要があった。他人に頼めば経費がかかるので、ユキは旅家家の裏隣で木賃宿を営んでいる沼田仁兵衛に手伝ってもらって、自分でその作業をやることにした。
 木賃宿は養子のハルイと一郎が手伝ってくれるので、仁兵衛はふだんから週に一回ほど、地主である孝運寺の雑役を引き受けていた。この年、ハルイは二十一歳で、宿の切盛りを任せられたし、十九歳の一郎は、四年前の森木工場での事故で左手を失って重労働はできなかったので、小学校高等科卒業後も養父の宿を手伝っていたのである。
(このはずくの旅路/第七章 沈黙の相/3 妻の死)

 三日後の午前、毎日往診に訪れる横尾医師から、ここ二、三日が山場だろう、と知らされたトミは、沼田一郎に頼んで小樽の龍徳寺で待機している夫へ打電した。その日の夕方到着した愚童は、妻から頼まれて、尾道へ知らせるように孝運を説得し、一郎を郵便局へ走らせた。が、大栄は結局、母親の臨終には間に合わなかった。
(同章)

「妻の死」の章には、沼田家と今出家の関係性をしのばせる記述が出て来て興味深い。

 
▼ 今出大栄  
  あらや   ..2024/01/05(金) 09:54  No.1048
   法要がすんで孝運が退座し、参列者たちが席を立とうとしたときである。まだ座ったままだった大栄がいきなり内陣の遺骨に向かって、「母さん、おれをひとり残してどうして死んだんだ。おれは母さんのために頑張っていたのに……」と激しく鳴咽し、居並ぶ一同をびっくりさせた。気色ばんだ姉トミから、「悲しいのはあんただけじゃないよ。坊さんのくせにしっかりなさい」と叱咤されて黙ったものの、むせび泣きはしばらく収まらなかった。
「母さんが猫可愛がりでしたから無理もないんですけどね」
 その場の様子を聞かせたトミは弟に同情するような言い方をしたが、孝運は頷けなかった。あいつはまだまだ修行が足りぬ。兵隊検査が終ったらすぐに尾道へ追い返そう、と腹を決めた。
 だが、七月二日の徴兵検査がすんだ後も大栄は旅支度をしようとはせず、妹ヒサシが旅費を差し出すと、「もう天寧寺には戻らないからいいよ」といって受け取らなかった。ヒサシから報告を受けた孝運が本人を呼んで真意を質すと、「僧堂の修行は大して意味があると思えないんです。法要や葬式の作法なら家にいたって覚えられますし、もうほとんどマスターしました」と平然と英語を用いていってのけたのである。
(このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/1 東倶知安線)

この罰当りめ、と憤る心を抑えて諄々といい聞かせる孝運に、その場では反抗的態度を見せなかった大栄だが、翌日、孝運の隙をみて、「ちょっと姉さんに相談してくる」と言って小樽へ逃げてしまった。じつにそれから四年間、大栄は一度も孝運寺へ顔を見せなかったのであった。


▼ このはずくの旅路2   [RES]
  あらや   ..2024/01/01(月) 12:06  No.1033
   三十九年の春を迎えて参禅会を再開したものの、初回も二回目も参加者はいなかった。本堂でひとりで、坐禅を行っていると庫裏の方から聞えてくる子供らの騒いでいる声や、それを叱っているユキの声が耳について気分が散る。呼吸を止めたり、心の中で経文をとなえたりしても、容易に雑念は消えず、遊びに興じている子供らの姿が瞼にちらつくのである。
 事実、この二年間に庫裏には子供らの数が増えていた。長女トミはその春から岩内女子小学校高等科に転校し、岩内の檀徒の家に下宿して通学していたので、孝運寺にはいなかったのだが、前年春から倶知安高等小学校に通学している旅家家の末娘スエは相変らず日曜日には母タカについて寺を訪れていた。この年、三号線の第一尋常小学校へ通っていたのは長男恒栄(四年)と次女ヒサシ(三年)であるが、数年前から倶知安に居住して今出家の敷地内で木賃宿を営んでいた沼田仁兵衛の養子ハルイ(四年)と一郎(二年)が恒栄兄妹と一緒に通学していたので、当時、日曜日の庫裏はこの子供らの遊び場と化していたのである。
(このはずくの旅路/第五章 絆と柵/2 戸籍族)

第五章から沼田一郎(後の流人)が登場。沼田流人の生涯を考える時、ここに出てくる「トミ」「恒栄」「ヒサシ」「スエ」「ハルイ」「一郎」(そして「ひろせ」)という名はすべて重要なのだということを大森光章『このはずくの旅路』を読んで初めて知りました。それを、この尋常小学校の時代から描いてくれる大森氏の仕事には頭が下がります。


 
▼ クニとひろせ  
  あらや   ..2024/01/01(月) 12:09  No.1034
   思えばクニとは不思議な因縁で結ばれてきた。肉親といっても母が違うし、五歳で生地瀬上宿を追われ、六歳で出家させられた彼には、明治五年に戸籍法が施行されてクニが彼の戸籍に入り、今出姓を名乗った後も、姉に対して肉親の情を実感したことはなかった。その意味ではクニは彼にとって戸籍上の家族でしかなかったのだが、彼女が田中仙隆と結婚(内縁)したことから交流が深まり、彼が北海道へ渡った後までさんざん迷惑をかけることになる。そうした過去の出来事がつぎつぎと思い出されて、今回の養子問題で多少でも姉の役に立てたことが、素直にうれしかったのだった。
 だから、姉の養女に決まった下山ひろせを翌年、自分の養女として入籍しなければならない仕儀になろうなどとは、このときは夢想だにしていなかった。
(このはずくの旅路/第五章 絆と柵/2 戸籍族)

家族ではなくて、戸籍族。今出姓のもとに集まった名前の異様さに改めて驚く。

 
▼ 今出ひろせ  
  あらや   ..2024/01/01(月) 12:12  No.1035
   仲よしのトミとひろせは、朝の本堂の拭き掃除をすませたあとも、孝運のおつとめが終るまで本堂から去ろうとしなかった。毎日ではないのだが、ユキから台所の用事を命じられない限り、参詣席に正座して合掌していた。
 そのうちに孝運は、自分の読経に合わせてひろせが小声で般若心経を唱えているのに気付いた。どこで覚えたのか訊いてみると、「お師匠さんがよくお仏壇であげていたので、自然に覚えたのす」という返事だった。姉が読経しているのを見かけたことがなかったので、ちょっと意外に感じたが、ひろせが寺の養女になることを躊躇いもなく承知した背景には、そんな姉との暮しがあったのか、とようやく納得した。
 すると間もなく、トミがひろせと一緒に心経を唱えるようになった。そればかりか、修行中断以来、まったく経文に興味を示さなかった恒栄までが、夏休みに入って間もなく朝のおつとめに加わり、経典を手に心経を唱えるようになったのである。
(このはずくの旅路/第五章 絆と柵/3 初弟子)

〈研究〉で「ひろせ」のような存在を捉えることはほぼ不可能に感じる。〈小説〉という形式だったからこそ描きうる世界であり真相ではないか。そして、大森氏のこの仕事があったからこそ、佐藤瑜璃の〈思い出〉が生きてくる。〈思い出〉に描かれた流人像は相当に正確なものだ。

 
▼ ユキと大栄  
  あらや   ..2024/01/02(火) 18:26  No.1036
   妻から突然、「ひろせを親元へ帰してほしい」といわれて、またか、と孝運は内心むかっとした。以前、大栄とひろせが駅前大火の現場へ行ったとか、亜麻会社を見に行ったとかで、ユキから、「ひろせが大栄を引っ張り出しているようだから、注意してほしい」と要望されたことがあったが、孝運は取り合わなかった。ひろせを不良少女のように思っているらしいユキの口ぶりに腹が立ったからである。
「ひろせはよくやっている。大栄が得度を受けたのも、ひろせのおかげではないか。ふだん女中代りに使ってるくせに、一度や二度羽を伸ばしたからといって、文句をいうな」
 夫が不意に怒り出したので、ユキは黙ってしまい、以来、ひろせへの批判は一言もいわなくなった。それで孝運は今回も、またか、と苦々しく思ったのだが、このときはユキは引き下がらなかった。前年十月の競馬見物の一件や、今回の尻別川転落事件は、ひろせが大栄を誘い出したために起きたものだと主張し、「大栄の身に何かあったらどうしますか。ひろせをこのまま家へ置くのは考えものですちゃ」と力説した。
「何かあったらとはどういうことだ。あの二人の仲を疑ってるのか」
「そうはいってませんよ。いまのところ、そんな気配はないけれど、この先のことを心配しているがです。姉弟といってもあの子たち、実際は赤の他人なんですからね」
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/1 養女離縁)

この「亀裂」の章は、意図的に、ひろせと大栄の動きに焦点を絞って引用を続けています。たぶん、それが、沼田一郎の左腕を説明するために最も重要だと私は考えるから。

 
▼ ひろせと大栄  
  あらや   ..2024/01/02(火) 18:29  No.1037
   学校から帰宅した大栄は、ひろせが姿を消したのに気付いて騒ぎ立てたが、ユキから「急に裁縫塾に通うことが決まったんだよ。お盆には帰ってくるから我慢しなさい」と慰められてしぶしぶ納得した。
 しかし、ひろせが二度と孝運寺に戻ってくることはなかった。一ヵ月後の七月中旬、彼女は無断で坂本家から姿を消したのである。孝運とユキがその事実を知ったのは、十日ほど経ってからだった。ひろせが倶知安村へ帰ったものと推量した坂本家が、いずれ孝運から連絡があるものと考えて、ひろせの家出を通知しなかったからだ。ある日、ひろせの実父下山彦右衛門から届いた手紙で、ひろせが突然帰郷して、二度と倶知安には戻らないと言い張っていることを知らされたのである。
〈娘ひろせの話では、岩内の檀家宅へ下女に出されたとのこと、あまりの仕打ちに当方一同憤慨している。二度と娘を貴下の許に戻すつもりはないから、しかるべくご承知被下度し〉
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/1 養女離縁)

結局、ひろせは帰って来なかった。ひろせ失踪をはずみに、ユキは今まで以上にユキになり、大栄も今まで以上に大栄たる本性を露わにして来るような印象を受ける。もう止められない、隠しようがないほどに。

 
▼ 養嗣子  
  あらや   ..2024/01/02(火) 18:31  No.1038
   ところが、入学手続きをする段になって、突然、予期せぬ難題が発生して、孝運とユキをあわてさせた。入学手続きの書類には本人の戸籍抄本が必要だった。入学が決まって気分的に高揚していた大栄は、自分で村役場へ抄本を受け取りに出掛けた。そして、交付された抄本に、「明治二十九年三月一日生、岩内郡野束村二番地大森多蔵五男入籍、養嗣子」と記載されているのを見て愕然となった。それまで戸籍抄本を目にしたことがなかったので、そこに書かれている文言の意味がよく飲み込めなかったものの、自分は今出家の養子で、本当は岩内の大森多蔵という人の子らしいと直感したのである。
 頭の中が混乱したまま帰宅した彼は、事実を知らされるのが怖かったのだろう、その抄本を父親ではなく、母親に示し、「これ、どういうことなんだ?」と問い質した。驚いたのはユキも同じだった。内心、あっと叫んだに違いない。事情はわかっているものの、彼女もまた今出家の戸籍文書を一度も見たことがなかったからだ。しまった、と思ったが、すでに後の祭りだった。彼女はその紙切れを手に方丈間に駆け込んだ。
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/3 弟子の行方)

これは亀裂の決定打ではない。もっと恐ろしい亀裂の予兆にすぎない。

 
▼ 沼田一郎  
  あらや   ..2024/01/02(火) 18:36  No.1039
   十六日の盂蘭盆会が無事にすみ、仙台に戻る日が近づいたある日、大栄は沼田一郎ら小学校高等科の後輩数人と、尻別川の岸辺にある森製軸所へ遊びに出掛けた。
 その木工場は、二年前に姉(養女)ひろせを誘って見物に行き、貯木場の水中に転落した思い出の場所である。そのあと間もなくひろせが急に寺から姿を消したため、彼はそれが両親の画策によるものと疑って反抗的な態度をとったものだが、今は当時の記憶も断片的にしか浮かんでこない。後輩から「馬鉄線を見に行こう」と誘われて気楽に応じたのだが、そのとき中学林の制帽と羽織を着用して外出した。
 木工場は二年前にも増して景気がいいらしく、工場から倶知安駅まで約二キロに線路を敷き、トロッコを馬に曵かせて製品を運び出していた。その馬車鉄道を村の人たちは「馬鉄線」と呼んでいるのである。
 (中略)
 そのうち大栄は奇妙な衝動に襲われて、羽織のひもをベルトと車輪の間に投げ込んでみた。後輩たちの前で格好のいいところを見せたかったのかも知れない。車輪が半回転して、ひもがポイとはじき出される。少年たちが面白がるので、彼は得意になり、何度もそれを繰り返した。すると、傍で見ていた一郎が、突然、絣の着物の袂でそれを真似た。次の瞬間、とんでもない事故が発生していた。袂と一緒に一郎の左手がベルトと車輪の間に吸い込まれたのである。事故に気付いた工員があわてて機械を止めたが、間に合わなかった。
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/3 弟子の行方)

 
▼ 孝運と大栄  
  あらや   ..2024/01/02(火) 18:39  No.1040
   「お前は何もわかっていないし、わかろうともしないようだから、この際一言いっておく。きのうのことは、お前に責任があるとか、ないとかの問題ではない。しかし、お前が木工場で不用意にやったいたずらが、イッちゃの無分別なひとまねを誘い、それがあの子の片腕を奪ったのだ。なぜあんなことをしたのか、いまそこに気付かなければ、お前はまた同じような間違いを犯すだろう。だいたい、友達と工場見物に行くのに羽織なんか着て行く必要はないではないか。中学林の帽子もかぶっていったそうだが、おそらくお前は、中学林の服装をみんなに見せびらかしたかったのだろう。羽織のひもで機械にいたずらしたのも、根は同じだ。そんな虚飾は仏道でも厳しく戒められている。虚栄心は誰にでもあるが、仏道修行にとっては邪魔でしかない。そんなものは捨てない限り、学校でなんぼ学問をしても本物の出家にはなれん。お前はまだ自分のそんな性格に気付いていないようだから、学校へ戻るまで、夜のおつとめのあとも、ここで坐禅を組んで、自分の心の内側と真剣に向い合ってみろ。これはお前の師としてのわしの命令だ」
(このはずくの旅路/第六章 亀裂/3 弟子の行方)


▼ 迎春   [RES]
  あらや   ..2024/01/01(月) 09:55  No.1032
  .jpg / 54.5KB

画像は昨年秋に閉店した札幌駅前のデパート「エスタ」の屋上にあった國松明日香『テルミヌスの風』。今年もよろしく。



▼ このはずくの旅路1   [RES]
  あらや   ..2023/12/21(木) 11:12  No.1024
  .jpg / 37.3KB

十二月中旬より大森光章『このはずくの旅路』のデジタル復刻作業に入りました。

大森光章氏の作品については、著作権継承者の許諾を頂くべく探しているのですが、現在も継承者の方に辿り着いていません。ご存じの方がおられましたら新谷に御一報をお願いいたします。

許諾もないのに復刻を始めるのには理由があります。沼田流人についてもっと深く知りたいという思いは、今年の二月、佐藤瑜璃『父・流人の思い出』の発見をもたらしました。これによって、従来『沼田流人伝』が流布していた流人イメージをかなり修正することができたと思います。それに加えて、今年は、竹中英俊氏の新発見資料によって、東京(中央文壇)における流人イメージが劇的に変化する年でもありました。鳴かず飛ばずのように語られていた流人の作品が、じつは届くべき人には届いていたということを知るにつけ、その流人が小説を書いていた時代をもっと深く考えなければいけないと感じます。その気持ちが『このはずくの旅路』復刻を急がせました。ここには孝運寺の片隅で『血の呻き』を書いている沼田流人の姿がある。


 
▼ シオ  
  あらや   ..2023/12/24(日) 14:03  No.1025
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 今出孝運の母親シオもそんな飯盛女予備軍の一人として瀬上宿今出屋に登場する。シオに関する資料は皆無に等しいが、萬年寺の墓誌に「明治二年(一八六九)四月に五十一歳で死亡」とあるから、生れは文政二年(一八一九)ということになる。萬年寺の記録(孝運経歴)から推量すると、出身地は陸奥国(宮城県)栗原郡高清水村である。生家は奥州街道高清水宿の旅籠屋だったが、火災で身代を失い、生活に困った親はやむなく娘のシオを瀬上宿今出屋へ飯盛下女として年季奉公に出した。文政十一年(一八二八)のことで、シオは十歳だった。
 だから、遅くとも十五、六歳から飯盛女として泊り客の相手をさせられる運命にあったのだが、生れつき利発で性格も明るく、初歩的な読み書きができ、旅籠屋の仕来りにも慣れていたのが、その運命から彼女を救い出した。
(このはずくの旅路/第一章 みちのく無常)

十年前、『このはずくの旅路』を読んでいた頃は、どうしてもイッちゃ(流人)に焦点をあてて読んでしまうのでした。今回はずいぶんと違う。小源太(孝運)の生まれから目を皿のようにして読んでいます。

 
▼ 小源太  
  あらや   ..2023/12/24(日) 14:07  No.1026
   今出孝運(幼名小源太)の記憶は、今出屋出身の老僧坦道に伴われて沼辺村の陽山寺を訪ね、住職の眞孝和尚に初めて対面した日から始まる。それ以前の記憶がまったくないわけではない。母とともに瀬上村を退去した日、見送りにきた異母兄右源太が町外れの摺上川の土橋の端にじっと突っ立っていた姿が、ぼんやりと瞼の裏に残っている。が、それが現実の光景なのか、後日母から聞かされて定着した映像なのか、はっきりしない。脳裏に鮮明に浮かぶ最初の記憶は、この日、陽山寺の方丈間で、大きな大福餅を食べた場面なのである。
 自分がなんの目的で陽山寺に連れてこられたのか、六歳の小源太はすでに知っていた。母から「学問を教えてもらうために沼辺の禅寺へ行きなさい」と命じられていたからだ。具体的にどういうことをするのかは理解できなかったのだが、当分、母に会えないのだ、という認識はあった。だから、入山した翌日、寺を去る坦道から、「どうだ、大丈夫か」と訊かれたときも、「大丈夫だす」とはっきり答えている。
(このはずくの旅路/第一章 みちのく無常)

研究論文じゃなくて、小説という形で〈流人〉を描いてくれた大森光章氏には感謝してもしきれない。たいした見識だと思う。

 
▼ 今出孝運  
  あらや   ..2023/12/24(日) 14:13  No.1027
   慶応二年といえば、徳川幕府が崩壊する前年である。孝運が京都に到着する十日前の三月七日には、京都鹿児島藩邸で、討幕のための薩長提携が結ばれている。七月十八日には幕府の第二次長州征伐が始まったものの、幕府軍が敗北して十月に撤兵している。
 また、この年は明治二年(一八六九)まで続いた大凶作が始まった年で、全国各地で農民や庶民の暴動、打壊しが発生していて、約二百年にわたって仏教の擁護者であった徳川幕府は、断末魔の状態に追い詰められつつあった。
 けれども、孝運の道中日誌にはそうした時代の激変をうかがわせる記述は一行もない。京都では京大仏(方広寺)、清水寺、西本願寺、六角堂などに参詣したり、祇園などの名所の見物や買物をしたりしているし、江戸でも、神田明神、東叡山(寛永寺)、浅草観音などに参詣、回向院の角力、柳原の古着屋街などの見物と買物をしている。危機感らしいものがのぞかれるのは、四月十日の夜に止宿していた馬喰町の近くで大火事があったという記述だけである。
(このはずくの旅路/第二章 嶺松山萬年寺)

いや、興味深い。孝運の人生には幕末〜明治維新の東北(日本)がかかっていると知ると不思議に胸が震える。ラストが倶知安の孝運寺ということに大きな意味を感じる。

 
▼ 朝日ユキ  
  あらや   ..2023/12/27(水) 11:24  No.1028
   ある日、岩内からの帰りに猛烈な吹雪に見舞われ、寒さと歩行困難のため途中で動けなくなり、意識を失って倒れているところを、通りかかった馬橇に助けられた。目を覚ましたとき、彼は見知らぬ座敷の布団の中にいた。枕元に誰かがいる気配に起き上がろうとすると、「寒いがで、寝てらっしゃい」と制止されて、相手が女であることに気付いた。
(このはずくの旅路/第三章 千石場所)

ある意味、『このはずくの旅路』の中での最重要箇所ではないだろうか。この托鉢の帰り道から孝運の人生が劇的に動き始めるのだから。

 二代勝兵衛の次女タカは、越中国射水郡新湊港の海運業三代旅家(たや)権七に嫁した。三女ユキは明治七年(十七歳)に富山の薬種問屋の次男に嫁いだものの二年足らずで夫と死別、入籍もされていなかったので、三歳年上の姉タカを頼って新湊の旅家家に身を寄せた。
 独立心の強かったユキは明治十五年、二十五歳のとき、義兄権七の持船(北前船)で北海道の基地岩内港に渡り、旅家海運の取引先であった商人坂本栄蔵、大森多蔵らの世話で(後略)

ああ、このはずく劇場の役者たちがどんどん舞台に上がって来る。

 
▼ 関本孝吟  
  あらや   ..2023/12/27(水) 11:28  No.1029
   「坊主が生涯独身を通すという時代は終ったよ。昔気質のあんたには抵抗があるかも知れないが、いずれ日本中の坊主が妻帯するだろう。当然、寺も世襲になるだろう。あまり深刻に考える必要はないよ」
 それ自体は予想できた意見だったので、孝運はさほど驚かなかったのだが、「それよりも、孝運さん」と続けて口にした孝吟の話を聞いて彼は顔色を変えた。
「岩内に説教所を開くというのはどうかな。信者三十人の説教所を持っても苦労するだけだよ。それくらいならイワウヌプリの向う側にあるクッチャン原野で開拓が始まったらしいから、そこへ入植して布教活動をしてみてはどうかね。前人未踏の原野だというから、あんたには理想の場所なんじゃないかな」
(このはずくの旅路/第三章 千石場所)

ついに〈クッチャン原野〉の登場。こちらも最重要箇所だ。『このはずくの旅路』は倶知安の始まりからを描いている点でも得がたい小説。

 
▼ 縫部兼次郎  
  あらや   ..2023/12/29(金) 11:45  No.1030
   同伴の二人の信者も同じ思いらしく、「こんなところに説教所を建ててもどうにもならんべよ。一、二年様子を見たらどうかな」と大森多蔵がつぶやくようにいい、「うだな。近く集団入植が入るそうだが、曹洞宗の信者がどれだけいるかわからんしな。今すぐ岩内を引き揚げるのは考えもんでねえか」と菊池兼蔵も相槌を打った。
 孝運はしかし即座に同意できなかった。願書提出時に植民課の係員からいわれた言葉が脳裏にへばりついていたからだ。
「倶知安原野は基線を中心に市街地を設ける計画です。あなたの場合はお寺さんですから、この辺りが適当と思います……」
 親切な係員はそういって区画図面に整然と列んだ碁盤の目の一つに朱丸を付けたのだったが、その場所がここなのだ。今は無人の原野であり、信者も檀徒もいないが、将来は布教活動に有利な市街地に発展するに違いない。孝運としては、一、二年様子を見るといった逡巡は許されなかったのである。
(このはずくの旅路/第四章 萬年山孝運寺創建)

集団入植以前のクッチャン原野に、すでにマッチ軸木工場の縫部兼次郎のような人間が入り込んでいたという事実は興味深い。植民課の係員が朱丸を付けた場所は、後に「函館本線」の「六郷駅」ができる場所ですね。確かに倶知安市街の中心地になるはずでした。

 
▼ 旅家タカ  
  あらや   ..2023/12/29(金) 11:49  No.1031
   それはかまわないのだが、二ヵ月ほどすると、孝運に対するタカの態度が豹変して、彼を戸惑わせた。ユキ母子がいまだに入籍されておらず、長女トミが朝日姓のまま通学していることを知ったタカは、急に興奮しだし、「おやっさまは偉い坊さまと聞いちょったに、どないしよったが? 人に法を説く資格があるがかいね……」と富山弁で食ってかかり一日も早く婚姻届を出して三人の子を入籍せよ、と厳しい口調で要求したのである。
 あまりの見幕に孝運はたじたじとなり、タカがやってきても方丈間に閉じ籠って会おうとしなかったが、彼女は方丈間にまで押しかけてきて、「おやっさまにはユキと結婚できんわけがあるがに? 仙台に大黒さまがおるがですか」と詰め寄り、孝運があわてて否定すると、「ならば、なにをびくびくしとるだら。子供らがかわいそうだっちゃ」などと泣きの涙で訴えることも再三どころではなかった。
(このはずくの旅路/第四章 萬年山孝運寺創建)

孝運寺の一角になぜ旅家米店や沼田仁兵衛の木賃宿があったのか、初めてこれを説明してくれたのが『このはずくの旅路』でした。こんな大事なことも知らず、『沼田流人伝』は暢気に「倶知安の優良児童(沼田一郎)表彰」の新聞記事なんか載せている。なんの意味があるんだ。


▼ 「人間像」第118号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/12/04(月) 17:37  No.1019
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 会社の帰り、気の合ういつもの五、六人で、スナックバーに寄ることがある。雑談をしたり、カラオケをやったりと言うたわいないものだが、これが純平たち安サラリーマンの簡便なストレス解消法になっていた。
 この日も、誰いうとなしにいつものメンバーが集まり、行きつけのスナック『ブルーバード』に来ていた。上司の悪口や同僚の噂ばなしをつまみに安い焼酎やウイスキーの水割りを飲むのだ。当面の話題が尽きると、カラオケをやったり、それに合わせて踊ったりする。いつもなら、純平がマイクを握ることが多いのだが、この日は若い連中が先に踊り始めたので、純平はいささか手持ちぶさたであった。
「川上さん、踊りましょうか」
 立木英子が声をかけた。
(針山和美「雪が解けると」)

第118号作業、スタートしました。久しぶりの針山作品。この『雪が解けると』は、三年後、単行本『天皇の黄昏』に『春の淡雪』とタイトルを変えて発表されています。私は『春の淡雪』の方を先に読んでいますから、今回の雑誌発表形の『雪が解けると』にはかなり驚きました。結末部分が大胆に書き換えられている。同じ話で二度楽しめる。


 
▼ 定年退職  
  あらや   ..2023/12/07(木) 17:51  No.1020
   ところが、ここ二、三年急に多作になった。多作と言っても年に三作ほどの割合に過ぎないが、それまでに較べると三倍の量になる。根気も体力も衰えて来るこの時期に俄に書き出したものだから、口さがない連中は無意識裡に死期を察してのことではないかと軽口を叩く始末である。しかし、違うのだ。長かった教員生活もいよいよ今年限りで、来年からは待望の執筆人生が実現出来る訳だが、突然書き出すと言っても仲々大変だろうから、その助走訓練をして置こう、と言う思惑から多少無理をして書き始めたのである。
(針山和美「天皇の黄昏」/あとがき)

たしかに、この第118号『雪が解けると』を皮切りに針山氏は毎号発表ペース(第119号は私の大好きな『嫁こいらんかね』だ!)に入って行くのですが、同じようなことは千田三四郎氏にも云えて、数年前に北海道新聞社を定年退職してからは爆発的に書きまくっていますね。そういう「人間像」充実の影で少し心配なことが…
デビュー以来、毎号、長い作品を精力的に書き続けてきた針田和明氏の作品が第116号『雄冬の冷水』を最後にぱたっと止まっているんですね。作業をしていて何か変だな…と感じていたのですが、数日前に、ああ針田氏がいないんだ…と漸く気がつきました。

 
▼ 歌ふことなき人々  
  あらや   ..2023/12/07(木) 17:54  No.1021
   そろそろ店を開けようか。閑古鳥が鳴きっぱなしのここには、どうせ客はこないだろうが、さ、気を入れてやろうじゃないか。今日でこの小樽での仕事はおしまい。それなりにけじめをつけなければな。……あいつのせいで店じまいにまで追い込まれたけど、思い直せば、生まれ故郷の東京でもうひとふんばり、〈理髪床 江戸屋〉の看板をあげる踏ん切りがつけられたのも、裏返せばあいつのおかげだ。根も葉もない中傷記事で商売あがったり、いちじは夫婦一緒に死んで、あの記者野郎に崇ってやりたいと恨んだが、いまとなっては降りかかった禍を福に転じさせるため、東京で何がなんでも頑張りたい、そんな意気込みでいっぱいだ。
(千田三四郎「歌ふことなき人々」)

もうこれは、千田作品の中でも一、二を争う名作だと私は思っています。ついに、ライブラリーに入ったことに感無量。

 
▼ 百一ほら話  
  あらや   ..2023/12/07(木) 17:57  No.1022
   百一というのはアダ名で、田中勝男という名前の馬喰である。
 その人は「百語るうちにホントは一つあるかどうか」というほら吹きなので、名前を呼ぶ者がなく『百一』でとおっていた。ところが、
「百一つぁん」と声をかけると、
「ほい」 気楽に答える。
 だから斎藤昭は最初アダ名とは知らず、一体これはどういう意味なのか珍らしい名前だなあと思っていた。
(朽木寒三「百一ほら話」)

前号の『マルホほら話』に続いて、今度は『百一』のほら話。面白いなあ、朽木さんは。斎藤昭シリーズは永久に続いてほしいと願っています。

 
▼ 「人間像」第118号 後半  
  あらや   ..2023/12/11(月) 11:40  No.1023
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「人間像」第118号(134ページ)作業、完了です。作業時間は「60時間/延べ日数10日間」、収録タイトル数は「2224作品」になりました。

本の裁断が狂っていて、画像データ作りにけっこう時間をとられました。その最たるものが裏表紙。半日くらい悪戦苦闘したわりには、まだ納得はしていない。活字が細かいので読みにくいと思います。こういう内容です。

 曲り角

 丸本明子は昭和三十年代『人間像』に参加し、五十号の前後に毎号発表し続けていたが、子育てにかかる頃から中断し、百号が過ぎて再び参加、御存じのように毎号欠かす事なく発表し続けて来た。旺盛な制作力と言うべきである。
 彼女は日常生活の中では滅多に遭遇しない悲劇のひと駒を、また超現実的な世界を好んで描く。遇いたくない現実に遇わねばならない悲劇の主人公達は、その辺にいつもいる普通の市井人なのである。ときには残酷とも言える結末が何の予告もなしに訪れて、読者を震憾させる。日常生活の中に存在する不条理なる現実を丸本さんは書きたいのだと、僕は自分なりに解釈している。知っての通り丸本さんは沢山の詩集を持つ優れた詩人だが、その詩人らしい冷徹な感覚とともに人間への温みのこもった小説である。(針山和美)


▼ 「人間像」第117号 前半   [RES]
  あらや   ..2023/11/17(金) 16:49  No.1015
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 牛泥棒でつかまった『百一馬喰』は、百話すうちにほんとのことはせいぜい一つしかないのでその名前がついたのだが、その百一つぁんのほかにもう一人『マルホ』というのがいた。これは、隣県、とはいっても斎藤昭の住む岩手県一関からそんなに遠くない宮城県々北の馬喰なのだが、
「言ってることがまるっきり全部ほらばかり」
 なのがこのあだ名の由来だった。しかし考えてみると百一にしろマルホにしろ一匹馬買いのちんぴらなのに、ほら吹きの看板を背にしょったまま、鬼より恐い海千山千、ばの字づくしの荒くれ男がむらがるこの渡世でなんとかかんとか生きて暮らしているのだから、それなりに大したもんだと言わねばならなかった。
(朽木寒三「マルホほら話」)

第117号作業、開始です。まずは、絶好調の「斎藤昭」シリーズ、朽木寒三『マルホほら話』完了。以降、内田保夫『境界は凪であれ』、丸本明子『マーガレット』、矢塚鷹夫『ロールプレイング』、千田三四郎『手探り寅吉ノート』と続きます。

昨日は庭木の冬囲いで丸々一日時間を取られてしまった。


 
▼ ワープロ時代  
  あらや   ..2023/11/24(金) 18:42  No.1016
   たとえば、「花が咲いた」などはそのまま旨く行くが、「お考えに」などと打つものなら「悪寒が絵に」などと訳の判らない文字の羅列になってしまうのである。打ち手の方は「考え」に丁寧語の「お」をつけたつもりでも、機械の方は「悪寒」「が」「絵に」なったと判断してしまうらしい。こういう時は「お」だけをさきに確定しておいて、後から「考え」を打てば旨く行くようである。
(針山和美「ワープロを手がけてみて」)

やあ、始まりましたね。1987年か…

 職場の同僚が、翌日までに必要な書類を打たねばならなくなり、久しぶりにワープロに向かったまでは良かったが、キィーワードが判らなくなるたびに「操作説明書」を調べながらやっていたら、とうとう朝までかかってしまったと嘆いていた。とにかく使いこなすまでにならなければ、文明の利器も宝の持ちぐされになってしまうようである。
 Kの話によると、書くのと打つのが同じ速さとしても、訂正が楽な上に清書も不要なのでトータルではワープロの方が速い、という結論になるらしい。一日も早くそう思えるようになりたいものである。
(同書)

 
▼ 手探り寅吉ノート  
  あらや   ..2023/11/24(金) 18:47  No.1017
   とり憑かれたわけではないが、成り行きに意地がからんで〈寅吉〉を追究するはめになった。自分の短かい余生にとって、これは道草かもしれないが、手を付けた以上、掴んだ事実と疑問を、霧の中に葬り去りたくなかった。これまでに実録とか、実説とか、実話とかいわれてきた文学が、まったくのノン・フイクションでなかった点にも触れてみたかった。
(千田三四郎}「手探り寅吉ノート」)

原稿用紙で65枚。『マルホほら話』の70枚より少ないはずなのだが、かかった時間は『マルホ』の三倍。ようやく今日アップしました。

もう今日はこれで作業終わろう… 天気予報は明日から猛吹雪とか言ってるし。

 
▼ 「人間像」第117号 後半  
  あらや   ..2023/11/27(月) 14:44  No.1018
   ところで、この働き者の権兵衛はどうしたわけか、三十をすぎた今日まで独り身ですごしてきた。世話好きな村の年寄り連中が、働き者で名の売れた権兵衛を見逃すわけがない。虎吉爺さんも、お熊婆さんも、猿之助爺さんも、嫁御を世話しようと何度権兵衛を口説いたかわかりゃあしない。
「わしに嫁女はまだ早いわい」
 権兵衛はそういって、今日もまたこうして鍬を振り上げているのである。
 さて、仕事も一段落かたずくと、権兵衛はそばの切り株に腰をおろして、いかにもうまそうに、すぱりすぱりと煙草をふかしていた。そのうち、権兵衛は仕事の疲れでついうとうとその場で居睡りはじめたのである。
(佐々木徳次「夢女房」)

前号の『針田和明詩集』に続いて、今号では「雑記帳」欄に佐々木氏が民話風(?)の小品『夢女房』を発表… こういうの、同人間で流行っているのかな。

「人間像」第117号(101ページ)作業、完了。作業時間は「51時間/延べ日数9日間」で、収録タイトル数は「2213作品」になりました。裏表紙は第116号と同じなので省略。








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