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▼ 父・流人の思い出 交友編2   [RES]
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:28  No.618
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 敗戦から数年後のことである。交際ずきの母の数多い友人知人の中に、倶知安高校の教頭先生だった戸田先生の奥さんがいた。家が近いこともあって家族ぐるみの交際になった。ご夫妻共に私の両親よりだいぶお若い方々だったがよく気が合って、いつしか父と戸田先生は呑み友達になった。(中略)ある時、父の仕事の写経をごらんになった戸田先生が倶知安高校の書道講師にとすすめて下さった。終戦直後多忙を極めた父は、戦時中の不況を取戻すかのように徹夜をする事もしばしばで、健康を誇っていた父も血圧は上り、よる年波か足も弱ってきた頃だったので母は喜んですすめた。最初あまり気のりしなかった父も母に激励されて決心したらしい。そのため私は三年間の高校時代父と同じ高校へ通ったのであるが、勉強、努力、修練などには拒絶反応が強く、しめつけには断呼粉砕をムネとしていた不良娘には父もだいぶ恥をかいたのではなかろうかと、後に心が痛んだ。
(第九回/倶知安高校の戸田先生)

昔、短歌誌「防風林」に載った佐藤瑜璃『父・流人の思い出』を探して、なかなか行きあたらないので、ダメ元と思って倶知安高校にも手紙を書いた。そうしたら、送って来たのがこの『白樺会報』第10号だった。ありきたりの、いつもの流人伝説。私はすっかり「防風林」の『父・流人の思い出』もこんな内容なのだろうと誤解してしまって、本物に出会うのが十年遅れてしまった。今となっては「戸田先生」が写っている写真だけが救いか。


 
▼ 交友・十四  
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:35  No.619
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 父は私のするクラスメートの話などをウンウンと聞くばかりで、いつも静かに歩いていった。ある日、雪どけの線路脇に仔猫の死骸があった。父はすぐ素手で抱き上げると、すぐ側のお寺の裏の墓地の片隅に置いて、土をかけた。私は最初キャーッと叫んで逃げたけれど、父は笑いながら「土に還ったんだ」と言ったので心が鎮まり、近くに咲いていたカタクリの花を供えた。
(第九回/倶知安高校の戸田先生)

まるで藤田明三ですね。

写真は「白樺会報」より。札幌郷土を掘る会が『小説「血の呻き」とタコ部屋』を出版した際、白樺会も提灯記事を書いたのだろう。今となっては流人のいた図書室が写っている卒業アルバム写真だけが救いか。(流人の身分は実習助手。北海道立高校では図書館の運営は実習助手が行う時代が長く続いた。)

 
▼ 交友・十五  
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:40  No.620
   敗戦の日から三ヶ月後、月の美しい夜だった。突然、予科練に行っていた兄が帰って来た。(中略)
 間もなく兄は倶知安中学校に復学して、翌年卒業し、北電に入社した。初任地は比羅夫と狩太の中間地点にあった山の中の発電所で、近在の人々は日発と呼んでいた。人里離れた山合いに社宅が十軒ほど肩を寄せ合うように立並び、住人は皆親戚のように和気あいあいとくらしていたようである。独身の兄達も、小じんまりとしたきれいな社宅に二人づつくらしていて、その隣りに大きな造りの所長さんと次長さんの社宅があり、父は次長さんだった新谷さんという、父より少し年上の方と気が合い、兄が札幌へ転勤してからも新谷さんは時々私どもの家においでになり、深い山中でしか採れない珍らしいきのこや木の実などのおみやげを下さった。
(第九回/日発の新谷さん)

もちろんこの「新谷さん」は私とは関係ありません。針山和美氏の処女小説『三年間』にも「新谷先生」が出て来るのだけれど、なにか倶知安には縁のある名前なのだろうか。

「比羅夫と狩太の中間地点にあった山の中の発電所」って、あの発電所?

 
▼ 交友・十六、十八  
  あらや   ..2023/01/05(木) 06:44  No.621
   のどかな春の休日、リヤカーに農具や幼児だった弟をのせて父が引き、私達が後押しでのんびりと行く。畑に着くと女学生だった姉は弟の子守りをしながら昼食の用意にとりかかる。大きな石を並べ林の中から枯木を集めてきて火を焚く。大きな鉄鍋に山菜を入れてみそ汁を作り、馬鈴薯をすりおろして作ったダンゴを入れて出来上り、家から持参した小豆の混ったご飯のおにぎりと自然の中で家族みんなで食べる昼食はとてもおいしかった。
(第十回/富士見の高田萬助さん)

 私が小学一年の頃の秋晴れの日、父につれられて中井さんの相馬神社のお祭りに行った。私はお祭りというので縁日を楽しみに、母に赤い花柄の着物を着せてもらい、髪に赤いリボンを結んで、うきうきとして出かけた。その頃はまだ田園風景で美しかった六郷の町はずれに近い所に、相馬神社である中井さんのお宅があり、父の字の大きな幟が立っていた。
(第十回/六郷の中井さん)

探し方が悪いのか、「相馬神社」が出て来ない。流人といえば軽川隧道の跡地を訪ねて流人が解ったような気持になっている奴(それは私です)もいるが、なにか、それでは駄目だという思いに捉われるようになって来た。流人や瑜璃さんが歩いた(もっと云えば人間像の人たちが歩いた)町並みを頭の中に再現できるようにならないと駄目ですね。山線がある内にそれをやろう。

 
▼ 交友・十九  
  あらや   ..2023/01/08(日) 09:45  No.622
   雪どけの頃には雪原(堅雪)を直線に近道して歩くことができた。途中、一人ぽっちの川≠ニいうきれいな小川が流れていて、誰が名づけたか解らないその小川のそばで一休みするのが習しだった。父と同行した私たち兄弟は思い思いに、木に登ったり、やちぶきの花を摘んだり、ざりがにを捕ったりして遊んだ。その間父は風倒木の枯木などに腰かけて、煙草をすいながらじっと川の流れを見つめたり、羊蹄山を眺めたりしていた。
(第十一回/比羅夫の寅さんと美代ちゃん)

瑜璃さんが今の比羅夫を見たら、たまげるだろうなぁ。ここに描かれているのは、現在のコンドミニアム乱立以前の、スキー温泉旅館繁盛以前の、さらにそれ以前の比羅夫ですからね。感覚としては、小沢村の写真家・前川茂利(1930〜1999)の写し撮った光景のようなものを私は想っています。
https://www.town.niseko.lg.jp/arishima_museum/kikaku/kikaku_2016/phot_maekawa/

 母が病死したのは九月、農家にとって忙しい時期で、父が急死した時も十一月の雪の来る前の繁忙期、それでも比羅夫のおじさんおばさんは真先に駈けつけてくれた。現在のように葬儀屋さんが全てとり仕切ってくれるのとは違い、当時は遺体の処理、白装束、納棺まで身内の仕事だった。体格がよく力持ちのおじさんは、母の時も父の時も遺体をかるがると抱き上げ、きれいに処置してくれた。
(同章)

 
▼ 交友・二十  
  あらや   ..2023/01/08(日) 09:53  No.623
   昭和三十四年頃、私は結婚して小樽へ移住していた。その頃、平凡社から日本残酷物語≠ニいう全集物が出版されて、ベストセラーになっていたらしい。実家に行った私が、父の机の上にあったその本を手にとり、何気なく頁をくっていると、父のペンネームが眼に入った。驚いて父に聞くと、「ああ、昔々の物語りだ」とそっけなく答えただけだった。(中略)
その本の間に、太い万年筆で書いたような、大きな文字のはがきがはさまれていたので、何気なく文面に眼をやると、依頼した件についての連絡を乞うという内容で、何度か催促の後のものらしかった。編集部野田、とあり、電話番号も書いてあった。私は父の性格を知っているので不安になり、「早く連絡して上げたら?」と云うと、「ああ、連絡済みだ」と面倒くさそうに答えた。「なんの連絡だったの?」と私は気になって聞いてみた。「本のことだ。もう済んだ」と、父は読んでいた新聞から目も離さずに云った。
(第十一回/平凡社の野田さん)

流人のタコ部屋物語は、『地獄』以降はパターンが決まっていて、皆、周旋屋〜タコ部屋〜棒頭〜脱走〜リンチといった流れで語られている。(唯一異なるのは『血の呻き』だけ) 『監獄部屋』以後、三十年の沈黙を破って、なぜ流人は『日本残酷物語 第五部 近代の暗黒』に書いたのだろう…ということは長年の疑問でした。佐藤瑜璃さんの『思い出』を読むにつれ、『監獄部屋』以降、流人が文学と決別したことは決定的であり、徹底的なものを感じます。その流人が『日本残酷物語』のためにだけ今一度ペンを執ったとはますます考えづらい。あるいはこれは、流人のタコ部屋パターンをなぞった平凡社の代筆なのではないか…

 
▼ 交友・二十二、二十三  
  あらや   ..2023/01/08(日) 09:56  No.624
   その頃、毎日のようにリンゴをリックサックで背負い、手に竹かごと棒秤を下げて来る五十歳くらいの行商のおばさんがいた。(中略) おばさんは誰かに聞いて来たといって、父に文字の読み書きを教えてほしいと頼みこんだ。戦争で夫も二人の息子も亡くしたと涙ながらに話した。そして「私は字が読めないのでだまされることが多い。せめて役場からの書類くらいは正確に読みたい。ばかにされたくないから」と言った。母は同情して一しょに涙ぐみながら父に向って「父さんの一番気になる戦争の犠牲者でしょう。力になってやってちょうだい」と言った。
(第十二回/吉田トメさん)

いい話だなあ。「流人研究」などと構えると見落とされてしまうエピソードなのだろうけど、私は研究者じゃないから引用します。もうひとつ、

父が「あのおかみさんは頭の切れる人だ」とよく言っていた奥さんは、店の経営と主婦業、八人の子供の母親と大多忙の中で短歌を趣味としていた。文芸のことなどさっぱり興味のない母より、父と話が合っていたようだ。そして奥さんは、昔父が小説を書いていた事を知っていたらしく「こんな田舎で生涯を終えてしまうなんて、惜しい人でした」と、父の葬儀に集った近所の奥さんたちに話していたことを懐しく思い出す。
(第十二回/日和呉服店のたいしょうとおかみさん)

なぜか流人のことを考えると、古宇伸太郎(人間像同人)の人生を思い浮かべる。

 
▼ 交友・二十三  
  あらや   ..2023/01/08(日) 10:02  No.625
   父が夕食の膳を前にテレビをみながら、晩酌を呑みほし、急にどっと倒れた時にも真先に姉が助けを求めたのは日和さんだった。夕食中のたいしょう≠ニおかみさん≠ヘ、箸を投げ出すようにして駈けつけて下さったとのこと。お医者様を迎えに行った義兄が帰るまで、ご夫妻は姉を励まして父につきそって下さった。父が息をひきとる時は、可愛がっていた孫と長女と日和さんのたいしょう≠ニおかみさん≠ェみとってくれたのである。
(第十二回/日和呉服店のたいしょうとおかみさん)

見ていたテレビは大相撲中継。呑んでいた酒は合成酒二合。大鵬の取り組みの時、肴の冷や奴が喉に詰まったのが死因…という話を、ここにも登場している「孫」の方から直接お聞きしています。それが、「ウイスキー」「荒城の月」に変化した経緯については、今となっては確かめようがない。ただ、瑜璃さんの『思い出』を読む限りは「ウイスキー」も「荒城の月」もまるっきりの作り話でもないわけだから、もう、この流人伝説はこのままでもいいか…と思っています。

お孫さんについては、この後、「交友・二十六」で詳しく登場します。昔、私がインタビューした記事は、『沼田流人マガジン』第5号(京極町湧学館/沼田流人読書会,2013.9発行)に発表したものですが、いつか早い時期にお孫さんに了承をいただいてライブラリーにアップしたいと考えています。

 
▼ 交友・二十六  
  あらや   ..2023/01/09(月) 05:51  No.626
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 晩年は殆んど和服で通し、義手をつけることはたまにしかなかったが、淳は父が義手をつける時の最善の助手だった。父が死んだとき、お棺の中に義手を入れるかどうかと大人達が話し合っていると、淳は「おじいちゃんは天国へ行ったから、ちゃんと両手のある人になるんだよ。義手はいらないよ」と言って、唐草模様の風呂敷に包んだ父の義手を抱きしめるように持ったまま、じっと立ちつくしていた。
(第十三回/孫・小谷淳)

小谷淳氏が京極町にお住まいだったことは、私たち沼田流人読書会にとって最大の幸運でした。これがひとつ隣町の倶知安町であったとしたら、没後六十年にもなんなんとする2013年に『血の呻き』を読んでいるグループがこの世に存在しているなどということは伝わらなかったかもしれません。

「交友」編は今回の小谷淳氏で終了し、次回からは「聞き書き」編が始まります。それと同時期に、短歌誌『防風林』第16号からは武井静夫『沼田流人小伝』の連載も始まります。(全6回) これは平成4年(1992年)に発行される『沼田流人伝』の前身形となる論考なのですが、ここで重要なことは、武井静夫氏は佐藤瑜璃『父・流人の思い出』を読んでいるということ。読んだ上で『沼田流人伝』のあの結論になったということです。


▼ 父・流人の思い出 交友編1   [RES]
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:09  No.609
  父が先生と呼んでいたこの二人は、フルネームが判らずじまいだったけれど、もう一人父が尊敬の念を抱いた表情で語っていて印象的だったのは、松崎天民という人だった。やはり東京からよく手紙や書籍が送られてきた。函館新聞社におられた頃に、独身だった父は時折り訪れては、半月くらい寄宿させていただいたものだと誰かに話しているのを聞いたことがある。東京といえば私にとって遠い他国のような感じで、父が「先生」という人がとても偉い人に思え、私たちとは世界の違う人という考えしかなかった。そして父もまた急に違った人間になったように感じられ、私はこの三人を思い出すと、いまだに不思議な感情におそわれるのである。
(第五回/三人の先生)

「三人の乞食」じゃなくて、「三人の先生」ですね。松崎天民については書き出すと長くなりそうなので、別枠で、司書室BBSの方で扱います。


 
▼ 交友・二  
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:12  No.610
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岡本さんが叫んだ。「沼田君、書かなきゃだめだ。めんこい嫁さんや子供の事を思う気持ちは解るけど、君の筆は鉄砲より強靱だよ、な、根岸君!」 「そうですとも、惜しい、実に惜しい」 「沼田さん頑張りましょう。僕たちも戦っているのです」 青年がこぶしをにぎった。もう一人の青年が突然歌い出した。私の知らない歌だったけれど、力強い調子で合唱した。
(第五回/根岸さんと岡本米司氏)

『倶知安百年史』の中巻/第一章「昭和」暗い幕開け/第九節 冷害・火災・事件/四 倶知安の無産運動/(1)「東倶知安行」に関する人のページに岡本米司も出て来ます。写真には沼田流人も写っている。

 
▼ 交友・三  
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:16  No.611
  日暮れになると母は、「父さんの友達ってほんとにのんべいばかりなんだから」と笑いながら、台所の床下のむろの中から、親戚などからいただいた大事な酒を出してお膳の用意をはじめた。母には初めての客だったが、父の手の合図で判ったらしい。茶の間の奥の台所で私は集って夕食をとるので、父とおじさんの弾んだ話し声がよく聞こえた。「シャンハイ」「朝日」「日比谷」「マカオ」などと言う言葉が、何度も聞えてきたと記憶している。
(第五回/「東京ひび」のかわきたさん)

「東京ひび」というのは、これだろうか。

東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は、日本の日刊新聞である『毎日新聞』(まいにちしんぶん)の東日本地区の旧題号、および毎日新聞社の傍系企業であった東京日日新聞社が昭和20年代に東京都で発行していた夕刊紙。共に略称は「東日」(とうにち)。前者は現在の毎日新聞東京本社発行による毎日新聞の前身である。
(ウィキペディア)

「日日」を「にちにち」と言わず「ひび」と発音する人は研究者の間でもたまに見かける。

 
▼ 交友・四  
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:19  No.612
   私は高校時代、切手コレクションの趣味をもち、さかんに友達と交換したり、珍らしいのを見せびらかしたりして楽しんだ。
 ある日、それを父に見せると、「もっと珍らしいのをやろうか」と言って押入れの中の木箱を持ち出した父は、古い封筒の束を出してくれた。
(第六回/文通 里見ク)

と、その束の中には、里見クや有島武郎の書簡もあった…というのがこの章の主旨なのだが、私には次の件の方がショックだった。

私は文学書などに親しんでいない事もあって、その名前に全く無関心だったけれど、父にきいた「トン」という発音がおかしくて笑ったので記憶は確かである。里見クの手紙は数通あったように思う。連想するに、有島武郎などのものもあったような気がするが、父はその時、私が切手を切りとった封筒と他の葉書類も全部くずかごに捨ててしまったのであった。
(同章)

流人の、文学との決別はかくも凄まじいものであったのか…

 
▼ 交友・五  
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:22  No.613
   あれから三十年あまり、私は何か父の事が知りたくて池田町にいる父の親類に手紙を出してみた。幸い札幌にいる父の姪にあたる、ナナ子さんを知ることが出来、色々話を聞くことが出来た。矢張り没交渉だった父の事を彼女はよく知らなかったが、叔父の武男さんとは同居していたので、私の父からの手紙はとても大切にし、長兄でもある父をものすごくしたっていたこと、学生時代から父に会いたがっていたこと、父を訪ねたあと武男さんと生母が毎日のように父の話をしていたこと、武男さんが毎日父を待っていたこと、武男さんの葬儀に父の出席を心待ちにしていた生母のこと、父が送った自筆の般若心経を死ぬまで生母は大切にしていたこと、などなど、色々なことをナナ子さんは話してくれた。
(第六回/弟・沼田武男)

驚いた。各種の流人伝でも「沼田武男」の名が出て来たことはない。これが初めてです。アイヌ文学関係で仕事を残した人らしいが何も気がつかなかった。
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I031395609-00
なるほど、国立国会にも所蔵がある。その千葉大学の中川裕さん(この前、NHKの「100分de名著」で『アイヌ神謡集』の解説をしてた人ですね。あれは良かったなあ…)の序文も見えますね。
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/104912/S18817165-325-P001-preface.pdf
ふーん、このような催しも行われているんだ。最近の話ですよね。
https://m100.jp/wp-content/uploads/2022/01/ainuculturelecture220221.pdf

生母・カツについても、単純に流人を捨てていった母という解釈ではこれからは通用しないことも感じます。「ナナ子さん」にも興味を持った。

 
▼ 交友・六  
  あらや   ..2023/01/01(日) 15:26  No.614
  高田さんはビールをのみながら、私に父のことを聞いたり、私の知らない父のことを話してくれたりした。
 積丹半島の紀行文を書くために父と二人でわらじをはいて出かけたら、道に迷って足にマメが沢山できてしまい、見知らぬ漁師宅に泊めてもらった時のこと、大江鉱山に行って誤解を受けて人夫達にとりかこまれてしまった時、父の話し方がうまくて説得に成功し、逆にとても親切にされたことなど、大きな声で楽しげに聞かせてくれた。
(第六回/弟・小樽の高田さん)

「小樽の高田さん」といえば、私には高田紅果(小樽啄木会初代会長)しか浮かばないが…
高田紅果の生没年(1891〜1955)を見てみると、流人の(1898〜1964)から「父より五・六歳年長のインテリ風の人」といった記述には合っているような気がする。ただ、紅果の家はあの田上義也設計の有名な建築だろうから「生垣のある、こじんまりした和風の家」とはほど遠い。
流人の小樽関係の交友には、時々、啄木の影がちらちらするのが面白い。ちなみに啄木の生没年は(1886〜1912)。意外と思われるかもしれませんが、流人と同時代です。

 
▼ 交友・八  
  あらや   ..2023/01/02(月) 14:40  No.615
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 神社に勤めていた頃の父の交友は、宮司の尾形家の人々をはじめ、老若男女、実に多種多彩で十指にあまる。
(第七回/倶知安神社の人々)

隻腕の流人にとって出来る職業というのは非常に限定されたものになります。若い時、その唯一の可能性を賭けていた「小説」を流人は捨てた。なぜだろう、何があったのだろう、といつも考えているのですが、現時点での感想としては、第一に「マツヱ」との結婚、そして第二に「書」への開眼ではないかと私は考えています。

それは、啄木風に「喰らふべき書」とでも云えばいいのだろうか。書には無知な私だが、流人の書を見ていると胸が締めつけられるような気持になる。早く、正確に、そして次から次へと書かなければならない。神社の一日というのが意外にばたばたした世界だということを知った。次から次へといろいろなことが起きる。いろいろな人が出入りする。

倶知安神社には流人の書が溢れかえっている。画像は、今でも現役で使われている祝詞のひとつ。流人の書だそうだ。芸術展に出品するわけではない書。書記の職を得て、マツヱや子供たちの生活を守るための書。

 
▼ 交友・十  
  あらや   ..2023/01/03(火) 14:19  No.616
   天涯孤独のような父に対して母は十人兄弟、六人のいとこ、その家族と約四十人の一族郎党が倶知安、余市、東京、樺太とひしめいていた。長女だった母は皆から「姉さん」と呼ばれ、父は何故か「おじちゃん」と呼ばれていた。年令の差か、異色の人間だったからか、おかしいとは思ったけれど、何となく自然でもあった。結婚する時は猛反対だった長老達も「沼田さん」と呼んで頼りにしていた。役所への対応や書類、金銭問題、結婚問題、人間関係等、父が中心になって処理していた。母の実家が樺太へ移住してからは、娘時代を迎えた妹が次々と舞い戻り、私の家に寄宿して花嫁修業をした。
(第八回/いもうとたち)

マツヱと結婚することによって、流人は、自分の前半生と和解したのだと思う。

その頃私は、クラスメートの中で父のことを共産党と噂さしているのを知った。意味はよくわからぬまま、なんとなく不快な感情におそわれて父に話すと、父は笑いながら「父さんは共産党≠カゃなくて父さん党≠セよ。お前たちの父さんだ。それだけだよ」といった。
(第八回/湯本獣医さんと坂上さん)

 
▼ 交友・十一  
  あらや   ..2023/01/03(火) 14:23  No.617
   坂上さんは精悍な風貌で元気に大声で「ワッハッハァ」と笑いながら語りつづける人で、湯本さんを通じて父は知り合い、気が合ったらしい。その後転勤で倶知安を去られてからも交渉はあったらしい。湯本さんは静かな声で温厚な語り口の人で、皆をやさしく包みこむようなムードを持っていた。父もどちらかといえば静かな方で、静≠フ二人と活≠フ岡本さん、坂上さんとバランスのよくとれた仲間といった感じがした。皆さんが父の葬儀に参列して下さった際に、父の棺に布製の赤い旗をかけられ、瞑目したままで長い時間じっとしておられた姿が私の目に今も残っている。
(第八回/湯本獣医さんと坂上さん)

「赤い旗」のエピソードは流人の孫の方からもお聞きしたことがあります。その方の「異様な光景だった」といった受け取り方とは違う記述に接し大変興味深いものがありました。


▼ 父・流人の思い出 メモワール編1    [RES]
  あらや   ..2022/12/25(日) 14:29  No.603
  『父・流人の思い出』はあまりにも新発見に溢れているので、手打ちワープロ作業と同時進行で、読書会BBSでもメモを取り続けるつもりです。人間像ライブラリーの方では「工事中」の形で出来上がった章から順次アップしてゆく予定です。

 父は二十三年前の晩秋、夕食のテーブルに届いたばかりの夕刊をひろげ、荒城の月≠ハミングしながら、大好きな水割りを飲みほすと、急にせきこんでどっと倒れ、そのまま息を引きとったのですから大往生も見事すぎました。それは、いかにも父らしいあっさりとした幕切れでした。
(第一回/わが心の沼田流人)

 父の左手は、父が十九歳の時働いていた、マッチ工場で機械にまきこまれて大怪我をして切断してしまったのだという。母が涙ぐんで話してくれた時、小学生だった私と姉はくやしくてしゃくり上げて泣いた。
(第一回/かた雪の朝)

まずは典型的な今まで流布された〈流人〉伝説。「ウイスキー」「荒城の月」は葬儀の際にでも語られた公式見解なのでしょうか。これについては、『父・流人の思い出』最終章あたりで瑜璃さん自身が訂正しています。「働いていたマッチ工場」については、語る相手が小学生の娘のため母・マツヱが脚色したのでしょう。この時の経緯については、今後デジタル化を考えている大森光章『このはずくの旅路』に詳しい。


 
▼ メモワール 二〜四  
  あらや   ..2022/12/26(月) 11:22  No.604
  「港が見えてきたぞ」と父が指示した頃、左てに洒落た洋風建築の北海ホテルがあり、父は麻のソフトを脱ぎながらロビーに入り、フロントに「東京の吉田先生へ」と言った。
(第二回/海)

天に昇るか地にもぐるか、どっちにしても俺は見送られるのが嫌いでね。昔俺が東京へ発った時、吹雪の中をじっちゃんが駅まで見送りに来て、鼻水をすすった顔が眼に残って、俺はとうとう帰って来てしまったんだ。
(第二回/流離の時)

「東京の吉田先生」とは、吉田絃二郎。吉田の『供養の心』という作品は、当時倶知安に暮らす流人の姿が描かれている。当時の流人にもまた、かなりの「東京」志向があったようだ。流人が洗練された都会風の人だったのは意外。

 
▼ メモワール 五〜七  
  あらや   ..2022/12/27(火) 17:49  No.605
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翌日から父は、それまで毎日勤務していた神社の書記をやめ、自宅で紺色のラシャ紙に金泥で写経する仕事を始めた。妻子と義父の生活が父の右腕にずしりと重たくかかっていた。
(第三回/紺紙金泥書)

 母が十二歳も年上の、左手のない、しかも文士などという貧乏の代名詞みたいな身分で身元もよくわからない、風来坊のような男と結婚したいと言った時、まじめな農業人である母の両親や親戚一同は猛反対だったという。父ははじめ、十二も年下の小娘など気にもとめていなかったし、心は東京に向いていて雪国倶知安で結婚して落着くことなど考えていなかったということだけれども、母の想いはつのるばかりで、性格から想像しても炎となっていたにちがいない。
(第三回/樺太旅情)

画像は「紺紙金泥書」の一部分。全体は20×90pの巻物状の薄紙です。所有者に返さなければならなかったので、現在はコピーをパネル状にしたもので持っています。
『血の呻き』には「藤田明三」という、女性にとって無関心ではいられない主人公が登場しますけれど、これは、若き日の沼田流人の〈理想〉を描いたものと長らく解釈していたのですが、なにか『樺太旅情』などを読むと、これは流人の〈資質〉のようなものではないだろうかと思い始めました。

 
▼ メモワール 八  
  あらや   ..2022/12/28(水) 16:48  No.606
  父はおしゃれで、外出の時の和服は大きな行李で二〜三個あり、当時近所では珍らしい洋服ダンスにいっぱいの背広があった。これらが後年戦争中、衣料品が欠乏した頃私たち一家だけでなく、親戚までの衣料として皆んなに喜ばれた。昭和初期まで独身時代が長く、「函館で洋服屋を開いていた友人が頼みもしないのに何着も作らせた」と笑いながら父が誰かに言っていたのを聞いた。
(第四回/父と子)

出た、函館! 『父・流人の思い出』を読みたかった第一の理由は、なにか「函館」への手がかりが掴めないかというものでした。『血の呻き』を読めば一目瞭然ですが、この本は単純な「タコ部屋告発の書」なんかじゃない、函館の物語なんです。ドラマは函館の街から始まり、函館の街で終わる。函館に心得がある人なら、S町は新川町、W町は若松町、A町はああ青柳町ね…とすぐわかる。問題は、その町々を動きまわる登場人物たちの距離/時間関係が恐ろしく正確なことなんです。これは函館の街に暮らした人でなければ書けない小説だと昔から思ってましたけど、倶知安の人に聞いても何も出てこない。(倶知安高校の思い出ばかりでうんざりしてしまう…) しかし、それも今日で終わりだ。「函館の北原洋服店」、しかと憶えましたよ。

 
▼ メモワール 九  
  あらや   ..2022/12/28(水) 16:51  No.607
   父が苛酷な労働や迫害を受けていた鉄道工事の土工夫の小説を世に出したのは、まさにこのれんびんの情であったと思う。貧しかった父はお金もほしかったであろうけれども、弱い者≠いじめる強い奴≠ノ、無力な父は、ペンで立向かう外に正義を発動する方法がなかったのであろう。そうすることで救えると単純には思わなかったであろうが、父は弱いもののかなしみを代弁せずにはいられなかったのだと思わずにはいられない。父には文学者になりたいという情熱より、れんびんの情の方がより大きなウエイトで働いていたのではなかろうかと思いたい私である。
(第四回/れんびんの情)

普通の読解能力があれば、誰だってこういう感想になるだろう。それを、「小樽に多喜二、倶知安に流人」という結論に無理矢理持ち込もうとするから(それに文学的センスがないので)愚かな『血の呻き』解釈が出来上がる。

 
▼ メモワール 十  
  あらや   ..2022/12/28(水) 16:54  No.608
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 母は四十四才で、五十六才の父を残して死んだ。「父さん、やきもちやかないから、私が死んだらおせいさん(母の友達の未亡人)とでも一しょになりな。甘えんぼうの身体障害者じいさんなんて、嫁や娘に苦労かけるばかりだからね」 「ばかやろう。口ばかり達者なばばあこそ気をつけろ。大丈夫、俺の方が先だ。お前こそ若いつばめでも探しておきな」
 これが最後の夫婦げんかであった。
(第四回/夫婦げんか)

私の「マツヱさん」イメージは、長らくこの流人が描いたスケッチのイメージだったんですけどね。でも、『父・流人の思い出』でけっこうイメージ変わりました。いやぁ、倶知安の人だ。


▼ 吉本隆明   [RES]
  あらや   ..2022/12/24(土) 17:10  No.599
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吉本隆明 廃墟からの出立
http://www.h-bungaku.or.jp/exhibition/special.html

 川上春雄氏の執念によって、こんど『初期ノート』発刊以後に氏によって見つけだされた初期の文章をあたらしく収録して増補版をつくることになった。あらたに見つけ出された草稿類をまえに、なにか手品をみるようなおもいがする。
(吉本隆明「増補版のための覚書」)

すでに勁草書房版の時代に本人が語っていますが、本当に、目の前に、ガリ版刷の『和楽路』や『草莽』があることには腰を抜かしてしまう。


 
▼ 防風林  
  あらや   ..2022/12/24(土) 17:15  No.600
  道立文学館に行ったのは吉本隆明展だけが目的ではなく、もうひとつ、『防風林』(大森亮三主宰)を閲覧したいということもありました。京極時代から探していたのですが、図書館関係では所蔵がなく、長らく懸案事項だったのです。

きのう一日、コピーしてきた佐藤瑜璃『父・流人の思い出』を読み耽っていました。いや、凄い。長らく沼田流人についてわからなかった部分がぼろぼろと姿を顕してくる。早く函館に行きたい!などと興奮しまくった一日でした。
年末から「人間像」第105号作業に入るつもりでいたのだけど、ちょっと予定変更です。『父・流人の思い出』のデジタル化を急ぎたい。そして、出現してきた沼田流人像については、この「読書会BBS」の方で書きとめて行きます。2023年は忙しくなりそう。

 
▼ 砂澤ビッキ展  
  あらや   ..2022/12/24(土) 17:19  No.601
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https://artmuseum.pref.hokkaido.lg.jp/knb/exhibition/program/103

「楡下亭病院へ? ……良平さんに迷惑かけるからやめておきます。北郷へ帰って、近所の菅野医院へいくことにします」
(針田和明「志保」)

針田作品によく登場する「奥さんの実家」って、私の実家に相当近いです。その北郷に一晩泊めてもらって、翌日、道立近代美術館へ。
札幌って凄いやね。「65歳以上は無料」なんだって! その「65歳以上」を証明するものがなかなか見つからなくて、窓口の人が見かねて「今回はいいです」と言ってくれた。あとで、ビッキ展をまわっている時に、財布に「小樽市ふれあい回数券」(70歳になると貰えるバス券)があったのに気がついたけど、後の祭りだ。

実に思い切った展示でした。私の好きな『風の王と王妃』や『風』にも柵や囲いみたいなものは何もないんですね。触ろうと思えば触れる形で展示してあった。だから、触らない限りはどんどん近づけるので、私は10センチくらいのところまで目を近づけて見てました。こんな体験、初めて。「個人蔵」の作品がほとんどだったのにも吃驚。見たことのないビッキ作品の連発で頭クラクラしました。このビッキ展のカタログは価値あるわ。

 
▼ かなしき時は君を思へり  
  あらや   ..2022/12/24(土) 17:23  No.602
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 啄木の「かなしき時」に思い出す人、懐かしいであろう人を、女性に絞って書いてきました。「語る」ような文体になっているのは、講演や講座でお話ししたことをもとにまとめた、ということもありますが、読者のひとりひとりに、直接やわらかく語りかけ、啄木という人間をより近くに感じていただきたい、という気持ちからでもあります。
(山下多恵子「かなしき時は君を思へり」/あとがき)

往復のバスの中や文学館の椅子で、読了。山下さんの「啄木」像は本当に安定していて、語りかけられたことを素直に受けとめられる。新しい「沼田流人」像を探し始める今この時に出会ったというのもまた何かの縁ではないだろうか。

図書館現場を離れて、もう六年目に入る。2020年10月発行のこの本に気づくのに、こんなに遅れをとってしまった。表紙の「鳥」と「山?」の関係が不思議。


▼ アイヌ神謡集   [RES]
  あらや   ..2022/10/09(日) 11:39  No.596
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10月9日、午前10時、「子ども科学電話相談・鉄道スペシャル」を聴きながら…(北海道ローカルは高校野球の中継をやっていて困ってしまう。聞きのがしラジオがあってよかった!)

九月は久しぶりにテレビの威力を感じた月でした。『アイヌ神謡集』は「読」んだつもりでいたけれど、テレビで、知里幸恵の姪の人が語る知里幸恵訳の日本語文章だけでも愕然と印象が違いましたね。まいった!と思った。ユカラに無頓着な和人が「読」む『アイヌ神謡集』のインチキさに恥じ入ってしまった。「サケヘ」の存在も知らなかったし。
つまり、『アイヌ神謡集』「序文」の感動を野放図に語り、一向に「目次」の先へ進めない「感傷的に歌よむやから」だったことを知ったわけです。十月に入っても、何回も『100分de名著』ビデオを見直しています。(十月、「鉄道150年」記念番組の大洪水が始まって、ようやく神謡集熱が治まってきたところ…)


 
▼ セロ弾きのゴーシュ  
  あらや   ..2022/10/09(日) 14:28  No.597
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明日10月10日は、朝の8時5分から「鉄道大博覧会」。およそ11時間の生放送だって!

恐ろしく旧聞になるけれど、八月、NHK-FMで三夜連続の「夏の朗読音楽会」をやってました。私が聴いたのは三夜目の『セロ弾きのゴーシュ』(朗読:のん)なんですけれど、これ、良かったなあ。画期的だったのは「音楽会」の部分。例えば、

「うるさいなあ。そら三べんだけ弾ひいてやるからすんだらさっさと帰るんだぞ。」
 ゴーシュはセロを取り上げてボロンボロンと糸を合わせてドレミファソラシドとひきました。するとかっこうはあわてて羽をばたばたしました。
「ちがいます、ちがいます。そんなんでないんです。」
「うるさいなあ。ではおまえやってごらん。」

この台詞と台詞の合間に、チェリストの柏木広樹さんの演奏が入るんですね。『セロ弾きのゴーシュ』には、毎晩、ねこ、かっこう、狸、野ねずみの順番で動物が登場しますけれど、この順番が、楽長に叱られたゴーシュの欠点克服の過程だったとは! ねこ、かっこう、狸、野ねずみの順番には意味があったんだ!

こちらも、久しぶりにラジオの底力を感じましたね。今年の夏のいい想い出です。どこかで再放送してくれないかな…

 
▼ 鉄道150年  
  あらや   ..2022/10/16(日) 09:56  No.598
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テレビもラジオもがんがん特集番組を組んでましたね。特にNHKは凄かった。『歌謡スクランブル』までが「鉄道」特集ですからね。驚いた。

この歳になると、あまり蒸気機関車の映像などには針が振れない。かえって、NHKラジオ第1が10月10日に放送した『どうなる?ニッポンの鉄道 市川紗椰ナビゲート・開業150年のその先』の方が興味深かった。聞きのがしラジオで4回聴きました。

「山線」廃止をぼーっと眺めていると、小樽の街は死ぬよ。


▼ 芽の出る音   [RES]
  あらや   ..2022/09/27(火) 09:25  No.592
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日曜日、苫小牧に行ってきました。目的は、
https://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/hakubutsukan/tenrankai/taniuchi.html

ただの谷内六郎展だったらたぶん行かなかったと思います。でも、苫小牧の場合は、苫小牧市科学センターに「芽の出る音」の大壁画があり、当然、特別展には関連情報が含まれているみたいなので行く気になりました。隣の中央図書館でも連携企画があるみたいだし。車使わないで、バス旅にすることにした。

人間像ライブラリーの仕事に入ってから五年… もうほとんど外に出なくなったし、昔は馬鹿みたいに撮っていたデジカメ写真もばったりと停まってしまった。いろなものが錆びついているかもしれない…


 
▼ NIKE  
  あらや   ..2022/09/27(火) 09:29  No.593
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苫小牧駅への途中の白鳥アイスアリーナで、國松明日香、発見! ラッキー! ちょうどアリーナもレッド・イーグルスの試合で盛り上がっていたし。

谷内六郎、アイスホッケー、國松明日香…、なんか、小樽にないものばかり。

「太平洋」って云うのかなあ。このノリは。

 
▼ 緑の環  
  あらや   ..2022/09/27(火) 09:32  No.594
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駅前の「緑の環」。昔は、この彫刻の下に放置自転車がぐちゃぐちゃあったんだけど、今はきれいになくなって、苫小牧イメージが一新しましたね。

本郷新も、小樽にないなあ。

そういえば、世界遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」に、小樽・余市のストーンサークルや洞窟壁画が仲間に入れてもらえないのはなぜなのか、前から不思議だったんだけど、これも、小樽や余市は「太平洋」グループではないということが理由らしいですね。(うちらは、沿海州とか、あっちのグループの仲間らしい)

 
▼ ルーヂン  
  あらや   ..2022/09/27(火) 09:38  No.595
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昔、沼田流人を調べている途中で、二葉亭四迷訳『うき草』を手にした時の衝撃は忘れられない。『血の呻き』と地続きの世界がそこにあった。

沼田流人は小林多喜二と同時代を生きているけれど、その精神形成は大きく違っているのではないか。すでに有島武郎『カインの末裔』も発表されている世界に、流人みたいな明治文学の亡霊のような作品が登場したことに大変興味を持つ者です。その『ルーヂン』発見の報を伝える「沼田流人マガジン」第4号の表紙に、私は、啄木の「みぞれ降る/石狩の野の汽車に読みし/ツルゲエネフの物語かな」の歌を大書きしました。

『ルーヂン』は凄く退屈な本なので、現代の生活リズムの中で味わい読みつくすのは容易ではないです。過去、何回も放り投げている。で、今回、荒療治として、手にこれ一冊だけを持って動くことにしました。読むものはもうこれしかない、という状況をつくることによって初めて最後まで読み通しました。

うまく、今手掛けている『血の呻き』復刻に反映できるといいんだけど。


▼ 北海道の児童文学・文化史   [RES]
  あらや   ..2022/05/12(木) 09:58  No.585
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「子どもの文化」論考でたどる歩み

 北海道における児童文学と児童文化の歩みを1冊にまとめた労作である。執筆は1994年に発足した北海道子どもの文化研究会と、その後継にあたる日本児童文学学会北海道支部に所属する研究者たち。同会及び同支部は毎年、研究誌「ヘカッチ」を発行してきたが、本書は同誌での論考等をもとにまとめた44編で構成されている
 北海道の児童文学史と文化史の研究には先行する書物として、79年発行の「北海道の児童文学」(にれの樹の会編)がある。同書と本書の内容を対比すると、この40年余りの間に研究が大きく進展してきたことがよく分かる。
 例えば資料の発掘もそのひとつだ。「戦後北海道の出版ブームと児童出版物」(谷暎子)は、米国メリーランド大学のプランゲ文庫で保存されている、連合国軍総司令部(GHQ)の検閲関連資料を使った論文。占領期の検閲で児童出版物の表現・言論がゆがめられた問題を記している。
 また、「北海道の児童文学」でほとんど触れていないアイヌ民族について本書は3編の論考を収録する。そのなかで「児童雑誌・児童文学に描かれたアイヌ民族」(高橋晶子)は明治期以降、差別的表現がたびたび使われ、それが現代までも引き継がれてきたことを厳しく批判する。
 「北海道の児童文学・児童文化の黎明期」「北海道の児童文学」「北海道の児童文化」の3部に本書は分けられている。そのなかで明治・大正の児童文化施設、戦後の人形劇と児童劇、紙芝居、絵本など、「児童文化」の歩みに多くのページを割いているところも本書の特色だ。児童文学偏重から「子どもの文化」全体を研究する方向に変わりつつあることも本書は示しているといえる。(中舘寛隆・編集者)
(北海道新聞 2022年4月10日/書評欄)


 
▼ 魔神の海  
  あらや   ..2022/05/17(火) 18:47  No.586
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『北海道の児童文学・文化史』(共同文化社,2022.2)は、所々に、私の知らない本が登場して来て「うーん」と唸ることしきりです。この歳からでも遅くはないさ!と力み返って、今、読んでいるところ。

 ある冬の日のことです。
 ひとりの漁師が、船に乗って、沖で漁をしていました。どんよりくもった寒い海で、さかなのあみをたぐっていたのです。大きなあみをたぐりよせていると、とちゅうで、ぐぐっと、なにかにひっかかったらしく、あみがあがらなくなってしまいました。
「岩にひっかかったかな……。」
 いくらひっぱっても動きません。
(前川康男「魔神の海」/百年めの石―物語のはじめに)

まず『魔神の海』から。この網にひっかかったのは「寛政の蜂起和人殉難墓碑」だった。〈蜂起〉とは何か? 納沙布岬近くの珸瑤瑁(ごようまい)の村民たちに、白ひげの古老が、アイヌの少年セツハヤの物語を語りはじめる。昔の児童文学は骨っぽい。〈国家〉とは何か?まで迷うことなく突き進む。北方四島がどのようにして〈侵略〉されたのか、世界中の誰の目にも明らかになった2022年の今、セツハヤの物語には意味がある。

床ヌプリの絵(版画)、美しい。

 
▼ きこえるきこえる  
  あらや   ..2022/05/30(月) 09:00  No.587
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「う。だれに会いにいくって」
「オトイネップ村の砂沢ビッキ。おそるべき彫刻家です。木でつくる。木の命と語りあえる人。かならず会いにいくとかたい約束をした」
 砂沢ビッキがカナダにいったとき、いっしょに木の彫刻をやって、兄弟になったという。
「そしたら、あんたも芸術家か」
「いや、わたし、つくるひと。わたしたちの文化ではそうよぶ」
(加藤多一「きこえるきこえる」)

いやー、いきなり砂澤ビッキの名前が出て来てびっくりした。ビッキつながりで云うんじゃないけれど、初めて上西晴治『十勝平野』を読んだ時みたいなショックがありましたね。

「両親のいうことをきいて嫁さんもらったけど、一週間後に出征がきまっていてきっと帰れないから気の毒だといって、父は、男と女のことしなかったの」
「かあさんからきいたのか」
「はい。そういう父、いや父でないけどそういう男の人、わたしすきだな」
(同書)

こういうフレーズ、児童文学に持ち込んで来る人、わたしすきだな。
そして、この本、内澤旬子さんの絵、わたしすきだな。

 
▼ 父母の原野  
  あらや   ..2022/07/23(土) 06:48  No.588
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更科源蔵の本を読んだことはない。北海道では有名な人だから、「お前、更科源蔵も読まないで物書いてるの…」と云われそうだが、実は読んでないよ。本の値段、結構高かったし。図書館には読むべき本が溢れかえっていたし。
読んでないと言ったけれど、じつは、全部読んでるよとも云える。小学校の教師はみんな更科源蔵だった。いっぱいアイヌのことも知ってる。開拓のことも知ってるらしい。でも、ただの教養。大学で教わった、ただの知識にすぎない教師。『父母の原野』を読んでいて、思い出したことは、〈近現代アイヌ文学史論〉でも〈北海道の児童文学・文化史〉でもなく、昔の和人の教師たちだった。

じつは、更科源蔵の〈父母〉について知りたいこともあったのだが、『父母の原野』には上手くはぐらかされたような気がする。わざと平板に〈父母〉を書いたのか、著者の筆力が平板(←学校の先生に多い)なのか。次の『おさない原野』には進みません。安藤美紀夫『白いりす』に舵を切りたい。今回も更科源蔵には縁がなかった。

 
▼ 白いりす  
  あらや   ..2022/07/23(土) 06:52  No.589
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読んでる途中から、手塚治虫の『とんから谷物語』を思った。

なにか、『父母の原野』が小学校教員が書いた児童文学なら、『白いりす』はいかにも高校教師の創った児童文学のような気がする。なにか不思議にドライブ感がない。こんなの読んでないで、『とんから谷物語』の方にスイッチしたいと思った。

 
▼ シゲちゃんの目は千里眼  
  あらや   ..2022/07/23(土) 06:56  No.590
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 見覚えのある電車通りに出ると、ぽくは急に自信が出てきた。足が速くなる。
「あ、あそこが北大病院だ。あの信号んとこで横切ろうヤ。」
 広々としたしばふの向こうに、堂々と肩をいからせた病院の建物が、何百という窓の目でにらんでいる。ぼくはまた心細くなった。
「ねえ、ヨッチ。シゲちゃんがこの中にいるとして、どのへやだろう?」
「いさえすれば簡単さ。受付で聞けば教えてくれるよ。」
(滋野透子「シゲちゃんの目は千里眼」)

「北海道児童文学全集」第九巻に併載されていた『シゲちゃんの目は千里眼』を読んでいる。面白い(かな? 今のところは…)。こういうものを読んでいると、逆に、更科源蔵や安藤美紀夫が児童文学の世界に持ち込もうとしたものがわかるような気がする。

 
▼ サムライの子  
  あらや   ..2022/08/11(木) 11:54  No.591
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『シゲちゃん――』、退屈でしたね。『雨ニモ負ケズ』のパロディをやったあたりから失速したと思う。口なおしに、山中恒『ぼくがぼくであること』が読みたいと思ったんだけど、本棚のどこに行ったんだか見つからない。代わりに、つのだじろう『サムライの子』があったんで、またしみじみ読んでしまいました。このマンガ、なんと「あとがき」が付いています。

『サムライの子』は一九六二年一月号から十二月号まで、雑誌『なかよし』に連載したもので、私が児童文学の山中恒氏の同名作品にひどく感動して、直接、山中氏のもとへ出むき、私に漫画化させてくださるようにお願いし、また雑誌の方をも説得して連載にこぎつけた…といういわくつきの作品…。
 したがって本編にでてくるサムライ部落、また小樽市内の風景は、すみずみのワン・カットまで、実際の小樽市の風景の写実です。さすがにサムライ部落の取材は身体がブルいましたが、たまたまズタ公みたいな、気さくなサムライ氏がいて、親切にしてくれましたのでうまくいきました。   つのだじろう

この小樽風景、ひどく懐かしい。(私はサッポロの子なんだけど…)

『北海道の児童文学・文化史』シリーズは、ここで一旦お休みします。何かちがうところに出たい。


▼ TOKYO REDUX 下山迷宮   [RES]
  あらや   ..2022/03/15(火) 14:07  No.582
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本を読み始めて間もなく、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。
本はもう読み終えているけれど、戦争はまだ終わらない。
本を読んでいる時、私は、ロシア軍にクロンシュタット反乱を起こす兵隊はいないのかと思った。

今日、昼のテレビ・ニュースで
ロシア国営放送でスタッフが乱入し「戦争反対」を叫ぶ。「プロパガンダを信じないで」
https://news.yahoo.co.jp/articles/df977a3e9997b383993f2d87379df4fa3927d3b8

デイヴィッド・ピースの作品は、吉村昭の作品と同じで、言葉が緻密に組み合わされ構築されているので部分引用が不可能。意味をなさない。


 
▼ 奇子  
  あらや   ..2022/03/26(土) 18:37  No.583
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『TOKYO REDUX』の参考文献に手塚治虫の『奇子(あやこ)』が挙がっていたので久しぶりに読み返しました。(どこからも寄贈依頼が来ないので、『手塚治虫漫画全集』400冊、まだ家にあります) 下山事件だった。こちらも目いっぱい暗い。でも、日本屈指のストーリーテラー手塚治虫を天下に見せつけた作品ではありました。

一度はデイヴィッド・ピースの「東京三部作」を緻密に読み返そうとも思ったんだけど、誘惑絶ちがたく、「ヨークシャー四部作」の方へ舵を切りました。今、『1974ジョーカー』です。

「誰だ?」
抑えた笑い声。「知る必要はない」
「何の用だ?」
「ジプシーの流儀に興味あるか?」
「白いバンとジプシーだろ?」
「どこだ?」
「M1のハンスレット・ビーストン出口」
「いつだ?」
「もう遅いかもしれん」
切れた。

おっ! 『TOKYO REDUX』で使った技じゃないか。

 
▼ 1974ジョーカー  
  あらや   ..2022/05/03(火) 05:15  No.584
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いやー、暗く救いのない話だった。戦争のニュースが流れる毎日にこんな本を読んでいるなんてどうかしてるんじゃないかという内心の声もあるが、作業する日常の重なりもあってこうなった。私の人生には要る本だと思ってる。

「リトル・ドラマー・ボーイ」(英語: The Little Drummer Boy、発表時の題名:Carol of the Drum)はアメリカ合衆国の作曲家、キャサリン・ケニコット・デーヴィス( Katherine Kennicott Davis)が1941年に作曲・発表したクリスマス・ソングである。これまでに多くのミュージシャンがカバーしており、1955年にトラップ家族合唱団が、1958年にはハリー・シメオン・コラール(The Harry Simeone Chorale)がそれぞれカバーしている。
歌詩は4番まであり、その内容は貧しい生まれの男の子が東方の三博士に呼ばれてベツレヘムへ行き、「お金がないので贈り物はできない」とマリアの許しを得て、生まれたばかりのイエスの前でドラムをたたいたら、イエスが微笑んでいたというもの。ドラムの音が「パ・ラパパンパン」と繰り返されるのが印象的である。
(ウィキペディア)

本の中では「ベイ・シティ・ローラーズ」なんて突飛な(1974年のヨークシャー人には突飛でもなんでもないのかもしれないが…)言葉も出て来るのだが、この「リトル・ドラマー・ボーイ」だけは、この予備知識なしに本を読み進めると面白さ(決して面白い本ではないけど…)半減になるでしょうね。


▼ 斉藤洋   [RES]
  あらや   ..2022/01/24(月) 18:49  No.579
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図書館で「別冊人間像/平木国夫ヒコーキの小説特集号」をチェックした帰り、児童室の新刊書架で『もうひとつのアンデルセン童話』という本を発見したのでした。「ヒコーキ」の作業をやっている期間、ふーんなるほど…とか言いながら、日本昔話もグリム童話も読んぢゃった。(それくらい「ヒコーキ」は延々と長いのよ…)

 それである夜、最後の革を切って、あとはぬうばかりにして仕事台の上におき、二階にあがって寝ました。
 翌朝になって、仕事場におりていくと、なんと、靴がぬいあげられていたのです。しかも、それは、こういってはなんですけど、うちの人が作ったものより、ずっと仕上がりがいいんです。
 うちの人はその靴をためつすがめつながめて、
「これはなかなかの腕だ」
とうなっていました。
(斉藤洋「サブキャラたちのグリム童話」より「靴屋の小人」)

広瀬弦のかわいい挿絵も相まって、こういう幸福感のあふれる話が夜眠る前にはよかったですね。斉藤洋って、『ルドルフとイッパイアッテナ』の人でしょう。あの本も、私、好きだったなあ。


 
▼ 苦笑  
  あらや   ..2022/02/07(月) 05:24  No.581
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 わたしと市立病院の先生とのやりとりはそんなふうだった。
〈すぐに命にかかわるようなことはなく、人にうつることもなく、それでも、一年間くらいは、きつい仕事はだめ〉という病気にかかっている者ができる仕事は、〈暑くも寒くもない屋内で、すわって、のんびり、一日五時間、そういう仕事〉なのだ。
(斉藤洋「アリスのうさぎ」)

こんな奴、隣の席に来たら、ぶん殴ってしまうかもしれないな…と思ったり、いやいや、自分の若い時もこんなもんだったか…と思ったり。

 そんな都合のいい仕事があるだろうかと思っていたら、顔の広い父が市立図書館のアルバイトを見つけてきてくれた。
 (中略)
 大学生のとき、そのころつきあっていたガールフレンドが、夏休みに図書館司書の資格をとるための講習を受けるというので、たいして興味はなかったのだが、わたしも受講し、資格をとった。その資格が役に立ったことになる。
 そのガールフレンドは児童書にくわしく、その影響で、わたしもその分野にいくらか知識があった。たぶん、採用の面接のときにそのことを話したからだと思う。わたしは貸し出しカウンターのはずれにある〈児童読書相談コーナー〉というところをまかされることになった。
(斉藤洋「シンデレラのねずみ」)


▼ Anne with an "E"   [RES]
  あらや   ..2021/12/16(木) 17:08  No.578
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「人間像」の現在の編集者・福島昭午さんが亡くなってしばらくの間、夜中に目が覚めて酒を飲む習慣が復活してしまった。動揺しないつもりだったけれど、実際には動揺していたのかもしれない。
『アンという名の少女』に出会ったのは、そんな頃です。シーズン2が始まるので、以前のシーズン1を夜中に再放送していたのだと思う。
いや、面白かったですね。私はこの歳まで『赤毛のアン』読まないで来ちゃった人間なんだけど、こんなに面白い話なら今からでも読もうかとさえ思いましたよ。
で、クリスマス近い今になっても、本は読んでません。テレビは欠かさず観てるけれど…
というのは、ウィキペディアの解説を読んでしまったから。

「著名な原作に基づいてはいるが、過去の映像化作品と比べてやや暗いストーリーが描かれる。アイデンティティ、偏見、いじめ、アウトサイダー、受容、人種差別、同性愛、先住民迫害、女性の自立などの現代的なテーマが追及され、新たな登場人物とストーリーが追加されている。」

私が面白いと感じたのは、その「新たな登場人物とストーリー」の面だったのですね。
へぇーっ、こんなやり方もあるんだ。ちょっと『ツイン・ピークス』っぽい画像も好みですね。


 
▼ カクエト  
  あらや   ..2022/02/02(水) 10:01  No.580
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シーズン3第8話(1月30日放映)、もう5回くらい見直している。

土人学校を脱出するカクエトの作戦、沼田流人『血の呻き』で明三がタコ部屋を脱出する作戦に酷似してましたね。ハッとした。








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